皆で綴る物語   作:ゾネサー

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秋大会開幕!

 大会前日の金曜日。バスに揺られながら翼は窓の外をぼおっと眺めていた。彼女の瞳に流れゆく景色が映し出されていく中、窓には冴えない表情の翼が浮かび出されていた。

 

「……ん。翼……寝ないの?」

 

 朝早くからの練習の疲れもあり、ほとんどの部員は沼へと沈み込んでいくように背もたれに身を預けて眠りに落ちていた。するとバスが段差で跳ねるように振動して隣に座っていた河北が目を覚まし、半開きの眼で起きている翼の背を捉え、眠たげな声で話しかける。

 

「うーん。身体は疲れてるんだけど……全然寝れないんだ」

 

「そうなんだ。じゃあ……はい。これ使って」

 

 そう言うと河北はシートベルトを少し押し出すようにして体を動かし、足元に挟むように置いてあるバッグに手を伸ばすと、取り出したアイマスクを翼に手渡した。

 

「ありがとう! 使ってみるね」

 

「うん。ふわぁ……おやすみー」

 

「おやすみー」

 

 河北は睡魔の誘惑に惹かれ瞳を閉じ、再び夢の世界へと足を運ぶ。対して有原は渡されたアイマスクを目を覆うようにつけると、視界が暗闇に包まれていったが、それでも眠ることが出来ないでいた。

 

(椎名さん……)

 

 暗闇に促されるように翼が目を閉じると、椎名家の三姉妹との食事の際にゆかりから告げられた言葉が頭をよぎっていく。

 

「好きなことをいつのまにか好きって言えなくなる。そんな時が……翼にも来るよ」

 

 そしてその言葉と共にゆかりが浮かべた寂しげな表情が彼女の脳裏にこびりついていた。

 

(うーん……。私、椎名さんに何か悪いことしちゃったのかな。好きなこと……つまり野球が好きって言えなくなる? ……もしかして)

 

 翼は自分と椎名の繋がりを思い出していると、小学生の時に対戦したことを思い起こした。

 

(……私、あの試合で椎名さんが野球を好きじゃなくなっちゃうような何かを……しちゃったのかな。小学生の時のことだし、もうほとんど覚えてないけど、もしそうだったら。でもそんなことした覚えは……。緩急を使ってくる厄介なピッチャーだなーって思って、最終回に食らいついてギリギリで逆転出来て……それが原因? いや、でも……)

 

 そして時が流れ、もう少しで泊まる宿舎に着こうというところで東雲が目を覚ます。

 

(いつの間にか寝ていたわね。そろそろ宿舎に着く頃かしら。……ん?)

 

 すると右の方から小さいボリュームで唸るような声が聞こえてくる。

 

(有原さん……寝言? それとも起きているのかしら。アイマスクをしていてよく分からないわね……)

 

「はーい! 皆、そろそろ着くわよ! 起きてー!」

 

 前に座っていた掛橋先生が立ち上がり手を叩くと次々と他の生徒も目を覚まし、すぐに喧騒と言っていいほどの活気が溢れていった。

 

(なんと言っていたのかあまり聞き取れなかったわ。辛うじて『野球』と『好き』というのは聞き取れたけれど。……寝言ね。夢の中でも野球なんて、あまりに有原さんらしすぎるわ……)

 

 河北にアイマスクを返す翼を横目に東雲は呆れるようなため息をつく。やがてバスが宿舎へとたどり着き、荷物を分担して部員が次々へと外へ降りていく。

 

「着いたぞー!」

 

「空気が美味いのだ!」

 

「二人とも、後が支えているよ」

 

 岩城と阿佐田が出口付近で開放感を味わっていると九十九に注意され、慌ててそこから離れていく。すると二人とも違和感を感じ取っていた。

 

「あれ、夏の時とは違うところじゃないか?」

 

「確かにそうなのだ。バーベキュー場もないのだ」

 

「部員が増えたから大人数泊まれるところを選んだみたいだね」

 

「アンタ、またしおり読んでなかったでしょ」

 

 夏大会の時に泊まった宿舎と違うことに気づいた岩城に九十九から補足が入り、倉敷はポケットから読み込まれたしおりを取り出すと感心するように聞いていた阿佐田の頭の上に置くように軽い力加減で叩いた。

 

「そーいえば、先生が作ってくれたしおりに書いてあったな! 読んだんだが、すっかり忘れてたぞ!」

 

「あ、ホントなのだ。書いてあるのだ」

 

 岩城は合点がいったように掌に拳を置き、阿佐田は倉敷の行動に驚いたように表情筋を動かしながらしおりを受け取ると中身を読んで納得していた。

 

「でもまいちん、なんだかテンション高めなのだ」

 

「……そう?」

 

「バスに乗った時もヘッドホンで音楽を聴きながら、鼻歌を歌っていたね」

 

「それは……」

 

「はっはっは! 恥ずかしがらなくてもいいじゃないか! それだけ気合いが入っているということだろう! ウチはそういうの好きだぞ! 燃え上がる青春! 迸るアドレナリン! うぉー! なんだかウチも燃えてきたぞー!」

 

 倉敷が舞い上がっていると感じられたと思いそれを恥ずかしそうにしていると岩城が高笑いと共に遠慮なく左肩を叩く。すると少し痛そうにしながらも倉敷は安堵の表情を浮かべていた。

 

「そういえばこういう時アドレナリンが走る〜とか言うけど、そもそもアドレナリンってなんなのだ?」

 

「えっ。……そ、その……あれだ! 気合いとか……そういうものの、別バージョンとかだろう!」

 

「違いま……いや、そうとも言い切れないのかもしれませんが。少なくとも感情の概念ではありませんよ」

 

「おや? 九十九は知ってるのだ?」

 

「ああ。人の自律神経は交感神経と副交感神経の二つに分けられ、この二つの神経がバランスを保ちながら働いているわけだが……アドレナリンというのは交感神経が活発化した際に副腎髄質から分泌されるホルモンのことだ。それで……」

 

「九十九、待って」

 

「どうしたんだい?」

 

「二人ともパンクしちゃってるわ」

 

「伽奈がいきなり意味不明な呪文を唱え始めたぞ!」

 

「なんか難しそうな言葉がいっぱい出てきたのだ」

 

 九十九の解説は岩城と阿佐田には難しかったようで二人とも頭に疑問符を浮かべて困惑していた。

 

「……弱ったな。可能な限り専門用語は避けているんだが……」

 

「まあ説明聞く限り、身体から分泌される物質の一つってのが分かればいいんじゃない」

 

「なるほど! アドレナリンは身体からドワーっと出てくるわけだな!」

 

「……そうですね。交感神経というのは恐怖や不安、あるいは緊張や興奮を感じた時に活性化します。その際にアドレナリンが副腎から血液中に分泌されるわけです」

 

「……? 怖い時と興奮する時って全然イメージ違うのだ」

 

「そうね……。ただどっちもドキドキした時に起こるんじゃない」

 

「ほう! なんか納得できるのだ!」

 

「実際、アドレナリンが血中に分泌されることで血圧の上昇や心拍数の増加などの促進をするはたらきがあるんだ」

 

「なるほどね」

 

「そしてアドレナリンを出す最も手っ取り早い方法というのはあおいの好きな勝負事をすることだよ」

 

「確かに勝負事は興奮するのだ。丁か半かの大博打をしていると勝負師の血が滾るのだ!」

 

「む……? 勝負事というと……もしかしてウチらがやっている野球の試合でもアドレナリンは出ているのか!?」

 

「勿論。それにスポーツとアドレナリンというのは切っても切れない縁があるんだ。何故ならアドレナリンが脳に行き渡るとエンドルフィン・ドーパミン・ノルアドレナリンといった物質も同時に出てくるため——」

 

「……そこらへんの細かい仕組みは省いた方がいいんじゃない?」

 

「……そのようだね」

 

 再び頭の上に疑問符を浮かべたまま固まってしまう二人を見て倉敷がフォローに入ると、九十九はどう説明しようか頭の中で整理をつけてすぐに話を再開させた。

 

「端的に言えばアドレナリンには痛みや疲れを感じにくくさせる効果があるんだ」

 

「なにっ! そうなのか!?」

 

「特に投手はその効果を実感しやすいかもしれないね」

 

「この前の紅白戦が終わった時、アンタに肩を借りないとベンチまで歩けないくらいの疲労が急に押し寄せてきたけど、そんな状態でも投げ切れたのはそういうことだったのね。アタシはそれこそ気力で投げられたんだと思ってたけど……」

 

「先ほど岩城さんも気合いが……と言っていたが、アドレナリンがより多く分泌されるのは追い込まれた時だ。というのもアドレナリンというのは元々動物が生命の危機に瀕した時に闘うのか、逃げるのかを瞬時に判断するための身体機能なんだ」

 

「おお〜。火事場の馬鹿力ってやつなのだ。……分かったのだ! まいちんは体力きつくて追い込まれても、気合いを入れて完投を目標にして投げたからアドレナリンが疲れを和らげてくれてたのだ。つまり気力で投げられたというのも間違いじゃないのだ」

 

「そうだね。気合いが入るというのは物事を意気込んで、集中して取り組もうとする気持ちが起こるさまを指す表現なんだ。だから気合いとアドレナリンは異なるものではあるが……別バージョン、だったかい? そう捉えてもいいのかもしれないね」

 

「おおー! そうなのか! 凄くすっきりしたぞ!」

 

「さすが九十九! 普段から難しい本ばかり読んでるだけのことはあるのだ!」

 

「……逆にあおいは普段からもう少し本を読んだ方が良い。だって君も看護がっこ——」

 

「わーっ!? ストップ&(アンド)お口チャックなのだ!」

 

「むぐ……」

 

 九十九が言葉を紡ごうとしたところで大声を出した阿佐田は慌てて九十九の口を押さえると、九十九だけに聞こえるように小声で話しかけた。

 

「い、言っちゃダメなのだ!」

 

 すると九十九から手を軽く叩かれて、口を押さえたままだったことに気づいた阿佐田は慌てて手を離した。

 

「ふぅ。誤魔化すようなことではないと思うが……」

 

「ダメなものはダメなのだ! 勝負師のあおいがギャンブラー以外のものを目指すなんて、皆の夢を壊しちゃうのだ!」

 

「そんなことは無いだろう……」

 

「それに、その……は、恥ずかしいのだ……」

 

(それが本音だな……。真面目なところを見られたくないんだろう)

 

「どうかしたのかー?」

 

 赤面して縮こまる阿佐田の様子を見下ろすように窺った九十九は短くため息をつくと、岩城の方に振り返った。

 

「……アドレナリンの他の効果を聞かれただけですよ」

 

「何! 痛みや疲れを感じにくくさせるだけじゃないのか!?」

 

(……ありがとうなのだ)

 

 その返事に阿佐田は目線で感謝の意を伝えると九十九も頷きながら説明を続けていく。

 

「ああ。先程言ったようにアドレナリンは生存本能そのものだから、極限まで追い込まれた場合、生き延びるためにアドレナリンを一気に血流へと流し込む。これにより血管が広がり酸素が通りやすくなるんだ。すると脳内の酸素量が増えて注意力や集中力向上に繋がり、血液中の酸素濃度が上がることで——」

 

(結果だけじゃなく経過も伝えた方が九十九としては落ち着くんでしょうね……)

 

 懲りずに原理を説明する九十九の心情を倉敷がやや呆れながら察していると限界を迎えた岩城が声を上げた。

 

「九十九……すまん! もっとシンプルに頼む!」

 

「……つまり一時的ではあるが身体能力を飛躍的に向上させることが出来るんだ。『ゾーン』に入るというやつだね」

 

「おおっ! それは凄いな! 気合いを入れれば、ウチも凄く体が動くようになるのか?」

 

「いや、先ほど挙げた一つ目の効果に比べるとこちらはかなり追い込まれないと難しいね。なにせ自分のリミッターを外すようなものだから、相当な条件下でないと目に見えて分かるような効果は現れないだろう」

 

「そうかー……簡単にたどり着ける境地ではないということだな!」

 

(……そういえばこの前の紅白戦の有原への二打席目……今思い返しても、あれはアタシの限界を超えたピッチングだったように思える。それにも関わらず、あの時はそんな無理な狙いを通せるような感覚があった。あれはもしかすると『ゾーン』に入っていた……?)

 

 九十九の言葉に直感が働いた倉敷は右手の指先を見つめ、妙に鋭く研ぎ澄まされたような感覚を思い起こしていた。

 

「だが『ゾーン』とまで行かなくても、ある程度のパフォーマンス向上には繋がるね。きっと私たちも意識しないうちにその恩恵は受けているだろう」

 

「ふむ〜。知らなかったのだ。アドレナリンさんには感謝なのだ」

 

「その恩恵を明日も受けるためにも夜更かしせずにしっかり寝るんだよ、あおい」

 

「ふにぃ〜! なんで名指しなのだ! あおいは遠足前日の子供じゃないのだ!」

 

「騒ぎそうだからじゃない?」

 

「まいちんまで酷いのだー!」

 

 二人からの扱いを阿佐田が嘆いていると顎に手を当てて考え込んでいた岩城が不思議そうに問いかけた。

 

「寝ないとそりゃ身体には良くないだろうが……さっきの話とどう関係するんだ?」

 

「最初に自律神経は交感神経と副交感神経の二つに分けられるという話をしたね」

 

「アドレナリンは交感神経が活発化することで分泌されるって話だったわね」

 

「そうだったかあおい……?」

 

「そんなことを言っていたような気はするのだ」

 

「……難しい話ではないさ。簡単に説明すると眠っている時は心と身体を休ませる副交感神経の方が優位に働くため、交感神経を休ませることが出来る」

 

「ほう……」

 

「ふむ……」

 

(ここに来て説明のコツを掴んできたのか……。九十九自身は細かく説明したいところを我慢してるみたいだけど)

 

(本当は自律神経の乱れにより見られる症状やその予防法も触れるべきだと思うのだが……)

 

「しかし寝ないと交感神経を休ませる暇が無くなる。そうなると肝心な時に活発化してくれないというわけだね」

 

「なるほどな! 身体を休める時、神経もまた休みを必要としているわけか!」

 

「分かりやすいのだ〜」

 

「そうなんだ……。アタシは特に気をつけないといけないわね。先発を任されて、それで肝心な時に力を出せなかったら情けないわ」

 

「おお……まいちんがやる気に満ち溢れているのだ」

 

「……当然よ。アタシにとっては待ち望んだリベンジの機会だもの」

 

「リベンジ? 明日戦う高波高校とは試合したことないぞー?」

 

「夏のリベンジよ。打たれまいと初回から全力投球した結果、持たずに野崎に負担を掛けて負けてしまったあの大会の……。アタシはあの試合、先発として果たすべき長いイニング数の投球が出来なかった」

 

(……そうか。だから夏大会が終わってから、自分に厳しくしようと自分が良いプレーをしても笑わないようになんてことをしていたのか……)

 

「……そうだったな。だが一人で背負うな! 夏大会のリベンジをしたい気持ちはウチらも同じだ!」

 

「そうなのだ! 水臭いのだ!」

 

「アンタ達……」

 

「明日の試合、ウチら先輩がプレーで後輩を引っ張っていこうじゃないか!」

 

 右拳を突き上げるようにそう宣言する岩城に他の3人も頷き、明日の試合への士気を高めていくのだった。

 

(あわわ……先輩達凄いやる気……)

 

「どうしたの加奈子。そんなロボットみたいな動きして」

 

「明日試合なんだって思うと、頭が真っ白になってきて……」

 

「もう、今からそれだと明日まで持たないよ」

 

「そ、そんなこと言われても〜」

 

(わたしも二人みたいに頼ってもらえるようにって思ってたのに、まさかスタメンにわたしだけ抜擢されちゃうなんて……そのことの意味が試合が明日に迫って、ようやく身に染みてきたっていうか……)

 

 緊張が身を纏うように包み込みぎこちない動きになっていた永井に新田と近藤は声をかけていた。

 

「大丈夫! なんとかなるって! それに球場での試合は初めてじゃないっしょ!」

 

「た、確かに……」

 

「でも観客が入っての状態だとまた違うかもね」

 

「ひうっ……!?」

 

「こらー! 折角新田ちゃんが珍しく気配りを見せていたというのに!」

 

「ごめんね。けど、試合が始まっていざ観客に圧倒されると大変かと思って」

 

「それは……そうかもねー。自分のプレーを色んな人に見られるわけだからねー」

 

「あばば……」

 

「でも大丈夫っしょ」

 

「うん。ちゃんと最初からそれが分かってれば大丈夫だと思うよ」

 

「な、なんで〜!?」

 

「だって加奈子、スタメン決まっても一杯練習頑張ってたじゃん」

 

「中野さんにセンターの心得を聞いたりして、試合に向けて色々準備していたでしょ?」

 

「あ……」

 

 二人の手が永井の肩に置かれると次第に震えは止まっていった。

 

「加奈ちゃんが精一杯やってきたのは私たちが見てきたから」

 

「試合でも観客の目なんか気にならないくらい頑張ってるところをわたしたちが見るからさ」

 

(……見て、くれてたんだ。今までわたしのことを守ってくれた咲ちゃん、引っ張ってくれた美奈子ちゃん。二人が今度はわたしの背中を見て後押ししてくれてる……)

 

「……うん! 精一杯、やってくるね!」

 

 二人の後押しを受けた永井は気を引き締め直すと、覚悟を決めた表情を見て新田と近藤も顔を見合わせて笑みを溢すのだった。

 

「みんな、荷物は持ったわね。宿舎に入るわよ!」

 

 バスから全員が降りたところで東雲の指示で部員が次々と宿舎の中へと入っていく。翼も宿舎へと向かおうとしたところで後方で重そうに大荷物を運ぶ鈴木に気づいた。

 

「手伝うよ!」

 

「助かるわ……。ちょっと自分の筋力を過信しすぎたみたい」

 

 翼がそのフォローへと向かうべく鈴木のもとに向かい、彼女が元々持っていた荷物を左手だけで持つと、鈴木の持つ大荷物を右手で共に支えた。するとそこにランニングをする集団の声が届いてくる。

 

「帝陽ー! ファイ! ファイ!」

 

「そこまで! 各自ストレッチをしてクールダウンを済ませてから宿舎に戻るように」

 

 二人は一度大荷物を地面に下ろすと、指示を出していた長身の女性が二人に気づき長い青紫色の髪を揺らしながら向かってくる。

 

「里ヶ浜高等学校キャプテン、有原翼さんですね?」

 

「え……あ、はい! そうです!」

 

「私は帝陽学園のキャプテンを務めさせて頂いている乾ケイと申します。以後お見知り置きを」

 

「こちらこそよろしくお願いします!」

 

「私は同じく里ヶ浜のキャッチャーをしている鈴木和香と申します」

 

「ご丁寧にありがとうございます。同じ宿舎に泊まる者同士、少しでも長い滞在となることを願います」

 

「ありがとうございます!」

 

(同じ宿舎だったのね……)

 

「……ところで一つよろしいでしょうか?」

 

 話し込んでいると不意に乾が紫色を帯びた赤い瞳で二人のことを見つめる。

 

「今日からの宿舎入りということですが、大会に向けて現地の環境に慣れるようもう少し早い段階での宿舎入りが望ましいかと」

 

「あまり部費に余裕が無いので、それは出来なかったんです」

 

「部費ぃ……」

 

「……なるほど。そうでしたか。その事情は分かりましたが……一つ警告をしておきましょう」

 

「警告……ですか?」

 

「あまり他校に自分の部の内情を話さないことです。例えば今の情報だけでも貴女方の普段の練習環境レベルを察することが出来ます」

 

「「あ……!」」

 

「それでは失礼します」

 

 乾は一礼すると帝陽の部員のもとに戻り、共にストレッチをしてクールダウンを進めていった。

 

「ごめんなさい。私が余計なことを言ってしまったばかりに……」

 

「ううん! 和香ちゃんが言わなかったら私が同じことを言ってたから、それは気にしなくていいよ! ……それにしても凄い眼力だったね」

 

「蛇に睨まれたカエルの気持ちが分かったわね……」

 

「あれが帝陽が誇るID野球の要、乾ケイだにゃ」

 

「わっ!」

 

「中野さんいつの間に……」

 

「荷物置いても二人が来ないから、たった今様子を見にきたんだにゃ」

 

 乾の眼力に圧倒されていた二人の後ろから突如として中野が現れると、取り出したメモ帳から帝陽のデータを探り出していた。

 

「帝陽は実際にはプレーしないデータ分析の部員がいるほど、徹底した管理野球をしてくるチームだにゃ。その中でもキャプテンでキャッチャーを務める彼女は『不測の事態が殆ど存在しない』とされる広い視野を武器とし、高い統率力に定評があるんだにゃ」

 

「ほえー……凄い人なんだね」

 

「キャッチャー……」

 

「ま、去年の秋大会優勝校と同じ屋根の下なのはびっくりしたけど、もし帝陽と当たるとしたら決勝だから、今から嘆いていてもしょうがないにゃ。ほれ、さっさと宿舎に戻るにゃ」

 

 すると中野は翼が持っていた荷物を手に宿舎へとさっさと戻っていく。中野の意見に同意した二人は大荷物を持ち上げると宿舎へと入っていくのだった。

 そしてその夜。近藤は鈴木にスコアブックのチェックを行ってもらっていた。

 

「凄い……完璧よ。あれからまだ3、4日しか経ってないのに」

 

「咲の記憶力は凄いよー! なんたって『鉄人』のメニューを何も見ずに全部言えるんだから!」

 

「そ、それは自分のお店だからよ」

 

「でも『鉄人』のメニューって軽く100個はあったよね……」

 

「お父さんが色んなメニューを試すからね」

 

「……大丈夫そうね。秋大会のスコアラーは近藤さんにお願いするわ」

 

「分かりました!」

 

「よっ! 『鉄人』の咲ちゃん!」

 

「こら! その呼び方は女の子っぽくないから嫌だって言ってるでしょ!」

 

「やばっ! 逃げろー!」

 

「もう……」

 

 おどけた様子でその場を離れる新田に近藤は呆れたようにため息を吐くと、話を続けた。

 

「確かに記憶力に自信はあるけど、さすがに大変だったわ。普段そこまで難しい本を読んだりしないもの」

 

「えー、意外ー! さきってすっごく難しい本とか読んでそうなのにー」

 

「そんなことないわよ。私が普段読むのなんて恋愛小説か少女マンガくらいだもの」

 

「そうなの!? なんだー。それなら言ってくれればいいのに」

 

「……? どういうこと?」

 

「麻里亜ちゃんがこの前貸してくれた恋愛小説すっごい良かったんだから!」

 

「えっ! 二人とも恋愛小説を読むの? きゃー! 嬉しい!」

 

「わわっ!? 近藤さん落ち着いて、揺らさないで下さい」

 

「あっ、ごめんね。でも嬉しくって!」

 

 急にテンションが上がって初瀬の肩を掴んで身体を揺らす近藤に皆唖然としていた。

 

「近藤さん、恋愛もの好きでいらっしゃったんですね」

 

「それはもう! でも美奈子も加奈ちゃんも花より団子で……語り合ったり、貸し借りする相手がいなかったの」

 

「お団子も好きだけど、花料理もいつか挑戦してみたいとは思ってるよ……!」

 

「……なるほどねー。じゃ、時間あるときに三人で語り合いましょうか!」

 

「良いですね……!」

 

「今度私のおすすめの本持ってくるから、私にも逢坂さんに貸したっていう本読ませてね!」

 

「は、はい。是非!」

 

 普段見ないほどにはテンションの上がった近藤に初瀬と逢坂は戸惑いつつも趣味が合ったことを喜び合う。やがて新田の首根っこを掴むように部屋へと戻ってきた東雲によって電気が消され、部員達は就寝の時を迎えた。

 ——そして日が昇り大会当日。太陽の光が部屋へと突き刺さるように入ってくる。その原因は閉じていたカーテンを岩城が全て開けていったからだった。

 

「朝だぞー! みんな起きろー!」

 

「んん……朝かあ……。ふわぁ……。……あれ、翼は?」

 

 寝ぼけ眼を起こして河北が部屋から出ていくと洗面所で翼の姿を見つけた。彼女は水で顔を洗っており、河北に気づくと手に持ったタオルで顔を拭く。

 

「……おはよう! ともっち!」

 

「うん。おはよー、翼。珍しく早起きだね」

 

「き、今日から大会だもん! いつもみたいに寝坊してられないよ」

 

「あはは、そっか。私も顔洗って良い?」

 

「いいよー。先に部屋に戻ってるね」

 

 翼が使っていた洗面台以外は他の部員で埋まっており、河北は代わるようにその洗面台から出っ放しの水で顔を洗った。

 

「冷たっ! もう……そりゃ冷たい水の方が目は覚めるけど、寒くなってくる時期だし温水にすればいいのにー」

 

 河北は水色のマークがついている蛇口を捻って冷水を止めると、代わりにオレンジ色のマークがついている蛇口を捻って温水で顔を洗うのだった。

 

 準備が整い、バスで球場へと向かっていった皆を待っていたのは開会式だった。前秋大会優勝校の帝陽学園のキャプテンを務める乾が優勝旗の返還を行い、その様子を32校が列に並んで今年度の優勝旗を手にすることを夢にして見守る。やがて開会式が終えられると里ヶ浜高校も一度球場の外へと出ていった。外は他校の生徒達も大勢おり、人混みが彼女らを包囲するようにごった返す。

 

「ねえー、りょー! この後はどうするの?」

 

「第一試合はもうしばらくしたら始まるわ。私たちは今日の最終試合だから、それまでは観客席から試合を見守ることにしましょう」

 

「分かったー! じゃあ先に行って、バミっておくね!」

 

「え……バミっておく?」

 

 困惑した東雲が聞き返した頃には小柄な体を生かして人混みを縫うように球場へと向かっていくと、すぐに見えないところまで行ってしまった。

 

 そして時が流れ、開幕試合前のシートノックが始まっていた。

 

「おーい! 神宮寺! 頑張れよー!」

 

「俺たちとの紅白戦の成果を出してこい!」

 

 その声援に気づいた神宮寺は帽子を取ってスタンドに向かって一礼すると引き締まった表情でノックを再開させた。

 

「……あれ、清城の男子野球部ね。甲子園の出場経験もあるっていう強豪」

 

「強豪……ねぇ」

 

 そんな声援の正体に向月ベンチは気づいていた。

 

「椿。そろそろ飴はしまった方が良いわよ」

 

「はいはい。相変わらず細かいわね、クソキャッチャー」

 

「もうその呼び方にも慣れたわよ……」

 

 仕方なさそうに残った飴を噛むように口に含んで残った棒を包装袋に入れる高坂に向月高校の正捕手が呆れたように額に手を当てる。

 

「強豪っていっても、ここ10年くらいは甲子園に行ってないでしょ。強豪というよりは……“古豪”ってところね。秋大会も予選ベスト4止まりだったみたいだし」

 

「それって経験があるベテランみたいな意味じゃなかったっけ」

 

「だからアンタは細かいのよ。高校野球で古豪って言ったら、昔は良かったけど今は低迷してるとこ指してるようなもんでしょ」

 

「ふーん……? ま、どちらにせよここ一年、準優勝続きのうちが言えたことじゃないでしょ」

 

「ちっ……! まあ、そうね」

 

(うわあ……! あの怖い高坂先輩にここまで言い合えるなんて……やっぱり一軍のキャッチャーは違うなあ)

 

 高坂の高圧的な物言いをものともしない一軍捕手の姿に、夏大会時点では三軍で投げていた投手が二軍や三軍との違いをひしひしと感じていた。

 

「……聞こえてるわよ。誰が怖いですって?」

 

(ふわっ!? 声に出てた……!?)

 

「そりゃアンタは後輩からしたら怖い以外の何者でもないでしょ」

 

「アンタは黙ってなさい」

 

 高坂はキャッチャーを睨みつけながらおもむろに立ち上がると後輩投手の目の前までやってくる。

 

「……アタシはね、忘れてないわよ。アンタが夏大前の練習試合で格下で、しかも出来たばかりの里ヶ浜に5失点を喫したこと」

 

「う……で、でもわたしはその時の悔しさをバネに一軍まで這い上がってきたんです!」

 

「這い上がってきた……ねぇ」

 

「確かに二軍には三年生の引退で人数が減ったことで三軍を組むには人数が足りないという理由で上がりました。けどわたしはそこから一軍への昇格試験をクリアしてここまで上がってきたんです。“名門”向月の投手としてチームの力になるために!」

 

「ならアンタはアタシを超えられる?」

 

「え……いや、それは……」

 

(全国No.1(ナンバーワン)ピッチャーの高坂先輩に……。それは……む、無理だ)

 

「アタシ達は常に優勝、一番を狙っている。なのにチーム内で一番の投手も目指せないのなら、名門向月の看板を軽々しく語るな……!」

 

 質問に戸惑いを見せた後輩投手に高坂は苛立ちを隠そうともせず彼女の背後の壁に手をついて、身体との間に挟むようにして冷たい目で見下ろした。

 

「はいはい。そこでストップ。……試合前に後輩を脅してどうするの」

 

「ふん……!」

 

 高坂の迫力に顔が白くなっていく後輩投手を見兼ねたキャッチャーが割って入ると、高坂は壁から手を離して彼女に背を向けた。

 

「忘れんじゃないわよ。アンタが一軍に上がれたのは、アイツが……アイツがいなくなったことで空きが出たからだってことを」

 

 唇を噛むようにそう告げた高坂は後輩投手から離れていくとベンチに座り直した。

 

「そんなんだから怖いって思われるのよ?」

 

「うっさい」

 

「飴取り出そうとしないの」

 

 飴が入っているポーチに手を伸ばそうとする高坂をキャッチャーは止めると、耳元まで顔を持っていって他の人に聞こえないような小声で話しかけた。

 

「それで……大丈夫なんでしょうね。肘の方は」

 

「ほんっとに細かいわね、アンタは。大丈夫だって言ったでしょ。シュートの球数制限さえ守れば平気よ」

 

「……分かった」

 

 高坂の返事に頷いたキャッチャーは清城のシートノックが終わるのを見て皆に声をかけた。

 対してシートノックを終えた清城は先攻の向月高校がシートノックをする様子を横目に最終確認を行なっていた。

 

「——それが高坂さんを崩す数少ない手です。全員共通の意識として打席に立つようにして下さい」

 

「分かった!」

 

「おっけーだよぉ。9番から7番に打順も上げてもらったし、気合い十分!」

 

「ふふ……」

 

「……? どうしたの神宮寺さん?」

 

「いえ……『女子野球に未練を残さないよう清城に入った』と言っていた貴女を思い出して、今とのギャップに恥ずかしながら笑いが溢れてしまいました」

 

「や、やめてよぉ〜。私の黒歴史時代引っ張って来ないでー」

 

 清城の中堅手が目を瞑りながら耳を軽く塞いで呻き声を上げると清城ベンチにどっと笑いが起きていた。

 

「うー。みんな意地悪さんだ……」

 

 向月のシートノックが終わり、互いに向かい合うように整列して球審の礼に合わせるように向月・清城の挨拶がグラウンドに響き渡る。そして後攻の清城がそれぞれのポジションに散っていくと、神宮寺はストレートを4球、スライダーとシュートを2球ずつ投じて投球練習を済ませ、打席へと向かってくる一番打者に目を向けた。

 

(さあ……こちらは万全の態勢が整いました。今こそ、勝負の時です!)

 

 バッターが右打席に入り準備を整えると球審から上げられた試合開始(プレイボール)の宣言に凛とした顔つきとなった神宮寺のベージュ色の長髪がマウンド上で花咲くように揺れて、牧野のミットを目掛けてボールが投じられ、開幕試合の幕が切って落とされたのだった。


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