それはアイドルとしてではなく、一人の少女として。
しかしそれは何も気づいていない彼によって、全てが海の波のように流されていく。
そんな日々の中で、彼は唐突に、そしてその前提を覆すように、天海春香にこう言った。
「今日、デートするか」
765プロ事務所にて。
「ふぁーあ……あっ、すいません」
「夜更かしか?」
「えへへ……ちょっと電話してたら、つい」
デスクに座るプロデューサーと、応接用のソファに座る春香。今日は他の全員が出払っていて、少し離れたこの距離で会話ができるのはその為である。
夏も盛り、すっかり梅雨は通り過ぎたようで、プロデューサーのワイシャツもクールビズに対応しているらしく、ネクタイも第一ボタンもすっかりその姿を見せなくなった。しかし、ワイシャツの替えが少ないらしく、薄い青のワイシャツと真っ白なワイシャツを行ったり来たりして自転車操業状態になっているのは、彼にとって夏は不幸な季節だと思わせるのに十分だった。一方、春香はそんな変化や周期など、些細なところに目ざとい。普段から仲間の考えに敏感な彼女は、もちろん彼についても敏感だ。それは、もしかすると仲間意識とは違う別の意味があるかもしれないが、そんなことを考える人間は、少なくとも今はいない。この場にいる唯一の二人の頭は、もうすっかり暑さにやられているのだから。
「夜暑くて、それどころじゃないような気がするんだけどな」
「そうですか? 夜は涼しくて、風も入ってきますし、何より話していれば気になりませんから」
「そういうもんか」
「えへへ、よければ今度しますか?」
「うーん、さすがにやめておくよ。毎日早朝出勤だからな」
「あー……すいません」
「気にするな」
彼の仕事環境は必ずしもいいとは言えず、十三人の子供……もとい、アイドルを預かり、プロデュースする仕事というのもあって、彼の負担は大きいと言わざるを得ない。年頃の少女というのは扱いが難しく、何が正解で何が不正解かの判断が気まぐれの時もあれば、そもそも正解なんてなく、全てが地雷で不正解だということも十分ありうる。現に彼はそれで何度も痛い目を見てきた。プロデューサーとして一年、彼という人間はまるで鍛冶のように叩かれ、そしてその痛みに磨かれてきた、と言っても過言ではない。
彼はデスクのディスプレイから目を離すことなく会話する。前のめりになったその体は疲労が溜まっているのが目に見える程で、その首筋にはこのクーラーの効かない部屋のせいで現れた大粒の汗がいくつも滲み出ている。ワイシャツもすっかり染みていて、彼の広い心をもそのストレスたちが埋め尽くそうとする。加えて、手元で行っているのはアイドルたちの粗相、所謂いたずらの報告書であり、同僚の秋月律子に今日中に出せと言われているものだった。彼の内心では、また亜美と真美か、と呆れと苛立ちを覚える一方で、双子の片方である真美が、そうは言えど少し控えめになったことをチェックしてメモする。このような変化が大事だというのは、去年の彼が散々教え込まれたプロデューサーとしての秘術の一つなのだ。
だがだからと言って、彼が完璧なプロデューサーというわけではない。人間なのだ、という言い訳はよく聞くが、彼は仕事こそプロだがメンタルは常人と変わらない。つまり、この極限状態が彼を狂わさないはずがない。
「なぁ春香」
「はい、なんですか?」
「今日、これからオフだよな」
「はい、午前は仕事でしたけど、午後は」
そう、この夏はこんな風に、彼を狂わす。
「今日、デートするか」
「はい……え、えぇ!?」
*
「あ、あの、プロデューサーさん」
「どうした?」
「えっと、これ、何か夢とかじゃないんですよね?」
戸惑いながらも二つ返事で承諾した春香を車に案内すると、彼女はまだ戸惑いながら、しかしちゃっかり助手席に乗り込んだ。その車は彼のプライベート用のもので、春香はこれに乗るのが二回目だった。彼はそのまま特に説明をすることなく車を走らせはじめた。
「夢じゃないぞ。あと、暑さでおかしくなったわけでもない」
「そ、そうですよね」
「どうした、そんなに嫌か?」
彼は屈託のない顔で彼女に問う。春香はその表情、目に心臓を跳ね上がらせた。確かに彼女は何度も彼に好意を向け続け、それをちゃんと表現してきた。ただ、相手が彼で、そして十三人全員のそのようなアプローチに何も反応を示さない男であるというのは、彼が一年間プロデューサーとして鍛え上げられたように、彼女たちも何度も痛い目を見て理解してきた。だからこそ、こんな状況を素直に受け入れられない。それが彼女の一番の心境だった。
「い、いえっ、その、別に嫌とかじゃないんですけど、こんな急になんて、なんでかなーって……」
「そうだなー……仕事に疲れたから?」
「仕事に、ですか?」
「まぁいつも疲れてるけど、今日はなんだか休みたくなったんだよ」
「そ、そういう時、確かにありますよね」
「ああ。まぁ、今日はそういうことだ」
彼らの走る車は都内を駆け抜け、あっという間に都心部を後にする。いつしか見える風景は山ばかりになり、何度もトンネルをくぐり、その度にオレンジと白の光のコントラストが車内を塗り替えた。そういえば目的地を聞いていない、と思った彼女は彼の方を見て口を開こうとしたが、しかし彼は終始口元が笑っており、それに気づいた春香はそっと自らの口を閉じる。彼が笑って連れていける場所なのだと思うと、彼女にとってはそれだけで安心できる。それは作り笑いのような無理な笑い方でもなければ、大笑いしたり微笑みかけたりするような顔全体で笑顔を表現するような笑い方でもなく、本当に自然とそこにだけ現れる、口元だけの笑顔は、彼女にしか見つけられない。これは、彼女が彼女であるが故の安心。
「春香」
「はっ、はい」
「最近どうだ?」
「最近……最近は、お仕事すごい増えてきて、ちょっと大変かなー……って」
「まぁ、もうすっかり人気アイドルだもんな」
「えへへ、ありがとうございます」
「初めて見た時からは随分変わってさ」
「そ、そうですか?」
「ああ。トークも上手くなったし、ダンスもよくできるようになったし、何より歌も上手くなった」
「う、歌のことは言わないって約束だったはずです! もう!」
「あはは。でも、本当だ」
「むぅ……プロデューサーさんにそう言われると、何も言えなくなっちゃいます」
「まぁ、それも俺の特権ってことにしておいてくれ。……で?」
「で?」
「他はどう?」
「他……そうですね、最近千早ちゃんとよく買い物に行くようになりました」
「そうか。千早もすっかり丸くなったなぁ」
他愛もない話を振られて初め少し戸惑ってはいた春香だったが、彼の柔らかな口調とその声に少しずつほぐされていく。外はもうすっかり山岳地帯を抜けて、今度は大きな水面、海が見える。平日昼間の海は、春香にとってはまだ見たことのない新鮮な風景だった。
「千早どうだ? 元気そうか」
「はい。よく話してくれるようになりましたし、何より、よく笑ってくれます」
「そうか。俺の前じゃあんまり笑ってくれないんだけどなぁ」
「それはプロデューサーさんがいつもあんな風にするからですっ」
「あんな風ってなんだよ」
「そ、それは」
千早の想いも知っている春香には、それ以上先を言うわけにはいかない。自分と同じぐらい大切な彼女のその想いさえも、彼に伝えてしまっては、自分が実らなくなるのが分かっているからだ。だからこそ、ここは何も言えない。
「……まぁ、聞かないでおくよ。とりあえず仲いいから、今は」
「こ、これからも仲良くしてあげてください」
「春香は千早のお母さんか? 言われなくてもそうするよ」
「あ、あはは……そうですよね」
「でも、千早、最近ちょっと雰囲気変わったよな」
「分かります? この前一緒にシャンプー買いに行って、おそろいのにしたんですよ!」
「おそろいかー……シャンプーのおそろいはまだ経験ないな、誰とも」
「千早ちゃんが百均のものしか使ったことがないって言ってて、それならと思って」
「なるほどな。変わったのはシャンプーの香りか」
「それと、最近はアクセサリー類もつけてるんですよっ」
「あれ、そんなのあったっけ」
「ありますよ! 例えば最近はカバンに熊のキーホルダーとか、筆箱にヒヨコの缶バッジとか!」
「んー……さすがに気が付かなかったな」
「千早ちゃん、何故か名前つけたがって、いつもゴンザレス、とか、ゴン太郎、とかつけるんですよ?」
「ぷっ、あはは、なんだそれ」
「本人が気に入ってるみたいだから、一応いいかなー……とは思ってるんですけど」
「あはは、なるほどね。覚えておく」
直線が続いていた海岸線の道路から、彼は笑いながらハンドルを右に切り、砂浜の方へ入っていく。ざらざらとした音が車内に響き、安定しない地形のせいで少し揺れた。春香が「おわっ」などと声を上げて驚くので、プロデューサーはやよいを見ているようだ、なんて笑った。しばらく進み、砂浜のちょうど真ん中に来た辺りで、彼は車を止めた。
車から降りると、彼はスラックスの中に入れていたワイシャツの裾を出して、パタパタと扇いだ。潮風が頬をかすめ、そこに塩の跡を残していきそうで、その香りは本格的な夏を目の前にして、実に恋しかった香りだった。春香はその彼の行動に少し驚いたが、すぐに目をそらして海を見つめた。灯台も船も何もない海。こんな場所が車で行ける距離にあったとは到底思えなくて、彼女はあっけに取られてその風景を見つめていた。
「綺麗だろ」
「……えっ、あっ、はい! びっくりしちゃいました、こんな所が近くにあるなんて」
「まぁ言うほど近くはないが……いや、まぁそれはいいや」
「えっ、あっ、えっ?」
彼は車の反対側に回り込み、そこに居た春香の右手を取って、波の袂まで駆けていく。潮風が少し強くなる。春香のリボンが少し強く揺れた。
「なぁ春香」
「は、はいっ」
「今から言うこと、ここ以外では何も言わないでくれるか?」
「えっ、あ、はいっ」
彼女は覚悟した。真っ青な海と白昼の潮風、そして太陽。初夏のこの少し鬱陶しい湿気。全てがマイナスのイメージのような気がしたのだ。
「俺さ、いや、当たり前なんだけど、俺でも疲れる時はある」
「そ、そうですね……はい」
「んで、そういう時に、クッキーがあったり、いぬ美が居たり、ラーメンの匂いがしたり、まぁ色々あって、そして皆の笑顔があったりするんだよ。あの事務所は」
「……はい」
「普段はあんまりちゃんと言えないんだけど、皆には感謝してるんだよ」
「……その言い方だと、手放しじゃないって感じですね」
彼女は核心に迫ったつもりでいた。あながち間違いではない。彼の目は春香を見ることなく、ずっと水平線の向こうを見つめていたのだから。少し強い潮風が吹いて、春香のスカートやプロデューサーのワイシャツの裾をビラビラと靡かせていて、彼女はそんな中で自分の体を支えるのに精いっぱいだった。だからこそ、この場で聞かなければきっと心までも支えてやらねばならなくなることに、彼女は気づいていた。
「そうだなぁ。ここからは俺の独り言だ。春香は何も聞いてない、いいな?」
「は、はい」
「春香はさ、よく気が利くし、よく皆を見てるよな」
「あ、ありがとうございます……」
「それに昔よりずっと垢抜けて、可愛くなって」
「えっ、かわっ、えっ、えぇ!?」
「立派なアイドルになったというのに、ずっと続けてることがあるよな」
「えっ……その、もしかして」
「しかも最後に関しては皆だ。皆、もう立派なアイドルなのに、変なこと続けてて」
「あ、あ……その……それは……」
「こんなおっさんのどこがいいんだか、俺には分からないが、それでも持たれたものには、ちゃんと責任持たないとな、って思ってしまうようになってしまったんだな。去年からの一年で」
「プロデューサーさん……」
「だから、あの場所では我慢するようにしてるんだ。責任持って全て受け止めて、それでも仕事をさせるって決めたから。でもどうしても我慢できない時、ここに来る」
「……我慢できない時?」
「ここにはまだ何もない。ラーメンもクッキーも、犬も蛇もハムスターも、そして皆の笑顔も。だからここでは好きなものが見られる。俺の見たいものだけが見える。この青い海に」
「見たい……もの」
「春香は気が利くし、誰とでも仲良くなろうとして、ひたむきで、正義感が強くて、自分を犠牲にしがちで、そしてそんな春香の顔がこの海に浮かんだ時、今度暇なら連れてこようと思った」
「えっ、それって」
「俺はこの場所でなら素直になれる。きっと誰かの何かに対して、自分の気持ちを素直に表現できる。逆に、自分の全てが分かっているからこそ、はぐらかすこともできる。ここはそういう場所なんだ」
彼は口を閉じると空を見た。正確には、水平線から少しはみ出た入道雲の頭の部分を見つめただけかもしれない。夏の始まりを告げるそれを見て、彼が何を考えているのか、春香には想像がつかない。ただ、ひとつだけ分かることは、自分はその雲ではなく、ずっと彼の顔を見続けていたこと。春香は太陽に照らされてか、それとも自身の赤いブラウスに反射してか、顔が熱くなるのを感じた。伝えようとはしていたものの、もう伝わらないと割り切って、彼には隠し通してきたつもりだったその感情は、もう事務所の皆を含め、誰もが知っているものになっていたということが、彼女の理性に熱を持たせる。潮風はもう冷たくも涼しくもなく、熱風になっている。砂浜の照り返しがじりじりと熱かった。
「俺の独り言は終わりだ。自由にしていいぞ」
「自由、ですか?」
彼女は彼の落ち着いた声に対して、震えた声で返す。
「ああ。何でも来い」
「えっ、いや、その」
「いいのか? 聞きたい答え、持ってるのに」
「その……壊れてしまうのが、怖くて」
「怖い?」
「……もし、いや、あるはずないんですけど、別の世界で、私がちゃんと言って、それを受け止めてもらえなくて、プロデューサーさんは去っちゃう、そんな夢を何度も見た気がするんです」
「夢、か」
「だから、ちょっと怖くて」
「……まぁ、お望みならば、このままはぐらかしてしまうこともできるが」
「そ、それは嫌ですっ」
「本音、出てるな」
「あっ」
「どうする? ここで聞くか?」
春香は拳を握りしめた。きっとここが分岐点。いつか夢に見た彼と結ばれなかった終焉を振り払うための選択肢は。彼女の頭の中を問いが駆け巡る。足元ばかり見つめていた視点を、一旦彼に戻す。彼は口元だけで笑っている。この場所でこうしているのが幸せなように。そしてその瞬間、彼女の頭の中に潮風が一回だけ吹き抜けた。
「プロデューサーさん」
「なんだ?」
「私を連れてきたかったから、今日来たんですよね?」
「ああ、そうだ」
「じゃあ――」
「また、ここに来てお話ししたいです」