翼のダブルプレーにより1回の裏が終了し、里ヶ浜が守備に着こうとした時だった。ベンチから飛び出してきた皆が東雲に呼び止められ、視線が東雲と翼に集まる。
「どうかしたんですか? 早く守備につかないと審判に注意されてしまいますよ」
「はい。なので簡潔に伝えます。今日の有原さんはいつもの有原さんではないわ」
九十九の指摘に同意するように頷いた東雲は溜めを作らずに淡々と告げると、告げられた内容に翼と阿佐田以外の皆がひどく驚き、告げたこと自体に阿佐田も大きく驚いている様子だった。
「え……いや、確かに良くないプレーが続いたけど、だからって……」
「ありがとうともっち。けど、ごめんなさい……。東雲さんの言う通りなんだ」
東雲の言葉に戸惑いながらベンチから河北がフォローを入れようとしたが、翼自身がそれを遮って頭を下げた。
「さっき東雲さんと話して決めたんだ。……私がチームの足を引っ張ってるって東雲さんが判断したら、大人しくベンチに下がるよ」
「ええっ! ちょ、待ってよ。それってわたしが有原の代わりに出るってこと?」
「そうよ」
「いやー……それは、ちょっと荷が重いっていうか……」
「だから心構えをしておいて頂戴。それが今ここで皆に伝えた理由の一つよ」
こちらの様子を窺い始めた審判を警戒しながら東雲は翼と共にベンチに入ると、狼狽する新田を奮い立たせるようにそう言った。
「でも、私は……ベンチに下がりたくない。だから、精一杯頑張る。それしか出来ないけど……それだけは約束するよ」
バットとヘルメットをしまい、グローブをその手に持った翼は腹を括った顔をして皆の目を見渡すようにしながらその言葉を伝える。その言葉を飲み込むのには急すぎてほとんどの者がすぐにこの状況を受け止めきれない中、短いため息を挟んで口を開いたのは倉敷だった。
「…………どこか痛めてるとか、そういうことじゃないのね?」
「はい。それは大丈夫です!」
「ならいい。ほら、行くわよ」
その言葉を聞いた倉敷がマウンドへと上がっていくと、他の皆もそれに引っ張られるようにグラウンドへと散っていく。
(確かにらしくないとは思ってた。けど、本人に自覚があるほど調子が悪いなんてね。……それでも本人がやれると言うのなら、アタシに出来るのはそれを信じてやることだ)
倉敷が準備投球に入ると遅れてやってきた東雲と翼がボール回しに参加し、翼が野崎へと送球を行うのを阿佐田は考え事をしながら見つめていた。
(しのくもがわざわざ皆に打ち明けた理由……。心なしか翼の表情が引き締まった気はするのだ。……もしかして)
野崎がゴロのように自分の方に向かって転がしてくるボールを難なく捌いて投げ返した阿佐田は清城との練習試合で前に痛めた箇所と同じところを捻挫し、それを隠しながらプレーしたことを思い出していた。
(自覚があるのに隠しながらプレーを続けるのは、今思えばかなりの負担になっていたのだ。しのくもの狙いは……打ち明けることで、その重荷になってる負担を減らしてあげること。確かにつばさにとっては、後はもう頑張るしかないこの状況は迷わなくていいかもなのだ。……けど……)
阿佐田は周りを見渡して一人一人の顔色を窺っていく。
(チームの軸のつばさがこんな状態だと分かれば、皆多かれ少なかれ動揺するのだ。あおいは察しがついていたからまだしも……。……それでもしのくもは賭けたのだ。つばさ一人に背負わせるより、チームとしての強さに。……あおいも覚悟を決めるのだ)
十人十色の表情を見せる皆を見て阿佐田も強張る表情筋を和らげるように右手で頬をほぐすと、準備投球やボール回しが終わり、2回の表が始まろうとしていた。
「フレーッ! フレーッ! 後ろにはウチがついてるぞ!」
(外野からピッチャーに声掛けるのって一苦労なのに、よくもまあランナーが出てないタイミングで……)
「岩城先輩……」
腕を交互に伸ばしエールを飛ばす岩城にライトをこなしている中条が呆れるような眼差しでそれを見ていると、翼は気合いを入れ直すようにミットに拳を入れていた。
(試合は始まってる。もう止まってはくれない……。とにかく目の前の一球一球に食らいつくんだ!)
(有原さんの調子が悪い理由……それ自体を突き止める事は出来なかった。悩んでいることはあると言っていたけど、それは試合中は出来るだけ気にしないようにしていると語っていたし……)
乾いたミットの音を鳴らす翼を横目で見ていた東雲は右打席に中条が入り間髪入れずにバットを構えるのに気づくと、そちらに視線を移して打球に備えた。
(……正直あまりにも予想外の告白で、頭の整理がおいついていない。けど、倉敷先輩が動じず私のサインを待ってくれている。……先輩の言葉を借りるなら、『今はやることやるだけ』なのかもしれないわね)
鈴木が顔を上げてマスク越しにバットを構える中条の様子を見ると、彼女が着ている縦のラインが入った白のユニフォームの胸の部分に刻まれた高波の二文字がだらんと垂れ下がっているように感じられた。
「ねえ。今だから聞くけどさ……どうして明菜をキャプテンに指名したの? 前キャプテンさん」
「ああ……やっぱり気になってた?」
「そりゃね……。明菜は実力はあるし、初回からバッターに声を掛けてるみたいに周りに気を配れる性格だけど……問題も山積みだったじゃない。例えば……あれ」
9分割のアウトローを狙って7割ストレートが投じられると中条は目線も動かさずにこのボールを見送った。
「……ストライク!」
「得点圏打率7割6厘ながら打率1割8分8厘の理由。あの子は得点圏にランナーがいない時は盗塁の援護くらいしかバットを振らない。だからチャンス以外の打席は全部見逃し三振」
「……そうね。私もそれは明菜の良くないところだと思ってるわ」
(コントロールはいつも通り精密……。この状況でなんて精神力)
(宿舎の前でアタシたちは誓った。こんな状況だからこそ、プレーで後輩を引っ張る時。有原だけじゃない……野崎も鈴木も永井も、東雲だって。アタシはエースとしてピッチングでチームを引っ張る!)
精度の変わらないコントロールに感嘆しながら鈴木がボールを投げ返していると、高波ベンチから声援が飛ばされる。
「キャプテン! 振っていきましょう!」
「轟音スイング見せてください!」
「……!」
(……地面をならした? 打席に入った時は無造作にバットを構えただけだったのに)
訝しむ鈴木の視線をよそに中条は先ほど肩に置くようにしていたバットを浮かせるようにして構え直す。そして2球目のボールがインコース低めに投じられると、そのバットを振り出した。
(振ってきた……! けれど見極めが甘い。これは低めに外させたボール球!)
ボール1.5個分低く外れたストレートに振り出されたバットがボールの上を掠るように捉えると、鈴木は目の前の空気が揺れるような感覚を覚えていた。
(なんてスイング……! けど当たりはボテボテ……!?)
打球は三遊間へと転がっていくと当たりは良くないものの、強烈なスピンがかかった打球が加速するように転がっていく。
(くっ。これは……飛びついてやっと届くかどうか)
(……捕れる!)
「……ショート!」
(……!)
ショート寄りに転がっていたゴロに鈴木は一瞬の迷いを捨てて翼に捕球の指示を出すと里ヶ浜ナインに緊張が走った。
(なんでボールに身体がついていかないか、理由は分からないけど。でも今までやってきたことは……無駄にはさせない!)
(ボールの正面に身体を入れて腰を低く落とした! ここまでは問題ない。けど捕球位置が少し深い……打球スピード自体は遅かったことを考えると、のんびりしている暇はないわよ)
三遊間やや深めの位置でこの打球を正面に入れて待った翼は打球が跳ねるところをミットを下に向けて掴み取った。そして捕球から急ぐように左足を一塁へと向けると送球を行った。
(……! 送球が低いのだ。……これは!?)
翼の送球は一塁に入った野崎のカバーに走り込んでいた阿佐田から低く見え悪送球をよぎらせると、ボールはベース手前でバウンドした。野崎はこのボールをすくいあげるように捕りにいき、中条も一塁ベースを駆け抜けた。
「……アウト!」
(よ、良かった……とっさにこれが出来た)
「あれは……初瀬がよくやってるワンバウンド送球だにゃ!?」
「あ……はい。あれは元々ボールが浮かない確実な送球が出来る様にって有原さんに特訓してもらったんです」
「にゃるほどにゃ……すぐ送球しないと間に合わないけど今の調子だと浮いちゃうかもしれないから、あの投げ方を選択したんだにゃ」
「すぅ……ワンナウトー! 一つずつ取っていこう!」
「翼さん……はい! この調子で行きましょう!」
(……本当は迷ってたんです。どこかを痛めてるわけじゃないという言葉を信じるべきか。ですが、あの時皆さんの目を見て打ち明けた告白は本心だったように思えます。……信じますあの言葉を。信じて……その上で私に出来ることを探したい)
大きく息を吸い込んで精一杯腹から声を出す翼に野崎は安堵したような笑みを溢すと、ボールを倉敷に投げ返しながら共に声を上げていった。
「……驚いた。まさか明菜がこの場面でバットを振るなんて」
「これが明菜をキャプテンにした理由の一つよ。皆の指標になるキャプテンがバットを振る素振りも無かったら、士気が下がる。それが分からない子じゃないからね」
「んー。そもそもが怠慢な感じだからな……」
「それはそうね。けど、あの子がバットを振らないのは……理由はあるのよ。一応ね」
「どういう理由?」
「それを説明するには……あなたには前に話したっけ。自律神経は交感神経と副交感神経の二つに分けられるって話」
「聞いた聞いた。交感神経が身体とか心にアクセル踏ませる時に働く方で、副交感神経がブレーキ踏ませる役割があるんだっけ」
「そう。それでね。明菜は……話を聞いてみた限り、夜型なの」
「夜型?」
「うん。本来人間の身体の中には体内時計があって、身体のリズムを司る自律神経は上手く昼夜にリンクするように出来てるの。太陽の光を浴びたら交感神経が活発化して、太陽が沈んだら副交感神経が優位になるって具合にね。けど……あの子は逆。昼夜が逆転しているの」
「あー……そういえばたまに練習中にうたた寝することあったよね」
「そんなこともあったわね。夜なんで起きてるかって聞いたらゲームしてるって言ってたわ」
「今どきって感じだね」
「でもね……液晶の光は交感神経を活性化させてしまうの。本来夜は副交感神経が優位になって、交感神経を休ませないといけないのに」
「寝て交感神経を休ませないと、肝心な時に活発化してくれないんだっけ」
「ええ。例えば昨日寝不足で今日の試合に挑むだけでも交感神経が活性化しづらくなって、アドレナリンが分泌されにくくなるから、ボールに対する反応が遅れたりでパフォーマンスが落ちる。それなのにあの子はずっとその生活を続けてしまっているから……自律神経のバランスが完全に乱れてしまっているのよ」
「つ、つまり……明菜は私たちでいうところの起きたばかりの状態で打席に入ってる感じなの?」
「……大体そんなところね」
「そ、そんなの打てるわけがない……。あっ! だからあの子はバットを振らないのか。打てる感じが1ミリもしないから……」
「まあ、それでも怠慢だとは思うわよ。明菜のスイングなら芯を外そうとヒットになる可能性はあるんだから」
「確かに……ん? でもおかしくないか。それなら得点圏にランナーがいようと打てないだろう」
「明菜はね……自律神経のバランスが乱れた状態に身体が慣れてきてしまっているの。それで、アドレナリンは興奮状態になるとよく分泌されるんだけど……明菜は自分の打席の時に得点圏にランナーがいると凄く興奮するじゃない?」
「トランス状態って感じになるよね。ちょっと怖いくらいに」
「そう……。普通のバッターなら元々試合に入れ込んでるからチャンスに興奮しても80から100にアドレナリンが沸騰していくイメージなんだけど、明菜の場合ほとんど0の状態から一気に100まで血流にアドレナリンが流し込まれて……得点圏のランナーという条件付きで超集中状態……いわゆる『ゾーン』に入ることが出来るのよ」
右打席に入った5番打者がインコース低め、内にボール一つ分外した7割ストレートをすくいあげるように弾き返し、話し込んでいた2人のOGもそちらへと目を向けると、岩城がこのレフト線に放たれた打球に突っ込もうとしていた。
「フェアです! 確実に!」
「……! くぅ……分かった!」
頭上を越えていく打球の軌道を見定めた東雲から指示が飛ばされると岩城は無理に突っ込むのをやめて回り込み、フェアゾーンに落ちた打球がバウンドしたところを収めるとすかさず二塁に送球した。一塁ベースを回ったところで足を止めていたバッターランナーはそれを見てベースに戻っていく。
続く6番打者が右打席に入るとバントの構えを取らないバッターを見て、ここは送りバントは無いと判断した鈴木はインローの際どいコースを要求する。すると倉敷はこのサインに首を振った。
(今打たれたコースを続けて投げたくないのかしら。とはいえここはゲッツー狙いで低めを攻めたい。……ここにお願いします)
(分かった)
(ウチらの強みは長打は少ない代わりに繋いでいって、チャンスをモノにする勝負強さ。この場面……ウチはチームバッティングに徹するよ)
次に出されたサインに頷いた倉敷がランナーを見てからすぐにクイックモーションに入るとアウトローへと7割ストレートが投じられる。
(来た! アウトコース。スピードはさほどないからコースを絞れば高さは投げてからでも合わせられる。これを右方向に……ゴロで打つ!)
(低めに一つ分外したボールに食いついてきた……! ゲッツーいける?)
このボールに初球からバッターが手を出すとコースに逆らわず流して放たれた打球は一二塁間へと転がっていく。
(く……ヒットコースに。……!)
「いいのだゆっきー! 任せるのだ!」
牽制に備えて一塁に寄っていた野崎がこの打球に反応して足を踏み出すが、バットが振り出されてから一二塁間方向に動き始めていた阿佐田はそれを制するとこの打球が外野の芝に抜けようというところでミットを伸ばす形で捕球した。
(セカンドは……無理ね)
「ファーストに!」
「ほいなのだ!」
捕球から二歩、三歩と踏み出して体勢を整えた阿佐田はスナップスローでボールを投げるとランナーがベースを駆け抜ける前に一塁ベースに戻っていた野崎に送球が届き、バッターランナーはアウトになった。
「阿佐田先輩ナイスプレーです!」
「あおいにお任せなのだー!」
(阿佐田先輩の動き出しが早かったからアウトになったけど、今のもボール球をヒットにされかけた……)
(ちぇー、ヒット一つ損した。けど繋いだよ)
二遊間同士翼と阿佐田が声を掛け合っている中、鈴木がアウトになったバッターを見ているとすれ違うように次の7番打者が向かってきていた。
「ツーアウト! 外野前進! 無失点で切り抜けましょう!」
(それでいいにゃ。高波は長打が多いチームじゃない。ここは外野を前に出してポテンヒットを防ぎにいっていい場面だにゃ)
2アウトランナー二塁。岩城、永井、九十九が前に出てくると右打席に入り準備を整えた7番バッターがバットを構える。
(構えは後ろ足より前足をホームベースに近づけて踏み込むクローズドスタンス。身体の開きが抑えられる構え……コントロールが完全じゃないチェンジアップは使いづらい)
(考え込むわね……どれだけ厳しい要求でも構わないわよ)
(このバッターの細かいデータはないけど、予め踏み込んでる分アウトコースが打ちやすいはず。身体の開きも抑えられているから逆方向へ強い打球が飛ばしやすい……高波の特徴、繋ぐ打線にも合致するし恐らく間違ってない。その上でどこに投げるか。いつもなら得意なコースに僅かに外したボール球を振らせてアウトに取るけど……。……初球はここにお願いします)
(……分かった。そこに投げ込んでやればいいのね)
熟考の末にサインが送られると倉敷はそのサインに迷わず頷き、ボールを長く持った。そしてクイックモーションに入ると7割ストレートが投じられたのはインローだった。このボールにバットが振り出されると、そのボールの右を通過するように振られたスイングは空を切った。
「ストライク!」
(むぅ。やなとこ投げてくるねー)
(よし……まず1ストライク。スイングも窮屈そうね)
打ち辛そうにしたバッターが先ほどより立ち位置を少し左にずらすのを見た鈴木は次のサインを送った。
(アウトコースじゃないのね。……インコース低め、9分割より厳しいベースの角を狙って……!)
2球目が投じられるとインローの際どいコースに投じられた7割ストレートをバッターは手が出せずに見送った。
「……ボール!」
(危なーい。あそこストライク取られたらやばいねー)
(惜しい。けど際どいコースに投げ切れてる。さすがにこの精度でストライクを取れないのは想定内……次はこっちにお願いします)
(立ち位置ずらしたから振ってくるかと思ったけど、見送ったわね。……ここで外か)
3球目が投じられるとアウトローに投じられたボールにバッターはスイングの始動に入ったが、外に外れてると感じてスイングを中断すると、ボール2つ分外された7割ストレートがキャッチャーミットに収まった。
「ボール!」
(今のボールよりさっきのインローの方がストライクゾーンに近いボールだった。それにも関わらずこちらに反応してきた……やはり打ちたいのは外ね)
(やっば……今ので立ち位置戻して踏み込む作戦見られちゃった。外に大きく外してきたし、内に攻めてくるか……?)
(さすがに得点圏にランナーいると慎重にならざるを得ないのかしら。……! なんて思っていたら……)
サインに首を縦に振った倉敷がクイックモーションからリリースの瞬間まで指先でボールに触れるようにして投げ込むと、インコースに投げられたボールにバッターは反応してバットを振り出した。
(このくらいのストレートなら内でも打ってみせる! ……!)
(6分割……インコース真ん中に全力ストレート。これで勝負!)
低めに合わせるように振ろうとしたバッターがスイングの軌道を修正しながらバットを振ると、打ち上げられた打球は三遊間を越えていく。
「オーライ! 任せろ!」
(あの球速のストレートに差し込まれた……!?)
前進していた岩城がさらに前に出てくると自分が捕るとアピールし東雲も翼も深追いせずに立ち止まる。やがて高々と上がった打球が落ちてくると岩城の構えたミットに収められた。
「アウト!」
(くっ……!)
(よし……勝負強い打線といってもチャンスを作られたら必ず得点されるわけじゃない。こうやって地道に抑えていけばいい……!)
二塁ランナーが打球が上がっている間に僅かな落球の望みにかけて三塁ベースを蹴りホームへと向かっていたが、アウトのコールを聞いて顔をしかめながらベンチへと戻っていった。
(今までもボール球を捉えられることはあった。コースに決まったボールは野手の捕れる位置に飛びやすいから強くは意識してこなかったけど……意識しておいた方が良さそうね。ボール球も安全ではないことを)
「ねえ鈴木」
「はい。なんですか?」
「あそこで全力ストレートなのは7割との緩急を使ったのは分かるんだけど、なんでインコース真ん中なの?」
「バッターは外に意識があったようなのでインコースに、ただ低めは目付けしてましたし、バットを縦に出せる分窮屈さが幾分か軽減されていたように感じたんです。けれど高めは外野を前に出していましたしリスクが高過ぎると思いました。なので全力投球でも縦3横2で投げられるコントロールを生かしてインコース真ん中で勝負したんです」
「なるほどね……よく分かったわ。ありがと。この調子で抑えていきましょう」
「はい!」
考えを纏めながらベンチへと戻る鈴木に倉敷が話しかけにいき、リードの意図を聞いて腑に落ちたような表情を浮かべるとここからも無失点で抑える気概を見せ、鈴木も力強く返事を返していた。
そして2回裏の攻撃。右打席には4番の東雲が入っていた。
(有原さんの状態を伝えたことでチームは揺れた……けど、踏ん張ってくれた。有原さんも万全ではないにしろ、それなりの動きは保てている。後は先取点。
集中した面持ちで打席に立つ東雲に投じられた初球はアウトコースへのストレート、中へと入ってくる軌道だったが、これを東雲は見送った。
「ボール!」
(低めに外したボールを見たか……)
(打ちたくなる軌道……けどボール球はボール球。打率というのは難しいボールを打つことで残るんじゃない。甘いボールを逃さないことで残るのよ)
続く2球目に投じられたストレートがインコース真ん中へと向かっていくとシュート回転したボールが内に変化していき、東雲は始動を溜めたスイングをそのまま止めた。
「……ストライク!」
(クセのある変化ね……溜めすぎると差し込まれるかもしれない)
(よしよし、内の良いとこに決まった。もう一球内に。浮かさないでよー?)
(はいよ)
3球目がインコース低めへと投じられると始動に入った東雲がそのままバットを振り出し、振り切られたバットが左肩の先まで回った。すると捉えられた打球が三塁線へと放たれ、サードが飛びつく先を抜けていく。
「……ファール!」
三塁線、僅かにファールゾーンに逸れた場所でバウンドした打球が鋭く外野まで転がっていくが、ファールのコールが為される。
(くっ、思ったよりストレートのスピードが遅い。まだ溜められたわね)
(怖いスイングしてるなあ……今のも悪くないコースだったんだけど。まあ後はこれを振らせよう)
(了解)
そして4球目が投じられるとアウトコース低めに投じられたボールに東雲は始動を溜めるとバックスイングからフォワードスイングに移行するタイミングでバットを無理やり止めにいった。
「ボール!」
「スイング!」
外へと外れていたこのボールにスイングを中断した東雲。キャッチャーがスイングを主張し一塁審判に確認が行われる。
「……ノースイング!」
(えー。振ってたでしょー)
(危ない……辛うじてバットを止められた。今のが外へと逃げていく変化球。ストレート自体のスピードがあまりに遅いから、変化球のスピードだと感知するのが遅れてしまった。……前の有原さんの打席……)
スイングを取られなかったことに安堵しながらも表情に出さない東雲に対し、ピッチャーは口を尖らせていた。そんな中、東雲は先ほどの有原の打席を思い出す。
(あの場面、有原さんにも右打ちの意識は少なからずあったはず。けどあのボールをストレートだと判断した場合、シュート変化に備える形になり、逆に変化するこのボールを捉えるのはバットの先になる。右方向に打とうとしてもストレートのタイミングでより遅いこのボールをバットの先で捉えたら……有原さんの調子ばかりに気を取られてる場合ではないかもしれない。このピッチャー、厄介よ)
一度打席を外して考えを纏めた東雲は意識を切り替えながらバッターボックスに入り直すと次の投球に備えた。
(まだ変化球にタイミングは合ってない。ここはストライクゾーンで勝負だ)
(ストライクにね。高さは気をつけよう)
2ボール2ストライクから5球目。投じられたボールはアウトコース低めへと向かっていく。
(ストレート自体は速くない。だから溜めて……溜めて……)
このボールを引きつけた東雲はようやく足を踏み込むと外へと逃げる軌道に左足をバッターボックスギリギリまで踏み込んだ。
(身体を開くのをギリギリまで我慢してから……振る時は一瞬を捉える!)
左足を内側に捻り軸足とすると溜めた腰を鋭く開いてバットが振り切られた。
「……! セカン!」
「おうっ……!?」
芯で捉えられたスピードのある打球はセカンドの横をライナーで抜けていくと、バウンドした打球は右中間を切り裂くように転がっていき、外野フェンスに跳ね返ったボールをセンターが処理して二塁に送球したが、送球が届く前に東雲はスライディングの必要もなく二塁へと到達していた。
「東雲さん、ナイバッチー!」
(あの変化……恐らくだけどスライダー。なんとか4番としての役目は果たせたわね)
バッティンググローブを外す東雲に翼と共に声援を送っていた逢坂は紅白戦での出来事を思い出していた。
「龍ちゃん。4番に求められるのって……相手ピッチャーの一番自信のあるボールを打って、その後のバッターを楽にすること?」
「私はそう考えているわ」
(翼ちゃんが打ち取られた外に逃げる球……龍ちゃんまで打てなかったら、みんなにとって結構嫌なイメージのあるボールになってたはず。……これが4番のバッティングなのね)
「はっはっは! よく打った! 後はウチに任せておけ!」
岩城が高笑いと共に左打席に入るとアウトコースに投じられたストレートに初球から手を出しにいく。
「ストライク!」
「なにっ! ボールはどこだ!」
(……心の声だだ漏れだなこの人……)
アウトコースからシュート変化して曲がっていったストレートはボールゾーンで捕球されており、そのミットを見た岩城はキャッチャーから見ても分かるように驚いていた。続く2球目もアウトコース真ん中に投じられボールゾーンへと曲がっていく軌道のストレートを振ってしまい、あっさりと2ストライクに追い込まれる。
(岩城先輩があのグリップエンドの厚いバットに変えたことで外にも強くなったとはいえ、外れたボールにはさすがに届かない……。選球眼があまり良くない岩城先輩にとって、目線をなぞるように外へ逃げていくあのストレートは打ちづらいかもしれない)
「ふんぬ……!」
「……ボール!」
(さすがに3球連続では引っかからないか。でもこのバッターが選球眼無いことはわかった。ちっこいバッターだしパワーも無いだろう。高めの釣り球で仕留めよう)
(はいよ)
三度アウトコースに投じられたボールになんとか踏みとどまりスイングを止めた岩城に4球目が投じられると今度は真ん中高め。ボール2つ分は外れていたボールにバットが振り出された。
「どっ……りゃあああ!」
このボールに対して伸び上がるようにバットを振り出した岩城は高めに外れていたボールの芯の僅か下を捉えるようにしてバットを振り切った。
(なんて無茶な。高めをさらにすくいあげるように打っても、浅いフライが精一杯……!?)
「東雲さん戻って! タッチアップいける!」
「ええ!」
思い切り引っ張るように打ち上げられた打球は高くグングンと伸びていくと、やがて上に向かうのにエネルギーを使い尽くしたボールはそのまま下へと落ちていき、定位置より少し下がった位置でライトが捕球して、岩城はフライアウトに取られた。
「ゴー!」
ライトに背を向けた東雲はサードコーチャーの河北の指示でスタートを切ると、中条からの送球がサードに届き、タッチが行われた。
「セーフ!」
正確ではあったが強肩ではない中条の深めの位置からの送球は東雲のスライディングには間に合わず、一拍置いてからのタッチになりセーフとなった。
(嘘でしょ。あんな身体でパワフルな打球を……くそっ、見誤ったわね)
「ワンナウト! 内外野前進! このピンチ凌ぐわよ!」
1アウトランナー三塁となり、右打席にはこの試合6番に入った初スタメンの永井が向かっていく。
(この試合初めてのチャンス……! 絶対モノにしないと……!)
「加奈ちゃん。もっと力抜いて!」
「はっ……!」
ぎこちない足の動きで歩いていく永井に近藤が声をかけると、振り向いた永井は近藤の横で目の周りを指で丸を作って囲い永井へと伸ばすようなジェスチャーを見せる新田が目に入った。
(……そうだ。二人がわたしの背中を見て後押ししてくれてるんだ。一人じゃない……大丈夫!)
頷いた永井に近藤と新田は安心したような笑みを見せると、今度こそ永井は右打席へと入った。
(サインは……)
(よし、ちゃんと落ち着いてサインを確認してくれたのだ。サインは……これなのだ)
(えっ、フリーのサイン……!?)
(初公式戦初打席……いきなり、あれやこれやと細かい指示を出すのは混乱のもとなのだ。まずはしっかり振ってくるのだ)
(わ、分かりました。……よしっ、とにかく振ってみよう!)
内外野が前に出てくる中、気合いを込めてバットを構えた永井にボールが投じられた。
(……! ボールが背中から……!?)
「ストライク!」
投じられたストレートに思わず腰を引いた永井だったが、インコース真ん中へと決まったボールにストライクのコールが上がっていた。
(上から投げられるのと横から投げられるのって全然違うんだ……)
(このバッター、サイドスローに慣れてないな。次も内だ。腰が引けてるうちは打てない……もう一球ストライク取るよ)
(そうだな。ここは早めに追い込んでおこう。スクイズも怖いしな)
このサインに頷いたピッチャーはリードをじりじりと広げる東雲に目をやると、東雲はその足を止め、互いにその状態を保つように数秒の時が流れると、ピッチャーが前を向き投球姿勢に入った。
(横から投げる体勢に入れば牽制はない……!)
東雲がリードを少し広げると投じられたボールがインコース低めへと向かっていく。
(のけぞれっ!)
(わたしは今まで守ってもらって、引っ張ってもらってきた。でも、わたしも咲ちゃんや美奈子ちゃんみたいに頼ってもらえるようになりたくて……がむしゃらにこのバットを振ってきたんだ!)
(踏み込んだ!?)
(……! あのボールは……!)
インコースのボールにも腰を引かずに踏み込んだ永井がスイングの始動に入った瞬間、東雲はこのボールが中へと切れ込んでいくスライダーだと気づいたが、永井は意に介さずストレートのタイミングでバットを振り切った。
「ひゃん!?」
するとストレートを捉えるように振った永井はボールを芯で捉えた感覚が無く、振り切った勢いで体勢を崩していた。
「……ゴー! ……!?」
(東雲さん、私が言うより一瞬早くスタートを切った……!)
ボールの上を擦るように打った当たりはボテボテのゴロ。これをキャッチャーが処理しようとマスクを外してボールを追いかける。
「無理だ! 私が捕る。ホームで刺すよ!」
「……! 分かった!」
打球はあわやキャッチャーに捕られるような勢いで転がっていたが、振り切ったことで勢いを保っており、体勢を崩した永井が一塁に向かって走り出すと、足を踏み出したキャッチャーはホームベースへと戻っていく。
(下手に回り込むより……ここは!)
「頼んだっ!」
東雲が正面からスピードを殺さずにスライディングを敢行すると捕球したサードがそのままグラブトスにいき、目の高さでボールを受け取ったキャッチャーがこのスライディングをブロックにいく。
(……!)
球審の判定をバックに一塁へと送球が行われると、永井は一塁ベースを走り抜け、一塁審判のコールが永井の耳に聞こえてくる。
「……アウト!」
(ああっ……。……あれ、東雲さん……間に合った?)
体勢を立て直してからとにかく走り抜けることに意識を向けていた永井は後ろで起こった出来事を把握しておらず不思議そうな表情をしていたが、一塁コーチャーの宇喜多が嬉しそうにその結果を言うとその顔が屈託のない笑みへと変わっていく。
「永井さん。よく振り切ったわ。おかげで打球の勢いが死なずに、ホームへと突っ込むことが出来た」
「は、はいっ。芯を外した時はもうダメかと思いましたが、とにかく振り切ることだけを考えました!」
球審が下した判定はセーフ。東雲のホームインが認められ、この試合の先取点は里ヶ浜が手にした。立役者の永井を新田を始めとする新入部員が中心となってもみくちゃにする中、水分を取っていた東雲に中野が話しかける。
「しかしよくもまあ、迷わず突っ込んだにゃ。結構際どかったにゃ」
「そうね。けれど突っ込む判断をしたのは河北さんよ」
「どういうことにゃ?」
「私があの場面やるべきだったのは少しでもリードを広げることと、一歩でも早くスタートを切ることよ。紅白戦で後ろを打っていた永井さんがあのままバットを振り切るのは分かっていたから、スタートは確かに迷わず切ったわ」
「けど勢いのあるゴロになった時はどうするんだにゃ? 内野は前進していたにゃ。挟殺プレーに持ち込まれる危険もあったにゃ」
「そうね。もしその場合は河北さんのストップの指示に反応してベースに即座に戻れば良かった。サードも前に出ていたからすぐにはベースにはつけないもの」
「にゃるほど……そういうことだったのにゃ」
(東雲の走塁判断は参考になるにゃ。それにスタートを早く切ったのも二人を信頼してたからだったんだにゃ……)
2アウトランナー無しとなり左打席に野崎が入ったところ、キャッチャーがタイムを取ってマウンドに駆け寄り間を置いていた。
「あの、ピッチャーの方以外にあまり失点の動揺が見られないような……。失点って少なからず気にしてしまうと思うんですが……」
「ああ……高波は強打で打ち勝ってきたチームだから、良くも悪くも失点には慣れてるみたいだにゃ。取られた分も打ち返せばいいってスタイルみたいだにゃ」
「そうなんですか……」
高波ナインを観察していた初瀬が違和感に気づいたが、偵察してデータを纏めていた中野がその正体を答えていた。するとタイムが終わり初球、少し内に甘く入ったストレートに野崎がバットを振り切ると芯より少し先で捉えられた打球がライナーで放たれた。
「ふっ!」
「あっ!」
しかしライト正面に飛んだスピードのある打球を中条が難なくキャッチしたことで野崎はアウトになり、3アウトチェンジ。2回の裏が終了した。
そして3回の表。1点の援護を貰った倉敷は7割ストレートと全力投球の緩急を中心とした鈴木のリードを受けたピッチングで攻める。
(くっ……!)
(私と同じく8番はキャッチャー……。他のバッターに比べると打撃力が落ちている予想は当たっていたようね)
「アウト!」
アウトローの全力投球に対し振り遅れたバッターがバットを振り切る前に打球が放たれ、ファースト正面のゴロで野崎自身がベースを踏み1アウトを取っていた。
(そして次はピッチャー……さっきの失点を取り返したいはず。ここは高めのボール球で誘いましょう)
アウトハイに投じた7割ストレートはボール1個分高めに外れていたが、反応したバッターがこのボールの下を捉えると打ち上げられた打球はセンターへと打ち上がった。
(下がりすぎず……ここ。ここに落ちてくるボールをミットを構えて……!)
この試合まだ守備でボールに触れていない永井が正面に放たれた距離感の掴みづらい打球に足を止めてこのボールを見上げると上に構えたミットで落ちてくるボールをキャッチしにいった。
「アウト!」
「やった……!」
「いいぞ加奈子! その調子だ!」
無事に捕球出来たことに安堵しながら永井がボールを投げ返し、2アウトランナー無しで打席には1番バッターが入ってくる。
(さっきはインハイのボール球を打たされたからな……誘い球には気をつけないと)
初球の全力投球が6分割のアウトローに入り2球目。インコース低めに投じられた7割ストレートが9分割のインローに投じられ、振り出されたバットから放たれた打球は大きくファールになった。
(遅いストレートからの速いストレートの緩急差に気を付けろって言われたけど……逆も使ってくるのか。けどどっちのストレートも手がつけられないってスピードじゃないんだ。粘っていくぞ)
3球目がインハイに投じられるとバットが止められ、ボール2つ分内に外された7割ストレートにボールのコールが上がる。
(またインハイのストレートを打たせようとしたのか? 同じ手にはかからないぞ)
(……踏み込むタイミングは速いストレートね。振り遅れたらどうしようもないから速めにタイミングを合わせて、一拍置いて遅めに対応するつもりかしら。倉敷先輩、ボール球でも構わないので……これを)
(分かった。……外に外すくらいの気持ちで、低めに……!)
そして4球目が投じられると全力投球のタイミングで踏み込んだ1番バッターは虚を突かれた表情を浮かべる。
(この試合ほとんど投げてないチェンジアップ……!?)
既に踏み込んだバッターは崩れながらスイングを行うと外に外れていたこのチェンジアップにタイミングが合わず、ボールは鈴木のミットにしっかり収まった。
「ストライク! バッターアウト!」
「決まりましたね!」
「そうね。それなりに外れてたけど……止まらないものね」
テンポよく三者凡退に打ち取り、3回の裏。8番バッターとして打席に立つ鈴木は1ボール1ストライクから外に投じられた際どいストレートを見送っていた。
「……ストライク!」
(くっ、バックドアの形で入ったわね。それにこのキャッチャーの捕球の仕方……これはストレートがシュート回転する前提で構えているわね。確かにストレートはバックスピンをかけるばかりが全てじゃない。むしろ他との違いがあることで有効に働くこともあるわ)
(初球の感じだと内のストレートにあってなかったからな……2球目はスライダーが外れたし、ここは内のストレートで勝負しよう)
(分かった。いくらうちの打線が強打だからってポンポン点をやる気はない。これ以上の失点は許さない……!)
インコース真ん中へとストレートが投じられる瞬間、鈴木は前足をホームベースから離れた位置へと動かした。
(内へと切れ込むこの軌道には前足を後ろに開く、このオープンスタンスよ。これなら背中から来るようなボールの出どころも見やすいし、身体を開いている分内に切れ込むこの軌道に対応しやすい……!)
(リードを読まれてたか……!?)
そしてこのボールに対してバットが振られると……打球は平凡な当たりで三遊間へと転がっていった。
「アウト!」
(くっ、しまった……。身体の開きが早くて、スイングの力が逃げてしまった。原理は分かっても実践する力が足りないなんて……悔しいわ)
サードゴロで打ち取られた鈴木に続いて打席に入った倉敷は真ん中低めから内へと切れ込むシュートに合わせるようにバットを振ったが、浅い当たりにレフトが追いつき2アウトとなった。そしてここから2巡目となり右打席に九十九が入ると、アウトローに投じられたスライダーを見送った。
「……ストライク!」
(入ったか。確かに東雲さんの言う通り、スライダーの軌道に感じるな。だが、あれを意識するのは追い込まれてからでも良いだろう。このピッチャーが主軸としているのはあのシュート回転するストレートだ)
(さて……そろそろ解禁しますか)
(……! ……そうだな。打順も一巡したことだし、このストレートに相手も慣れてきた頃だろう)
キャッチャーから送られたサインに頷いたピッチャーはミットの中で握りを調節すると、縫い目が狭くなってくるところに中指と人差し指をかけ、中指と薬指でボールを挟み、下側を親指で支えるようにしてボールを握った。そしてボールが投じられる。
(来たか。ここから内に曲がる軌道……1打席目で散々見たボールだ。対応してみせる!)
インコース真ん中へと投じられたこのボールに九十九はストレートの軌道をイメージしてバットを振り切った。すると、バットはボールの上を擦るように当たり、勢いがあまりないゴロとなって転がっていった。
「サード!」
(軌道修正しきれなかったか……?)
(よしこれで……。って、速い……!?)
「急いで!」
完全に打ち取った当たりに安堵しかけたキャッチャーだったが、瞬足を飛ばして一塁へと走る九十九に焦燥感を覚えると、前に突っ込みながらボールを捕ったサードがその指示に沿うように素早く体勢を立て直し送球を行った。
「……アウト!」
(間に合わなかったか……)
(あっぶなー……。折角解禁したボールを内野安打にされなくて良かったよ)
間一髪アウトになったことに送球の邪魔にならないようしゃがんでいたピッチャーが安堵し、3回の裏が終了する。そして4回の表、2番打者に対し1ボール2ストライクと追い込んだバッテリーは決め球にチェンジアップを選択した。
(
(体勢が崩れてない……待たれていた!?)
外を狙って投げたチェンジアップが真ん中低めに入り、このボールに対して始動を溜めたバッターがバットを振り出すと打球は倉敷の頭上を越えてセンター前ヒットとなった。
「ナイバッチ……! さあ、繋いで……!」
「任せときな!」
ノーアウトランナー一塁。中条の檄を受けて左打席に入っていった3番打者がバントの構えを取る。
(送りバントで確実に得点圏に進めるつもりね……。そうはさせない。野崎さん、東雲さん)
(チャージをかけるんですね)
(分かったわ。転がされても二塁でアウトに取りましょう)
野手にサインを送った鈴木は続けて倉敷にサインを送ると、倉敷もそのサインに頷いた。
(アウトハイに……全力のストレート!)
そしてクイックモーションからそのサインに応じてストレートを投じると同時に野崎と東雲はチャージをかけたが、二人とも急ブレーキをかけるようにその足を止めた。その理由はバッターがバントの構えを解いてヒッティングに切り替えていたからだった。
(これは……ノーステップ打法じゃない!?)
(悪いけど、あたしはみんなと違ってソフトボールから野球に転向した身でね……)
さらに先程の打席で右足のかかとを上げるように構えていたバッターは重心をピッチャーの方に移動しながらその右足を後ろに引くと左足を大きく前に踏み出し、バントを解く際に右手と左手の間に拳一個分のスペースを空けるように持ったバットを振った。
(ソフトボールでは一般的な、この
ヘッドを立てて上から下へと力を抜いて当てるようなバットの軌道がバッターの身体よりほんの少し後ろの位置にあるボールを捉えて弾き返すと、バッターランナーはそのスイングの流れのまま一塁へと走り、叩きつけるように放たれた打球は三遊間へと転がっていった。
「くっ……!」
チャージを止めたとはいえバントを阻止するために前に出ていた東雲はとっさに横っ飛びでダイビングキャッチを試みたが、そのミットの僅か先を打球が抜けていく。
「ショート!」
「うっ……!」
ファーストの野崎とサードの東雲がチャージをかけ、倉敷は結果的にかけなかったとはいえ、この3人がチャージをかけることを想定していた内野陣は阿佐田が一塁ベースのカバーに、翼が二塁ベースへのカバーに向かっていた。そのためこの打球に対して意表を突かれる形になった翼は反転し、勢いの鋭くないこの当たりに追いつくのに少し時間を要した。
(二塁はカバーがいないから刺せない……。一塁に!)
身体の向きを一塁に戻す暇はないと判断した翼がそのまま再びワンバウンド送球を投じると阿佐田は僅かに右に逸れるボールをすくいあげるようにして受け取った。
「……セーフ!」
「うっ……!」
「へへへ……」
東雲がサードのカバーに戻り二塁ランナーは突っ込むのを自重したが、両ランナーがセーフになり、瞬足を飛ばして駆け抜けたバッターランナーはしてやったりという表情でベースへと戻ってきた。
「有原さん」
「……!」
話しかけられた翼が一瞬緊張したような表情を浮かべると、東雲はそれにため息をついた。
「今のプレーは仕方ないわ。完全にこちらの作戦負けよ。切り替えてちょうだい」
「……分かった! しっかり切り替えるよ」
その言葉に気持ちを切り替えようと翼が深呼吸していると、どこからか笑い声が聞こえてきた。
「ふふ……。ふふふふふふふ……!」
(な、中条さん?)
その声の発生源がネクストサークルから向かってくる中条によるものだといち早く気づいた鈴木は訝しげな面持ちで彼女のことを見る。すると弾けたように彼女は口角を上げると今日1番の大声を出した。
「来た……! 得点圏……! やっと得点圏にランナー……! 来た来た来た来たー!」
「わっ……!?」
鈴木を始めとした里ヶ浜の部員もスタンドでこの試合の様子を見守る観客のほとんどもその豹変ぶりに言葉を失うほどの驚きを覚える中、高波の部員たちはその様子を見て確信の笑みを浮かべていた。4回の表、ノーアウトランナー一塁二塁。昂る中条がそのテンションを崩さずに打席へと歩みを進めると、上空には眠れる獅子の目覚めを告げるような暗雲が立ち込めていくのだった。