元雄英生がヴィランになった 凍結中   作:どろどろ

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蟻塚:オリジン/草壁勇斗:インバートⅡ

  6

 

 勇斗から見て、蟻塚の破壊的、暴力的衝動は根本的に解消できるものではなかった。彼女の幸福指数は嗜虐性に傾いている。それを一から矯正する術を、勇斗は知らない。根っこの部分で頭の螺子が足りない人間に対しては、勇斗の暗示術ですら効果を持たない。

 彼の調べによると、蟻塚がショッズで犯した殺人の数は七件。その周期から逆算した結果、蟻塚の欲求不満は、そろそろ限界に達するだろう、というのが勇斗の見立てだった。

 

 

 定期的に行われるメディカルチェックの日にて。

 勇斗は、整列する患者の中に混じっている蟻塚の姿を目撃した。取り巻きの三人の姿は見えなかった。確か、昨晩蟻塚から瀕死の重傷を負わされ今は別室で隔離されているという話だ。勇斗には、それが蟻塚が“爆発”する前兆に見えてならなかった。

 

「おっと、ゴメンな……って、あ、蟻塚!? なんでお前がここに!?」

 

 ふと目を離した隙に、蟻塚が正面から歩行してきた男と肩をぶつけていた。今の彼女は勇斗の助言で波風を立てないような素行を心掛けさせられている。普段から授業にも顔を出さない彼女が定期健診に現れるということは、かなりの異常事態だった。

 

「――――誰にぶつかってんだテメェ」

 

 蟻塚から剣呑な怒気が漏れ出し、周囲の空気から熱が消えた。これは蟻塚が相手を殺すときに特有の雰囲気だ。それを身に染みて実感している患者たちは、飛び火を喰らうまいと少しでも距離を取り始める。

 

「わ、悪かったよ。つか、よそ見してたのはお前もだろ? お互い水にながそうや、な?」

「―――、―――。」

「何、だよ……何だよその目付き! クソガキが粋がりやがって! 言っておくが、お前なんて俺がその気になりゃ……!」

 

 蟻塚に対抗心を燃やし吼えてみるものの、その先の言葉を紡げるはずもない。

 男は痛感している。単純に個性の強弱でも自分は蟻塚に劣っていて、その上、彼女の戦闘技術はショッズでも随一だ。上辺だけの言葉であろうと、そこを覆す発言だけは出来なかった。

 

「もういい。お前。うぜぇ」

 

 小柄な少女の身体が飛び跳ねた。

 真っ先に狙われたのは男の眼球だ。最大にまで短縮された初動で的確に急所を狙う蟻塚の俊敏性は、野生動物のそれと比類する鮮度がある。

 男は持ち前の直感で双眸に迫り来る小さな手を躱すが、その直後、少女に掴まれた左腕が弧を描きながら背中を通過した。勢いを殺さず可動域を大幅に逸した左腕は、弾けるような音と共に激痛の波に呑まれる。

 

「ぎィあぁあああァァァァァァァッッ!!」

 

 痛烈な絶叫を聞くと、脊髄反射で勇斗の足が動いた。

 男と蟻塚の間に割って入り、丁度両膝をついた男の首根に迫る蟻塚の手を掴む。剛速球を素手で受け止めたかのような衝撃が掌を走り、出血の鈍痛が響いた。

 

「サンタマリアに仇なす蛮族めがぁぁぁぁっ! 汝の不徳は主の御心にそぐわぬ物でありィ! 故に御手を拝借えっさっさァあらよっと!! 離別者たりえる友よ! ここは怒りを静めたまえ!!」

 

 訳・お友達に暴力振るっちゃ駄目っ! そんなことをする悪い子のお手々は私がにぎにぎしちゃう! うふ! にぎにぎ♪ さぁ、もうおこおこ冷めたよね?

 と、まぁ簡単に訳すとこんな感じに。

 易しく蟻塚を諭した勇斗は、柔和な頬笑みで彼女の殺意を受け止めた。

 

「……まだ壊れたフリしてんのかよ、お前?」

「(こっ、コラ! シーッ! シーッ!)」

「ムカつく。私ぶっ殺したい、お前のこと。仲間だと思って我慢してきたけど、やっぱお前、私の邪魔だ」

 

 殺人欲の禁断症状。

 視線を交わして分かった。この子はもう、限界だ。近々必ず誰かを殺すに違いない。

 

「そんな厳しいこと言わないでくれよ。仲良くしようぜ、蟻塚ちゃん」

 

 ただし、胸中の猜疑心は決して表に出してはいけない。

 勇斗はあくまで友好的で温和な自分を装って、少女の形をした猛獣を落ち着かせた。

 

「…………私、帰る。もう追ってくるなよ」

「そっか! それじゃあまた今度な!!」

 

 脱獄の協力者である手前、勇斗の言葉は蟻塚にとって相応に重いものだった。

 だが、これ以上の諌言は間違いなく彼女の理性を完全に壊す。今のが最後の堤防だ。

 だから、今日、殺す以外に選択肢はなかった。

 

 

  7

 

 

 移動が制限される施設の中で、確実に安楽死させられる薬物の入手は困難を極めた。

 そのため、勇斗が凶器に選んだのは通常の調理用包丁である。筋肉の隙間を通し、抵抗を受けずに動物の肉を断つ方法は知り得ている。蟻塚との筋力差を差し引いても、彼女に苦痛を与えず殺すだけの自信が勇斗にはあった。

 

 蟻塚が寝静まった深夜帯。

 勇斗は彼女の殺害を実行に移す。

 

 足音一つ立てず蟻塚の寝室に侵入し、彼女のベッドまで忍び寄る。

 目を降ろすと、そこでは無垢な表情で寝息を立てる少女の姿があった。暗闇の中でうっすらと光沢を帯びる黒髪は自分と同じで、長い睫毛は姉と似ている。虐待を受けていたというのに、顔の肌はきめ細やかな色白だ。

 

 まるで、宝石のような女の子。

 

 そんな子が、鬼になり果てるまで屈折させられ、愛の無い生涯を送ってきた。

 その事実に唾を吐き捨てて、俺は今からこの子を殺すのだ。

 確実に起こるであろう、蟻塚による未来の犠牲者を守るために。

 

「……っ」

 

 勇斗は虚空を睨んで歯噛みする。

 ようやく出会えた家族をこの手で殺す。ヒーローを志した穢れ一つないこの手で。それは到底、未だヒーローとしての心持ちを捨てられていない少年に耐えきれることではなかった。

 

(本気かよ、俺)

 

 勇斗は包丁を高々と掲げた。あとはそれを振り下ろすだけだ。

 しかし、単純な作業だというのに、指先が震えて力が出ない。

 勇斗の全身が殺人を否定し、その予備動作すら拒絶している。蟻塚を殺す必要性を予感しているというのに、同時に、それを覆す材料を模索している男がいる。

 

(――なんで、この子を殺さなきゃいけないんだ?)

 

 改めて自問。

 蟻塚という少女は、人間の根幹にある筈の道徳性が著しく欠如している。だからこそ、社会は彼女を切り離すことを決定した。それ以上の処方は無用の長物だ。

 では、どうして草壁勇斗は蟻塚を殺そうとしているのか。

 人殺しの少女がのうのうと生きているのが許せないから? ショッズの患者の身を案じているから? いいや、実はどちらも違う。

 

 楽に、なりたかった。

 

「…………。」

 

 父が凱善製薬に謀殺され、姉がヒーローに殺され(・・・・・・・・・・)、自分も命を狙われている。雄英卒業後、姉が死んでから何度も殺されかけた。凱善製薬は口封じの為に勇斗の心臓を狙い続けるだろう。となれば、もう光の差す舞台で生きることは叶わない。裏社会で勢力を拡大させているあの会社を潰すことも不可能だ。

 

 勇斗には、華やかな未来は待ち受けていない。

 

 夢が潰え、尽くそうと誓った人たちが死に、自分の人生に拭いきれない影が落ちた。まだ十七歳の少年の心を折るには、十分すぎる不幸が重なって訪れすぎたのだ。

 

(弱い奴)

 

 誰かの為に死ぬ。

 その大義名分を得るために、少年は姪を言い訳に使っていた。

 

(俺、卑怯者だ……)

 

 ナイフを掲げた腕は、だらんと弱々しく垂れ下がっていた。

 蟻塚が放置されれば患者や医師の間で死人が出る――それは確定事項とも言えるが、だとしても彼女を暗殺する動機たり得ない。しかし、かと言ってこのまま蟻塚を無視することを自分に許すこともできない。

 ならば、どうすればいいのか。

 決して正常な人生を見れず横道を進み続けるしかない少女を、救いようのない彼女を、間違いなく生涯殺人鬼であり続けると断言できる姪っ子を、草壁勇斗はどうすればいいのか。

 

 泥沼から引き上げられる段階などとうに過ぎ去った。

 彼女は罰せられる側であって、救われる側ではない。

 

(分かんねぇよ。この子の為に、俺に何が出来るってんだ……)

 

 すると、幻聴がした。

 

 

『もう答えは出てるんじゃないかね?』

 

 

 神経を逆撫でするような、忌々しい声。それが自分に染み込まれた恐怖を象るものだと思い至るのに、そう時間はかからなかった。

 意識の中に刻み込まれた虚構であるというのに、声の主はまるで直接対峙しているかのように、生々しく囁いてくる。

 

 

『あるじゃないか。自分自身と、愛する者の願いを同時に満たす唯一にして最良の方法が』

 

 

 ぐにゃり。

 身体が溶け出すような感覚。

 生理的に嫌悪しているものの、逃げだそうと考えるには、“ソレ”は強大過ぎた。

 金縛り、と表現するのが一番近いだろうか。萎縮して身体と頭が動かない。

 

 

『葛藤は健全な証拠だ。しかしね、行き過ぎた戒律は自壊しか導かない。未来を見据える視力があるのなら、より望ましい方を選びなさい。君の心の望む方角に、正解も間違いも無いのだから』

 

 

 本当は。

 とっくに心が決まっていた。

 この妄想は、全て草壁勇斗の決断を後押しする為だけのものなのだろう。

 自分が選べる道はたった一つだけだった。

 

 

 ――――勇斗……お願い。

 

 

 貴方の為に、自分の為に、姪の為に、少女を導く。

 他人のために家族を殺す覚悟なんて無い。

 けれど、家族のために他人を殺す覚悟なら、これから『獲得』する“方法”がある。

 

「俺が同じ土俵に、並べば良いんだ」

 

 自分に暗示術をかければ、それが叶う。

 

 

  8

 

 

 もういいや。もういいよ。

 逃げ続けるのは疲れたんだ。

 俺だって、やられっぱなしは辛いんだ。

 だから仕方ないよな、姉さん。

 

 ごめんなさい、相澤先生。

 

 皆に都合の良い草壁勇斗は、もういいや。

 

 

  9

 

 

 世の中には、枠からはみ出た異物に対し、枠内に戻そうとする強制力がある。

 産まれた場所や育った環境が常人と違う者ほど、その強制力は強くなる。

 とりわけ、蟻塚という少女に対する社会の強制力は理不尽なほどだった。

 

 他人を傷付けるなと、多くの人々は彼女に言い聞かせ、時に叱咤した。

 だが、その規則を裏打ちする納得出来る説明は一度として聞かされたことが無かった。いや、何を言われても、蟻塚が納得しなかったのだ。

 

 

 誰も、私の隣に並ぼうとしない。

 私を、誰かの隣に並ばせようとする。

 今もそうだ。

 

 

「また君か、蟻塚……。何度言われたら分かるんだ? 自分がされて嫌なことを他人にしては駄目だ。簡単なことだと思うんだけどなぁ」

 

 

 意味が分からない。

 自分がされて嫌なことと、自分がしたいことは別物だ。

 通常の順接を理解するには、蟻塚の思考回路ではどう足掻いても不足だった。

 

「うるせぇな。つーか誰だよ、お前」

「うん? ああ、僕はホリエと言う! しばらくミサキさんはお休みみたいだからね! 僕がそのピンチヒッターだ!!」

 

 ミサキは脱獄に必要な手配のために、しばらく休職する段取りとなっている。

 協力者である彼女ならまだ蟻塚の自制も利くが、目の前のこの男は、生かしておく価値が全くない。

 

 殺すか? 今。

 しかし後が煩い。私は賢い女だから、後のことを考えられる。

 いや、この場には男と私しかいない。ならばここを煩くする奴はいないではないか。よし殺そう、今。でないと、むしゃくしゃして自分が死んでしまいそうだ。

 

 だが間の悪いことに、殺そうと決断した途端に扉を開く音がした。

 入ってきたのは、緑宝の目をした眉目秀麗の優男。

 

「――おっすぅ、蟻塚ちゃん」

 

 草壁勇斗。

 この男、狙っているんじゃないだろうか。

 蟻塚の殺人衝動が沸点を越えかけた瞬間に、毎度毎度割り込んでくる。心を読む個性でも持っているのだろうか。

 

「な、何だ何だ!? 今、僕らは取り込み中で――」

「あー、いいから、そういうの」

 

 ホリエの首に線が走る。

 

「……へっ」

 

 勇斗が振った包丁が、男の喉笛を掻き切った。 

 

「はッ!? あがァ、ががあ、ああぁぁああああッッ!!」

 

 生臭い飛沫が宙を舞う。返り血の温度で蟻塚の頬が熱が灯り、男の叫声は調律されたピアノのように美しかった。

 勇斗が放った一筋の光芒。その直後、筋から広がる鮮血色の滲み。

 その完成された一挙手一投足、一秒ごとの景色全てが芸術としか思えない。

 凝り固まっていた不満が、甘味をまき散らしつつ爆ぜたかのようだった。

 

「隣、座るよ」

 

 そう言って腰を下ろす勇斗の挙動は、蟻塚の瞳には流麗に映った。

 

「この前はゴメンね。君の邪魔をしてしまって」

「な、何言ってんだよ、いきなり……?」

「いやさ。ふと、自分の過ちに気付いたものだから。とりあえず言葉にして、君に届けたいと思った」

 

 勇斗は必死で何かを訴えかけようとしているホリエの頭を踏みつけた。彼は声帯が引き裂かれていて、首に空いた穴から風を出し入れさせる度に声の代わりに血の塊を吐き出していた。

 

「蟻塚ちゃん、ごらん」

 

 勇斗は更にホリエの身体を解体し始める。

 魚の皮を剥ぎ取る漁師のような包丁捌きで男の腸を引きずり出すと、

 

「ほら、綺麗な蝶々だよ」

「…………ぁ」

 

 身体の内部を露出させた屍の姿を見ている内に、腹の奥から正体不明の熱が込み上げてきた。

 その熱は徐々に温度を上げ、数秒で防波堤の役割を果たしている一線の手前にまで押し寄せた。その一線を越えることが怖くて、しかし耽美な温もりに逆らうことが出来なくて、堤防が決壊する。

 変化はすぐに出た。

 全身の神経に快感が染み渡り、股ぐらに湿気が宿った。

 

「どうしたの? 顔赤いよ?」

 

 勇斗に指摘され、頬の紅潮は赤みを強めた。

 股から漏れ出す液体は羞恥心と悦楽を同時に誘い、その勢いを圧し殺すことは不可能だ。

 抵抗できない快感を享受した後、蟻塚はおもむろに口を開き、

 

「で、出ちゃった……」

「え。……ああ、そうか。なるほど」

 

 勇斗は悟ったように目を細めた。

 

「そういえばだけど、此処から逃げ出した後、君はどうするつもりなんだ?」

 

 唐突すぎる話題の転換ではあったが、むず痒い今の空気を快く思えない蟻塚からしたらありがたい話だ。

 

「い、今と同じだっつの。まず、ムカつく奴を片っ端からぶっ殺しにいく。それから……ムカつかない奴も、片っ端からぶっ殺しにいく」

「シンプルで良いね。俺もそんな生き方をしてみたい」

「ああ? じゃあしろよ。私に一々報告すんな」

「手厳しいな」

 

 勇斗の手が蟻塚の頭の上に乗った。柔らかい指が髪の中を泳ぎ、飛び散った血を頭皮へと刷り込ませていく。その感触に浸るのも束の間、頭を撫でられていることに気が付いた蟻塚は、勇斗の手を払い退ける。

 

「キッ、キメェ!」

「おっと、ごめん」

「キメェ!!」

「どうして二回言った。そんなに髪触られるの嫌かい?」

「ガキ扱いされるのが嫌なんだ! お前、私より弱いだろうが!! あんま調子のってんじゃねェぞ!!」

 

 怒鳴ってはみたものの、不思議と怒りは実感しなかった。

 トガヒミコと談笑している時の感覚に近いが、少し異なる未知の感情が自分の中で渦巻いている気がする。

 それを自覚するのが恐ろしくてこの場から逃走しようとした矢先、勇斗から思いも寄らない発言が飛び出した。 

 

「蟻塚ちゃん。俺と一緒に生きよう」

 

 それを想定できなかったのは、自分は勇斗から嫌われているという先入観があったからだ。

 

「なんで?」

「さぁ、なんでだろう。上手く言葉に出来ないんだけど、もしかすると、俺が君を愛してるからなんじゃないかなぁ」

 

 実際に向けられたことはおろか、聞いた事すらない『愛』という単語。本の中で何度か見たことがあるため語義は掴めているが、勇斗からソレを向けられる理由に心当たりがなさすぎて、少女の思考に空白が生まれた。

 その隙に口をついたのは、素朴な疑問。

 

「“愛”って、なんだっけ?」

 

 僅かな間を溜めて、勇斗は言った。

 

「俺が今、君に向けているもので、多分きっと、君が今、感じているものだ」

「はァ……?」

「自分の胸に手を翳して鼓動の奥に目を向けてごらん。今なら、俺が君に向けているものと全く同じものがそこにもあるだろうから」

 

 言われたとおり、自分の僅かな胸の膨らみの上で両手を重ねてみる。

 鼓動の奥に目を向ける――漠然とだがやり方は分かった。胸部の最奥に意識を向けて、そこで胎動する何かを発見する。勇斗の言によると、コレの名前が『愛』らしい。

 

「――チクチクして、痛い」

「でも、嫌な気分じゃないだろ」

 

 悔しいが、勇斗の言うとおりだった。

 

「コレ、くれるのか?」

「いいや、君が生まれた時からそこにあったんだよ」

「そうなのか。知らなかった」

 

 蟻塚は胸を押さえつける。

 初めて見つけた愛を逃がさないように、自分の中に押しとどめるように、そしてもっと近くで感じるために、強く鼓動を包み込む。

 

「そうか。知らなかったんだ。私……」

 

 蟻塚の身体は、理解できない事象に戸惑う隙すら彼女に与えない。

 今度は鼻腔の温度が上がり、鼻と目頭から体液が漏れ出し始めた。

 涙は今まで痛い飲み物だったのに。

 その時の涙腺から流れ出る体液だけは、優しかった。

 

「ぅ…………ふ、ぁ……っ」

 

 トガヒミコと草壁勇斗の何が違うのか、心の温度を共にしてようやく気付けた。

 好意を言葉にして自分に向けてくれたのは、勇斗が生まれて初めてなのだ。

 幸せと直結する脳内麻薬が過剰に分泌され、他人を損なった時以上の快楽に身体を貫かれる。すると、蟻塚の思考と関連しない、本能が紡いだとも言える言葉が形にされた。

 

「どうしでっ……私、今まぁで、ずっど……っ」

 

 そう。

 今までずっと、求めていたものがあったのだ。

 しかし、時間が流れすぎたせいで、それを溜め込む容器は壊れてしまった。

 

 けれど今、嬉しい自分だけは分かる。

 同時にまた、“それだけ”では満たされないどうしようもない自分も分かってしまった。

 

「いけない事だって、言わ゙れで、分かってたもん゙……っ!」

 

 分かっていた。

 自分が他人と違うこと。

 本当は、全うに願う心があった。

 

「私も゙、普通に、皆と一緒に生きたがっだもん……ッ!」

 

 彼女は苦痛と悪意の中で折れてしまった自分自身から目を逸らし続けていた。

 普通でない自分を受け止め、誰からも認めて貰えない自分を認め、たった一人で、たった一つ残された生き方に縋るしか無かった。

 勇斗がそれを察するのに、少女の涙は十分すぎる材料だった。

 

「うん。普通に生きようか。これから一緒に、俺と君で」

 

 翠玉眼の少年が、紅玉眼の少女の手を取る。

 

「まずはこの前の奴にお礼参りと行こう。君もまだまだ不完全燃焼だろうし。……あ、でもその前におパンツ履き替えとく?」

「うるせェ!!」

「ごふァッ!」

 

 悶絶する勇斗を尻目に、蟻塚は血臭漂う地獄のような部屋から逃げ出した。

 その頬はまだ先程の余熱を帯びたままで。

 芽生えた想いはまだほんの小さな種子だったが。

 たった今得た全てが、少年と少女の遠くない未来を。

 二人、横道(おうどう)に立つ未来を、力強く証明してくれていた。

 

 

  10

 

 

 半年後、施設内で原因不明の爆発事故が発生。

 事故に便乗して半数近くの患者が脱走し、その後の消息を断つことになる。無論、脱走した患者の中には草壁勇斗と蟻塚も含まれていた。

 

 やがて朝木勇と名を改めた彼により、数多くの動乱が巻き起こされるのだが、それを当時から予期できていた人物はごく少数だけだった。

 

 

 




主人公が反転(インバート)した理由→蟻塚と並んで生きるために、強力な暗示を自分自身にかけて意図的に人格を曲げたから。


まぁ普通に考えて、超能力とか催眠術でも使わない限り、ここまで人間が豹変する訳ありませんわな。
あ、後書きではありますが一応捕捉しておくと、現在の主人公は暗示術ってか催眠術?使えませぬ。自分が暗示にかかっていることを自覚しないために、無意識的に封印しています。

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