「学校の屋上って、解放されていないし、鍵も厳重に管理されているんだよね」
京子の親友だった少女は、そう言って微笑んだ。
場所は夕暮れの教室。
京子が慣れ親しんだそれとは違う、田舎の学校、その教室。
親友だった少女と、京子以外は誰も居ない空間で、その少女は微笑みながら告げる。
「本当は、屋上が良かったんだ。ほら、漫画とかアニメだと、屋上が定番じゃん? でも、仕方ないからこれは妥協。偶然、私が三年生でよかった。よかった、のかな? どうだろう? 思えば、もうちょっと早く、こうしていればよかったかもしれない」
その手に携えた大型カッターの刃を、自らの首元に添えながら。
怖気すら感じる綺麗な笑みで、少女は京子へ語り掛ける。
「でも、怖かったんだ。失敗するとさ、脳死状態や、障害が残って苦しみそうだったし。そもそも、死ぬのって凄く辛そうだったし、痛そうだったし。死んだ後に何があるのがわからないのも怖かったし、でも、でもね、もういいんだ。もう、疲れたんだ」
憎悪の言葉を。
呪いの言葉を。
京子の心に刻み込むように、丁寧に、ゆっくりと、言葉を紡ぐ。
「ほら、見てごらん、京子。今日の夕焼けはとても綺麗だよ――――ああ、自殺するには、とっても良い日だと思わない?」
これは、京子のかつての記憶。
己がなす善行の意味すら知らず、力を振るった代償。
自業自得の結末の一つである。
●●●
ワイヤードとは、集合的無意識にもっとも近しい異界である、と狐面の少女は言った。
故に、心象風景を映し出しやすい。
ベースとなっているのは、ワイヤードの基礎を作り上げたとある偽神の心象風景である、無数の電柱が立ち並ぶ灰色の街であるが、権限を持った人間ならば、その内装を自分の好きなように変えられるのだと。
そう、例えば、狐面の少女が纏う、巫女服が相応しいような、神社の一角などに。
「スマイルさん。貴方にはしばらくの間、ここで生活をしていただきます。何、生活で不自由なことはさせません。ここならば、ある程度、望むことならば何でも叶えられるのですから」
「だったらまず、この私を不愉快な名前で呼ぶのは止めろ。それは過去の名前だ」
「なるほど。これは失礼。ですが、私個人としては、貴方の事を尊敬しているのですよ、スマイル―――いいえ、中島京子さん」
和風ワイヤード内に落とされた京子は、特に拘束されるわけでも無く、体の自由も制限されないまま、神社の境内から社務所へと案内された。
狐面の少女は、特に何も気負うことなく――警戒すら必要ないといった様子で、京子の前へ、茶菓子や麦茶などの品々を用意している。もちろん、京子はそれに手を付けない。晴幸であったのなら、ノータイムでお菓子を貪り、麦茶を飲み干した後、「巫女さんって、下着付けないって本当ですか!?」とデリカシーが皆無の質問をするが、ここに居るのは京子だ。まだ、常識を持った存在である。
「幼いながらの、貴方の献身と善行は、とても素晴らしいと思いました。人と人が、互いに監視し合い、悪行を為さぬようにする。一種の管理社会の実現。ええ、とても素晴らしい。それが為されれば、この社会からほんの少しでも悪が除けたでしょうに」
「はんっ、悪が除けた、ねぇ? 今となっては、私はどうかと思うね、それも。所詮、善悪なんざ、人それぞれの価値観次第だ。仮に、クソガキだった私の考えが実現したとしても、そのときはまた、別の悪とやらが生まれていただろうよ」
「…………では、最初から悪が存在できない世界ならば、どうでしょう?」
「あん?」
訝しむ京子に、狐面の少女は語り掛ける。
まるで、将来の夢でも語るかのように、無邪気に、明朗に。
「最初から悪人が存在できない世界にしてしまえばいいのです。そうすれば、この世の理想郷が築けます。ええ、もちろん、いたずらやちょっとした悪程度も、潔癖に除こうとするのではありません。許しがたい巨悪、人間としてのどうしよもない悪性を排除して、『もう一度、この世界をやり直して』しまえば、とても素敵だと思いませんか?」
「つまり、あれか? 人類全員、『まんがタイムきらら』にでもするのか?」
「がっこうぐらし! は入れません」
「夢喰いメリー」
「…………保留で」
まるで、某エロゲーの神座世界に出てくる登場人物みたいな狂った思想で、『まんがタイムきらら』を世界に具現化させようとする存在、それがこの狐面の少女だった。
もっとわかりやすく言えば、この世界全てを癒し系アニメの世界観にしてしまおう、と拗らせすぎたオタクみたいなことをほざいているのである。
確かに、それが理想的だろう。
本当にそれが為せたのであれば、理想的な世界を作れるのかもしれない。
とても歪で、吐き気がするほど、潔癖な世界が。
「テメェらナイツとやらには、それが可能だって?」
京子はあまりの愚かさに頭痛がしてきたので、さっさとこの会話を切り上げてしまいたかったのであるが、貴重な情報源がペラペラ自ら進んで情報を吐いてくれているという状況だ。切り上げる前に、もう少し情報を絞り取ってやりたいと考えていた。
「いいえ。我々ナイツは、来るべき神の降臨を望む、ただの信奉者でしかありません。我々を統べる『お父様』でさえも、その枠から抜け出すことはできないでしょう」
「――――じゃあ、玲音か?」
「正解でもあり、不正解でもありますね」
くすくす、と狐面の奥から笑い声を漏らして、少女は言葉を続ける。
「あれは、荒魂です」
「…………神々の荒ぶる一面、ってか?」
「ええ、本来、集合無意識の最深部におられる我らが神を招こうとして――――そして、失敗した結果が、あの『岩倉玲音』です。本来、我々が望んでいた救済者としての面ではなく、人間を家畜とし、稲穂の如く命を刈り取る、恐るべき『死神』としての面が、用意していた肉体に降りられたのです。我々は、無用の犠牲を避けるために、必死で彼女を探しているのですよ」
「無用の犠牲、ねぇ」
当然の如く、京子はこの狐面の少女の言葉を信用していない。
恐らく、このナイツという集団には個体差はあれど、犠牲の大小にかけては、さほど問題視していない。何故ならば、仮に、この狐面の少女の言葉が真実であれば、『世界をやり直す』算段であるのならば、極論、どれだけ死んだところで問題ない。やり直した世界で、生き返らせればいいだけの話なのだから。故に、犠牲者の大小に関しては、個人の感情の範囲でナイツという集団は裁量を得ている。狐面の少女は、問答無用で京子を捕らえなかったところから、多少は穏健派なのかもしれない。
ただ、狐面の少女が語った『岩倉玲音』に関しての供述。
これに関して、京子はなんとなくそれが正しいのであると、感じていた。
今のところ、何も害は無い。
だが、京子は玲音の存在を心の奥底では無意識に恐れていた。まるで、人がどうにもできない災害に対して、畏敬の念を抱くことしかできないように。京子の人間としての本能が、どうしようもなく玲音という少女を恐れているのだと、自覚していた。
正直、晴幸という相棒が共に居なければ、関わることすら忌避していたのかもしれない。
けれども、晴幸が居る。晴幸は既に、あの子の隣に居ると決めた。ならば、相棒としての答えなんて決まっている。
「ふん。それで? その死神様が? おっそろしい存在が? どうして、この私を人質に取ったぐらいで、大人しくテメェらの下に帰ることになるんだよ?」
「…………それは」
だからこそ、京子は会話の矛盾を突くように、狐面の少女に尋ねた。
玲音の脅威を、恐るべき神々のそれとして例えていたいるというのに、そんな存在が、どうして、京子一人程度の人質で、言うことを聞かせられると思っているのか?
無論、尋ねながらも、既に京子には既に、その答えが分かっていた。
「現在、玲音の宿主となっている存在、天原晴幸に――――玲音自身が、ひどく影響を受けているからです」
そう、天原晴幸。
あの稀代の馬鹿が隣に居るからこそ、岩倉玲音という恐るべき脅威が、沈静化しているのだと、京子は推測していた。
「本来、あの玲音は宿主となった人間の精神を狂わせ、喰らいつくして、己の眷属として使役します。そして、段々と死者の軍勢を増やしていって、この世界を終わらせてしまう恐ろしい災厄なのです」
「でもあの子、シリアル食品に目が無い無口な中学生みたいになっていたぞ?」
「本当に影響が酷すぎる…………天原晴幸。葛葉の傍流。どこまでも……」
頭痛を抑えるかのように仮面に手をやった後、狐面の少女は語り始める。
「これはあくまでも推測なのですが…………あの天原晴幸の精神が強大すぎて、玲音が食い尽くせていないのが現状なのでしょう」
「そんなに?」
「しかも、どんどん食べてもいつの間にか溢れんばかりに勝手に補充されるので、玲音としては飢えや存在の消失を心配することが無くなり、荒魂としての面が落ち着いているのかと。後、単純に、馬鹿――もとい、ちょっとあれだけれど、善性の人間の精神を喰らい続けることで、御身の悪性が落ち着いているのかと」
「馬鹿は凄いなぁ」
京子は素直に、馬鹿の底知らぬ精神力に感心した。
一方、狐面の少女は、質の悪いギャグでも言ってしまったように、頭を振っている。
これが、馬鹿の言動に慣れている者と慣れていない者の差だった。
「ですが、これは悪性の病を対処療法で抑えているのと同じです。万全を期すならば、私たちの下に、玲音が帰って来るのがよろしいかと。そのためのご協力を、貴方にお願いしているのです、中島京子さん」
「…………つまり、当面は大丈夫ってことだな?」
「ええ、しかし――――」
「それじゃあ、テメェらの目的は達成できない。だよな?」
「…………」
京子の問いに、狐面の少女は少しの間、沈黙した。
だが、ゆっくりと、京子に向かって手を差し伸べながら、再度、言葉を紡ぐ。
「中島京子さん、この世界は何とも生きづらいとは思いませんか? 誰しも、『現実とはこんなものだ』と下を向いて、妥協と諦めの中で生きている。努力し、邁進する人を馬鹿にして、自分はこんなに可哀そうだ! と声高々に叫ぶ輩の多いこと。その上、安易に救われることを求めている。ああ、まったく――――度し難い」
その言葉に込められていたのは、怒りだった。
京子には、この狐面の少女の背景は知らない。事情など全く知らない。そんな京子でさえ、言葉に込められた熱量を感じ取ってしまうほど、その少女は怒っていた。
「故に、正すのです。この世界を。始まりから間違っている世界を、やり直して、正しく世界を平和にするのです。そうすればきっと、誰しも優しくなれます。かつての貴方もきっと、そのような世界を目指していたのでしょう?」
「…………」
「私たちと、共に来てください、中島京子さん」
仮面を被っていてもなお、感じるその迫力。
それでいて、人の心を揺さぶる、熱量のある言葉。
一種のカリスマを携えた、先導者としての才能を持つ、少女の言葉。
その言葉を聞いて、ついつい京子は笑みを浮かべた。
ああ、きっと、かつての私ならば…………晴幸と出会っていなかった私ならば、ここで頷いていたかもしれないな、と。
「はっ、誰が行くか、そんなクソつまらなぇ世界。オナニーだったら、テメェ一人で布団の中でやってろ、メンヘラガール」
だからこそ、返答は明確に。
笑みを浮かべたまま、中指を突き立てて、これ以上なく拒絶の意思を示した。
「…………そう、ですか。残念です――――乱暴にはしたくなかったのですが」
一瞬体を震わせた後、狐面の少女は落胆の言葉を発した。
次いで、
「――――ペルソナ」
戦闘――――否、制裁の意味を示す言葉を紡いだ。
「来て、私の半身。チェフェイ」
そして、狐面の少女の背後に――――ほぼ同一の姿の少女が現れる。狐面の少女の姿が。されど、違うのは、その臀部から生える巨大な九本の尾。金色の尻尾。
かつて、数々の権力者を堕落させ、国を傾かせた恐るべき悪性の欠片。
それが、まだ幼さの残る少女の形として顕現している。
「大丈夫です、安心してください、中島京子さん…………貴方の命を奪うような真似はしません。ただ、微睡みに身を任せてください。そうすれば、全て終わったころには、優しい世界が待っていますので」
どろり、と言葉の後に社務所内が全て、甘い香りに満ちた。
それは、人の理性を溶かす香り。
男でなくとも、人であるのならば、甘く、蕩けるような快楽の匂いには逆らえない。まして、ペルソナ能力も持たない京子ならば、どれだけ強く抗おうとしても、結果は同じだろう。
そう、ペルソナ能力を持っていなければ。
「――【ペルソナちゃん】、頼む」
『理想の貴方と繋がりたいですか?』
そして、試練が始まる。
●●●
気づくと、京子は見覚えのある教室に立っていた。
夕日が差し込む、放課後の教室。
京子と、傍らに佇む【ペルソナちゃん】、そして、もう一人以外は誰も居ない、がらんどうの教室。
そんな教室で、京子が茫然と佇んでいると、侍っていた【ペルソナちゃん】が口を開いた。
「理想の貴方と繋がるには、試練が必要です」
声に反応して、【ペルソナちゃん】の方を向く京子。
そんな京子に、【ペルソナちゃん】はにっこりと、天使のように、悪魔のように笑みを作ると、その手に携えた黒い塊を手渡した。
重々しく、銃器を象るそれが、京子の手に渡された。
「理想の貴方になるためには、弱い貴方を殺さなければいけません」
人殺しの道具。
一丁の拳銃。
引き金を引くだけで、誰かを殺せる凶器。
「ほら、殺すべき貴方の弱さが、そこに居ますよ?」
【ペルソナちゃん】指し示された先に居るのは、小学生の頃の京子だった。
小学校の頃、挫折して、自分自身が嫌になっていた時の、京子だった。
「思い上がっていた。駄目だった。馬鹿だった。映画の台詞なんかに感化されて、いけないことをたくさんやった。その結果、私はとてつもない罪を犯した…………もう、生きていたくない」
ぐずぐずと、机につっぷしてすすり泣く幼い京子。
その姿に、苛立ちを覚えるな、と言う方が無理だろう。
京子でなくとも、己の弱い部分が目の前に晒されれば、ましてや、その弱い部分が黒歴史である自分であるのならば、殺意すら湧いてもおかしくない。
そして、殺す相手が自分であるのならば、人は途端に引き金が軽くなる。
誰かを殺して、尊厳を奪い取るのではない。
自分を殺して、強くなるための成長の儀式。
理想のための、痛みを伴う経験だ。
だからこそ、誰しも、酔う。
このシチュエーションに、酔ってしまう。
「わからなかった! 誰も教えてくれなかった! どうして! どうして、私は、頑張ったのに! もう嫌だ! こんな世界は嫌だ!」
金色の瞳を持つ、弱い自分。
みっともなくわめく自分を見つめて。
その手に携えた、冷たい凶器を使わないという選択肢を取れる人間はどれだけいるだろうか? 状況に流されて、銃口を向けてしまう人間は、どれだけいるだろうか?
ただ、少なくとも、
「…………悪いな、【ペルソナちゃん】」
中島京子という、女子高生は、己の弱さを受け入れる器を持っていた。
ごとん、と机の上に拳銃を置き、殴るのでも、叩くのでもなく、泣きわめくかつての己の頭を、優しく撫でる京子。
その横顔は、普段、張り付けている不機嫌な物ではなく、朗らかに、温かい。
「私の弱さはもう、どっかの馬鹿に救われているんだよ」
そして、何処か申し訳なさそうに【ペルソナちゃん】へ視線を向けて、京子は笑った。
かつてと、初めて天原晴幸と出会った時と同じように。
●●●
中学三年生の秋。
中島京子は、かつての親友から手紙を貰った。
内容は、『仲直りがしたい』という旨と、親友だった少女が通っている学校の名前と、3-Aという教室の名前。後は、手紙が届いてから三日後の日時と、夕暮れ時を示す時刻が、その手紙には記されていた。
もちろん、こんな手紙を貰って素直に喜ぶ京子ではない。
当時、ぐれにぐれて、荒れに荒れて、ほとんど不登校みたいな状態で中学生をやっていた京子の心は荒んでいた。
恐らく、これは復讐のための見え透いた罠であるということも、わかっていた。
のうのうと顔を出せば、親友だった少女だけでなく、集団で囲まれて、ひどい目に遭わされる可能性があることも、わかっていた。
しかし、それでも、京子は躊躇うことなく、指定された場所へ行く準備を整えた。
理由は簡単。
罰が、欲しかったのである。
己が犯した罪に対して、罰が欲しかったのだ。
だからこそ、京子は自ら進んで罠に嵌る。例え、どのような苦痛や屈辱だって、抱えきれない罪を抱いたまま生きるよりはいいはずだ。と都合のいい思考のままに。
「最悪、殺されたっていいや」
両親を説得するのは簡単だった。
指定された学校へ侵入するのは簡単だった。放課後だから、『用事がある』みたいなそれらしい顔をして、呼び止められた時は、予め調べておいた教員の名前を出せばいい。
かつての天才だった京子は大分落ちぶれた。
されど、凡骨を騙す程度、その当時でも訳はない。
…………そして、京子はついに、親友だった少女と再会した。
「ほら、見てごらん、京子。今日の夕焼けはとても綺麗だよ――――ああ、自殺するには、とっても良い日だと思わない?」
予想外だったのは、少女が殺すよりも自殺を選んだということ。
その死を、京子に刻み付けるために、わざわざここに呼び寄せたという事実。
ああ、ここまで嫌われていたのか、と京子は少女の笑みを向けられて。愕然とした。
かつて親友だった少女はもう、誰かを罰するだけの気力もなく、せめて、苦しめと京子を呪うことしかできなくなるほど、弱っていたのだと。
「ここで、首を切って、後ろ向きに倒れる。窓の外に、倒れこむ。頭から、倒れる。そうすれば、救急車を呼ばれても、きっと死ねるよね?」
「ま、待って――」
「待たないよ。待つ必要がないじゃん。いつだって、貴方は好き勝手してきたんだから。止めようとする私の話なんて聞かなかったんだから。その挙句が、あれだよ? ねぇ、私さ、あれからどんな扱いを受けたと思う? 家族が、どんな扱いを受けたと思う? 私のお父さんも、お母さんも、仕事がなくなってね、辛うじて前の貯金で食いつなぐだけの日々なんだよ? ねぇ、こんな、こんな世界で生きる意味がある?」
虚ろな瞳。
壊れた笑み。
がらんどうの言葉。
それらを前にして、何かを言えるだけの信念や、情など、当時の京子にはなかった。だから、京子に出来るのは手を伸ばすだけ。せめて、なんとかしようと手を伸ばして、結局、届かない。動こうと手を伸ばした瞬間、大型カッターの刃が夕日を反射して、煌めいて、
「おっと、そこまでだ!」
夕暮れを切り裂くように到来した、白球が少女の手の甲に着弾し、そのあまりの衝撃に少女はカッターナイフを離してしまった。
「つ、あ――な、何!?」
「ふっ…………まさか、文化祭の準備をさぼって、野球部の面々とエロ本を賭けて勝負をしていたことが、こんな風に役立つなんてな。まったく、人生ってのは何が起こるかわからねぇよな? そう、戦利品のエロ本を略奪しに来たら、まさか、女子が自殺しようとしているなんて、さ」
声が聞こえた。
無意味な自信に溢れた男子の声が。
この状況には、あまりにもそぐわない馬鹿馬鹿しい言葉の羅列が。
思わず、京子はそちらへ視線を向ける。すると、そこに居たのは予想外にがたいの良い体と、馬鹿馬鹿しい言葉の内容からは想像もできないほど、強面で精悍な顔立ちの少年だった。
「…………B組の変態! 悲劇を砕く喜劇! ギャグ漫画補正を受けた馬鹿! 天原晴幸! なんで、なんで、ここに居るのよ!?」
「無論、誰かの涙を拭うためさ!」
「気持ちわるっ!」
「気持ち悪いとはなんだ! 気持ち悪いとは! 女子のそういう言動どうかと思うんだけど!? 男子の心は繊細なんだぞ、謝れ!」
「人に野球ボールをぶつけておいて?」
「ごめん、手が滑った。ほら、俺も誤ったから君も――柊さんも早く」
「そういうところだぞ、天原ぁ!」
京子は呆然と、少女と男子の――柊と天原の会話を眺めていた。
口が開いたまま閉じられない、とはこのことだろうか? 先ほどまで、何を言っても無駄、どうしようもなく届くことが無いと思っていたはずなのに。柊を止める手段なんてないと思っていたのに、天原という男子は軽々とその前提を砕いてしまったのだ。
「柊さん、よくわからないけど死ぬのは止めよう? つーか、なんで他校の女子も居るの? え? 珍しい制服。記念撮影をしても?」
「雑に自殺を止めるなぁ! 言葉の途中で興味を他に移すなぁ! そういうところだぞ、本当にぃ!」
「はいはい、この俺に構って欲しいんだろ、柊さん。仕方ねぇな、まったく。ほれ、話してみろ。俺の腕の中で、泣きながら説明してくれてもいいだぜ?」
「気持ち悪い! 気持ち悪い!」
「おいおい、柊さん、こんなのはまだ序の口だぜ? さぁ! 語れ! 自殺する理由を語れ! どんどん語れ! どこまでもクレバーに受け止めてやる!」
「い、嫌だよ、普通に…………大体、天原と私は仲良くなんて無いし、自殺をしようとした繊細な理由なんて、お前なんかには――――」
「わかった、脱ごう!」
「なんで?」
京子も同じく、「なんで?」と思っていた。
全然会話の流れが繋がっていない。この男子は馬鹿なのだろうか?
「なんかの漫画で見たんだ! こちらに害意が無いことを証明するには、全裸になるのが一番なんだって! だから! 恥ずかしいけど! 見ててください! これが、俺の! 変身です!」
「変態の間違いじゃない? ふ、ふん。けど、脱ぎたければ脱げばいいじゃない。でもね、一応言っておくけど、女子は男子よりも大人なのよ? 中途半端に、パンツだけ残しただけの状態みたいな物を裸とは言わな――――躊躇わずパンツも脱ぐなぁ!!」
「全裸と言ったはずだぞ、柊さん!」
「馬鹿、見せるなぁ! 揺らすなぁ! 思い出したように靴下と靴を脱ぐなぁ! 違う、そういうことじゃない! そういうことじゃないから!」
「おっと、叫んで誰かが来てもいいのかな? 誰かが来て困るのは、自殺をしようとしていた君の方じゃないのかな?」
「お前も確実に困るだろ!?」
「見くびらないで欲しいな、柊さん! 俺の全裸なんて、B組では日常茶飯事だ!」
「だから、B組は魔境って言われているんだよ、ちくしょう!」
馬鹿だった。
完全無欠の馬鹿だった。
したたたたーん、したたたたたーん、と全裸で柊の周囲を気色悪い動きで周回する天原の姿は、馬鹿以外の何者でもなかった。
「いーえ! いーえ! さっさと、自殺をしようとしていた理由を、いーえ!」
「やめ、そういうのやめなさいよ!」
「いーえ! いーえ!」
「わかった、わかった、言うからその夢に出てきそうな動きを止めなさい」
「…………ふぅ。やっと、会話する気になったか。まったく、どこまでも手間のかかる子猫ちゃんだぜ」
「気持ち悪い!」
「おっと、罵倒していいのかい? 俺は既に、その罵倒が気持ち良くなり始めているんだぜ? これ以上、俺を変態にしたくなければ、わかりやすく、手短に理由を話すのが賢明なんじゃないか?」
「最速で話してやるわよ、ちくしょう」
だが、その馬鹿は京子に出来ないことを軽々とやって見せた。
一見すると、いや、どこからどう見ても馬鹿であり、状況がギャグにしか見えないのだが、それでも、止めた。柊の自殺を止めて、なんだかんだその詳しい内容まで聞き出そうとしている。加えて、この全裸が居る空間で、再び、柊が自殺しようとする気概すら奪い取っている。
ほんの少しの間で、場の空気は全て、馬鹿が掻っ攫っていった。
「ふむふむ、つまり、失業者の娘としてお先真っ暗で、私死にたい! ってこと?」
「い、言いづらいことをばっさりと…………ええ、そうよ。どこへ行っても、あの忌々しい事件を掘り出して、にやにやと笑う奴が居るのよ! 父さんと母さんがいくら頑張っても! 『お前も犯罪に加担してたんじゃないか?』みたいな言葉で馬鹿にしてくるの! クラスの中でも、そういう過去をわざわざ掘り出してきて…………私、もう、誰も友達が居ない……」
誰も友達が居ない、という言葉を受けて、愕然としたのが京子だ。
もう、友達ではないだろうな、とは思っていた。親友だったのは昔の話で、今は憎まれている相手。けれど、改めて柊の口から言われるのはショックだった。
そして、何よりショックだったのは――――項垂れる柊に対して、自身が何も言えなかったことが、ショックだった。
ただ、京子がショックを受けている間も、話は進んで行く。
「んじゃあ、うちの親父に相談して、ご両親の就職先を探してみる?」
「え?」
「や、だって仕事先が必要なんでしょ? んじゃあ、同僚がそういうことを言わないような、アットホームな職場を紹介するよ」
「いや、でも、そんな職場――」
「何せ、その程度の過去なんて、鼻で笑うレベルの経歴の人たちで一杯だからな!」
「大丈夫なの、その職場ぁ!?」
「給料とか、福利厚生とかは良い感じなホワイト企業だよ!」
「そ、そうなの?」
「とりあえず、試用期間働いてみてもらってから決めたら? 紹介できる職種は一つじゃないっぽいし」
「あ、ありがとう?」
「どうしたしまして!」
あまりにも早い解決。
問題があるのなら、それを解消すればいいじゃん! ほら、簡単でしょ? とでも言わんばかりの高速解決。
思わず、真剣に悩み、自殺まで検討していた柊は、降って湧いた希望と、自分の情けなさに混乱して、思わず泣いてしまいそうになるが、その前に、天原がさらに言葉を重ねた。
「んでもって、誰も友達が居ないのはこれから俺が友達になれば、解決っと」
「……え? いいの?」
「そっちこそ、いいの? 俺、全裸だよ?」
「…………服は、着て?」
「服を着たら、友達?」
「…………そ、それは」
「おっと、恥ずかしがり屋の子猫ちゃんだぜ。じゃあ、仕方ない。三人そろって、友達ってことでいいかな?」
「――――え?」
天原に視線を向けられて、京子は困惑する。
今まで触れられてきたなかったのに。このまま空気でよかったのに、どうして今、ここで触れてくるのか? 折角、まとまりかけたのに、どうして?
「……天原、あのね、そいつはね? さっき話したでしょ? そいつの所為で、私の家族は、あんなに苦労して――」
「え? でも、告発されて困るレベルの不正を抱えていたら、いずれ、内部か、それとも、他のハッカー集団が告発していたから、どの道、遅いか早いか、じゃね?」
「…………へ?」
「不正は強みじゃない、弱みだ。不正をせずに利益を出すのが当たり前で、潔白で、だからこそ強いんだ。大規模な不正を抱えた時点で、もうその企業は弱いよ。弱い企業は、いずれ市場から駆逐される…………なんて、ことを聞いても納得できないと思うから、はい、そこの女子! 目の下に隈がある残念女子! もうちょっと健康そうだったら間違いなく美少女の女子!」
「え、は? わ、私?」
「イエース!」
京子は困惑する。
突然、自分の罪を弁護してくれたことに。
突然、自らの手を引いて、柊の前に引っ張り出されたことに。
「はい、ここで両者謝る! これで解決!」
「え、あの、その?」
「ちょっと天原、私はまだ、全然納得――――」
「二人がお互いに謝らない場合。俺はこれから号泣しながら、廊下を走り回って、同級生の女子に襲われたぁ! と叫びまわってきます」
「「なにそれひどい」」
提示されたのは、あまりにも強引な解決法。
脅しの方法も、むしろ、天原が喰らうダメージの方が多い。しかし、こいつは実際に躊躇わず実行する馬鹿であるというのは、出会って間もない京子でも理解できていた。
だから、そう、誰かに強制されての謝罪なんて、本当の謝罪じゃないと思うけれど。
「…………ごめんなさい、七海」
「…………ごめん、ね。京子」
とりあず、京子と柊――七海は謝った。
ぎこちなく、お互い、伺うように、謝罪の言葉を口にして…………気づくと、ぽろぽろと両者の目から涙が零れ落ちていた。
おかしい。
こんなはずじゃなかったのに。
こんな。こんな展開で、全裸のよくわからない馬鹿に促されたからって、こんな、簡単に胸がざわざわして、泣いてしまうなんて。
「ごめん、ごめん、ごめんっ! ごめんね、七海ぃ! 私、私馬鹿で! 何も考えずに、あんな、あんなひどいことを!」
「…………ううん、違うよ、京子。私だって、ひどいことを言った。八つ当たりで、ずっと、ずっと。ひどいことをしようとした」
涙と共に、ずっと胸につかえていた言葉は溢れ出した。
互いに抱き合って、ひどい顔で、涙とか鼻水が止まらなくて。
「やれやれ、これ以上は野暮だな」
そして、全裸の馬鹿が格好つけて――――全裸のまま、廊下に出て、教師の人たちに見つかって、壮絶な追いかけっこが始まると、私たちは思わず、不細工になった顔を見合わせた後、揃って大声で笑った。
「馬鹿だね、あの人」
「うん、すっごい馬鹿なんだ、あいつ」
こうして、京子と晴幸のファーストコンタクトは終了する。
その後、七海と一緒に学校に通うために――それに、あの馬鹿ともう一度会うために、京子は両親へ真剣に頼み込んで、全ての事情を洗いざらい吐いて、受験先を変えたいと言った。
当然、とてつもなく怒られたし、色々言われたりもしたのだが、最終的には京子の熱意が認められて、希望通りの学校へ受験して、合格した。
そして、入学直後。
思わぬ運命の偶然で、かつて出会った馬鹿と席が隣同士になり、柄にもなくドキドキと恋とか、青春の始まりを感じてしまった京子であるが、
「俺の名前は天原晴幸! 東北の大地で培った野性味あふれるパワーが持ち味の、ナイスガイさ! 今後ともよろしく!」
「…………ああ、よろしく、馬鹿野郎」
「ええっ!? 初対面なのに罵倒された!?」
当の晴幸がすっかり、京子の顔を忘れ――健康的になり、入学当初はものすごく身だしなみに気を遣った美少女だったことが原因――とぼけた挨拶をしてきたので、そういうロマンスは瞬く間に破壊された。
その後、なんやかんやで二人が共に窮地を乗り越えて、互いに相棒として認め合っていくのだが、それはまた別の話である。
●●●
「だから、もう大丈夫だ、私。弱い、私。私の弱さは、あの馬鹿が背負ってくれているから、だから! あいつの相棒であるために! 私は、理想の先を目指す!」
《――――ならば、半身である我が応えよう》
●●●
「――――ペルソナぁ!!」
現実に戻った京子の口から、力ある言葉が紡がれる。
甘ったるい微香を切り裂くように、京子の半身が形を得て、ヴィジョンとして顕現する。
《我は汝。汝は我。汝の心の海より出でし者。幾千の呪言を超え、祝福を与える者、【イザナギ】。共に、滅びを超越し。先を目指さん》
それは、身の丈ほどの巨大な太刀を背負う偉丈夫だった。
何故か、その身を覆うのは学生服であり、その顔には強面の骨の仮面が付けられていて、誰かを連想させるが、京子自身は全く気付かない。
ただ、その両目は静かに、倒すべき相手へと向けられている。
「情報提供、感謝するぜ。んじゃあ、後はついでに身柄を拘束だ」
「――――なめ、るなぁ!!」
だが、狐面の少女はイザナギの迫力に負けていない。
ぐっと仮面の奥で歯を食いしばり、眼前のペルソナから発せられる圧力に抗うように、自らの半身へと必殺の命令を下す。
「チェフェイ! 骨すら溶かす、毒の息吹を!」
命じた直後、可愛らしい童女の姿だったそのペルソナは姿を変じて、社務所を破壊して巨大化し、身の丈五メートル以上の怪物へと成った。
九つの尻尾を持つ、黄金の毛並みの化け物。
九尾の狐。
討伐され、意思となり果てたその後でも、毒の呪いをばらまき、周囲に殺戮をばら撒いた大妖怪。
それが放つ、灰色の息吹は確かに、生きる者たちを腐らせ、溶かし、苦しみのまま絶命に至らせることが出来るだろう。
――――相手が、イザナギでなければ。
「イザナギ」
静かに紡がれる言葉。
それだけで、イザナギは毒の息吹を受け止めていた。
灰色の息吹は、イザナギが手をかざした瞬間、まるで空間が止まったかのように制止する。
「なん――――そう、か。イザナギだとしたら! 原初の! イザナミの呪いすら――――」
「禊払え――――黄泉帰り!!」
そして、超越を示す返し風が、振るわれる。
思い描くのは、晴幸……から貸してもらったエロゲー主人公の技。どんな困難でも、越えて見せるという近いと、覚悟の証明。
振るわれた太刀と共に、曙光の如き、煌めく烈風が灰色の息吹を切り裂き、消し飛ばす。
過去も、罪も、罰も。
全て、背負って、越えて行くのだと叫ぶが如く。
「…………見事、です」
その一撃は、狐面の少女に与えられていたワイヤードの空間を全て切り裂き、破壊して、現世へと強制帰還させた。
さながら、かつての晴幸がやって見せたように。
だが、晴幸のように力の加減が出来なかったのではなく、むしろ。全力を振り絞って、晴幸の技に追いつこうとした結果として。
「へっ、どんなもんだよ?」
ワイヤードが崩壊する直前、誰に見せるでもなく浮かべた京子の笑みはきっと、何処かの馬鹿へ向けられていたのだろう。
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「………………いや、よく考えたら狐面で巫女服の女の子を背負うジャージ姿の女って、かなり奇天烈だよなぁ…………つーか、暑い、夏場にこれは暑い」
その後、無事に現世に戻った京子は、戦利品である狐面の少女を背負い、一時、帰路に付くこととなった。
初めての戦闘。
初めての覚醒。
晴幸が軽々とこなしたそれは、京子にとってはかなりの疲労を伴うものだったが、構わない。例え、強がりだったとしても、相棒として並び立つのであれば。無理の一つや二つ、鼻歌交じりにやって見せなければ。
ただ、そんな豪傑の如き京子が、今回の戦いで後悔していることがあるとすれば、一つだけ。
「…………あ、ドクターペッパー買い忘れた」
彼女にとっては割と大切で、世間一般的にはどうでもいいような用事を、うっかり忘れてしまったことぐらいだった。