南海諸島共和国物語   作:あさかぜ

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6話 南海の政変と日本への急接近

 20世紀に入っても、南海の状況は大きく変わらなかった。相変わらず日英仏蘭の影響下にあり、ドイツが強引に割り込んできたり、アメリカがちょっかいを出すなどあったが、大きな変化では無かった。

 

 1914年にヨーロッパで大戦争(第一次世界大戦の事)が発生しても同じだと考えていた。主戦場はヨーロッパであり、南海から敵性国家であるドイツ、オーストリア=ハンガリー、トルコの勢力圏は遠く、一番近い場所でドイツ租借地の膠州湾とドイツ領太平洋保護領(パプアニューギニア北部と南洋諸島)であり、戦力も大したものが置かれていなかった為、戦場とはならなかった。

 だが、無関係でいられた訳では無かった。南海にはドイツ資本で建設された建物や工場が存在しており、連合国である日英仏(蘭は中立国)の影響力下にある為、連合国寄りの中立状態であり続ける事を「要請」した。実際には「強要」であり、逆らった場合は一瞬で蹴散らされる事が分かっていた為、従う他は無かった。

 

 世界大戦が連合国の勝利で終わった後、南海には連合国からのご褒美として、南海国内にあるドイツ資本の利権の譲渡と日英仏蘭名義の利権の一部譲渡が行われた。これにより、国内資本の充実が図られた一方、より一層四国の影響力が高まる事となった。

 特に、この4か国の中で日本の影響力が高まる事となった。南海と本国からの距離が最も近い事、言語・民族共に近い事、南進論の存在(この時は経済的進出の方が強かった)もあり、年々関係を強化していった。

 しかし、この日本の強引な進出は、英仏蘭の不信感を募らせる結果となった。その不信感はまだ小さいものだったが、ワシントンとロンドンの両海軍軍縮会議でも日本海軍の拡大は止まらず(※1)、世界恐慌をいち早く脱した事などもあり、次第に大きくしていった。

 

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 世界大戦後も、南海の状況に大きな変化は無かった。日本の進出が強まったり、英仏を通じてアメリカが進出したり、パラセル・スプラトリー両諸島で勝手に埋め立てが行われるなどあったが(後に正式な謝罪と無償での譲渡が行われた)、概ね平穏な状況だった。1920年代は列強間の平和が保たれており、それに伴い植民地と勢力圏の平穏も保たれていた。

 

 その平穏が終わったのは、1920年代も終わろうとしていた1929年10月24日、ニューヨーク証券取引所で株価が大暴落した事から始まった。後に「暗黒の木曜日」と呼ばれる現象から始まったウォール街大暴落を発端に、世界各国の経済は急速に悪化した。世界恐慌の始まりだった。

 世界恐慌により、列強各国は影響力が及ぶ地域以外との貿易に高い関税をかけて自国経済の保護を行った(ブロック経済)。しかし、ブロック経済によって世界貿易が縮小し、却って経済再生に時間が掛かる様になった。また、資源の不均衡もあり、持てる国(米英仏ソ)と持たざる国(日独伊)との関係が冷却化する様になった。

 

 この間、南海では政変が起きた。1933年7月、南海の首都・南江で日本の影響を受けた警備隊(予算と人口の関係上、軍は非効率だとして警察の重武装化で対応)の一派が主要施設を占領して軍事政権が樹立した。当然、この軍事政権は親日政権であり、以降10数年間は日本の影響力が強まる事となる。

 尤も、この軍事クーデターは日本の予想外の出来事であった。当時、日本は満州事変とその後の満州国建国、国際連盟脱退と外交面で大きく揺れていた時期であり、クーデターによる親日政権樹立は全く考えていなかった。日本の影響力が強まる程度を期待したが、それ以上の結果となってしまった。

 満州に続き南海でも、日本が陰謀によって影響力を強めようとした事に列強は許す筈も無く、日本に正式に抗議文を送っている。流石に今回の事は日本も想定外であり、「警備隊への影響力を強化していたのは事実だが、クーデターについては関与していない」、「軍事政権との関係も未定で、列強との関係を壊す気は毛頭無い」など、兎に角正直に全てを話した。

 

 しかし、満州での出来事から日本に対する信用は失墜しており、列強は日本の言う事を信じなかった。

 だが、新政権が「欧米列強の利権については手を出さない」、「今まで通りの関係を構築したい」との親書を送った事で、日本の影響力が高まる以外は変わらない事を確認した。これにより、英仏蘭については何とかなったが、アメリカはクーデター前に戻す事を要求した為、関係が拗れた。

 結局、日本・南海とアメリカとの直接交渉は纏まらず、以降、アメリカは日本への敵対姿勢を強める様になる。だが、南海からアメリカ資本が撤退する事は無く、暫くは5か国の緩衝地帯として存続した。

 

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 事実上、日本の衛星国となった南海では、日本資本の受け入れによる国内の「開発」が進められた。この開発により、国内の食品加工工場や日用品の生産拠点の近代化が進められた。また、一部の島や環礁の埋め立てが行われ、入植やヤシの植林が行われた。

 また、航空路線の開設も行われ、1937年には大日本航空による乗り入れが開始された。ルートは東京―福岡―台北―広東―南江―遠南と横浜―福岡―高雄―南江―遠南の2つあり、前者は陸上機での、後者は飛行艇での運行となっていた。

 

 だが、開発の中には大規模浚渫工事や港湾設備の近代化・大型化があった。これは有事の際は軍艦の入港が可能な事を意味し、日本海軍の東南アジア進出の拠点化が懸念された。1940年には「大規模農地」という名の飛行場の建設が開始され(翌年完成)、同年の北部仏印進駐と合わせて武力による東南アジア侵略の拠点となると目された。

 それは現実のものとなり、太平洋戦争(大東亜戦争)の時に使用される事となる。




※1:「架空の財閥を歴史に落とし込んでみる」の『番外編:この世界での日本海軍・日本陸軍・大日本帝国の状況(第一次世界大戦後~第二次世界大戦直前)』参照

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