日→杵かつにほ←へし。もうずっと前に終わった話。

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人間原理

 何がが悪かったなどというのはわかりきっていた。愛も恋もひとのものだと知っていて、これにそんな名前をつけてしまったのがいけない。

 

「おまえは、」

 煤色の髪の青年は、もう用はなくなったはずの書を開いたまま、頁に指を這わせていた。

「人の真似が上手いな」

 言葉だけならなんの皮肉かという内容だが、その声は明らかに羨んでいて、表紙裏の白紙に向けられた藤色の瞳にも、隠しきれぬ羨望の色があった。

 

 声を向けられたのは、部屋の中には二振りきりなのだから当然の帰結として、酒杯を傾ける黒髪の大男だった。その本性こそ二尺六寸の鋼であるが、彼は正三位の位を持つ。人の世の地位を、持つ。であればその男が、城中の刀槍のうちでも人らしい部類に入るのは当然の話だった。

「まあ、そうだな。刀の真似よりかはマシだろうさ」

 こともなげにそう言って、透明な酒を注いだ杯を手の届く範囲で長谷部に近い畳の上に置く。自分は徳利から直接一口煽った。槍が刀のフリをするよりは、人の素振りを真似る方が日本号にはよほど楽だった。

 

 日本号が寄越した杯で唇を湿らせる。つまらない話にはなるがいつまでも引きずっていても致し方ないな、とは自身の口中のみで呟きを殺した。

「日本号。貴様はいい男だ」

「応。知ってる」

 この男のこういうところが気に食わないのだ、と長谷部は思いをより確かにする。いい男だ。低い声と、男らしい体躯と、感情を映す紫色の瞳と、それらを働かせる動作の一片までもが鋼の本性のごとく美しい。その美しさがひとを狂わせるに十分だというのをよく自覚していて、それ故にわざとその振る舞いを少しだけずらしている。おそろしい男だ。

 

「……おまえも、きっといい刀なんだろうな。俺にはよくわからんが」

 ああ。この男のこういうところが嫌いだ。

 胸のうちで身を焼く炎の火勢が強まる。これが刀に興味がないことくらい、長谷部もとっくに知っていた。それなのにこうして長谷部が自業自得に悲しくなる度、半端な慰めをしてくる、その旧知に甘えた優しさが嫌いだ。

 

 そうしてちらりと盗み見た紫紺の色に、胸の中心をその本性で穿たれたような心地がした。倶利伽羅龍を纏う二尺六寸が、このひとの体の心臓を貫いて、脊柱を砕いて、正面から串刺しにされたような。彼がここではないどこか、長谷部も知るどこかに、心の中芯を預けたがっている。それがわかってしまう自分にも、それを悟らせてしまう日本号にも、腹が立って仕方がなかった。

 

「おまえは、あれを愛しているのか」

 

 あれとは、東の大槍のことだ。かつて西の槍に、互いに家名に縛られなくなるまでは愛など持てないと言った、彼のことだった。

「たぶん、な」

 乞うているのは確かだったが、これをほんとうに人が恋と呼ぶのかは定かではない。ただ、日本号はこの背骨を締め上げるような感情を、そう呼ぶことにした。生憎、とうに振られているのだが。

 

「なあ、」

 嘘でも、夢でも、一度きりでも。抱いて、貫いて、唇を落として。それで好きだと、愛していると。言って欲しかった。けれどそれが叶わないことも、きっと、ずっと前から。他の何でも埋められないこの穴と同じものを、この男も抱えているのだろう。他のものでは埋まらなくとも、目を背けるくらいはできないものかと。

 

 日本号はへし切り長谷部のことが嫌いではない。好悪で言えば好の方だ。けれど、それでも。

「オレは刀じゃねえ」

 刀と槍は違うものだと、それだけだった。

「そう、か」

 

 では人なら、と。長谷部が問うことはなかった。目を逸らしたまま煤色の髪を掻き回しにきた、大きな掌が答えだった。同情で抱きたくない程度には、日本号はへし切り長谷部に情があった。それが彼を苦しめるだけだと知っていてなお同情でもいいのだと言えない程度には、へし切り長谷部は日本号を愛していた。



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