そんな彼女はやがて本の世界に心を奪われていく。最初はおおよその流れを聞いて話の終わりが幸せに締めくくられていたらどこかそれだけで満足していた。しかし、自我が芽生え好奇心が高まってきた頃、父の書斎にあったある一冊の小説を何となく手に取り、分からない言葉を辞書で調べながらその一日の時間を全て使って、初めて物語というものに真剣に向き合ってみた。
その物語は誰もが羨むような豪華で何一つ不自由のない暮らしをしていた一人の女性が、ある晩、屋敷を抜け出すところから始まる。女性が屋敷を抜け出した理由は最後まで語られない。屋敷を抜け出した女性は遠く離れた地まで歩いてきたことを既に見えなくなった屋敷がある方向を振り返って確認すると、したり顔を浮かべる。すると一人の紳士が彼女に話しかける。この紳士の正体も最後まで語られない。彼女は自分のことを連れ戻しにきたと思い、とっさに走り出す。その腕を思わず掴んだ紳士は、少し困ったような素振りを見せた後、ニヒルに笑ってこう語りかけた。私と一緒に踊りませんか——。女性は怪訝な表情を浮かべる。しかし同時に連れ戻しに来たわけではないことを確信した彼女は、彼についていくことにした。夜だというのに明るい歓楽街に連れて来られる。そこで待っていたのは未知の体験だった。紳士に連れて行かれる場所は彼女にとって全てが新しく、彼女は一言こう呟いた。自由だ——と。そんな楽しい時間はやがて終わりを迎える。物語の最後、二人はダンスを踊る。そしてバックに流れていた音楽が止むと同時に——彼女の意識が途切れる。次に目が覚めたのは屋敷の天蓋付きのベッドの上。使用人がいつも通りの対応をし、あの出来事は夢だったのか、そう感じた彼女は思慮の末、子供がいたずらを思いついたような笑みを浮かべると、この言葉で物語は締めくくられる。——そうだ。今夜も屋敷を抜け出してみようかしら——。
最後のページを読み終え彼女はまさしく放心していた。その夜彼女は瞼を閉じながら、明かされなかった内容はこういうことだったんじゃないかと考察したり、自分がもしそんな体験が出来たらと想像しながら眠りについた。次の日からまた新たな小説を手に取り、その世界に飛び込んでいく。それはまだ幼かった彼女にとってはまるで未知の地を冒険しているようだった。
幾年の月日が流れ、父の書斎にある小説を全て読み尽くした初瀬は新たな小説を求めて図書館によく通うようになり、彼女のカバンには常に2冊以上の本がしまわれるようになった。速読の特技を身につけた彼女だっだが、物語を楽しみたいためゆっくり読み進めていく。家でも、通学中の電車内でも、喧騒に包まれる教室内でも彼女は本と共にあった。
「……ねえ、初瀬さんっていつも本を読んでいるよね」
ある日の休み時間、授業と授業の間の10分休憩でも彼女は本の続きが気になり、いつものように読み進めていく。すると友達同士で集まっておしゃべりをしていたグループのそんな言葉が漏れ聞こえてきた。本を読む彼女の手に思わず力が入る。
(……本を読むことが、私にとって幸せなことですから)
彼女自身会話すること自体に特別な支障がある人間ではなかった。しかしそれは話しかけられることが前提になりつつあり、自分から話していく必要のあるおしゃべりは不得手で、本を好きで読んでいるというのも偽りのない事実だったため、彼女は休み時間でおしゃべりというものに興じたことは一度もなかった。彼女の手にする本はクライマックスに差し掛かる所まで来ていたが、クラスメイトの様子が気になり物語に集中することが出来ない。その日は本を閉じることにしたのだった。
そんな彼女はある些細なきっかけで、文通を始めることになる。彼女は自分の気持ちを文字に起こすことで、自分自身が知らなかった内面に向き合うことになった。読書は楽しくて幸せだけれど友人同士で弁当を囲んだり帰宅するのを見ると羨ましく感じていたこと、そして自分が思った以上に友情を育む物語に憧れていたこと。そんな自分を知った彼女に好機が訪れる。クラスメイトの女子グループが遊園地に行く計画を立てた際、あと一人で入園料が安くなるといった状況で、初瀬がそのグループに誘われた。その場では返事を保留とし、行くべきか悩んでいることを文通相手に相談したところ、どんな理由で誘われたらにしろ行ってみて楽しんできたらいい、きっといい思い出になると後押しを受けて行ってみることを決意する。不安を抑え勇気を振り絞った彼女に待っていたのは文通相手が言っていたように楽しい時間だった。クラスメイトが普段から初瀬のことが気になっており、本を常に読んでいてあまり話す機会が作りづらかった彼女と一緒の時間を過ごしてみたかったということを知り、彼女は驚きつつもそれを嬉しく思った。高揚感に包まれて過ごした遊園地の一日はやがて終わりを迎えたが、彼女が中学に入ってから始めて出来た友達と過ごす学生生活は彼女にとって本を読むことに変わり得る幸せなものとなった。
そんな学生生活を過ごした彼女だったが進学先の里ヶ浜高校は友人たちの進学先と分かれており、また不運な事情から文通も途切れてしまう。彼女は高校生活に一人で挑むことになった。彼女はまた中学の時のような友人に会えたらいいな、と考えた。しかし教室で本を読む彼女に話しかけてくる人はおらず、また彼女の方から話しかけることも出来なかった。入学から一週間ほど経ち、周りのクラスメイトがグループを形成していく中、初瀬は友人が出来ずにいた。ただ中学生活と異なる点を挙げれば図書委員となった事だろうか。図書室が保有していない本の要望申請をしやすい立場という点に惹かれた部分もあるが、一番の理由は図書室の用途の通り、本を読みやすい静かな環境があること。友人が出来なかった彼女が手に取ったのは、やはり本だった。しかしそんな彼女の狙いを揺らがせる者がいた。
「このネタも、こっちのネタもボツにゃ! 新聞部の第一号にふさわしいネタ! ネター!」
「あの……大声を出すのはやめてもらえないですか?」
図書室の自習スペースで騒ぎ立てる中野。携帯端末を所持している人が多い今ではあまり利用者がいないパソコン側の自習スペースとはいえ騒いでいい理由にはならない。机から落ちてしまったボツになったのであろう丸められた原稿をくず箱に入れながら、初瀬は彼女のことを迷惑だな、と思った。
「そもそも新聞部なんて部活ウチには……」
「……部活……。それにゃ!」
「えっ……」
椅子のキャスターを利用してパソコンに飛びつくように移動した中野はスムーズに何かを打ち込んでいた。
「きたきたきたー! ビッグなネタの予感がするにゃー!」
「あ、あの……ですから図書室ではお静かに……!」
中野は目を輝かせて何かを必死に調べ始めると、集中し始めたためかひとまず大声を出すことはなくなった。それを確認した初瀬はマイペースさを苦手に感じ、その場を離れていった。
少し日にちが経過したある頃、廊下の掲示板に新聞記事が張り出されていた。人だかりが出来ており気になった初瀬は後ろから覗いてみたが視力の低い彼女には見えず、合間を縫っていくのも申し訳ない気がして出来なかった。結局人だかりが収まった次の休み時間にその内容を確認してみる。
(『女子硬式野球同好会発足!』……ですか)
バッティングセンターでボールを捉えている有原の写真と共に書かれた記事の内容は大きく分けて二つあり、一つ目は里ヶ浜高校に女子硬式野球同好会が作られた経緯について。有原が新入生にむけた部の紹介をする場で最後に割り込んで野球同好会の部員勧誘を行なったこと、同好会として認められるために必要な人数5人が勧誘の甲斐もあって揃ったことや、9人制の野球では試合ができず現在も部員募集中であること。学校内に練習可能なスペースがない問題に対して、顧問である
もう一つの内容は女子硬式野球の歴史について。昔は中学や大学での女子硬式野球はあったが高校には無く、クラブチームを選ぶか、公式試合には出れないが男子に混ざってやるくらいしか選択肢が無かったこと。そんな中、1995年に女子高生と海外のクラブチームで硬式野球での親善試合が行われたことをきっかけとして、国内で女子高生の全国大会を開こうという流れになり、少しずつ女子高生の硬式野球部が作られるようになっていったことが書かれていた。最後に『現在連盟に参加している女子硬式野球部の数はいまや30、されど30。火がついたばかりの女子硬式野球を今後も広めていきたい』という言葉でこの記事は締めくくられている。
(有原さんって方は野球同好会を一から作ったんだ。部員の皆さんも色んなトラブルに向き合って頑張ってるんだ。……みんな、すごいなぁ)
記事を読み終えた初瀬は新聞を書いた筆者が気になり、見出しの近くに再び目を向ける。そこには中野綾香と書かれていた。
(そういえば、この学校に新聞部は無かったはず。……ということは、この前図書室に来て騒いでいたあの人が書いたんでしょうか……)
結局あの日はそれ以降騒ぎ出すことはなかったが、それでも図書室でマイペースに騒いだ彼女への初瀬の第一印象は悪いものとなっていた。
(でも野球を知らない私でも読みやすい記事だったな……)
教室にある自分の席に座りながら本を取り出した初瀬は先ほどの記事を思い出す。それは彼女にとっては先人が起こした行動が連なるように今に繋がっている様がどこか物語のように感じられ、思わず微笑を浮かべた。
彼女が入学してから1ヶ月の日々が流れ、5月も折り返しを迎えようとしていた。図書委員として過ごす日々は新たに加わった蔵書をしまう力仕事が少し大変なくらいで、彼女にとっては充実したものとなっていた。しかし……
「……あおい、これはどうやれば太刀打ち出来る……?」
「……だんちょー、このサイコロ鉛筆を授けるのだ。これを転がせばきっとなんとかなるのだ……」
試験期間が近づいてきたことで友人同士で図書室に集まって勉強するという人たちが増えてきた。小声で話しているため声は聞こえてこないが、初瀬は無意識のうちにそんな光景を本から目を上げて眺めていた。本を借りに受付に訪れた生徒に声をかけられるまでは自分がしていたことに気づかなかった。
帰宅した彼女はノートを広げてみる。彼女は授業を至極真面目に受けており、授業内で得た知識で優秀な成績を残すことが出来たため、今まで試験というものに合わせて勉強したことはなく、今回もそれは同じだった。彼女は少し悩んだが、文通をしていた時のように自分の気持ちを文字に起こしてみることにしたのだった。最初こそ恐る恐るといった感じだったが、一度筆が進むと自分の内にしまっていた気持ちが溢れるように筆が止まらなくなっていく。そこに書かれていた内容はとても他人に見せられないほど恥ずかしく、同時に自分の正直な気持ちだった。
(私はもしかしたら憧れていたのかもしれません。初めて向き合ったあの小説の彼女が一人で屋敷から一歩を踏み出したことに。私は……一人では何も踏み出せないのかもしれません。あの野球同好会を一人で一から作り上げた有原さんのような強さが、私にもあれば。そう思います……)
結論からいえば有原がその一歩を踏み出せた理由は友人である河北の支えがあったからこそだった。しかしそのことを初瀬が知る道理はなく、その日の晩は自分の弱さを責めて、中々寝付くことができなかった。
その次の日の放課後。いつものように図書委員として過ごしていると、自習スペースが騒がしいことに気づき様子を見に行った。
「試験勉強と、記事の締め切りの板挟みなんだにゃー! 時間がいくらあっても足りないにゃー!」
「あ、あの! ですから大声は……」
「んにゃ? こりゃすまないにゃ。興奮するとつい周りが見えなくなっちゃうのにゃ……」
彼女の机の上には数学の問題集や英語の英文集、記事のネタとする予定なのであろうメモが雑多に散乱していた。初瀬は今目の前で慌てふためく少女と、あの記事を書き上げた記者が同一人物のようにはとても思えないほどのギャップを感じた。
「……あの、よろしければ試験勉強の方お手伝いしましょうか?」
「…………へ? い、いいのかにゃ?」
「はい。これ以上騒がれるのは図書委員としても望ましいことではないですから」
「助かるにゃー。是非お願いするにゃ!」
こちらから言い出したこととはいえ調子のいい人だなぁ、と初瀬は感じる。しかしいざ勉強を手伝い始めると中野の顔つきが変わり、こちらが教えることにも真面目に応じて、初瀬としても教え甲斐があった。これは初瀬が高校に入って初めて誰かに歩み寄った瞬間だったのだが、彼女自身今はそのことを自覚していなかった。
「初瀬だったかにゃ。おかげで試験、なんとかなりそうなんだにゃ! 助かったんだにゃー」
「いえ……中野さんも真面目に頑張られてましたから。てっきり教える途中も騒ぎ出すものだとばかり」
「こらこら。上げて落とすとはなんてことをするにゃ」
日が地平線に隠れようかという時間になり図書室にいる生徒も片手で数えられる程度になってきた頃、悪い点は取らないであろうという所まで中野の試験勉強が進み終え、彼女は礼を伝えていた。
「でも、本当に助かったんだにゃ。これで記事の方も何とか間に合いそうなんだにゃ」
「え……これから、書かれるんですか?」
「そうにゃ。確か閉館時間はまだ先だったにゃ?」
「は、はい。それは大丈夫です。ただ……少し、思ったのですが」
「んにゃ?」
「新聞部って……正式な部活動ではないんですよね?」
「その通りにゃ」
「それならば……締め切りの延長というのは自由が効くのではないでしょうか?」
「あー……まあ、効かないこともないんだけどにゃ」
塩アメを口に放る中野に、図書室内では飲食厳禁であることを伝えようか悩む初瀬だったが、その前に中野の言葉が続いた。
「締め切りっていうのは、よほど物理的に難しい事情がない限り守りたいんだにゃ。締め切りは一定の間隔で出すことで今日は記事が張り出される日だ、って読者に感じてもらうためにあるんだと思うんだにゃ。そう直接思わなくても何となく覚えてて張り出されているのに気づいたら、ふらっと見て欲しい。そうして見てもらって、色んなことを伝えて、みんなに驚いたり、楽しんだりしてもらいたいんだにゃ」
「…………」
中野が少し言葉に詰まりながらも紡いだ内容に初瀬は言葉が見つからなかった。ちょっとした静寂が流れ、爽やかに笑う中野に初瀬は何か言おうと慌てて言葉を絞り出す。
「……あ、えっと、凄い……ですね。私もそういうの、えっと、いいなって思います。そ、その……頑張って下さい!」
「頑張るにゃー」
腕を軽く突き上げる中野に微笑むと初瀬は受付に戻っていった。その位置からでは本棚が境になってお互いに顔が見えない。椅子に座って一息つくと、先ほどの出来事を思い返していた。
(『これ以上騒がれるのは図書委員としても望ましいことではないですから』……なんて、偉そうに聞こえたかな。……それに最後もうちょっと気の利いたことを言えたかな。ああ……どうしてこうなんだろう。あれだけ長い時間、人と話すのが久しぶりだったからかな。…………あれ。私、自分から試験勉強に……誘った?)
中学生の時に友人に頼まれて勉強を教えた経験はあったが、自分から試験勉強に誘ったのはこれが初めてのことだった。疑問に思った初瀬はその理由を考えてみる。
(締め切り……一定の間隔……あっ。もしかして……)
すると先ほど中野が話してくれたことが気になり、同時に図書委員になってからの出来事を思い出した。
(そっか……。記事の更新間隔が同じということは、中野さんが図書室に来る間隔も一定。図書委員になってから中野さんが来るタイミングが分かるようになってきて、騒ぐのを警戒して、でもいつも一人で記事を作り上げるのを凄いと思って。……中野さんの狙いとは違いますが、私は記事だけではなくそんな中野さん自身に興味を惹かれていたのかもしれません)
初瀬はそう考えてみると、どこかスッキリしたような感じがした。笑みをこぼしてメガネのツルをいじると、本に目を落とす。
(昨晩、一人で成し遂げられる強さがあればと思いました。でもそれは、必ずしもなければならないものではないのかもしれません。私は中野さんの記事を作る姿勢に後押しされるように今日、一歩を踏み出せたような気がします)
静かな空気にページをめくる音とペンで何かを書く音が交差するように響きながら、彼女はそう思ったのだった。
ガタンゴトン、と音が鳴り電車が揺れると初瀬は目を覚ます。少し放心した後に、慌てて窓の外を確認すると自宅の最寄り駅までまだ3駅分手前の場所であり、安堵の吐息を漏らした。
(寝ちゃってた……。昨日、眠れなかったからなぁ。でも電車で寝ちゃったのなんて、中学の時以来かも。いつもは本を読んでるから寝ることはないし……)
ずれたメガネの位置を調整すると、彼女はこれからの行動を考えてみる。本を読むにはやや時間が少ない。かといってこのまま何もせずにいたらまた眠りに落ちてしまいそうな気がしていた。
(あ、そうだ……)
彼女はカバンを開き、ポケットに入れておいた塩アメを取り出すと口に放った。それは原稿を書き上げた中野がとりあえずの礼として渡していったものだった。
「……おいしい」
程よいしょっぱさと甘さが混じった味が口の中に広がると、初瀬は次の記事の内容に思いを巡らせたのだった。
試験も終わり、6月を迎える。初瀬はこの時期、正確には梅雨の時期があまり好きではなかった。紙が湿気を吸収しやすいため本にカビが生えたり、少し変形してしまったりと、本の敵ともいえるこの時期は早く過ぎ去って欲しいと感じていた。里ヶ浜高校では6月から図書室でのクーラーの使用が解禁されることが彼女にとっての救いだった。
「美奈子ちゃん。なんで図書室に来たの〜?」
「そりゃもうこの冷房の恩恵を受けるためですとも」
「まあ、蒸し暑いからね……。二人とも授業中ぐったりしてたし」
試験勉強のために訪れる者がいなくなった代わりに冷房を頼りに来る人たちが増えてきていた。梅雨特有の蒸し暑さも影響して図書室内にどこかだらけたような空気が漂う中、それを切り裂くような声がいつもの場所から聞こえてきた。
「うおおー! 今こそジャーナリストの出番にゃ!」
「……あの。だからここで大声を……」
梅雨の蒸し暑さなどまるで関係ないような快活な声が耳に届き、初瀬は注意しにいく。すると机に広げられた『女子硬式野球同好会 ゼロからの出発』と銘打たれた原稿に貼られている中野がミットをつけ、野球同好会のユニフォームを着た写真を見つけた。
「ん? 新聞部だったんじゃ……?」
「新聞部兼野球同好会にゃ」
意外に感じた初瀬は近くにあった『共に苦難を乗り越えて』と銘打たれた原稿を思わず手に取る。そこには11人となった野球部員たちの集合写真が載っていた。
「野球興味あるかにゃ?」
「ああ、いえ……」
初瀬は野球の基本的なルールも分からず、テレビで野球を好んで見る家庭でもなかったため、野球に関しては何も知らないと言える状態だった。しかしそれでも気になった理由を、今までの記事を思い出しつつ原稿を読みながら、初瀬は口に出していた。
「でもなんだか……物語、みたい……」
野球同好会が発足してから楽しいこと、大変なこと、様々なことがあった。一筋縄ではいかないことも多かったが、皆で協力して乗り越えてきた。野球同好会の軌跡を記事を通して知った初瀬は、彼女たちが紡いでいく物語にいつのまにか惹かれていた。野球に興味はなくても、そんな野球同好会に興味が湧いていたのだ。
「あ! ……すみません。なんでも」
「ワタシもそう思うにゃ!」
(えっ……)
考えていたことを口に出してしまい、慌てて訂正しようとする初瀬だったが、思わぬ賛同を受けて目を白黒させていた。
「でもこれは確かにワタシたちがやってきたことなんだにゃ。だから知って欲しいのにゃ。ちょっとでも、みんなに」
初瀬の目をまっすぐに見て、中野は一点の曇りもない言葉を伝える。初瀬はその言葉を受けて目から
「私も知りたいです!」
明るい期待に彩られた表情をする初瀬に中野は思わず微笑むと、自分たちがやってきたこと、これからやりたいこと、そのためにやろうとしていることを余すことなく話したのだった。
「すいません。この本、借りたいんですけど」
「はい。少々お待ちくださいね」
日が流れ、彼女は本の最後のページに貼られたバーコードを読み取り、貸し出しのメモを取ると、借りにきた生徒にその本を渡していた。
「ありがとうございます」
「あっ、あの。もし良ければ、こちらの署名にご協力お願いできますか?」
「署名というと……図書室の?」
「いえ……女子硬式野球同好会が部に昇格することへの署名です」
「野球かぁ……あまり、知らないんだよね」
「それでしたら……こちらの記事をご覧ください」
そういって彼女が手を右方向に向けると、そこには今まで中野が書いてきた記事が並べられていた。初瀬は中野から夏の大会に出るためには今まで以上にお金がかかるため同好会から部に昇格しなければ部費が足りないこと、生徒会から出された条件はクリアしているが学校側からの許可が下りていないことを教えてもらった。
「へぇー、頑張ってるんだね。いいよ。署名したげる」
「あ、ありがとうございます!」
記事を読み終えた生徒が署名にサインする。中野から話を聞いた数日後、野球同好会として署名を集める方針になったことを聞き、自分に出来ることで協力したいと思った初瀬は図書室で署名活動をすることにしたのだった。
さらに日が流れ、6月も終わりに差し掛かっていた。既に日が落ち、図書室も利用者が少なくなってきた頃、今日も図書委員としていつものように過ごしていた初瀬だったが、内心は不安が募っていた。
(今日の職員会議で部への昇格が決まらなければ、大会には間に合わない。どうなったのかな……)
「初瀬ー! 初瀬はいるかにゃ!」
そこに中野が駆け込んでくる。ジャージを着たまま息を切らせている様子から、遅くまで練習していたことと、練習後に急いで報告に来たことを初瀬に窺わせた。
「な、中野さん。結果は……」
「決まったのにゃ! 無事、部に昇格したんだにゃ! 里ヶ浜高校女子硬式野球部、始動なんだにゃー!」
「ほ、本当ですか! 良かったぁ……!」
「……2人とも、ここは図書室よ。お静かにお願いするわ」
「す、すまないにゃ」
「ご、ごめんなさい……!」
喜びのあまりつい声が大きくなってしまい、近くにいた生徒から注意されてしまった。
「……でも、良かったわね初瀬さん。書類整理をするためにここ数日通っていたけれど、あなた地道に署名に協力してもらえるよう頑張っていたものね」
「え……」
「それと中野さんも。記事を読んだ生徒に熱心に声をかけていたみたいね。署名がどれくらいの効果があったかは正確には分からないけれど、間違いなく後押しになったと思うわ」
「どういたしましてにゃ。生徒会長も署名にご協力ありがとうございますにゃ」
「生徒会の審査も問題なかったし、当然のことをしたまでよ。じゃあね」
そう言うと栗色の髪を揺らしながら
(びっくりしたぁ。まさか私のことを見てた人がいたなんて。でも無事に部に昇格出来たことを含めて、嬉しかったな……)
「……あ、そうだ。中野さん、あなた図書室で大声を度々出していて迷惑だって苦情が生徒会に届いてるわ。あまり酷いようだと、相応の処分が下るわよ?」
「にゃ!? き、気をつけますにゃ……」
図書室の扉がキキィ……と独特な音を立ててゆっくりと閉じる。冷や汗を浮かべる中野を見ながら初瀬は思わず笑ってしまうのだった。
梅雨が明け、夏の季節がやってくる。暑い日差しが降り注ぐ中、彼女は屋根によって影で覆われるスタンドから無事大会に出場した女子硬式野球部の応援をしていた。ワンプレーに球場が湧き、ワンプレーに球場中からため息が聞こえる。そんな球場の熱量に圧倒されつつも、彼女は初めて見る野球を楽しみ、また必死に戦う彼女たちの姿を見て感心していた。
リリーフとして登板した野崎の球が大きく弾き返され、ライトを襲う。ライトを守る宇喜多はそのボールをフェンスにぶつかりながらも、キャッチしてみせた。そのプレーは岩城のホームランに引けを取らないほど、球場から歓声が上がっていた。
「……眩しい……」
グラウンドで戦う選手を見て、初瀬はそんな言葉が口からこぼれたのだった。
そして9月を迎える。初瀬は遊歩道から少し外れた草むらに座って野球部が練習するグラウンドを眺めていた。
(私も中野さんや皆さんと一緒に……)
大会を見てそこで戦う選手たちを“眩しい”と感じた彼女は本の中ではなく現実で何かに挑戦したいと思うようになっていた。そして今までの軌跡を知り、また自身も署名活動に参加した野球部なら、そう思ってグラウンドまで来た。グラウンドまでは目と鼻の先、しかしそこから前に進めないでいた。グラウンドを眺める彼女を追い抜くように新田、永井、近藤、秋乃、逢坂が坂を下っていくと練習していた部員に声をかけた。
「あの!」
「私たち入部希望なんですけど!」
「えっ、本当!?」
「ようこそ。女子硬式野球部へ!」
「歓迎歓迎!」
5人の新入部員がグラウンドで入部を歓迎される様を初瀬はじっと見つめていた。
(運動経験がないし、野球の知識も基本的なルールは勉強してみましたが皆さんに比べるとまだまだでしょうし、私が入っても……)
寂しそうにグラウンドを見る初瀬。そんな彼女の後ろから声をかける者がいた。
「もしかして……」
「えっ……」
そこにいたのは野球部のキャプテンであり、設立のきっかけを作った人物である有原だった。
「あなたも興味あるの? 野球」
「あ、でも……私じゃ」
初瀬は自信を持てず、下を向いてしまう。そんな初瀬の視界に差し出された手が映ると、思わず視線を上げた。
「私たちと一緒に野球、やろうよ!」
その言葉に後押しされるように差し出された手を握る。すると有原が嬉しそうに彼女を引っ張って立たせるとこう言った。
「行こうっ!」
「……はい……!」
初瀬は一歩を踏み出した。坂道を一緒に下りながら、初瀬は一つの決心をした。
(私はやはり、一人で踏み出すことは出来ないのかもしれません。……でも)
坂道を下りきってグラウンドに足を踏み入れると皆の目がこちらに向く。中野も初瀬が来たことに気づいて嬉しそうに手を振っていた。
(誰かに支えられて一歩を踏み出せたなら、その分……強くなろう)
こうして初瀬は女子硬式野球部の一員となったのだった。そして……
「自分で言い出した以上、最後までやり切る覚悟はあるのかしら?」
「あります……!」
中野にまだノックを捕球できない事を相談すると、サードが本職の東雲に特訓をつけてもらうと良いというアドバイスを貰った初瀬。まだ野球に自信は持てないが、強くなりたいと思った彼女はその一歩を踏み出していたのだった。
「きゃっ……」
特訓が始まり、それなりの時間が経った。東雲が有原にノックを頼むと有原は初日からそこまでやる気を出してくれたことに感動しながら、快く引き受けてくれた。東雲は実際に捌く様子を見せたり、近くで初瀬の守備を見ていた。しかし未だ、捕球することは出来ないでいた。
(おかしいわ。正面のゴロのノックを続けていてここまで捕れないことなんてあるかしら。腰の位置も最初は高かったけれど、ゴロを続けることで自然に低い体勢を取るようになったし、グラブも下から上にという基本は段々と出来るようになってきている。安定して捕れないのは分かるけど、一つも捕れないのはやはりおかしい)
「有原さん、ノックを中断して」
「わ、分かった」
(うう……。せっかく特訓に付き合ってもらってるのに、まだ捕れないなんて恥ずかしい。東雲さんも、呆れちゃってるのかな……)
「中野さん。そのカメラ貸してもらえるかしら」
「にゃ? 構わないけどにゃ……」
東雲は初瀬の守備の映像を撮っていた中野に話しかけると、そのカメラを借りて、映像をコマ送りで確認する。
(構えは問題ない。打球が飛んできてからの動きは無駄があるけど、正面の打球だしこれが捕れない原因じゃない。……なるほどね)
「分かったわ。初瀬さんこれを見てもらえるかしら」
「ええと……」
それは飛んできた打球がミットに収まろうか、という瞬間だった。
「いい? 直前までは腰はここに構えられている。けど捕球の瞬間だけ、腰が少し引けているのよ。弾いた後には元の位置に戻っているから分かりづらいけれど」
「ほ、本当ですね……。自分ではそんなつもりなかったんですけど……」
「……あー、永井も何回か思い切り腰を引いて捕れそうなのを弾いていたことがあったにゃ。聞いてみたらキャッチボールの時に手が痛かったから、打球が体にぶつかったらと思うとつい腰が引けちゃうみたいだったにゃ」
「あ……確かに。私もキャッチボールの時、逢坂さんが最初に投げた球が速くて少し……怖かったのかもしれません」
「そういえばあなた、時折目をつぶっていたものね……」
「さっき頭で考えるんじゃなくて本能で反応するって話をしたけれど、初瀬の場合本能が硬球への怖さを優先してしまったのかもしれないにゃ」
「うう……お恥ずかしい限りです」
サードベース付近で会話する皆にノックをしていた有原が駆け寄ってくると、拳を強く握りしめて話しかけた。
「それが分かったなら、後は怖がらないように気合でキャッチしよう!」
「……初瀬さんはわざわざ特訓まで申し出てノックを受けているのよ。気合でなんとか出来る問題ならとっくにキャッチ出来ていると思うわ」
「うっ! 確かにそうかも……」
「……そうにゃ! 体にボールがぶつかっても、痛くなければどうにゃ?」
「……何をする気?」
「ふっふっふ。少し待ってるにゃ」
中野は新入部員用に多く持ち出された備品の中からある物を持ってくると初瀬につけようとしたが、どうつけるか把握しておらず経験者の有原と東雲が代わりに取り付けた。
「きゃ、キャッチャーの方って、こんなに重いものを身につけて動かれていたんですね……」
初瀬が身につけたのはプロテクターやレガースという本来はキャッチャーが着ける防具。想像より重いそれに多少ふらつきながらも、何とか動くことは出来ていた。
「考えたわね。これならボールへの恐れを緩和できるかもしれない」
「にゃはは。初瀬、どうかにゃ。動けそうにゃ?」
「は、はい。重いですが、何とかいけます」
「よし! ノックを再開するよー!」
夕日が地平線に差し掛かる時間となり、影が横に長く伸びる中、その打球は放たれた。一定のスピードで放たれ、次第に慣れてきたボール。防具をつけた初瀬は思い切って前に出ると、手首を立てるようにグラブを構えてすくい上げるように捕りにいく。その瞬間、フラッシュと共にシャッター音が響き、中野が撮った写真には見事ボールを捕球する初瀬の姿があった。
「や、やったぁ……!」
グラブの中を確認し、確かにボールが収まっているのを見た初瀬は嬉しさのあまり思わず涙目になるほど喜んでいた。それを見た3人は思わず微笑む。
「……こほん。ここからが本番よ。今日はしっかり安定して捕れるようになるまでやるわよ」
「……はい!」
その日の特訓は結局、夕日が地平線に隠れるまで続けられたのだった。
「いやぁ。初瀬もだいぶ上達してきたんだにゃ」
「まだよ。基本となるファーストへの送球から、ランナーがいる場合の状況判断、アウトカウント毎の対応。やらなければならないことは山積みよ」
(……練習試合の日も近づいてきているしね。上達具合の如何によっては実戦の経験を積ませたいわ)
「まあまあ。いきなり全部やるのは無理だよ。一つずつ出来るようにやっていこう!」
「はい。皆さん色々とご指導ありがとうございます……!」
慣れない運動をして初瀬は疲れを感じていた。けどそれと同じくらい出来なかったことが出来るようになる達成感にも包まれていた。皆が自分のことを考えて指導してくれることを本当にありがたいと思い、そしてその指導に応えたいと感じるのであった。
初瀬は家に帰ってくると夕食を食べ、風呂に入り、自分の部屋に入る。今すぐにでもベットで泥のように眠りたいところを抑え、初瀬は本を取り出した。それは彼女が好む小説ではなく、野球部の入部が決まった時に購入した日記だった。眠る前にこれだけはと文章を綴る。今日感じたことを始めとして色々な思いを書き連ねると、最後はこういった文章で締めることにしたのだった。
『これは私にとっては野球部に入って1ページ目の物語なのかもしれません。でも野球部にとっては有原さんが野球同好会を作ることを宣言したことが1ページ目ならば、私が入ったのは10ページ目、100ページ目……あるいはそれ以上なのかもしれません。今日はその物語の中に私も来たんだって、そう強く感じました。不慣れなこと、自信を持てないこと、そういったことも多いですが、やれるだけやってみようと思います。皆で綴る物語の中で。』
日記を閉じて机の引き出しにしまうとベッドに倒れこむ。するとすぐに眠りに落ちてしまい、その寝顔は幸福感を噛みしめていた。
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