鬼から産まれた剣士のお話。

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鬼滅の刃 ‐凍血‐

「ど……どうか……」

 

 懇願するように女は()()を掲げる。

 血に塗れた手に乗せられていたのは、産まれて間もないであろう赤子であった。

 

「この子……だけは……この子……だけは……」

 

 壊れた絡繰りのように繰り返す言葉。

 それに耳を傾けるのは、刀を携えた一人の男であった。得も言われぬ表情を浮かべて女を見下ろす男は、月明りに照らされる赤子がすやすやと寝息を立てている姿に息を飲む。

 斬らなければ、斬らなければならない。

 男はそう思って刀を振りかぶった。

 一瞬、血に濡れた眼を見開く女。同時に息を飲んだ際、人間のものとは思えぬ鋭い犬歯が除いた。

 

 次の瞬間、男が斬り落としていたのは女―――否、鬼の頚だった。

 斬り飛ばされた頚は舗装もされていないような砂利道を転がる。悲壮と絶望に彩られていた鬼の顔であったが、ボロボロと朽ち果てていく体から赤子を抱き上げる男の姿に、ホッと胸を撫で下ろしたかの如く、温かい微笑みを湛えた。

 

「……れで……」

 

 鬼の目には涙が。

 「これで安心できる」……そう言わんばかりに安堵の笑みを浮かべていた頚も、やがては先に朽ち果てた体同様、塵も残さず消え去っていく。

 残っているのは鬼が流した血溜まりと、腹の部分が大きく裂けた衣服だけ。

 生温い血の香りが辺りに立ち込める。

 それから程なくして、山の合間から覗く朝日が男と赤子を照らし上げた。

 一瞬、赤子を陽光から庇うような挙動を見せた男であったが、

 

「―――おぎゃあ! おぎゃあ!」

「……なんと……」

 

 陽光を浴び、「眩しい」と泣き喚く赤子。

 男の予想を裏切り、なんとも元気な姿を見せる赤子の姿に、男はただただ慄いた。

 

 その間にも、赤子はすぐ傍で失った温もりを手探りで延々と求めているのだった。

 

 

 

 ***

 

 

 

 時は大正。

 外国からの文明の流入により、目覚ましい発展を見せる日本であったが、文化が集中する都市部に比べ、田舎では依然として昔ながらの生活を過ごしていた。

 

「ふぅ……」

 

 彼もまたその一人だった。

 姓は氷室。名は凛。

 名づけ親は、彼の面倒を看てくれている「お師匠様」と呼ばれている男だ。

 彼は師の実子ではない。昔、凛が苗字の違うことに疑問を抱き、問いかけた時に教えてもらった。

 姓の氷室守は、天然の氷を夏までたくわえておくための(むろ)の意。どうやら、本来の家業は姓に関するものだったようだ。

 

 「だったようだ」と言うのは、彼には血のつながった家族が居ない。全員死んだからだ。

 曰く、鬼に殺された。

 

 鬼。主食は人間。昔から存在している人食いの化け物と師匠は言う。

 膂力は常人の比ではなく、中には現実離れた異能を用いる鬼も居るらしいではないか。

 性格は極めて狂暴。意思の疎通はほぼ困難であり、彼等は己の食欲を満たさんが為だけに人を喰らう。

 加えてその不死性も特徴だ。頭蓋を砕かれ脳髄をぶちまけようが、内臓という内臓を抉り出そうが、日光を浴びるか特殊な武器で頚を断ち切る以外に殺す術はない。

 

 そんな鬼を退治するのが、師匠の勤めていた政府非公認組織「鬼殺隊」。

 日輪刀と呼ばれる特殊な砂鉄と鉱石で打った刀で鬼の頚を斬り、市井の人々を守ることを生業とする組織らしい。しかし、師匠は余り語りたがらなかった。

 

 彼には、家族を鬼に皆殺しにされた赤子の凛を拾い、育ててくれた経緯がある。他にも鬼殺の剣士とさせるべく、孤児なり志願者を育て上げる「育手(そだて)」も務めていた。

 見事最終選別を合格させ、何人もの鬼殺の剣士を送り出す師の姿には、凛も誇らしく思っていた。

 

 そういう凛も師には「護身に」と剣術を教えてもらっている。

 他の教え子のように鬼殺隊に入らせる為ではなく、あくまで護身にと告げられているのは、凛に剣術の才能がないからなのだろうか。はたまた別の理由か。

 どちらにせよ、頑なに鬼殺の剣士にさせる為ではないと教えられてきた凛は、逆に剣術を修めようとする気概に満ち溢れ、年上の弟子に混じって鍛錬を積んでいた。

 

 だが、未だに凛は選抜を受けられていない。

 それは偏に師が最終選別を受けることを良しとしないから。

 

―――やはり僕には剣の才能がないのだろうか?

 

 何度眠れぬ夜を過ごしただろう。

答えの出ない悩みに唸ること幾星霜。いつしか、深く悩むことを止め、今や年を召した師と同門の子の世話に精を出していた。

 

「凛兄ちゃん! 凛兄ちゃん!」

「うん?」

 

 山へ柴刈りに出かけた帰りの道。溌剌とした声をかけてきたのはよく遊ぶ村の子どもだった。男児とその妹。

 しかし、どうにも妹の様子がおかしかった。

 

(熱―――)

 

 肌身で感じ取った悪寒を覚えるようなわずかな熱さ。

 女児の異変に気が付いた凛は、徐に額へ手を当ててみた。

 

「あ~、熱が出てるね。風邪かな。37度5分……ひき始めだね」

「え!?」

 

 まさか妹が風邪だとは思っていなかったと言わんばかりに男児が驚く。

 先ほどまで外で遊んでいたのだろう。衣服の端々に汚れが散見できる。

 

「帰ったらちゃんと手洗いとうがいをして、今日は早くお休み」

「ん……」

「お兄ちゃんも妹をちゃんと看てあげるんだよ」

「うん! ありがと! 凛兄ちゃん!」

 

 溌剌とした声で礼を告げ、男児は妹の手を引いて帰っていく。

 

 今のように、凛が体温を体温計も使わずに言い当てるのは珍しいことではなかった。

 彼の特技は、温度感覚が優れている―――異常なまでに。

 温度感覚とはいわゆる温覚と冷覚。彼はそのどちらも凄く敏感であり、温度計を使わなくとも正確な温度が分かるのだ。

 

 風邪の引き始めの微熱を始め、絶え間なく移ろう雲行きで変わる気温は勿論。遠くから覗く水の沸騰具合も。極めつけには、目を瞑っていてもどこに何があるかが、物から放たれる熱でくっきりと把握できるのだ。

 

 凛曰く、熱にも種類がある。

 柔らかかったり、湿っていたり、乾いていたり、爽やかだったり。あくまで触覚の延長線に思える感覚だけではない。喜んでいる温かさ、怒りの熱さ、哀しみの冷たさ、楽しんでいる暖かさ―――全部が全部違う。

 子どもの頃は、この特技をかくれんぼで無暗に使い、他の子に「お前は鬼にさせないからな!」と言われた経験さえあるのだ。当時は大泣きした凛だが、今となってはいい思い出だと笑い話にしている。

 

「さて、と……」

 

 兄弟に忠告を済ませた凛は再び帰路につく。

 その途中、明日の天気を聞かれたり、荷物を運ぶのを手伝ったりもした。

 天気さえも凛にかかれば、どの方角からどんな“熱”の風が吹いているのかを肌身で感じ取り、専門家顔負けの天気予報をすることもできる。

 後者であれば、師に教えてもらった呼吸法により体に力が漲り、米俵であってもお茶の子さいさいと言わんばかりに持ち上げられる。

 

 人の役に立てば「ありがとう」と告げられる日々。感謝の言葉を送ってくれた人から感じる“熱”は、この上ない生きる活力となった。

 親もなく、兄弟もなく。

 それでも満足に暮らせている。満ち足りている。

 

 そう思うようにしていた。

 足るを知っていたはずだった。

 

(心臓に氷塊がつっかかってるみたいだ)

 

 人から与えられぬ温もりでは融けぬ感情。

 

(凍った血が埋もれている。それが融けては凍ってを繰り返している)

 

 顔も知らぬ家族を想う度、()()は冷たさを増す。

 他人から与えられる温もりが、鬼に家族を殺された事実より生まれた憎悪を引き立たせる。

 だが、ダメだ。

 師がダメだと言っているのだ。

 鬼殺の剣士の道に進ませまいと、師は口を酸っぱくしているのだから、どれだけ鬼が憎くとも、この感情だけは晒してはいけなかった。

 

 きっと―――赦せなくなるから。

 

(いいんだ、もう。知らない人たちは……僕は今があれば……それでいいんだ)

 

 鬼を殺せばこの恨みは晴れるか。

 晴れた差し込む光は、どす黒く染まった感情の塊を融かし、雪いでくれるだろうか。

 

 

 

 こんな思案を幾度も巡らせ、また今日も昨日と似たような日々を過ごしていた。

 

 

 

 ***

 

 

 

 その日は夕暮れになり、突然雪がしんしんと降り始めた。

 ふわふわと綿毛のように柔らかい雪だが、降っている量からして、明日の朝には相当積もっていることだろう。

 雪が降る事態は昨日のうちに予想していた。だから傘も持ってきた訳だが、村中の手伝いをしてしまい遅くなってしまったこともあり、もうすぐ夜だ。雪の降る夜道を歩くのは、たとえ鬼が出ずとも危険であった。

 勝手知ったる道を行くとて、村の人が「今日は泊まっていきなさい」と勧めてくれた為、凛は素直に泊まろうとしたのだったが、

 

「まだお美代が帰って来てないのかい?」

「そうなんだよ。昼間に少しきつく叱ったばっかりに……あたしゃどうしたら……!」

 

 外で狼狽した夫婦の会話が響く。どうやら、叱った娘が夜になっても帰ってこないものだから何かあったのではないかと気が気ではないらしい。

 

「あのう」

「おお、凛じゃないか」

「よかったら、僕が探してきましょうか?」

「それは……いや、しかし君のお師匠様が夜中は出歩くなと言うしなあ。鬼が出る」

「僕なら藤の花の香り袋を持っているから大丈夫ですよ」

 

 鬼の嫌う香りを放つ藤。雑魚鬼であれば近付くことさえできない為、一部鬼の存在が知られている地域では、こうして香り袋をお守りとして持ったり、夜中に藤の香を焚いて鬼除けとしたりする風習が根付いている。凛もまた、師から鬼除けとして香り袋を四六時中持ち歩かされている。これならば、多少出歩いても大丈夫なはずだ。

 

 凛は村の周りを、夫婦は村の中を探すことに決まる。

 明りにと提灯を一つ託された凛は、僅かな手がかりも見逃さぬよう、特に温度感覚を集中させて少女の捜索に赴く。

 

(ん、この熱は……)

 

 しばらく歩いていれば、凍みの強くなった外に仄かに残る熱を感じ取った。

 

(……怯えてる?)

 

 叱られた怯えや悲しみの類とは違う。

 もっと、骨身の奥底から震えているような恐怖がにじみ出ている熱が、まるで逃げるかのように森の奥へ奥へと続いている。

 

(この先は確か寂れた寺院があったはずだけれど……)

 

 大気に残る熱を辿る最中、自分がどこへ向かっているかを把握する凛。

 人が住んでいない寺院が向かう先にあることを察し、凛は自然と歩幅を広くし、急いでお美代の後を追う。

 すでに視界は闇夜のみ。提灯の灯りさえも頼りにならぬ夜の森の暗さの中では、逃げるように伸びている熱だけが頼りだ。

 だんだんと漂う熱は熱くなる。新しい―――ついさっきまでの吐息である証拠だ。お美代は近い。

 

 だが、同時にお美代のものではない熱も感じ取っていた。

 

(厭な熱だ……生きているのに、まるで死んでいるみたいな濁った熱……獣じゃあない……!)

 

 冬眠できなかった熊等の獣ではないことを悟った凛の脳裏に、一つの嫌な想像が過る。

 

(お美代が危ない!)

 

 出来る限り足音は立てず。

 それでいて、肺を凍てつかせる冷たい空気を躊躇なく吸い込んだ凛は、次の瞬間、全身に灼熱をみなぎらせ、全力で駆け出した。

 みるみるうちに辿る熱の元が近くなる。

 こんな夜中だ。瞼を閉じてもさほど変わらない。提灯を腰の後ろに隠した凛は、スッと瞼を閉じる。

 

(見える……あそこか!)

 

 暗闇の中―――瞼の裏に、鮮明に景色が浮かぶ。

 熱いものは赤く、冷たいものは蒼く見えた。

 凍みた空気の中、残る呼気、体温の熱さはくっきりと見えるようだ。

 

 軽快な足取りでいつの間にかたどり着いた寺院の階段を上った凛は、まだ人の温もりが残る障子の取っ手に手をかける。

 勢いよく開かれた障子の奥から、ヒュッと息を飲む音が聞こえた。

 

「お美代ちゃん!」

「り……凛兄ちゃん……」

 

 自分の名を呼んで現れた存在が見知った人間だと理解したお美代は、瞬く間に目じりから大粒の涙を零す。体は酷く震えている。よほど恐ろしい目にあったのだろう。お美代の熱は、恐怖より滲み出た冷や汗が原因で普段よりも冷えていた。このままでは、朝までに凍えて死んでいたかもしれない。

 

「大丈夫かい? 怪我は?」

「あ、お……」

「うん?」

 

 厚意に甘えて借りていた袢纏をお美代に着せる凛。

 それでも震えの止まらないお美代は、パクパクと餌を求める金魚を彷彿とさせる口で、何かを紡豪とする。

 

「お……!」

「お? ―――ッ!?」

 

 刹那、背後より厭な熱を感じ取った。

 昇天した人間の口から、最期に吐き出された息のように生温い熱。もしも吹きかけられれば、気化熱よろしく生気を奪い去られそうな熱。

 凛は考えるよりも前にお美代の体を抱きかかえ、その場から飛びのいていた。

 すると、先ほどまで彼等が屈んでいた床から、極太の骨が生えてきたではないか。あばら骨を鋭く尖らせたような骨。それが床から筍のように生え、気が付いた時には天井を貫いている。

 

 寺院全体を揺らす激震により降り注ぐ塵に咳き込むお美代を抱きかかえる凛は、厭な熱を感じ取った方向とは真逆の壁に飛び込み、強引に寺院からの脱出を図る。

 幸い、朽ちかけていた壁は簡単に壊れ、二人は外に飛び出した。お美代を庇うことも忘れず受け身を取り、すぐさま立ち上がった凛は逃げ出そうとする。

 

 だが、

 

(地面! ここだけ熱が違う! 不味い!)

 

 地面に違和感を覚え、たった今踏み込もうとした地面から足を逸らそうとする。

 紙一重で足裏は嫌な予感を覚えた地面を避けたが、踏み込んだ音―――振動が静寂の中に響いた瞬間、案の定地面に異変が起こった。

 

 ボコ、と盛り上がる地面からはまたもや鋭い骨が生えてきた。

 これもまた人を貫くなど容易そうな鋭さをもった骨。それがお美代を抱いた凛の体を貫こうと向かってきた。

 

―――ヒュォォォ……。

 

 耳を劈く甲高い風―――否、呼吸の音。

 真冬の夜の隙間風を彷彿とさせる鋭い音を奏でる凛は、目にもとまらぬ流麗な動きで、生えてきた骨を躱す。

 

全集中・氷の呼吸 参ノ型 細氷の舞い

 

 刀を持てば、月影に照らされた刀身が細氷を思わせる絢爛かつ刹那の閃きを見せる回避の舞いを見せる技。それが細氷の舞い。

 辛くも現実盤れした現象から、これまた人の御業とは思えぬ動きで難を逃れた凛。

 厳しい凍みが火照った体を責め立てる中、彼は寺院の屋根の上に乗っていた人影に目を遣った。

 

 月に照らされ浮かぶ影。

 人に似つかわしい形が浮かび上がっているものの、所々に異形が見て取れる。額から生える角。伸びた鋭利な爪。血に濡れた(まなこ)や、口腔に収まりきらぬ犬歯。

 

「―――鬼、か」

 

 実際に目にするのは初めてだった。

 やせ細った体には骨が浮かび上がっている。いや、最早骨に皮を張り付けていると表現した方が正しい風体をした鬼であった。

 

「厭な臭い……藤の花の臭い……」

「ッ……」

 

 鬼は凛を指さし、藤の花の香り袋の存在を示唆する。

 雑魚鬼では近寄ることさえ叶わない道具であるが、過信は禁物。現に対峙する鬼は目に見える範囲まで近づいているではないか。

 

「凛兄ちゃん……」

「大丈夫だ、お美代ちゃん。君は僕が守る」

「寄越せェ……食い物を寄越せェ……喰わせろ……俺に喰わせろぉぉおおお!!!」

「!!」

 

 怯えるお美代を抱きしめる凛であったが、そんなことお構いなしと言わんばかりに、鬼は涎を滴らせながら凛へ肉迫する。

 鬼の膂力は凄まじい。ただの踏み込みでさえ、駿馬に劣らぬ速度を誇るのだ。

 瞬きをする間もなく鬼は凛の立っていた場所目掛けて腕を振るう。肉が詰まっていなさそうな見た目であれど、振るわれる拳は岩をも砕く。

 

 真面に戦えば、武器のない凛に勝ち目はない。加えて今はお美代を抱いている。

 逃げるしかできない凛は、先ほどと同様、特殊な呼吸法で全身に力を漲らせた上で回避に徹する。

 

「避けるなァ! 逃げるなァ! 喰わせろォ! 喰わせてくれェェェ!」

「くっ!」

 

 怒涛の攻撃を紙一重で躱し続ける凛であるが、如何せん状況が悪い。

 一瞬、村まで逃げることを考えたが、そうなれば基本的に鬼殺隊に目をつけられるという観点から人目につくことを避ける鬼が自棄を起こし、村人を喰い殺し回る可能性がある。

 特殊な刀―――日輪刀さえ持っていれば、お美代だけ逃がし、自分だけで鬼と対峙することが叶ったのにと凛は歯噛みする。

 

 では、残る手段は何か。

 朝になるまで逃げる。無理だ。まだ日が落ちてから一刻ほどしか経っていない。あと数時間、子供を一人抱きかかえて逃げ回るなど不可能に近いだろう。

 

 師の居る家まで逃げる。これも難しい。家に帰るには、村を通らなければ十中八九夜の森で迷うことになる。それは余りにも危険だ。ギリギリ迷わない距離で村の近くを通ったとして、鬼が村の存在に気が付く可能性は格段に上がる。そうなれば村の者が―――。

 

(どうすればいい!? どうすれば―――はッ!?)

 

 またもや足元に違和感。

 

(骨か!)

 

 再び地中より迫る危機に免れようとする凛であったが、迫りくる鬼が顔面の皮膚が引きつった醜悪な笑みを浮かべる。

 

 血鬼術 肋屋(あばらや)の骸

 

 鬼自身から生える肋骨が、凛に覆いかぶさるように囲む。

 

「くっ……!」

 

 逃げる隙間を生み出さぬ骨の牢獄。

 少女一人抱きかかえて抜け出すには、交差する骨の隙間が狭すぎる。

 一撃もらう覚悟を決めた凛は、お美代に傷を負わせることなく、可能な限り少ない傷で済むように神経を研ぎ澄ませる。

 

(!? この熱は……)

 

 しかし、間もなく牢獄は切り刻まれた。

 

 全集中・氷の呼吸 肆ノ型 ()ち割り

 

 凛達を捕えんと延びる骨をいとも容易く削り散らす淡い水色を宿した刃。

 削られた骨の破片は、さながらけづりひの如く辺りに飛び散る。

 その流麗ながら鋭き刃を振るった人影は、凛に肉迫した鬼を蹴飛ばし、彼の前に降り立った。

 

「お師匠様!」

「下がれ」

 

 現れたのは凛の師であった。

 鬼の頚を絶ち斬れば殺すことのできる日輪刀を携えた彼は、凛の呼吸音が優しく聞こえる呼吸音を響かせる。凛の呼吸を隙間風と例えるなら、彼の呼吸は吹雪。何人にも慈悲を与えぬ脅威を彷彿とさせる音は、まさしく凛と彼の年季の違いを知らしめていた。

 

 その一方、己の異能―――“血鬼術”を破られた挙句蹴飛ばされた鬼は、折れた歯を再生させ、師を舐るように睨みつけた。

 

「腹減ったァ……爺の肉でもいい……喰わせろォ……!!」

 

 グルルルと獣の唸り声にも似た腹の()を響かせる鬼は、標的を師に変えて飛びかかる。

 

「悪鬼め」

 

 全集中・氷の呼吸 漆ノ型 垂氷(たるひ)

 

 微塵も慈悲を滲ませぬ冷たい声音で言い放つ。

 次の瞬間、凍みた空気を貫く突きが鬼の頚を貫いた。

 

「がひっ」

「むん!」

 

 全集中・氷の呼吸 捌ノ型 氷瀑(ひょうばく)

 

 頚を貫いた刃が、そのまま袈裟斬りするように斜め下へ振り抜かれた。

 

(やった!? ……いや!)

 

「まだです、お師匠様!」

 

 一瞬師の勝利を信じた凛であったが、依然過ぎ去らぬ鬼の熱を感じ取り、師への警告を口に出す。

 弟子の警告を聞くまでもなく動いていた師は、頚の大部分を斬られた鬼の追撃を斬り払い、一旦距離をとる。

 

「お師匠様!」

「下がれと言っている」

「ッ……はい!」

 

 自分がここに居ては足手まといになる。

 鬼の相手は師に任せ、凛はただお美代を村へ送り届けることだけを考え、その場から走り去った。

 

(厭な熱を感じる……あの鬼は)

 

 背後からは師と鬼が切り結ぶ音が延々と響きわたる。

 師は信じている。だが、拭えぬ違和感に悪い予感を連想してしまう凛は、今は一先ず自分の為すべきことをなさんと疾走するのだった。

 

 

 

 ***

 

 

 

 全集中・氷の呼吸 壱ノ型 御神渡り

 

 月下に閃く刃が鬼の頚を斬り落とした。

 今度こそと師は振り返る。

 しかし、彼の目に映ったのが斬り飛ばされた頚を拾い、接合する鬼の姿だった。

 

 馬鹿な、ありえない。日輪刀で斬られた頚は、鬼の再生力関係なく生えることも繋がることもない。

 凛の師は、今は引退したとして現役時代は“柱”を除けば鬼殺隊の最高位たる階級“(きのえ)”として、数多の鬼を屠ってきた。

 

それだけの経験から言えるのは、今対峙している鬼は特殊な方法でなければ滅せぬ相手という事実。

 本体が別に居るか、もしくはそれとも別の理由か。

 なんにせよ、頚を斬るだけでは殺せないと判断した師は、別の手に打って出ようと―――

 

「ッ、ごほっ! ごほっ!」

 

 突如、彼は咳き込んで膝をついてしまった。

 一瞬呆気にとられる鬼であったが、すぐさま好機であると察したのか、面には下卑た笑みが張り付く。

 

 血鬼術を繰り出し、隙を見せた男目掛けて槍のように鋭い骨を向かわせる。

 なんとか立ち上がった師は、向かってくる攻撃の群れに対処するが、その剣閃には先ほどまでのキレはなく、衣服や皮膚に鋭利な骨先が掠め、辺りに仄かな鉄臭さが漂う。

 

「ヒヒッ、肉! もうすぐ! もうすぐ……!」

「げほっ……むぅ……!」

 

 皺の刻まれた表情は、現れた当初と同じ能面であるものの血色まではごまかせない。

 明らかに血の気が引いた顔。歳を理由に引退した彼だが、その大部分を占めるのは呼吸器の衰えだ。

 

 鬼殺の剣士の大半が会得している技術、全集中の呼吸。

 それは人間が人ならざる化け物と相対すべく生み出した戦闘法だ。血中に酸素を多く取り込むことで、身体能力を劇的に飛躍させ、一時的に鬼に匹敵する程の力を発揮させる。

 基本の呼吸の流派として炎・水・風・岩・雷の五つがあるが、氷はその内の水の呼吸から派生した流派だ。

 変幻自在な水の如く、如何なる敵にも対応できる水の呼吸に対し、より鋭い太刀筋が特徴なのが氷の呼吸である。

 

 基本の呼吸を派生させるに至った彼は、紛うことなき実力者。

 だが、寄る年波には勝てない。

 全集中の呼吸の更なる高み“常中”の維持はおろか、普通の全集中でさえ短時間しかできなくなった彼は、老骨に鞭を打って鬼と戦っていた。

 

 しかし、そろそろそれも限界のようだ。

 

 肩で息をする師の脇腹を、地中より生えた骨が貫いた。

 くぐもった声と共に、飛び散る血飛沫が雪の降り積もる地面にパタパタと点を描く音が響く。

 握っていた日輪刀は手を離れる。無常の音を奏でて転がる日輪刀は、師の遥か遠く。

 

 日の昇らぬ真夜中、唯一の武器が手元から離れたのを目の当たりにした鬼は、ゲッゲッとゲップに似た笑い声を上げて襲い掛かろうと踏み込んだ。

 同時に木陰から飛び出した人影もまた、転がる日輪刀を片手に鬼目掛けて跳躍した。

 

 全集中・氷の呼吸 壱ノ型 御神渡り

 

 氷の呼吸で基本となる技。鋭い縦の一閃が、鬼の頚を斬り飛ばす。

 頚を斬り飛ばされた鬼はフラリとよろめき、続けざまに技でもない斬撃で手首を斬られ、血鬼術以外の攻撃手段を失う。

 その流麗且つ鋭敏な剣技を魅せたのは、他ならぬ凛であった。お美代を村へ送り届けた彼は、拭えぬ違和感に不安を覚え、師の下まで大急ぎで駆けつけたのだ。

 

「お師匠様!」

「凛……! その鬼……頚を斬っても死なぬ……!」

「!?」

 

 師の助言に驚愕を隠せない凛。

 だが、鬼はその間にも斬られた手を生やし、斬り飛ばされた頚を断面に合わせ、またもや接合したではないか。

 言葉だけでは信じられぬものも、実際に目にすれば否が応でも理解せざるを得ない。

 かじかんだ手で柄を握り占めるも、頚を斬っても死なぬ鬼を前にして掌に汗がこれでもかと滲み出る。

 

(一体全体どうすれば……!)

 

 思考する。が、鬼はそれを許さない。

 

「食い物、増えたァ!」

「ッ!」

 

 全集中・氷の呼吸 弐ノ型 霰斬り

 

 凛を捕えんと土と雪を押しのけ生える骨を、彼は目にも止まらぬ俊敏な剣捌きで細かい四角形に切り刻む。

 すぐさま息を吐かせぬと鬼の追撃が迫りくるが、凛はその都度体に叩き込んだ“型”を披露し、鬼の攻撃を退ける。雪の中、三日月を背負って剣舞の如き立ち回りを魅せる姿は、師も感嘆せずには居られない美しさであった。

 剣技だけで言えば、送り出してきた弟子の中でも頭一つ抜けている。最終選別、果てには鬼殺の剣士として送り出しても恥ずかしくない。この子は自分なぞより高みへ上れる。師は改めて確信した。

 

(じゃが、お前は……)

 

 ジクジクと血が溢れる脇腹の傷を押さえ、未だ突破口を開けずたたらを踏む凛を見据える。

 

 凛の瞳は血走っていた―――鬼のように。

 振るう刃には怒りが滲んでいた。それがより鋭い剣閃となり、鬼の四肢や血鬼術の骨を斬り飛ばしていく。

 

(憎い)

 

 人に害を為そうとすることが。

 

(憎い)

 

 師に傷を負わせたことが。

 

(憎い)

 

 家族を殺めた存在そのものが。

 

 新雪のようにフワフワとしていた想いが、いざ鬼を目の前にし、その醜悪さを目の当たりにしたことから、次第に氷と化していくような感覚を覚えた。より鋭くなる殺意。より明瞭となる憎悪。内より溢れ出す憤りの熱が押し隠していた想いを露わにする。

 しかし、凛の想いとは裏腹に一向に鬼が倒れる気配はない。腕を斬ろうが脚を斬ろうが、鬼は死ぬ気配を見せない。すぐさま生えては元通りだ。

 

 ギリ、と歯ぎしりが響く。

 

 理不尽だ、と。

 それは鬼の再生能力に対し―――もっと言えば、人間では取り戻せぬものをいとも容易く取り戻す、人の道とは外れた理に居る存在に。

 

(僕はただ……)

 

 鋭利な極太の骨が迫りくる。

 対して凛は漆ノ型 垂氷で迎え撃つ。が、かじかんだ手は刃先と骨が衝突した衝撃に耐えかね、大きくブレてしまった。

 結果、軌道は逸れたものの骨が凛の額を大きく切りつけた。

 血があふれ出し、同時に凛の体も大きく後ろへ押し飛ばされた。

 その短い間に、凛は淡い光を放つ月を仰いだ。

 

(家族に……会いたい)

 

「―――凛ッ!!!」

「っ……!!」

 

 師の叱るような声で我に返った凛は、即座に受け身を取って立ち上がる。

 気が付けば、いつの間にか涙が溢れていた。鬼への憎悪と怒りで、押し込んでいた想いが爆発したからかもしれない。

 知ろうとしなければ淡々として居られた。()()という事実だけならば、恵まれた今に満足していられた。

 

 だがそれも最早不可能。知ってしまったのだ、鬼が如何なる存在か。言葉だけではない、実際に醜悪で貪欲な人喰いの化け物の姿を見たからには―――仇敵を前にしたからには、鬼滅の刃を振るわずには居られない。

 

 鬼への憤怒と憎悪、家族を失った悲哀。

 二人の理由から涙を零す凛。額から流れ出る血と涙は混じり、構える刃へと滴り落ちた。

 

「っ……!?」

 

 師は目を見張る。

 幻覚だろうか?

 そう思う彼は、刃が凍った光景を目にした。心なしか、ただでさえ凍みが厳しい周囲が一層冷え込んだ気がしたのだ。

 

 そうして師が見守る中、凛は何度も切り結んだ鬼に再度斬りかかる。

 

 氷の呼吸 壱ノ型 御神渡り

 

 縦の鋭い一閃が、鬼の右腕を斬り飛ばした。

 鬼は、水泡に帰す行為を嘲笑うように斬られた断面を掲げ、再生しようと―――

 

「?」

 

 再生……できない。

 

「なっ、に……!?」

「はああああ!!」

 

 鬼が動揺している間にも、日輪刀を振り抜いた凛は振り返り、またもや斬りかかる。

 意図せず血に濡れた刀身は、冷気に触れて雪の結晶のような模様が刻まれていた。

 普通に考えれば、血や脂に汚れた刀身の切れ味は落ちるものだ。

 しかし、凛の振り下ろした刃は、

 

 氷の呼吸 捌ノ型 氷瀑

 

 鬼の頚を斬り飛ばした。

 

「っそぉ! 何度も斬り飛ばしやがって……!」

 

 だが、何度も頚を斬って倒せなかった鬼は、再び転がった自分の頚を拾い上げ接合しようとする。また断面が繋ぎ合わせられ、元通りになる―――はずだった。

 

「!? つ、つかない……頚が!? 頚がつかねえ!」

 

 何度押し合わせても、それまで瞬時に再生してくっついた断面は元通りにならない。

 あからさまに動揺する鬼は、何が起こっているのかとちょうど分かたれている頚を持ち上げ、頚の断面を見る。

 凍っていた。いつもならば肉が蠢くなり、血管から血が滲みだしているなりしているはずだ。それが今はピクリとも動いていない。冬の寒空に晒された死体のように、微動だにしないのだ。

 

 これではつながるものもつながらない。

 どうすれば融かせるか。鬼となり落ちた知性を総動員させ、打開策を思い浮かべようとする。

 

 そんな鬼の、今度は頚を持ち上げる腕が斬り飛ばされた。

 頚はあえなく地面を転がり、両腕と頚がなくなった体を見上げる場所でちょうど止まる。

 己の体を存分に見届けられる位置に収まったのは、幸か不幸か。

 どちらにせよ、鬼には終わりが近づいていた。

 

 より鋭い呼吸音を響かせる凛が、日輪刀を構えて鬼の体へ迫る。

 

(熱の元……背中を突き破って胸を覆い隠す中から! 本物の頚はそこだ!!)

 

 厳重に守られた胸の中にこそ、鬼の真の頚が潜んでいると見極めた凛が刃を振るう。

 

 全集中・氷の呼吸―――

 

 頑強な骨諸共頚を断ち切らんと力を込めた凛。

 刹那、声が聞こえた。

 

 

 

「―――おなか……すいたよぅ」

 

 

 

「!」

 

 それは鬼の声だった。

 死を悟り、走馬燈を垣間見る鬼が自然と発した声。

 

 予期せず耳にしてしまった凛は、ハッと何かに気が付いたように表情を歪ませる。

 そして次の瞬間には覚悟を決めた表情を浮かべた。怒りで必要以上に強張る体から力が抜ける。本当に向けるべき(やいば)は別にある。

 

 

 

 伍ノ型 (そそぎ)

 

 

 

 するりと骨に、肉に、そして体の奥に埋もれていた異形の頚を断ち切った刃には、微塵の殺意も孕んではいなかった。

 

 直後、鬼の体が灰と化していく。

 火に焼かれた紙のように、バラバラ、バラバラと。

 そうして何も残さず、土にも還らず死んでいく鬼であるが、彼が最期に感じていたのは苦痛ではなく、淡雪にでも打たれているような穏やかな温もりだった。雪に打たれているのに温もりとは、これは如何に。いいや、雪に触れてこそ己の宿す熱は分かるものだ。

 無邪気に手を伸ばして雪を掴もう。はたまた、口を開いて雪を食べようとする無邪気な少年時代を思い出す鬼は、辛抱できなかった飢餓感を忘れ、童心のままに雪に向かって口を開く。

 

 灰化も進み、間もなく消えゆく鬼の口に入り込んだ雪は―――サァと融けては鬼へ死に水を手向けるに至った。

 

「……」

 

 哀れな運命にせめてもの救いを。

 そう思い、氷の呼吸唯一の慈悲の剣撃を繰り出した凛だった。

 怒りと憎しみは冷め、残るのは彼等もまた哀れな運命を辿った人間だと悟った遣る瀬無さと、もう一つ。

 

「……僕は」

 

 涙と血を拭い、浮かべる瞳には何者にも消せぬ熱が宿っていた。

 

 

 

 ***

 

 

 

「……本当に行くんだな」

「はい」

 

 寂しさを滲ませる声音を紡ぐ師の前に立つ凛は、腰に日輪刀を差し、これから遠出するような装いをしていた。

 

「僕は鬼殺の剣士になります」

 

 一片の澱みもない瞳だ。

 今までどこか押し隠していた想いがあったかのように白く濁っていた瞳が、こうまで綺麗なものへと変わるものか。

 最早、師に弟子を止める理由はなかった。

 

 鬼を退治した次の日、凛は師へ藤襲山にて行われる最終選別に向かうことを告げた。

 目的は単純。鬼殺の剣士となり、人を守り、鬼を滅する為。

 

 だが、そう申し出た凛に対して師が語ったのは、今まで黙っていた凛の家族についてだ。

 

『お前の母親は鬼だった』

 

 師は語る。

 当時、凛を孕んでいた母親は鬼となり、父を、祖父を、祖母を、兄弟達を喰い殺したことを。かなりの人間を食べたのだろう。師ではない鬼殺の剣士退治に出向いた際には、触れただけで凍てつく冷気を操る血鬼術を行使していたと言うではないか。

 だが、現役であった師が出向いた際、目の当たりにした光景は産んだ我が子を慈しみ、ひたすらに涙を流す母親の姿だった。

 

 凛の母親は懇願した。

 どうかこの子だけは、と。

 鬼となり、家族を貪った先で産まれた我が子を前に取り戻した理性は、幸か不幸か彼女に人としての感性を取り戻させたのだ。

 しかし、彼女は数多の命を貪った鬼であることに変わりはない。

 それを理解してか、母親は産まれたばかりの凛を師に託し、己は師の手にかかりこれ以上罪を犯さぬことを望んだ。

 

 鬼から産まれた凛は人の子だった。

 その事実に得も言われぬ感情を抱いた師は、歳の理由で考えていた引退を早め、凛を引き取り“育手”として生きる道を決めたという。

 

 鬼の子が日の下を歩く―――その姿は師の目にどう映ったのだろうか。

 だが、先日の戦闘で垣間見た凛の異能は、まさしく彼の母親が使っていた血鬼術に酷似していた。

 

 では、自分は鬼なのか?

 

 不安そうに凛が問えば、師は言った。

 

『否、お前は人だ。そしてあれは家族の愛だ』

 

 家族は母親の血肉となり、結果的に母親の血鬼術を発現させるに至った。

 そして母親から受け継がれたと思しき血を媒体に鬼の再生を阻む凍気を発する異能は、経緯はどうあれ凛に残された唯一の家族の愛だと。

師は、綺麗事を戯けるつもりは一切なかった。真摯な面持ちが、この考えが真剣なものであるとひしひしと訴えかけていた。

 

 そうした浪漫的な家族愛の他にも、人間には稀に特異な体質を持って生まれる者も居るという現実的な話もされ、凛が人にも拘わらず母親の血鬼術を使える理由を論理的に説明されもしたが、

 

「僕は……いいです、愛が」

「……そうか」

 

 血鬼術を忌むのではなく、愛しいと感じた凛は―――それまで師が見た笑顔の中でも一際温もりに満ちていた。

 もう大丈夫だと師は胸を撫で下ろす。

 母親が鬼で、あまつさえ家族を喰い殺すも、最期には子への愛情で人の心を取り戻して死を望んだ事実が、凛を苦しめないだろうか。師はずっと悩んでいたのだ。

 

 知らぬ幸せと、知らされぬ苦しみを秤にかけ―――。

 だが、鬼に慈悲をかけた凛の姿を見てようやく決心がついた。

 

「行け。鬼殺の剣士となり()()守れ」

「はい」

「鬼を滅殺し、この世に安寧をもたらせ」

「必ず」

「……達者でな」

「選別に合格したらすぐに帰ってきますから」

 

 張り付いた能面に寂しそうな熱を滲ませる師に苦笑を浮かべ、「では」と凛は長年世話になった家を去る。

 向かうは鬼殺隊最終選別が行われる藤襲山。

 一年中藤の花が狂い咲く山で行われるのは、一週間にも渡る鬼との死闘だ。それを乗り越えてこそ人を守れる鬼殺の剣士となれる。

 

(人を守るんだ、僕は)

 

 ただ鬼を殺すのではなく、人を守る。人として守る。たとえ体が鬼と為ろうとも大切なのは心だ。

 人を喰らうのは赦せぬ罪。

 されど、もしも最期の一瞬であっても人として罪悪感を覚えるのであれば、人として精一杯の慈悲を送ろう。

 

 鬼には真冬の凍みの如き殺意を向けよう。

 人には春に小川に流れる雪解け水のような慈しみを送ろう。

 

 凶器にも恵みにもなり得る氷の刃を携える鬼殺の剣士が一人誕生せんとしていた。

 名は氷室守 凛。

 鬼から産まれた鬼殺の剣士。流る血は不死をも凍てつく凍刃と為さん。

 

 彼が個性豊かな面々と共に戦うのは―――また別の話。

 



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