南海諸島共和国物語   作:あさかぜ

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2話 日本本土との決別

 徳川幕府による海外渡航・交易規制によって、朱印島と遠南島は日本本土との関係がほぼ絶たれた。その為、両島は自給体制を整えていかなければならなくなった。

 

 幸い、両島では食糧栽培は難しくなかった。島の耕作地では、甘藷(サツマイモ)や大藷(ダイジョ。ヤムイモの一種)が多く栽培されており、時代が下るとキャッサバも追加された。これにより、サトウキビ栽培に適さない土地でイモ栽培が広がり、食糧供給に役立った。

 イモ以外にも、サゴヤシが多く生えている為(サゴヤシの幹からデンプンが採れる)、炭水化物については充分だった。

 サトウキビ畑については、日本向けの輸出が無くなった事から減らす事も考えられたが、専売品として安定した収入源を得たい事、他の作物の耕作地との兼ね合いから、現状以上の耕地面積の拡大を行わない事とした。

 

 真水が少ない事からコメ栽培には向かなかったが、コメについてはベトナムや華南から輸入する事で対応可能と判断された(一応、陸稲の生産は行われていたが、需要を満たす程生産されていない)。但し、コメの殆どがインディカ米で、日本人好みのジャポニカ米については余り入ってこなかった。その為、2つの方法が取られた。1つは現地の様にインディカ米を調理して頂く、もう1つは現地でジャポニカ米を生産してそれを輸入するというものだった。

 前者については、タイ人やキン族(ベトナムの主要民族)など周辺地域から移住してきた人々から教わった。後者については、ベトナムやカンボジア、タイで土地を借りて栽培してもらう事で対応した。だが、ジャポニカ米は現地の熱帯性気候との相性が若干悪く、現地住民との対立もあって上手く行かない事が多かった。インディカ米の調理方法の確立と味に慣れた事もあり、ジャポニカ米の現地生産計画は10年程で縮小していった。

 

 主食以外についてだが、周辺が海に囲まれている事から魚の供給には問題無かった。その後、西沙諸島と南沙諸島を領土とすると自国の消費以上の供給が生まれた。その為、魚の加工品(鰹節、鯖節、魚醤、フカヒレ)の生産が盛んになり、輸出品ともなった。

 一方、肉については放牧地が少ない事、家畜のエサが少ない事から、豚とヤギが主流となった。その後、鶏も多少飼われる様になったが、牛についてはエサの問題から殆ど飼われなかった。

 

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 人については、東南アジア各地にいる日本人を引っ越させる事で対応した。当時、日本人街が攻撃され日本人が虐殺される事件が何度が発生した。これにより、現地に住む事が難しくなった一方、帰国は幕府によって許されなかった為、彼らの存在は宙に浮いた存在となった。

 そこで、彼らを両島に移住させようという動きが浮上した。日本人勢力が固まっていた方が身の安全は確保しやすいし、少しでも日本人を増やしておきたいという考えもあった。

 考えが固まると、現地日本人の移住計画の実施は早かった。保有していた船を総動員して、東南アジアに散らばっていた日本人(約1万人)を10年掛けて移住させた。こうなると移住というよりエクソダス(民族脱出)に近く、実際、移住の際に現地民や海賊による襲撃があった。これにより数千人が亡くなったが、生き残った人々は日本人社会が残る地域に移住した。

 

 これら以外にも、日本本土との繋がりがある地下組織(商人系と武士系の2種類がある)の伝手を使い、国内にいた隠れキリシタンや浪人も移住させた。少しでも日本人の数を増やしたいが為であった。

 当然、この動きは幕府にも知られる所となったが、国内の治安対策やキリシタンの数を減らせるのならという考えもあり、「キリスト教布教を行わない事」、「帰国させない事」、「貿易は行わない事」を条件に黙認された。

 その為、冒頭に「日本本土との関係は『ほぼ』絶たれた」とあり、細々とした繋がりはその後も維持された。実際、琉球経由で何度か通信使(正式には「南海来聘使」と呼ばれた)を派遣しており、特産品の黒糖や真珠、サトウキビから創られたお酒(この時は黒糖で作った焼酎だが、後にラム酒も追加)などが送られた。

 

 日本人以外の民族については、現在居住している人々の帰還はさせなかったが、以降は日本人との同化が奨励される事となり、言語も日本語が奨励された。また、以降の大規模な集団移民については禁止される事となった。

 

 例外だったのが、ポルトガル人やオランダ人などヨーロッパ系の人々であった。彼らは、この島で貿易や布教の為に居住していた人達だが、一部には他地域から追い出された人もいた。技術や教育の面で必要になる為、言語については奨励されたが、日本人よりも他の住人との婚姻を奨励して数を増やす様にした。

 

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 食糧と人口の課題については何とかなりそうだが、今後の方針をどうするかが残っていた。つまり、国内の統治体制の構築と外交方針である。

 

 だが、国内統治については大きな混乱は生じなかった。朱印島に統治機構が置かれ、遠南島は朱印島に従属する事に変わりなかった。

 問題となったのは、統治者をどう決めるかであった。この島には天皇陛下は勿論、幕府も存在しない為、統治機構の中核とその長が存在しない。一応、朱印状による島の統治を認める者は存在するが、複数人による共同統治という形の為、代表者が存在しなかった。

 だが、会合衆(都市の自治を行っていた集団)による統治が行われていた為、これを拡大させる事で対応した。1639年に「南海合議会」が設立され、その構成員として朱印島在住者8人と遠南島在住者3人の計11人から成り、代表の1人が「南海統裁」の肩書が与えられ国内統治の最上位となる。後に両島の人口拡大により南海合議会の構成人数は拡大し、最終的に朱印島出身者10人と遠南島出身者7人の計17人となる。

 

 外交方針については、当時の情勢からすれば一つしか無かった。つまり、中華王朝の冊封体制に組み込まれる事であるが、それも難しかった。

 当時(1630年代中頃~1640年代初頭)、中華王朝は明だったが、北方の後金(後の清王朝)との戦争で疲弊しており末期状態だった。その後、1644年に明が滅んだが(南部に亡命政権が樹立され、そちらは1661年に滅亡。これを以て、正式に明が滅んだ)、この時はまだどうなるかが不明だった。

 それでも、早急に中華王朝からの庇護が欲しかった南海は明に使節を派遣したが、明は「それ処では無い」として追い返された。その後、中華中央部の混乱から、数十年間は大陸との交流は最低限となった。

 

 これが変化したのは、南明が滅んだ後の1665年からである。中央の混乱がある程度収まったこの時期、南海は初めて清に使節を派遣した。清は王が居ない南海を軽視しそうになったが、歴史上にも中華の地で王が居ない時期があった事、諸事情で王を輩出出来ない事を伝えた結果、南海は清に認められた。これにより、南海統裁に「南海国王」の称号が与えられ(国内的には南海統裁を使い続けた)、冊封体制に組み込まれた。この時の交渉で面白いと判断されたのか、金印が下賜された(綬の色は青、つまみは蛇)。

 1673年に発生した三藩の乱(元・明の武将が封じられた雲南・広東・福建で反乱。原因はこの3地域が半独立国化して脅威になった事、中央集権化を進めたかった事。1681年までに全て鎮圧)によって清が滅亡しかけた(一時は長江以南の全域が占領された)が、何とか反乱は鎮圧され清は存続した。

 この間、南海は清との連絡を密にした。南海は三藩の更に南に位置している為、多少なりとも三藩側の事情を知りたかった清にとって、南海を繋ぎ止める必要があった。その為、清は一時的に献上品の免除をし、その代わりに三藩への偵察と情報収集を要求した。水軍が殆ど無かった三藩に南海の動きは止められず、また華南出身者を選抜して偵察に送り込んだ事で、内情を知る事も出来た。この情報は清にとって値千金であり、反乱鎮圧に大いに役立った。

 反乱鎮圧後、南海は清から多くの褒章を下賜された。この時の対応によって玉印(綬は萌黄色、つまみは魚)を授かり、冊封国内の序列でも最上位に就く事となった。


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