南海諸島共和国物語   作:あさかぜ

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7話 第二次世界大戦から太平洋戦争までの南海

 1939年9月1日、ドイツがポーランドに侵攻した。2日後、英仏がドイツに宣戦布告した事で第二次世界大戦が始まった。

 

 2度目の世界大戦が始まったが、南海が出来る事は無かった。主戦場は遥か遠くのヨーロッパであり、近隣にはドイツの勢力圏が無い為、戦場になる可能性はほぼゼロだった。「ほぼ」となっている理由として、ドイツの仮装巡洋艦が存在する可能性を否定出来ず、戦闘が発生する可能性があった為である。

 実際、1940年からドイツの仮装巡洋艦が太平洋・インド洋方面で活動する様になり、南海沖でもイギリス船舶の船を撃沈するなどしている。

 

 日本が参戦するまで、ドイツの仮装巡洋艦が南海に寄港する事は無かった。それは、南海は日本の影響力が強いと言っても、英仏蘭の影響量も強い為であった。もし寄港した場合、所在地が簡単に割れる為、寄港出来なかったのである。

 また、連合国の軍艦が寄港する事もあまり無かった。周辺には連合国の拠点があり(イギリスは香港とシンガポール、フランスはインドシナ、オランダは東インド)、わざわざ寄港する必要は無かった。それでも、1940年2月と1941年9月に「表敬訪問」という形でイギリス海軍が寄港した事があった。

 一方、日本の軍艦は練習艦隊が寄港した。政変以降、東南アジア方面に移動する場合は寄港する事が多くなり、1940年も寄港した(史実では朝鮮沿岸と東シナ海のみだった)。

 

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 第二次大戦から最初の1年間は空白地帯だったが、1940年9月22日に日本軍が北部仏印に進駐し、その5日後に日独伊三国同盟が締結されて以降、俄かに注目を浴びた。

 日本から見れば、台湾と仏印を結ぶ中間地点であり、ここを抑える事が出来れば両地域の交通の安全は保障されるだけでなく、マレーや蘭印への進出もし易くなると見られた。また、南海を哨戒基地とする事で、南シナ海北部における小型艦艇や潜水艦の行動を制限出来ると見られた(※1)。

 また、連合国側から見ればその逆であり、日本の東南アジアへの交通の監視や妨害が可能となり、進出を抑えられると見られた。

 

 南海が日本と連合国のどちらの側に立つのかの外交合戦が行われた。

 尤も、当時はバトル・オブ・ブリテンと時期が重なっており、連合国にとっては正念場だった。その為、地球の反対側で外交を行う余裕が無かった。その後も、地中海と北アフリカ、ギリシャでの戦闘が発生した為、独ソ戦が始まる1941年6月後半まで余裕が無かった。その間、日本による有形無形の支援があった為、既に日本寄りの姿勢を明確にしており、その後の交渉は纏まらなかった。

 南海が日本寄り、つまり枢軸国入りか枢軸国寄り中立国となった事は明白であり、連合国は対応を変更した。貿易の制限や諜報活動の強化など、敵としての対応を次第に行う様になった。

 

 連合国による貿易の制限が強くなる程、日本との経済的繋がりは強まった。食糧や日用品のみならず、軍艦も輸出した。この時輸出されたのはこの世界のマル3計画で建造された海防艦をモデルとしており、史実の鵜来型となる。それが2隻建造され、艦名はそれぞれ「朱印」と「遠南」と命名された。1940年2月に建造が開始され、1940年末までに全艦が完成した。その後、日本近海で訓練を行い、1941年8月に実戦配備が完了した。

 海防艦の建造に合わせて、朱印島と遠南島の港湾設備の拡張工事も進んだ。工事そのものは1930年代中頃から行われていたが、世界情勢が怪しくなった1938年から更なる拡張工事が行われた。計画では、トラック諸島並みの停泊能力を持ち、2万トンの重油を保存出来る地下燃料タンクや簡易的な補修が出来る工廠が建設される事になっていた。工事は当初、諸外国の目がある事から当初は土地の収容程度しか進んでいなかったが、第二次世界大戦が始まると南海に目を向ける余裕が無くなった事から工事が急速に進んだ。日本から数少ない重機が持ち込まれたり、日本から「労働者」として軍が入るなどして、僅か1年半で港湾設備の大半と燃料タンクの6割が完成した。工事の残りについては、日本の戦争準備に資材と労働力が取られて進捗が鈍化し、太平洋戦争開戦によって中断となった。

 

 港湾設備の整備と同時進行していた飛行場の整備も完了し、日本から少数の練習機と偵察機、哨戒機が供与された。供与された機体の内訳は、九五式一型練習機3機、九五式三型練習機4機、九七式司令部偵察機2機、九六式艦上攻撃機4機だった。

 また、水上機の供与も行われ、その内訳は九三式水上中間練習機4機、九四式水上偵察機3機、九五式水上偵察機3機だった。

 航空機の運用については、数年前から水上機の運用が行われており、水上機については大きな問題は無かった。一方、陸上機については初めての運用となる為、1年前から日本で練習機の運用を行っていた。これにより、陸上機を運用できるパイロットは存在したが、規模の拡張はこれからであった。

 飛行場の整備と共に、格納庫や航空燃料の保管庫、爆弾の保管庫の建設も完了したが、航空隊の規模に比べて格納庫や保管庫が大きかった。明らかに、日本の航空隊の進出を目的とした整備だった。

 

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 1941年11月、日米開戦はほぼ不可避となった頃、日本本土から海上警備総隊(※2)の航空隊と人員が飛行場に進駐した。それ以前にも軍艦の運用の教練の為に人員が入ってきていたが、それはあくまで軍事顧問として入ってきた。今回は進出であり、明らかに戦争準備であった。

 更に、11月末には海軍航空隊の陸攻隊も進出してきた。合わせて、保管庫に航空燃料と爆弾が大量に補充された。

 そして、日本時間12月8日午前2時、日本は米英蘭に対し宣戦布告を行った。これにより太平洋戦争が始まった。




※1:この世界は「架空の財閥を歴史に落とし込んでみる」と繋がりがある為、日本の対戦能力は史実より高い。既に対潜哨戒機を少数ながら実戦配備している。
※2:「架空の財閥を歴史に落とし込んでみる」世界における日本の通商護衛部隊。海軍内の組織だが、命令系統上では連合艦隊とは独立している。この頃には、旧式ながら航空隊の規模を拡大させていた。

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