頑張ってテコ入れを繰り返すこと五回ほど、どうにか軌道修正をしようとしましたが時間が足らず、どう足掻いてもどうしようもなくなりました。具体的にいうと物語の方向性が決定する時期が遅すぎて、前振りが終わるよりも前に物語展開が佳境を迎えてしまいました。このままではなにも変わらない不幸な物語になり得るので、発展性のない世界線と仮定し、剪定事象として焼却した上で、もう一度、前回の人理定礎からやり直すことにします。
読者の皆様には申し訳ありません。そして誤字修正で多大な協力をしてくださった水上風月様、本当に申し訳ありません。
前回の流れよりも、より一層に面白い作品を書くことで謝罪させて頂きます。
私は、過ちの多い人生を送ってきたと思う。
私には他者を想いやるという気持ちがよく分からない。生まれは九州にある戦車道の名門で、戦車を初めて見たのはよほど幼い頃だった。それが嘗て戦争で使われたものとはつゆ知らず、どこの家庭にも当たり前に存在しているものとして育った。一般的な乗用車も知っていたけれど、戦車の方が頑丈で格好いいから乗っているのだと思っていた頃もあった。流石に今となっては戦車を乗用車として扱うには燃料や整備のコストパフォーマンスが悪く、騒音や振動により御近所に迷惑をかけることから不便であることを知っている。
私はよく周りから、少しズレている。と言われることが多い。
私は感情の起伏が他者と比べると小さいような気がする。嬉しいとか、悲しいとかが分からない訳ではないと思っている。しかし周りから私の顔を見ると、感情が分からない。と言われることが多々ある。誰かの顔を見た時に、悲しんでいるかな、と思ったり、寂しがっているのかな、と思ったりすることはある。例えば、何かを選ぶ時にじっと一カ所だけを見続ける相手がいると何かしらで思い悩んでいるのだろうとわかる。いつもより少し私から距離を開けている子が居たりとか、下唇を噛んでじっとなにかを睨みつけている時とか、あとは、そうだな。笑って誤魔化したりする時、そういうのも見るとわかる。でも声を掛けると逆に距離を離されたりとか、なんでもないよ、と困ったように両手を振られたりとか、やっぱり笑って誤魔化されたりとかする。そんな時、私はどうすれば良いのか、よく分からなくなる。相談に乗ろうとしても誰も私には話しかけてくれなかった。天然だよね、と言われることもある。どこが天然なのか、よくわかっていない。どうにも私は、ズレている、らしい。どのようにズレているのか、よくわかっていないけれど。
そんな私は、どうやら西住流家元の後継者であるようだ。最初、そのことを誇りに思っていなかった。ただあるがままに、川の水が流れるように、水底の砂が流されるように、当たり前のこととして受け入れていた。私が西住流家元の後継者だ。そう強く意識し始めたのは、妹のみほが小学生の頃、勝つ為の西住流が合っていないように思えた時だ。私には、答え、というものがよく分からない。正しいというのはなんとなくわかる。でも、答え、というものがよく分かっていなかった。答え、というのは季節の変わり目のように揺らぎ、あやふやで、ふわっとしたようなものに感じている。私は、答え、を求めていたように思える。やっぱり違うかも知れない。勝つ為の西住流はわかりやすかった。勝ちという目的は、道という道がよく分かっていない私にとって、分かりやすくて馴染みやすい感覚だった。勝つから正しい、勝利とは報いだ。努力を報いるには結果が必要で、結果が伴わない努力は哀れで悲惨なものだった。だから私は勝つことは正しいことだと思っている。少なくとも勝ちを目指す、ということは間違いではない。勝ちを目指さない敗北は、ただ勝利を逃すことよりも醜悪なものだと考えている。みほは優しいから、よく手加減をする。それで負けたりする。私も手加減はする。しかし、勝負事で手加減して負けたことは一度もない。それでよく、みほに拗ねられたりもしたけれど、どうしても私には手加減して負けることが納得できなかった。幼い子を相手にする時、ちゃんと手加減してあげてね、とみほに言われたこともあるが、やはり不誠実だと思うから手加減しても勝ちは譲らなかった。そうするとみほに怒られる。私には他者を想いやるという気持ちがよく分からない。
私は自分が正しいのか間違っているのか分からなくなることがある。でもたぶん、みほの言っていることは正しいのだとも思った。答え、とは違っている。みほは正しいけども、やはり私も正しいと思っている。とはいえ結果だけを見ると、私は幼子を泣かせてしまったから間違えていたのだとも思う。答え、というものは分からない。夜空に眩く輝く星は手を伸ばせば、届きそうなのに、掴もうとすると遥か遠く、決して手の中に収まることはない。答え、とはそういうものだと思っている。もしくは砂漠の蜃気楼のように、見えているのに、決して辿り着くことのできない場所のような、そんな感じがしたりもする。答え、とはなにか、よくわからないものだ。私には分からない、でも、違うということは分かる。私は北斗七星を見上げた時、きっと、みほは南の十字星を見上げていた。私には自分が正しいのかどうかわからない。でも、みほが見ているものが間違っているとも思えなかった。
だから、私は告げる。みほはみほだけの戦車道を見つければ良い。西住流は私に任せれば良い、西住流で私は自分の戦車道を見つけるから。道が二つに別れても、きっと私達はまた出会える。道は別れても、また交わるものだから、その時はお互いに見てきたものを語らいあって、また再び手を振って別々の道を歩めば良い。そうして、私達は何処へ行くことができるのだろうか。素敵な経験ができるといい、そうすると再び会った時にたくさん話すことができるから、素敵なものをたくさん見て欲しい、そうしたら再び会った時にたくさん話を聞けるから。この旅路に終着点はあるのだろうか、あの丘の向こう側には何があるのだろうか、あの川の向こう側には何が待っているのだろうか、あの山の上から見た世界はどんな形をしているのだろうか。
私には、答え、というものがよく分からない。よく分からないまま、私は歩き続ける。
よく分からないから、歩き続けられるのかも知れない。
何故、私は歩き続けるのだろうか。何故、人は歩き続けるのだろうか。
道が続く意味は、交わる意味は、道を歩む意味は、その先にある光景が見たいとか、終着点に辿り着きたいとか、動機や理由は手を伸ばせば届きそうな星の数ほどにあるに違いない。真の意味で願いが叶うことはない、夢が叶うことはあり得ないと私は知っている。それでも歩き続けることには意味があるのだとすれば、
それは、出逢い、なんだと想っている。
西住家には井手上菊代という家政婦がいる。
井手上家というのは第二次世界大戦が起こる前あたりから西住家に家政婦として仕えている家系で、今日に至るまで西住流の一員として西住家と共に歩んできた。菊代はその三代目になる。歴史が浅いことから古く厳かなしきたりはなく、特に西住家への奉仕を強制しているわけでもないそうだ。それでも三代にわたり西住家に仕えてくれている。菊代という人物は、気さくで面倒見がよく、優しい人物だと認識している。あまり母との関係が上手くいっていなかったみほに、よく絵本とかを読み聞かせていた。今も表情の乏しい母の良き理解者として、もしくは代弁者として、付き添うように仕えている。
そんな彼女には娘がいる。歳は私よりも一つ下で、引き合わされたのは小学校高学年の時だ。
菊代が自らの娘を家から屋敷まで連れてきた。
悪い子ではなさそうだ、と私は彼女を受け入れると、菊代は安心するように胸を撫で下ろしてから席を外した。
きっと私達は誰かと出逢う為に動機を持ち、誰かと交わる為に理由を抱いている。
結果は重要だ、結果には拘らなくてはならない。拘りは必要だ、道にある大切な何かを見落とさないために。ただ呆然と歩み続けてしまえば、ただ前を向いて懸命に歩き続けるよりも見落としやすいから。宝石よりも価値のある小石がある。満開の桜よりも道端にある一輪の花が、老舗の団子よりも自ら手を汚して作った泥団子が、眺めるだけの宝石よりも河を切る平たい小石の方が、高い価値を持つことがある。それが生き様だ、それが人生だ。誰もが見惚れる光景を皆一様に眺めながら、誰もが違う景色を見つめている。中には、花より団子と云う者も居るはずだ。誰もが一様に同じものに感動することを根源と呼ぶ。それ以外は皆が皆、須らく別人だ。私にはきっと私にしかできないことがあるのだろう、私以外の誰かにはきっとその者にしかできないことがあるのだろう。それは使命とか、運命とか、そういう大仰な言葉ではなくって、もっと、軽薄で簡素な言葉が似合う。例えば、そう。個性、とか。やっぱり私達は他人だから、とか。そんな軽い言葉で事足りる。見ている景色が違うから皆が皆、違うことを想い描く、それは当たり前のことだった。だから皆が皆、別の何か追い求めて、誰もが自分だけが辿り着ける何かを手にすることができる。それは誰かから見れば、質素で、もしくは貧相なのかも知れない。しかし誰かからすれば、何者にも変え難いほどに尊いものなのかも知れない。誰もが皆、違っている。誰もが皆、違う可能性を持っている。誰もが孤独に生きている。だから私達は手を伸ばす、誰かと交わりたいと願っている。分かり合える、と云うことは、当たり前のことではなくて、きっと貴くて素晴らしいことなんだと思っている。私達が同じ何かを得られるということは、共感というものは、きっと何物にも変えられない程に得難いものなのだと思う。素敵で、素晴らしくて、尊くも儚くて、大事に大切にすべきものでありながら、きっと乱雑で乱暴に扱われるべきものでもある。何故なら私達は残酷なまでに違っている、本来、分かり合えるなんてことはあり得ない。
私達は出逢う為に歩いている。誰かと出逢って、何かと出逢って、新しく出逢い続ける為に、私達は別れなくてはならない。いってらっしゃい、とか。また今度、とか。また出逢う為に別れることもあれば、さようなら、と永遠に別れることもある。
そうして私達は歩き続ける、私達は道を歩き続けるから出逢い続ける。
――これは私が認めた好敵手の話だ。
まだ表情の固い武子を連れて、庭にある物置へとやって来た。
少しでも緊張を解したいと考えた私は、菊代から娘にも戦車道をさせているという話を聞いていたから、戦車を見せに物置まで彼女を連れてきた。しかし物置の戸は少し開いており、中からは何か弄るような音が聞こえてきた。泥棒だろうか、と考えた私よりも早くに武子が前に出て、憤った顔付きで戸を開け放った。「ゆっこ!」という武子の怒鳴るような声に、中にあった戦車のキューポラから見知らぬ――いや、知った顔に瓜二つの少女が身を乗り出した。
上質な生地で誂えた着物は煤汚れ、顔も所々で真っ黒になっている。
「ん、こんなところにどうしたの、姉さん?」
「姉さんじゃない、お姉様! それはこっちの台詞よ!」
「それを言うなら私もゆっこじゃなくて
武子と同じ顔をした少女。違うのは髪型くらいか、菊代と同じように後ろ手に短い髪を結んでいる。
あと雰囲気がなんとなく違っている。自らを弓子と称した少女はキューポラから抜け出すと、戦車の上をトントンタンと軽い身のこなしで跳び降りた。「あーもう、こんなに着物を汚しちゃって!」という武子に「あーもう、うるさいなあ」と弓子は見るからに嫌そうな表情を浮かべるとパンパンと着物の汚れを手ではたき落とした。それから私に振り返ると「貴方がまほお嬢様だね。私は弓子よ、よろしく」と彼女は煤汚れた手で握手を求めてきた。差し出された手からは鉄と油の臭いがする。ああ、そうか。戦車道を嗜んでいる、というのは彼女の方か。
「ばっか……っ!」と怒鳴ろうとした武子を遮るように私は握手に応じる。
「私は西住まほ、よろしく頼む」
「おぉ、なるほど。君とは良い関係を築けそうだ」
「そうだな」
弓子は菊代の面影を見せる顔で、菊代が絶対に見せないような満面の笑顔を浮かべてみせた。
これが弓子との出会いだ。私が認める好敵手、私が初めて一緒に戦車道をしていて楽しいと思える相手だった。彼女と私は対等な関係だと思っている。彼女が居たからドイツ選抜との試合でも臆せずに戦い、勝つことができたと思っている。彼女と腕を競い合った経験があったから、後にダージリン、ケイ、アンチョビと呼ばれる彼女らとの試合でも遅れを取ることがなかった。小学生の頃、私達は常日頃から遊び感覚で戦車道の試合を繰り返した。何度も、数えきれない程に、その回数は優に百回を超える。その経験、同格以上との戦いを経験していたから私は小学生、中学生と常勝無敗でいられた。
私は弓子のことを信じている。敵として、味方として、心から信用し、信頼できる相手だと思っている。
誰かの心を揺さぶる想い、行動、言葉があるのだとすれば、それはきっと愛なのだと私は想う。
真の愛に種類はない、個性がない。境界はなく、区別を付けられない。あるのは質と量だけだ。何故なら愛は根源である為だ。だから愛に優劣を付け難くとも、誰もが自分の抱く想いこそが最も強いと信じることができる。実際、優劣を付けきれないような計り知れない愛からの言葉には言霊が宿る。膨大すぎて認識し切れない愛は、誰かの心を強く打ち響かせることができる。唯一つであることよりも、誰よりも輝ける花となれ。誰かの為に、ではなく自分が思うように、強い輝きを放つのだ。小川で拾い上げた小石で、道端に咲く一輪の花で、手を汚して作り上げた泥団子で、誰よりも強い輝きを放てば良い。先ずは自分の中で一番になれない者に、誰かの中で一番になれるはずがないのだから。自分の心も打てない者に、誰かの心を打つことはできない。
そう信じている。そうであれば良いな、と思っている。そういう人物になりたい、と云う想いもあったりする。でも現実、それは難しい話だ。理想と現実は違う、理想は胸に抱き続けるものであり、現実は道を歩み続けることを云う。私は、過ちの多い人生を送ってきたと思う。私は、沢山のものを両手の指の隙間から零し続けてきた。私には、答え、が分からない。正しい、ということは分かる。私はきっと正しいけども、誰かもきっと正しい。どちらも正しいから、きっと衝突が起きるのだろう。私は歩くことを止められない、みほは立ち止まることができた。歩き続ける私と度々立ち止まってしまうみほ、私は自分が間違っているとは思っていない。みほが間違っているとも思えない。今更な話ではあるが、もうちょっとでも私の方から歩み寄って、寄り添うように語り合う時間を、もっと多く作っても良かったのかも知れない。お母様も、みほも、私も、もっと、もっと、もっと話し合うべきだったのかも知れない。正しさ、とは、万能のようにも見えて、時に鋭利な刃物のような力を纏うことがある。
私は何処かで間違えたのかもしれない。真に大事にすべきは小石でも、一輪の花でも、泥団子でもない。小石を拾い上げた時の感動、一輪の花を見つけた時の感動、泥団子を作り上げた時の感動、そして、みほが私に笑顔を向けてくれた時の感動、その想いこそが、宝箱の中にしまって大事にすべきものだという事に気付くのに、私は少し遅れてしまったような気がする。
今度こそ見失わないように、大事に、大切に、見極めていきたいと想い、願いながら今日もまた歩き続ける。
新たな出逢いと再会を求めて、歩き続ける。
弓子は中学校の卒業と同時に、私の前から姿を消した。
何処に行ったのか分からない。なんとなく寂しいと思った、悲しいと思った。どうして、という気持ちもないこともなかった。でも泣くほどでもなくて、憤慨するほどのことでもない。この感情を言葉で表すとするなら、虚しい、という単語が最も近いような気がする。きっと私達は同じ光景を見ていながら、同じ景色を見ていなかったのだと思う。その差異が弓子と私の道を分けた。
それから数ヶ月後のことだ、とある日の戦車道の試合の後で弓子の名前を耳にした。その時、私は笑みを浮かべていたそうだ。エリカがそう言っていたから間違いはないんだと思う。確かに嬉しい、嬉しいというよりも安心に近い。胸の中が緩やかな温もりで満たされるような、そんな感じがした。
同じ道を歩き続けているのであれば、きっとまた出逢うことができる。そう信じている。
だから私は私の戦車道を歩み続けようと思った。
(書き直しとはいえ、たぶん前のシーンは幾つか適当に書き直して使い回すと思う)