南海諸島共和国物語   作:あさかぜ

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3話 新たなる関係の構築

 清王朝から冊封体制内での最上位の序列を得た南海だが、これに驕る事は無く、周辺諸国との友好関係を築く事を重視した。一応、清から王の位を授かった事で対外的には王国となったが、実態は王朝を持っていなかった為、王国と見做す国は少なかった。王を持たない政体は当時の東アジア世界では浮いた存在であり(当時のヨーロッパでもヴェネツィアやスイスなど少数だった)、いくら冊封体制内での序列が最上位でも低く見られる恐れがあった。それを避ける為、東南アジアでの積極的な外交と貿易が行われた。

 

 幸い、日本やヨーロッパから持ち込まれた技術による知識量の多さ、ヨーロッパとの交易を維持している事から新技術や高価値商品を保有しており、貿易に有利になると見られた。また、東南アジア各地や日本から来た日本人を中心にキリスト教が広がっている事も、ヨーロッパとの心理的障壁が低くなると見られた。

 アジアでの足場を強固にするという意味でも、スペイン、ポルトガル、オランダ、イギリスは南海との貿易を続けていた(この為、南海はヨーロッパ各国にとって、一種の中立ゾーンとなった)。朱印島・遠南島から産出される香辛料(胡椒・丁子)や砂糖、魚の加工品、真珠が輸出品となった。この中で、魚の加工品である魚醤や鰹節が真新しさや美味である事から珍重され、香辛料の収穫量減少もあり、主要輸出品となった。

 

 南海のヨーロッパ諸国からの輸入品として、武器や薬品、変わったモノとして資料があった。当時、南海はヨーロッパからの情報を欲していた。軍事や外交だけでなく、宗教、科学、文化など、ヨーロッパに関するありとあらゆるもの情報を受け取った。書籍や現物だけでなく、乗組員の話を細かく書き記すなどして情報を得た。一か国からでは無く、複数の国から情報を得た為、多くの有益な情報を得られた。

 尤も、情報の内容は玉石混交であり、時間が経過して価値が薄れたもの、重複しているもの、明らかに間違いなものなど様々であった。だが、これらの情報を記した文書は後に歴史的に大きな価値を持つ様になり(ヨーロッパで失われた文化や風習などの記録が残されていた)、この時の対応が後世評価される事となった。

 

 また、東アジア世界でキリスト教を維持していた事、ヨーロッパ諸国との交流を維持した事は、19世紀に大きく役立った。ヨーロッパ列強のアジア進出の際、南海は列強の植民地となる事は無かった。

 流石に人種差別や貿易上の不利益は避けられなかったが、法整備が早かった事、ヨーロッパとの取引を熟知していた事から、列強と結ばれた条約には「南海領域内で罪を犯した者は、何人も南海の法によって処罰される」、「関税は従価税(価格に応じて課税される)とする。税率は双方の協議で決定する」とあり、一応は対等な関係となった。

 

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 アジアでの外交は、近隣のフィリピンやベトナム、タイとの交流を深めようとした。しかし、当時(17世紀後半)の東南アジア情勢は混乱の最中であり、外交や貿易を行うには非常に難しい状況だった。特に難しかったのがベトナムだった。

 

 ベトナムは黎朝が統治していたが、当時は黎朝に権限は殆ど無く、北部の鄭氏と中部の阮氏が実権を握っていた。また、阮氏が南部に進出して、隣国カンボジアとその背後にいたシャム(タイ)と戦争していたなど、外交的にも付き合うのは難しかった。

 だが、南海は阮氏に付いた。両者は王族を無視して争っている事は共通しているが、鄭氏は王族を無視して政治を動かしており、それは重臣としてあるべき姿では無いとして付き合いは難しかった。また、阮氏はポルトガルとの交流があった事から付き合い易いとして、間接的にだが武器や道具の支援を行える事もその理由だった。

 結果として、この支援は大当たりだった。18世紀に阮氏は南部でカンボジアとの戦争を続けていた為、武器の需要は非常に高かった。また、南部開発の為の道具の需要もあり、重要な交易ルートとなった。

 尤も、長年戦争を行った事の負担は民衆に向かい、それが原因で1771年に反乱が発生、そこに付け込む形で鄭氏も侵攻した。これにより、1777年に阮氏は一人を除いて滅亡したが、反乱軍と鄭氏の対立、黎朝と鄭氏の対立、阮氏の生き残りによる巻き返しなど内部は混乱状態となり、この混乱は1802年に阮氏の生き残りがベトナムを統一するまで続いた。

 阮氏による統一王朝となったベトナムは、当初は南海とは対等な関係を築いていた。しかし、次第に中華王朝としての支配体制を固めると、南海をベトナムの冊封体制に組み込もうとしてきた。流石に、ベトナムのその姿勢は受け入れられるものでは無かった為、何度も拒絶している。一時はベトナムに侵攻されそうになったが、その前にフランスのコーチシナ侵攻があった為、侵攻される事は無かった。

 

 それ以外の地域についても外交と貿易が行われた。有望な商品が多くない為、中継貿易を行わなければ利益を生み出せない為である。その為、周辺地域(フィリピン、タイ、ボルネオ)だけでなく、遠方(マラッカ、ビルマ、マラッカ諸島)への航海も行われた。

 これにより、インドやマラッカ諸島に進出する様になり、清との中継貿易を行う事で莫大な利益をを得た。清も、南海からもたらされる珍品を重視し、南海の行為を黙認した。

 

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 南海の海洋進出によって、得られたものがあった。それは、西沙諸島・南沙諸島の領有と、進出した海域の海賊である。

 

 西沙諸島は朱印島の西側に位置する諸島であり、南沙諸島は遠南島が属している諸島であるが、人が居住出来る広さを持つ島が殆ど無かった。その為、領有する意味が無く、この時までは何処も手付かずの状況だった。

 しかし、ヨーロッパ向けの魚の加工品と朝貢用の真珠の需要が高まり、その供給源として朱印島・遠南島沿岸だけでは不足となった為、新たな原材料の供給源として近隣の西沙諸島と南沙諸島に白羽の矢が立った。島から近い事、浅い海で漁場として最適な事、人が一時的に住める広さがある島がある事などから、18世紀前半には幾つかの島に拠点が設けられた。

 その後、東南アジアがヨーロッパ列強の植民地となっていく中で、南海は列強のルールをある程度分かっていた。その為、西沙諸島と南沙諸島は南海の所有物である根拠(拠点、拠点を設けた年など)を並べた事で、列強から「パラセル諸島(西沙諸島)とスプラトリー諸島(南沙諸島)は南海の領土」という認識を確認させた。

 

 南海が東南アジアとベンガル湾に交易路を築いた時、現地の海賊に悩まされた。自力で軍事力を整備して撃退する方法も考えられたが、それには時間が掛かり過ぎる事、資金不足から難しかった。また、金で懐柔する方法も考えられたが、当時はそこまで多くの金が無い事から、少数なら懐柔出来るが多数となると難しくなる事、懐柔し続ける為の金が持つか不明だった事から、他に案が出なかった場合に採用するとなった。

 一方で、三藩の乱時に整備された水軍は、機動力ある船と船上の対人戦に長けた戦闘部隊の為、近隣の海賊であれば討伐する事は不可能では無かった。また、海賊を懐柔出来れば、船と人が一遍に手に入れる事が出来る為、海賊対策は次の様に決定した。

 

・金で懐柔出来る場合、暫く金で懐柔した後、水軍に組み込む。従えばそれで良し、従わなければ排除する。

・金で懐柔出来ない場合は討伐する。但し、拠点などの情報を確保してから討伐する事。また、遠距離の場合は近隣勢力に情報を与える事で対処する。

 

 この2つの考えの下、交易路付近の海賊対策が行われた。最初こそ、交渉の失敗や戦力不足から討伐に失敗する事はあったものの、貿易が順調に行われ金に余裕が出てくると、懐柔される海賊も多く出た。彼らを上手く利用し、戦力の強化やライバルの根拠地の情報の獲得、海賊同士を戦わせて共倒れを狙うなど、様々な方法で海賊を減らしていった。

 海賊の討伐は南海単独で行う事は少なく、ヨーロッパ諸国に行ってもらう事が多かった。特に、フィリピンを植民地とするスペイン、スンダ列島やモルッカ諸島に影響力を及ぼそうとしていたオランダからの依頼は多く、共同で討伐する事も多かった。これにより、フィリピン南部のスールー王国、スマトラ島北部のアチェ王国など、東南アジアの国家へ打撃を与え、これらの地域の平定が史実より四半世紀程早くなった。また、ティモール島からポルトガルが追い出されたり、ブルネイ王国内外の動乱を鎮圧してボルネオ島北部の領有を助けるなど、多くの方面で影響を与える事となった。


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