・プロローグ リセットにはまだ早い
ざざざざざぁ、というノイズに似た雨の音が響いていた。
「――――」
降りしきる雨の強さに、誰もが軒下を求めて駆け足になる。
傘なんてほとんど意味は無い。
バケツをひっくり返したかのような豪雨は、灰色の街を少しの間だけ、無人にしてくれた。
「――――」
そんな、ほんの少しの間の間隙。
誰しも見逃してしまうような、小さな時間の隙間で、一人の少女が歩道橋を歩いていた。
傘なんてほとんど意味は無い、けれど、少女は潔いのか傘なんて差さずに。
そして、傘の代わりに携えていたのは、一丁の装飾銃だ。
真っ白な銃身に、金色の意匠が施された、まるで、劇の小道具みたいなそれを、少女は躊躇いなく口に咥える。
正しい自殺の方法。
額に銃口を突きつけるのではなく。
口の中へ突っ込み、確実に自分の脊髄を破壊してくれるようにと願いながらトリガーを引く。
――――たぁんっ。
雨の中では不釣り合いなほど、乾いた銃声。
けれど、それはすぐにノイズの如き雨音に掻き消されて、消えてしまった。
そう、消えてしまった。
はじけ飛んだはずの、少女の脊髄も。
真っ赤に染まるはずだった血も。
人形のように、倒れ込むはずだった肉体も消えてしまった。
まるで、最初から何もなかったかのように。
誰にも観測されずに。
一人の少女が、この世界から消え去ってしまったのである。
【大丈夫。いつでも会えるよ、アリス】
たった一文の、短い文章だけを遺して。
恐らくは、これが終わり。
そして、始まり。
長く長く、時間にして二十年ほどは掛かってしまう、愚者の旅路の、その始まりである。
●●●
エロ本を買い終えて、自分の部屋に戻った時、そこに居たのは見知らぬ下着姿の女の子だった。
「…………は?」
俺は思わず、黒いビニール袋をその場に落として、目を丸くする。
そこは間違いなく、自分の部屋だったはずだ。
特にこれと言って珍しい特徴は無く、ベッドや本棚、テスクトップパソコンなど、男子高校生としてごく普通の部屋であると言えるだろう。
ただ、何時も使っている俺のベッドの上に、真っ白なキャミソール姿の少女が座っているとなると話は違ってくる。
「んんんんー?」
俺は首を傾げながらも、状況把握に努めた。
突如として、俺の部屋に出現した少女。
背丈はそれほど高くなく、むしろ小柄。小学校高学年――いや、中学生ぐらいだろうか? 顔立ちは整っているが、幼さが残る反面、どこか大人びた影も見える不安定な可憐さ。
赤味がかった、短めの茶髪。左側の一房だけ、妙に伸びたそれを髪留めでまとめている、アシンメトリー染みた、独特の髪型。
キャミソールから伸びる、真っ白な手足。痩せ気味で、染み一つない、真っ白な肢体。
そして、目。
少女の目は、何も捉えていなかった。
こうして、部屋の主である俺が戻って来たというのに、平然とベッドの上に座り続けて、ぼんやりと虚空を眺めている。
「なるほど、ね」
俺は状況把握を終え、にやりとニヒルな笑みを浮かべて呟く。
――――駄目だ、なんもわかんねぇ。
「ちょ、おかぁあああああさぁあああああああん!!? 俺の部屋に、知らない女の子が居るんだけど、誰ぇえええええええ!!?」
なので、事情を知っていそうな人物――我が家の守護神である母を尋ねてみることに。
「はぁん? どうしたんだい、息子。モテなさすぎて、ついに幻覚でも見たかい?」
「実の息子に対して、何たる言い様!」
俺は身長二メートル超で、筋骨隆々の母に対して先ほど起こった珍妙な出来事を説明する。
エロ本を買って、部屋に戻ってきたら、見知らぬ女の子がベッドの上に座っていた。
中学生ぐらいの女の子であり、ストライクゾーンの範囲外であるが、可愛かった。
よくよく考えると、下着姿だったのでもうちょっとよく凝視して、脳裏に焼き付けておけばよかった、などと説明すると、まずは拳骨一発を頂いた。
あの、とても痛いのですが、母上?
「どうだい、息子。正気に戻ったか?」
「残念ながら」
俺が肩を竦めて答えると、「はぁー、めんどうだねぇ」と言いながら、のしのしと我が家の守護神は動き出した。
ふぅ、これでとりあえず一安心だ。
ヤクザですら道を譲る、我が母の手に掛かれば、正体不明の女子など恐れるに足らず。
…………まー、真面目に言うと対応しづらいよね、よくわからない下着姿の女子って。もう男子高校生が対処できる問題のキャパシティを超えてるもん。
「それで、あの子がアンタの部屋の中に突然現れたっていう女の子かい? 見覚えは?」
「まったく無いですね!」
「無意識のうちに、そこら辺から誘拐して来たという可能性は?」
「あってたまるか!!」
母さんは俺の部屋の中に居る少女を、ひとまずじっと観察する。
じぃ、と、首を傾げながら。
「ん、んん? あの子、そういえば、何処かで見たような――――」
そして、母さんが首を傾げながら何かを言おうとした瞬間、『ざざざざざっ』というノイズの音がどこからが聞こえた。
あれ? 近所の婆さんでも、ラジオの調整間違えたんかな?
「ああ、そう言えば思い出した! この子、ほら、前に一度会ったことがあるだろう? 遠い親戚の子供だよ。両親の事情で、夏休みの間、うちに泊まることになったんだよ」
「え? その、母上? 俺は聞いてないんですが、そういうの。後、会ったこと無いよ? 俺、この子とまったく会ったことが無い」
「小さい頃だったからねぇ」
「そ、そっかー」
えーっと、母さんのリアクションが明らかにおかしいのですが? なんというか、忘れていたことを思い出したというか、記憶でも上書き保存されたような感じがするんですが?
いや、いやいやいや、だってあれだよ? 百歩譲って親戚の女の子がうちに泊まりに来るとして、どうして下着姿だったの? 有り得無くないですか?
「アンタが着替えの途中に入ったんじゃないかい?」
「どうして俺の部屋で着替えさせているのさ!?」
「アンタの部屋に、娘の箪笥があるからだよ」
「姉さんはいつもそうだ! 俺の部屋の半分を勝手に侵略して、服を揃えてやがる! 合法ロリだから、子供体系の服しか着られない癖にぃ!」
「でも、そのおかげでこの子の着替えが合ってよかったじゃないか」
「この子、着替えすらなかったの!? 流石にちょっとおかしくない!?」
「家庭の事情だよ、深く突っ込むんじゃない、馬鹿息子」
「やめて! そういう重くなりそうな背景を出さないで!」
駄目だ、いくら話の矛盾を突いても、設定を後付けしやがる。
しかも、母さんが誤魔化している自覚は無いみたいで、『最初からそうだった』とでも言うような態度だ。
正体不明の少女。
様子がおかしくなった、母さん。
この二つを結び付けない方が、おかしい。
ここはやはり、俺ががつんとあの正体不明の少女に対して、聞き込みをしなければ。
「後、夏休み中にこの子の世話をしてあげな、馬鹿息子。ちゃんとやれると誓うなら、経費も出すよ」
「え、マジ? おいくら?」
「三万円」
「任せてください母上。身命を賭しても、この少女を守り抜くと誓いましょう」
「アンタの身命、三万円なのかい。まぁ、やる気があるのは良い事さね」
でもやっぱり、何か事情があって家に来たわけだし、多少なりとも正体不明でも、暖かく迎えてあげるのが人情ってものじゃないかな、うん!
「それで、母さん。三万円少女さんなんだけど」
「その言い方はやめな」
「いや、だって名前知らないし。どんな名前なの?」
「ああ、それは――――」
そこで、その少女は初めて口を開いた。
母さんよりも先に、けれど、急くような雰囲気ではなく、ぽつりと、空から雨粒が落ちてくるような自然さで、名前を告げて来た。
「レイン」
がらんどうだった瞳が、俺の姿を捕らえる。
俺の存在をきっちり認識したのか、視線を合わせて、少女は言葉を紡ぐ。
「岩倉 玲音(いわくら れいん)だよ。よろしく、ね?」
「ん、俺は天原。天原 晴幸(あまはら はるゆき)だ。こちらこそ、よろしく」
こうして、俺と正体不明な少女――岩倉玲音の奇妙な夏休みは幕を開けた。
この先に、どのような未来が待ち受けているのか。
玲音という少女と出会ったことが、俺にとってどのような意味を持つのか、今の俺には知る由も無い。
けれど、今、確かなことはたった一つ。
「ところで馬鹿息子。このエロ本は一体、どこで買って来たんだい?」
「無から生まれました」
「じゃあ、無に還しても問題ないね?」
「うわぁああああああ! 俺の小遣い二千円分の戦果がぁあああああああ!!?」
出会いと別れは表裏一体。
俺は、岩倉玲音と出会った時、大切な物(エロ本)を失ったのだった。