「早く……! もう、待ち遠しくてたまらない……!」
打席へと向かう中条に気圧されるように鈴木が1回目の守備のタイムを取ると、マウンド付近に集まった内野陣に中条の弾んだ声が聞こえてきていた。
「凄いやる気ですね……」
「近くで見ると瞳孔が開いてる感じがして怖いくらいよ……ん?」
そのハイテンションさに困惑していると、鈴木は頬に何かが当たって弾けていくのを感じた。
「雨……?」
「本当だ。ぽつぽつ降ってきてるね」
手のひらを上に向けた翼も雫が落ちてくるのを感じていると、上空に漂う暗雲から一瞬にして小振りだが切れ目の無い雨が降り出した。
(そういえば天草さんが空の機嫌が悪くなってきたと言っていたわね……これはすぐには止まなそうね)
「このくらいの雨ならピッチングには問題ない。それよりあのバッター……得点圏にランナーいると異常な打率を叩き出すんでしょ」
「はい。しかもデータでは長打の割合が非常に高く……小柄ながらホームランを打つことも多いようです」
「そーいえば、みんなで確認した明條と高波の試合でも満塁ホームラン打ってたのだ。どうするのだ? 思い切って歩かせるのだ?」
「いえ……5番には先ほどヒットを打たれていますし、一・二塁のランナーを進ませてまで満塁策を仕掛けるのはあまり良い手ではないと思います。なので……ここはバッター勝負でいきます」
「それは……私のボールでも勝負出来るってことね?」
「はい」
正面から見つめるように問いかけた倉敷は迷いのない鈴木の返答に満足げに微笑むと、振り向いた。
「それさえ聞ければ平気。……後ろは頼んだわ」
緊張気味な硬い表情が声をかけられて少し崩れた野崎に任せろと言わんばかりに不敵な笑みを浮かべる阿佐田、そして真剣な眼差しを向ける翼から堂々とした顔つきの東雲へと視線を移す際に一瞬動きを止めた倉敷が周りを見渡し終えると、タイムが終えられ内野陣がそれぞれのポジションへと散っていく。
(……このピンチの場面、真剣な顔になるのは何もおかしくない、のに。違和感が……いや、今はピッチングに集中しないと。鈴木がアタシたちなら勝負出来ると言ってくれた。ならアタシはあのミットに……投げられる限りの最高のボールを投げ込んでやる)
鈴木の指示で内野と外野が下がっていくと、その光景をベンチから見ていた近藤は眉をひそめた。
(かなり後ろに下げてる。あのバッターは得点圏打率が高いから前に出すのは危険でも、後ろに下げすぎな気がするわ。ノーアウトだし単打で逆転のランナーを三塁まで進めたくないから、ここはもし私なら内野は下げて外野は定位置、配球を低め中心にして……)
キャッチャーとしてグラウンドに立った時のことを想定して対応を考えていた近藤が鈴木と自分との作戦に違いを感じていると、濡れた指先をユニフォームで拭ってからロジンバッグを叩いていた倉敷が後ろにそれを放り、投球準備を整え終えていた。
「ふふふふ……!」
対峙するように右バッターボックスで笑い声をこぼしながら少し湿気を帯びた地面をならした中条は高揚した顔つきでバットを肩から浮かせるようにして構えた。
「君、肘当ての締め付けが少し緩くないかい?」
「…………」
(……! この距離で声を掛けても聞こえていないのか? 随分集中しているな。肘当て自体は適切な位置についているし、無理に伝えなくてもいいか)
(先ほどの打席とはまるで別人ね。必ず打つという気迫が一目見ただけでもひしひしと伝わってくる。……もし、打ち気に逸っているのであれば)
(一打席目で振らせたボールね。分かった)
球審がかけた声にも気付かないほど集中した中条の様子を観察した鈴木がサインを送ると、その狙いを察した倉敷もそれに頷く。そしてランナーのリードを抑えるのを兼ねて高鳴る心臓の鼓動を落ち着かせるようにボールを長く持った倉敷はとうとう投球姿勢に入ると、クイックモーションからボールが投じられた。
(あー、違う違う!)
(……!)
インコース低めに投じられた7割ストレートは低めに外れており、このボールを中条は目線こそ動かしたもののバットを振り出す素振りもなく見送った。
「ボール!」
(冷静に見送られた……!?)
「どうやら敬遠はないみたいね」
「まあこの状況じゃね……」
投じられたボールを見て驚異的な得点圏打率を残す中条の敬遠を多く見ていた高波OGはそれに安堵するような吐息を漏らしていた。
「こうなった明菜は止まらないからなー。久しぶりに見れるかもね。あの空気抵抗も重力も物ともしない弾丸ライナーが」
「……そうね。『ゾーン』に入った明菜は今、医学でいう
「いつもはだらーんって感じなのに、この時だけくわって感じになるもんねー。でもあれって何か意味があったの?」
「視界の隅から隅まで明確に見えることで情報処理能力が膨れ上がるのよ。それも明菜の集中は打つために必要な情報以外は遮断するレベル」
「あの状態の時に声掛けても全然気付かないもんね。聴覚を遮断してるって感じで」
「そう。プロの一流選手がボールが止まって見えた……なんて言うことがあるけど、明菜はあの状態に限ってそのレベルに到達しているのかもしれないわ」
「確かにねー。そのくらいじゃないと得点圏打率7割9厘なんて残せないかも。……明菜ー! 打てー! って聞こえてないんだっけ」
期待を込めて声援を送る彼女を横目に前キャプテンは中条の様子を静かに見守っていると、グラウンドでは二塁に牽制球が送られていた。このボールを一瞬遅れながらもミットに収めた翼だったが、タッチは出来ずに二塁ランナーは帰塁していた。
(牽制のサイン見落としちゃった? ……!)
焦りを覚えながらボールを投げ返した翼は受け取った倉敷がすまなそうに一瞬右手を上げたのに気がついた。
(……そっか。あのバッターに投げづらくて間を置きたかったんだ)
「倉敷先輩! ボール良い感じですよ。気合いで押し切りましょう!」
(気合い……ね。今はそれも大事かもね。このバッターの目を見てるとストライクに入れた瞬間に打たれてしまいそうな、そんな圧力を感じる。でもどこかに抑える道はあるはず。そうでしょ……鈴木)
翼の声援に頷いた倉敷は前を向いてサインを待つと、鈴木が中条を見上げながら悩んでいる様子が窺えた。
(確かに外れたボールとはいえ、あからさまなボール球ではなかった。初球は見ると決めていた……いや、この打ち気な様子が演技とはとても思えない。となれば見極められていると考えるのが妥当。歩かせたくないこの場面で、これ以上ボールカウントを悪くするのは悪手ね。けれど一打席目のスイング……)
一打席目で低めに外れたボールで打ち取った際に近くで感じたスイング音や空気の揺れを思い出した鈴木も倉敷と同じく目の前のバッターからプレッシャーを感じていた。
(倉敷先輩は球威がある方じゃない。もし見極められてあのスイングで捉えられたら……。ストライクもボールもダメ、八方塞がりね。……それでも道は残っている。例えばチェンジアップ。見極められても緩急で体勢を崩せれば打ち取れることはあるはず)
鈴木が指を下に向けてサインを送ると倉敷は内心の驚きを努めて隠しながらそれに頷いた。
(アウトコース低め、ベースの角を狙ってコントロール重視の7割ストレート……)
(明條の投手のスローカーブを始めとして、中条さんは緩急のあるボールも捉えて長打にしてきた実績がある。そういった見極めにも隙がないなら、コントロールが万全じゃないチェンジアップは危ない。だから……これで勝負しましょう)
(鈴木がこのサインを出すのは基本的にストライク先行の時だ。際どいところに決まったり、振らせたら儲けものって前提で要求してくる。それがボール先行のカウントから要求してきた。……リードに首を振るようになってから、アタシなりに色々考えるようになった)
先ほど牽制した二塁ランナーが変わらずリードを保っているのを目に入れた倉敷は続けて一塁ランナーの様子を横目で見ると投球姿勢に入った。
(バッターから最も遠く低めに決まるアウトロー。セオリー通り長打が打たれにくい場所、けれど9分割でも抑えきれないと鈴木は判断したのね。ボールカウントを悪くしたくなくても、厳しいコースに投げないとこのバッターは抑えきれないと。…… 針の穴を通すようなか細い道ね。けど僅かでも道が見えるならアタシは……アウトローを攻めてみせる!)
ボールを投じる瞬間、倉崎は指先に妙に鋭く研ぎ澄まされた感覚を覚えると、アウトコースの低めに投じられたボールはベースの角へと向かっていった。
「来ったー! 打ち頃の球ぁ!」
(……!? 迷わず踏み込んできた……!)
このボールに対し中条は外へ大きく踏み込むとスローモーションで向かってくるように感じるストレートにスイングの始動を溜めた。
(遅い遅い遅い! もらった!)
(しかも引きつけて……ここからスイングが間に合うというの!?)
鈴木が構えたところへと向かってきたボールをキャッチャーミットに収めようと指に力を込めた瞬間だった。鋭いスイングで振り出されたバットの芯でボールが捉えられる光景が彼女の眼前に映し出され、快音と共に打球は放たれる。
(打球は……!?)
倉敷が放たれた打球に反応して左後ろに振り向くと、ライト方向に放たれた打球を九十九は早々に目を切って追っていた。
(この、打球は……!)
弾丸ライナーで放たれた打球が阿佐田がジャンプして伸ばしたミットの先を越えていくと、低めの弾道ながら減速を感じさせないスピードで外野へと伸びていく。この打球に九十九は焦燥感を覚えながら、自身の予測する位置に向かって懸命に足を動かしていた。
「九十九先輩……!?」
右中間、ライト寄りに放たれていたこの打球のカバーに向かっていた永井は走りながら驚きで目を見開いた。それは九十九が外野フェンスに向かってジャンプしたかと思うと、その上に設置された金網の僅か手前のスペースを右手で掴み、左足で乗った勢いを上に向けるように外野フェンスを蹴ることで、金網前の僅かなスペースに右足を乗せていたからだった。
(これでもまだ足りない……!)
「……!」
一塁手前に来ていた中条は九十九の動きに気づくとその開いた瞳孔で情報処理を行い、打球と九十九の動きを予測した。
「……ベースに戻れ!」
「えっ……!」
中条は一塁ベース手前で足を止めるとハーフリードを取っていたランナーに帰塁の指示を送る。
(この打球は……金網の上を越える!)
(九十九……!)
倉敷の視線の先で九十九は金網の間に左足の爪先を引っ掛けるように乗せるとさらに上に飛び、ここで目を切っていた打球へと再び振り向くと眼前まで迫っていたボールに必死にミットを伸ばした。
(……よし! 捕っ……!? なっ!)
(そのまま落ちろ!)
金網の上にまで身を乗り出した九十九は伸ばしたミットの先で打球を掴み取ったが、ここまで減速せずに飛びついた勢いと弾丸ライナーとなって放たれた打球の勢い、二つの勢いに押されて身体は金網を越えていった。とっさに右手を伸ばして金網の上を掴もうとしたが捕球のために左手を伸ばした体勢では難しく、空を切った右手に中条はニヤリと笑った。
「後はお願いします! ……ぐっ!」
「はい……!」
(なっ……叩きつけられる前にボールを投げた!?)
九十九は空を切った右手をミットに伸ばすと金網を越えるよう上に向かってボールを投げ出していた。
(届いて……!)
十分な体勢を作る時間はなくとっさに投げられたボールはカバーに走っていた永井の位置より外野フェンス側に落ちてきており、このボールの落ち際に永井は飛びついてミットを伸ばした。
「アウト!」
「やった……!」
「加奈子! バックホームだ!」
「えっ!? あ、はい!」
飛びついた永井は滑り込んだ勢いもあって外野フェンス手前でこのボールを捕球すると、無事ミットの中にボールが収まったことに安堵したが、岩城の指示に反応して立ち上がり、バックホームを行った。そしてそのボールが内野へと到達するところでバウンドすると鈴木はスライディングでホームへと滑り込むランナーを見て、タッチは間に合わないと判断し前に出て2バウンド目の跳ね際を腰を落としてミットに収めた。
(……やられた)
ホームのカバーに入っていた倉敷は滑り込んだランナーが立ち上がり、先にホームを踏んでいた二塁ランナーとハイタッチする様子を見て悔悟をかみしめていた。
「……ちぃ、あのライトめ。スリーランホームランのところを……」
「まあまあ、逆転出来たから良しとしておこうよ」
ホームラン性の当たりをアウトにされた中条が先ほどの高揚した顔から一転して不機嫌そうな表情に戻ると、逆転のホームを踏んだ一塁ランナーに宥められながらベンチへと戻っていった。
「ちょっとちょっと! おかしくない? 加奈子がボールを捕る前にランナー走ってたよ。反則だー!」
「落ち着くにゃ。反則でもなんでもないにゃ」
里ヶ浜ベンチではタッチアップしたタイミングに新田が違和感を覚えていたが、今にも飛び出そうとする新田を近藤が押さえていると、グラウンドとの境になる柵に手をつきながら見ていた中野がそれに異を唱えた。
「新田はタッチアップのタイミングを勘違いしてるんだにゃ」
「えー? タッチアップって、フライを野手が捕ったらベースから離れて進んでもいいよってルールでしょ」
「そうにゃ」
「じゃあさー。加奈子が捕るまではランナー走っちゃダメなんじゃないの?」
「そうではないにゃ。フライに一回でも野手が触れた場合、それが完全捕球じゃなくてもフライに触れた時点で捕球と同様にみなされるんだにゃ」
「そうなの!? なんでー?」
「そうじゃないと例えばタッチアップを防ぐために捕れそうなボールをぽーんって浮かせてわざとお手玉してキープしたまま内野に近づくのもやれないことはないからにゃ」
「な、なるほど……たしかにそうかも。さすが走塁のスペシャリスト!」
左の手のひらに拳を置いて納得した様子の新田から目を離した中野は前に振り向き口の周りを囲うように両手で三角を作る。その頃外野では九十九が金網フェンスを登るとそこからグラウンドへと戻るように飛び降り、膝を曲げて衝撃のクッションにするように着地していた。
「だ、大丈夫ですか?」
「ええ……この球場のスタンドに当たる箇所が草地で助かりました。最低限の受け身は取りましたが、コンクリートなどであれば危なかったかもしれませんね」
「ほ、本当に良かったです……。あまり無茶しないでください」
「それは難しいですね」
「えっ?」
「怪我はしないように努めますが、今のは無茶をしなければアウトに出来ませんでしたから」
「そ、そう……ですね」
飛び降りた九十九に駆け寄った永井は怪我を心配したが、いつもと変わらず毅然とした態度を取る九十九に安心と困惑が混じったような笑みを浮かべていた。すると中野が出した大声が二人にも聞こえてくる。
「九十九パイセン、ナイスキャッチですにゃ! 永井もスムーズにカバーに回れてたにゃ!」
「中野さん……ありがとうございます。あなたから他の外野が予めどのあたりにいるか意識して把握して、自分が捕る時以外にもスムーズなカバーを出来るようにという心得を聞いて準備していたから、今のプレーをすることが出来ました」
ベンチから声援を送る中野に手を上げて嬉しそうに応える永井を見て九十九は僅かに口角を上げると、自身も軽く手を上げながら鈴木に声をかけてからマウンドへと戻っていく倉敷の方に目をやった。
(逆転された……か。それにこれ以上ないストレートを九十九のおかげでホームランにならなかったとはいえ、持っていかれた。どれだけコースに決まってもあの4番には、この球威や球速じゃ通用しなかったんだ)
プレーが再開され、5番バッターが右打席へと入った。その初球、アウトコースに投じられたチェンジアップは大きく外に外れていた。
(失点の動揺があるのか……?)
九十九がライトから心配そうな視線を送っていると2球目が投じられる。インコース真ん中へと投じられた全力ストレートをバッターは手が出ずに見送った。
「ストライク!」
(よし! これで良い。ストライクゾーンでも通用していたからと2番バッターにも中に入る可能性のあるチェンジアップを際どいコースに要求してしまい、この回の攻撃の起点にされてしまった。今は紅白戦で試したようにストレートを生かすための見せ球として使っていく! ……倉敷先輩も本人が言っていたように大丈夫そうね)
鈴木がボールを投げ返すと、倉敷は受け取りながら集中した面持ちで次のサインを待っていた。
(アタシに足りないものなんて一杯ある。それでもアタシはこのチームのエースナンバーを任されたのよ。今まで失点した後はコントロールが乱れて、そこを狙われたこともあった。逆転された事実はもう変えられない……今アタシに出来るのは揺れずに自分のピッチングを貫くことよ)
(どうやら……大丈夫そうだね)
遠くから視線を送る九十九は倉敷の表情までは見えなかったが彼女が投げたボールの精度から心情を感じ取り、胸を撫で下ろしていた。
(インローの内に外した7割ストレートを振らせて……いや、さっきの打席ではそれをヒットにされたのよね。……このバッターのさっきの打ち方、あえて詰まらせて内野と外野の間に落とすようなバッティングだった。内を厳しく攻めるのではなく……こういう選択はどうかしら)
出された鈴木のサインに倉敷は頷くとミットの中に入れるようにしていたボールを湿り気を感じながら握り、3球目を投じた。
(真ん中低め……際どい!)
「……ストライク!」
(くっ!)
コースは真ん中ながら低めギリギリに投じられた7割ストレートをバッターは振り出そうとしたバットを止めて見送ったが、ストライクの判定が出されていた。
「倉敷先輩! 良い高さに来てますよ!」
(コースを強く狙わなくて良い分、真ん中低めは低めの制球がしやすい。コースが狙えるアタシに出される頻度は多くないけど、鈴木は良いタイミングでこのサインを出してくれるのよね)
1ボール2ストライク。追い込まれたバッターがバットを短く握り直すのを横目にサインが送られると4球目が投じられた。
(アウトロー、際どい! 振らなきゃ……!)
三振を避けるべくアウトローに際どく投じられた7割ストレートにバッターが打ちにいくと振り出されたバットの先でボールが捉えられた。
(いけっ!)
「セカンド!」
「任せるのだ!」
バッターはこのボールを逆らわずに流して放つと、阿佐田はこのボールを外野方向に反転して追いかけてミットを伸ばした。
「アウト!」
(追いつかれた……。それに思ったより打球が伸びてない!)
放たれた打球は走りながら飛びつきはせずに伸ばされたミットに収まり、5番打者はセカンドフライに倒れ2アウトになった。
(よし……空振りを避けるために短く持ったバットではあの厳しいアウトローを捉えたとしても、バットのかなり先の部分になる。打たれても内野を越えるのは難しかったわね)
(一応ストライクでも良いってサインは出てたけどちょっと外れてた気がする。さすがにあの4番に投げたみたいな精度では早々投げれないわね。ただこれは鈴木も織り込み済みのはず。まさに振ってくれたら儲け物ね)
(倉敷先輩も他の皆も逆転されたショックはあるみたいだけど、なんとか普段通りに動けてる。……そっか。中条さん相手にあそこまで内外野を下げさせた理由が分かった気がする。逆転はされたけど1点差、まだ返すチャンスは十分残ってるんだ)
スコアブックをつけながらベンチからグラウンドに立つ選手の顔色を窺った近藤は先ほどの鈴木の選択に納得していた。
(ホームランボールをアウトにするのはさすがに想定外だったと思うけど、長打を打たれたら少なくとも3点目のランナーがノーアウトで得点圏に行ってしまう場面だった。鈴木さんは万が一打たれた場合に、勝負強く繋ぐ高波打線ならノーアウトで得点圏にランナーがいればさらなる失点の危険が高いと判断したんだ。勿論抑えられるに越したことはないけど、相手も必死……必ず抑えられるというわけじゃない。あれは最悪の事態……逆転だけでなく3点目まで奪われてしまうことを想定してリスク管理したからこそ、内外野を大きく下げたんだ。……紅白戦でも私はリスク管理が甘かった。スタメンに入れなかったのは悔しいけど、こうしてベンチにいてプレーを目の当たりにするだけでも学べることは多くあるのね)
鈴木を中心としてプレーを見てそこから学んでいた近藤が周りを見渡すとベンチにいる一人一人がグラウンドに声援を送りながら一つ一つのプレーを目に焼き付けているように感じられた。
右バッターボックスには6番打者が入り、チェンジアップを見せ球として外して2球目に投じられたインハイの全力ストレートが打ち上げられる。
(確かに速く感じられる……けど、なんとか合わせたぞ!)
「レフト!」
5番から情報を貰っていた6番はチェンジアップの後に投げられるストレートに的を絞っており、弾き返された浅い打球を岩城が前に走りながらキャッチしにいった。
「アウト!」
(うっ……落ちなかったか)
(長打の少ない高波打線なら高めも積極的に使っていけるわね。それに7割は上手く内野と外野に落とされても、全力なら簡単には捉えられていないわ)
「よーし! 届いたぞ!」
「岩城先輩! ナイスダッシュです!」
「だろう!」
「もう少し一歩目を早く出来れば、今のようにギリギリではなく余裕を持って捕球出来ますよ」
「うっ……! そ、そうだな。気をつけてみるぞ!」
3アウト目が成立し、岩城の高笑いと共に里ヶ浜ナインがベンチへと戻っていき4回の表が終了した。
「倉敷さん」
「何?」
「あの打球……僅かでも高ければ捕れなかったよ」
「慰めのつもり? よしてよ」
「いや、あのバッターははっきり言ってホームランの確信があったはずだ。しかし厳しいコースに攻めたからこそ打球が完全に上がらず、私が捕れる高さになったんだ」
「……まあ、そうかもね。アタシとしてはあのボールを打たれた時点でショックだったけど」
紙コップに給水器から水を注ぎながらそう答えた倉敷に九十九は寂寞の思いを抱いたが、倉敷は九十九に押し付けるように紙コップを渡すと、新たに取り出した紙コップに自分の分の水を注いでいった。
「けど……無理を通して投げたあの球をホームランにされてたら、アタシは今のピッチングを貫けなかったかもしれない。だから……そう思っておくわ」
そう言うや否や水で喉を潤す倉敷に九十九は結んだままだった唇に微かな笑いを浮かべると共に喉を潤し、そんな二人を見ていた阿佐田は緩ませた表情を引き締め直すと、ヘルメットをつけてベンチから出ていった。
「さあ、まずは1点返すのだ! つばさ、しのくも! 後のことは任せたのだ!」
「はい!」
「分かりました」
4回の裏が始まり、この回先頭打者となる阿佐田が右バッターボックスに入っていく。
(一打席目はアウトコースからシュート回転してくる甘いストレートを打ったのだ。相手としては心理的に避けたい……だからこっちは狙う候補からまずこのボールを外すのだ。勝負師としてここは読み勝って見せるのだ!)
(せっかく逆転したんだ。この回を0で抑えて流れを一気に持っていく!)
(気合い入ってるね。さて……このバッターにはさっき打たれてるからね。慎重に行くよ)
阿佐田が猫のように目ざとく相手ピッチャーを見つめているとサインの交換が終えられ、1球目が投じられた。
(……狙ってたボール。いや、外れてるのだ!)
阿佐田は始動に入ろうとしたバットを止めるとインコース真ん中に投じられたストレートが内に食い込んでいく。
「……ボール!」
(見たか……)
(よしよし。このピッチャーがここまで主軸にしているのはさらに食い込んできて分かってても打ちづらい、内のストレートなのだ。ボールになる軌道に逸って手を出さずにストライクに入るところを狙ってやるのだ!)
(今、バットがピクッと動いたような気がする。……ストレートを続けるのはやめておくか)
2球目が投じられると投じられたのはインコースの低め。内に外れたところへと投じられたボールに阿佐田は食い込む軌道を想定して腰を引くと、ボールは中へと変化していきキャッチャーミットに収まった。
「ストライク!」
(スライダー……! いやーなところで混ぜてくるのだ。それにストレートが遅い分、変化球かそうでないかの見極めが難しいのだ。……ここで迷ったら相手の思う壺なのだ。まだカウントに余裕があるから、一貫して内のストレートに張ってやるのだ!)
(このバッター、一球一球考えながら打席に立ってるな。スピードが無い分、読み切られるとヒットにされやすいから下手な読み合いは避けたい。……これを、ストライクゾーンに投げてきなさい。ボール球にして軌道を見られたくないから、振らせるのよ)
(ん、分かった。まずはしっかり先頭バッター抑えないとね)
3球目が投じられるとインコース真ん中に投げられたこのボールに阿佐田は反応した。
(入ってる。ボールは……こっから食い込んでくるのだ!)
スイングの始動を溜めた阿佐田は僅かに内に曲がる変化を感じ取った瞬間、バットを振り出すと打球が放たれた。
「ショート!」
(なっ! バットが上に入ったのだ!?)
このボールを芯で捉えようとした阿佐田は上を叩いて平凡なゴロとなって放たれた打球に驚きながら一塁を駆け抜けた。
「アウト!」
打球は難なく捌かれアウトになった阿佐田が「すまんのだ〜!」と言いながらベンチへと戻っていく最中、ネクストサークルから打席に向かう翼に小声で話しかけた。
「……つばさ、気をつけるのだ。あのピッチャー、九十九が一打席目で引き出した以上の“何か”を持ってるのだ」
「えっ! 何か……ですか?」
「あおいは今ストレートを完全に捉えたつもりだったのだ。それが上を叩いて……外に逃げる変化じゃないからあれはスライダーじゃないのだ。もしあおいの打ち損じじゃなければ……の話だけど、あおいの勝負師としての勘がそう告げているのだ」
「……分かりました! その何かにも気をつけてみます!」
阿佐田からのアドバイスを受けた翼が右打席に入るとインコース低めに投じられた初球を見送った。
「……ストライク!」
(今のはストレート……だよね。ううー! まだ身体の反応が悪い。けど、試合も中盤に入って少しずつだけど気持ちが上がってきてる感じがする)
(よし。内のストレートを見せられた……。次は一打席目で打ち取ったボールだ)
2球目が投じられるとアウトコース低めに投じられたボールに翼はスイングの始動に入った。
(……! 低い……!?)
投じられたスライダーの軌道はコースはストライクゾーン上だったが低めに外れており、翼はバットを止めにいく。
「ストライク!」
(ううっ! 少し気づくのが遅かった……!)
(悪くないコースだったし今のを引っ掛けてくれたら楽だったんだけどな……止められたか)
バットは止めたもののスイングを取られストライクの判定が出されると追い込まれた翼はバットを短く握りボールを長く見れるように右方向への意識を持って構え直した。3球目が投じられるとアウトコースに大きく外れたストレートを翼は冷静に見送り、ボールとなった。
(外せとは言ったけど随分外に外れたな。……ああ、そうか。雨か……。確かにピッチャーにとって投げやすい状況ではないな)
キャッチャーはボールを投げ返すと強くなってきた雨を気にするピッチャーを見て、外れた理由を察していた。
(無闇に球数は増やしたくないな。外に見せられたし内にこれを投げて終わりにしよう)
(分かった)
(後ろには東雲さんがいる……大きいのは狙わなくていい。繋ぐんだ!)
そして4球目が投じられるとインコースの低めにボールが向かっていく。
(ストレー……。……!)
翼がこのボールを引きつけてスイングの始動に入った瞬間、阿佐田に言われたことが頭によぎった。そして短く持っているバットの軌道をとっさに手首を使って調整すると、打球が放たれる。鋭い金属音の次にグラウンドに続け様に響いたのは……捕球音だった。
「アウト!」
「……!」
放たれた打球はショート正面へのライナー。アウトになった翼は一塁方向に踏み出した足をベンチへと向けて、帰っていく。
(……! 初回と違って顔が……上がったままだわ)
「東雲さん。あのピッチャー……“シンカー”を投げてると思う」
「シンカー……ピッチャーの利き手側に変化しながら同時に沈む変化球ね。……分かったわ」
(どうやら…… 勝利するために自分に出来るベストのプレーを貫けてはいるようね。けれど……)
真剣な顔つきを下げぬまま相手ピッチャーの情報を伝えてくる翼に東雲は安心と不安を同時に覚え、奇妙な感覚に陥っていた。しかしその感覚を振り払うように東雲は右打席に立った。すると外野が後ろへと下がっていく。
(さーて、要注意バッターか。どうする?)
(さっきの打席はアウトローのスライダーを信じられないスピードの打球でツーベース。明菜じゃないんだから……。でも明菜と対峙するくらい慎重にいった方がいいわね。厳しいところついていくわよ)
(はいよ)
(意識は一打席目と同じ……ストレートが遅い以上引きつけて変化を見極めることを考えるわ)
バッテリーは東雲に対して慎重に攻めていくとアウトローの低めに外れたストレート、インローの内に外れたストレートと続けて見送られて2ボール0ストライクとなった。
(本当に得点圏にランナーいる時の明菜みたい。ボール球振ってくれない。次はさすがにストライク取らないと……けど続けたストレートは嫌だな。スライダーは……外はさっき打たれてるし、長打のあるバッターに内から中に入る変化は怖い。……これしかないか)
(おっけー。ストライクゾーンにね)
2ボール0ストライクから投じられた3球目。インコース真ん中に投じられたボールに東雲はスイングの始動に入った。
(…………シンカー!)
(……! 合わせられた!?)
真ん中の高さから内に切り込みながら低めへと沈んでいくこのボールに東雲は鋭角にバットを振り出すと、振り切られたバットから放たれた打球は鋭く三遊間を転がって抜けていき、深く構えていたレフトがこのボールを収めてレフト前ヒットとなった。
(どうやら有原さんの読み通りね。思えば2巡目に入ってから打球が上がらないものばかりだった。シンカーをあのシュート回転するストレートと思い込ませる相手の術中にハマりかけていたようね)
東雲はベンチにいる翼に強い視線を送ると、先ほど翼が感じたことを裏付けるように力強く頷いた。
(そうか。シンカー……あのストレートとは別のボールも投げているんだな)
ネクストサークルから出てくる岩城も先ほどベンチに帰ってきた翼に伝えられたばかりのことだと思い至りながら左打席へと入った。
(完全に打たれた……。あのバッターが特別なのか。あるいは、もうバレたのか。このバッターで確かめるよ)
(なんだあの4番……。まあいい。次は左バッターだ)
「よっし! かかってこい!」
右手の小指を浮かせるようにグリップエンド一杯にバットを握った岩城はやる気に満ちた様子で、シンカーを待ち望んでいた。
(通常右のサイドスローは背中から投じられるように感じる右バッターからは見えづらく、逆に左バッターからはボールの出所が見やすいとされている。けれど……)
投じられた初球、思い切り外に踏み込んだ岩城だったが膝下へと投じられた低めに外れているスライダーをフルスイングで空振っていた。
(たっはー……シンカーじゃなかったか)
(岩城先輩は選球眼に難がある。浅いカウントから決め打ちしていくのを悪いとは言わないけれど。あのピッチャーのストレートとシンカー。左バッターからはバットを振り出してから外へと逃げていく形になる……特に逃げながら沈むあのシンカーは左キラーになり得る。球種が分かっても、打つのは簡単じゃないかもしれないわ)
次に投じられたのは真ん中高めへのストレート。高めに外そうとしたストレートが想定よりさらに高く外れると、岩城はなんとか踏ん張ってスイングを止めた。
「ボール!」
(ふぅ……)
(2アウトだしさっきみたいにボール球を打ち上げてくれたら良かったんだけどな。このバッター……長打力があるし、雨でコントロールがズレてる今下手に高目を攻めて持っていかれるのは怖いな。外いくよ)
(了解)
そして3球目が投じられるとアウトコース真ん中に投じられたボールに反応した岩城は踏み込むとバットを振り出した。
「くうっ!?」
「ストライク!」
(……ストレートより下を狙ったように見えたな。このバッターのスイングが荒いから微妙なとこだけど。このフルスイングの下にバットを入れられるのは嫌だな。ストレートでそれが起こってしまうより……もう一球、合ってないシンカーで仕留めるよ)
(よし。さっきより少し際どいところ狙って……)
(次こそ……!)
投じられた4球目はアウトコース低めから際どいコースへと変化していくシンカー。このボールに対してシンカーを意識していた岩城は先ほどより大きく外に踏み込んだ。
(これでっ……どうだ!)
(……! 小指だけじゃなく、薬指まで浮かせている!?)
右手の2本の指を浮かせて残り3本の指を支えとして左腕を押し込み、岩城はこのバットを振り切った。するとチッ、という音共にシンカーの軌道が僅かに変わると、変化に備えてミットを左下に向けるように構えていたキャッチャーがさらに外へ逃げるような軌道へととっさにミットを伸ばした。
「……ストライク! バッターアウト!」
「くぅ……! 敵ながらナイスキャッチだ!」
「あ、ありがとう……?」
ファウルチップがバウンドせずに捕球されたことで三振が成立し、岩城は悔しそうにしながらもキャッチャーの好捕を称賛してからベンチへと戻っていき、4回の裏が終了した。
(捉えた……と思ったのに、あれでも届かなかった。ウチのリーチじゃ、あのシンカーには届かないのか……?)
「だんちょー! 切り替えるのだ!」
「……! そ、そうだなっ!」
5回の表、高波高校の攻撃は7番打者から。右打席に入った彼女はクローズドスタンスで構えると内外野が右へとシフトしていくのに気づいた。
(……確かに右に打つのは得意だけど、シフトを敷いてきたか)
そして投じられた初球はアウトコース低めへの7割ストレート。このボールをバッターが見送ると、9分割に決められたこのボールはストライクとなった。
(そういうこと。……外を流すのは上手くても、これを引っ張る力は無いと……)
続けてアウトローにストレートが投じられるとこのボールにバッターは踏み込んだ。
(このスピードのストレートくらい引っ張れる! ……! 速いストレート!)
このボールが先ほど差し込まれた全力のストレートだということに気づいたバッターは始動を早めると、前で捌いて三塁線へと打球を放った。
「ふっ!」
「なっ……」
2回バウンドして三塁線を抜けようという打球を横っ飛びで捕った東雲は右膝から着地して身体を浮かすと素早く反転して投げられる体勢を作り、ファーストへと送球した。
「アウト!」
(明條の試合が終わった後、阿佐田先輩から聞いた勝負師の心得……。その一つは相手に無理をさせること。身体の開きを抑えられるクローズドスタンスで引っ張らせれば、捕球可能な範囲に打球が飛ぶと思っていたわ。それに7割と全力ストレートの緩急もまだ通用しているわね)
先頭バッターを打ち取りリズムに乗ったバッテリーは続く8番打者を膝下の際どいコースを狙った7割ストレートを打たせてピッチャーゴロに取ると、9番打者として打席に入ったピッチャーを7割ストレートを見せ球にインハイの全力ストレートを勝負球として選択し、浅いセンターフライで打ち取ってスリーアウトチェンジとなった。
続く5回の裏の里ヶ浜の攻撃。先頭打者として打席に立った永井はまだ対応しづらい変化球を嫌い、浅いカウントからアウトコース真ん中から中へと入ってくるストレートを狙い打った。
「アウト!」
「うう……越えなかった」
ライトの中条がやや深めに放たれたライナー気味のフライに追いつき1アウト。続く野崎は先程内を強く捉えていたことから外への丁寧な配球で攻められると外へのスライダーが低めに外れて2ボール2ストライク。次に投じられたのはアウトコース真ん中から沈んで逃げていくシンカーだった。
(2球目は外に外れたこのボールを振らされましたが……これなら届きます!)
このボールを長いリーチを生かして振り出したバットが捉えるとレフトへフライ性の打球が放たれた。
「アウト!」
(うっ……届きましたが、バットの先でしたか……)
大きな当たりだったが伸びが足りず、この打球にレフトが追いつき2アウト。右打席には鈴木が向かっていく。
(試合が落ち着いてきている……。けど、1点差で負けているこちらにとっては、良くない流れね。……どれだけ泥臭くても構わない。食らいついていくわ)
雨がさらに強くなりコントロールが乱れてきていると感じた鈴木は追い込まれるまでバットを振らずに見送り、2ボール2ストライクとなった。そして5球目のシンカーを鈴木は早いタイミングで捌くと、打球はボテボテのゴロとなって三塁線を割りファールとなった。
(左バッターと違って私には向かってくるボール。ストレートのスピードが驚異でないなら、ファールにしてみせる)
(シンカーをカットしたか……まあいい。対右バッターへの決め球、スライダーでいくよ)
(ストライクゾーンに入れていいんだな。分かった)
投じられた6球目のボールは真ん中低めからアウトコースへと曲がっていくスライダー。内を印象づけられていた鈴木は一瞬反応が遅れたが、食らいつくように足を踏み出す。
「なっ!」
しかしぬかるんでいる地面に足を取られ、バランスを崩しながらのスイングになる。想定外の事態に加えて雨で滑りやすくなっていたグリップから手を滑らせてしまい、カットしきれずにバランスを崩した鈴木は空振り三振でアウトになった。
(しまった……打席に入った時にならした地面がここまでぬかるんでいるなんて。それほど雨が……)
放ってしまったバットを拾い上げて鈴木がベンチへと戻っていく。すると両ベンチにしばらく待機するように通達が送られていた。
「どしたの? なんか集まってるよ」
「ほんとだー! 審判の人たちが集まって話してる!」
「……!」
バットをしまった鈴木が審判団が集まっていることに気づくと、途端にその顔が青ざめていった。
「わかー。どうしたの? 気分悪いの?」
「……悪いのは気分じゃないわ。天気よ」
(さっき私が雨でバットを離してしまったのが……)
「そうだねー。早く止まないかなー」
「……! 鈴木さん……もしかして……」
すると何かに気づいた近藤が震える声で鈴木に話しかけるとそれに鈴木は頷き、近藤の表情も強張った。
「ちょっとー。2人だけで納得してないでわたしたちにも分かるように説明してよ」
「……さっき界皇とさきがけ女子との試合でコールドゲームの説明をしたのを覚えてる?」
「覚えてるよー。確か……」
2人に割り込むように入ってきた新田が言われた内容を思い出すと、その動きが一瞬止まった後、信じられないような表情で問いかけた。
「点差がついた時と……天候が悪くなって試合が続けられなくなった時に、その時点で試合を終了させる……?」
その言葉にベンチ内にいる選手たちの表情が凍りつくと近藤はゆっくりとそれに頷いた。
「いや……でも待って! 確か既定のイニング数に達していた場合とか言ってたよね!?」
「……5回よ」
「へっ?」
「7イニング制のこの大会だと既定のイニング数は……5回なの」
「5回って……今5回の裏の攻撃が終わったところだから……」
「私たちは既に……既定のイニングに達してしまった」
その言葉の意味にベンチに重い沈黙がのしかかり、彼女たちの口を閉ざしていった。
「…………えっと、でもさ。試合が続けられれば、いいんだよね?」
「そう、ね。続けられれば……そのためには雨が弱まらないと」
なんとか重い空気を打開しようと新田が言葉を紡いだが、振り出してから強さが増している雨が彼女たちの心に打ちつけられるように響いてくる。
「…………」
やがて明るく努めようとしていた新田もベンチの外へと目を向けて未だ強い雨に言葉を閉ざしてしまうと、残ったのは雨がグラウンドへと降り注ぐ音だけだった。
(なんとかなる? まだ希望を捨てるのは早い? ……いや、違うわね。この雨がどうなるかなんて、誰にも分からない。努力でどうにかなるものじゃないもの。どんな言葉も、その場しのぎの励ましにしか……)
口を閉ざして下を向く後輩たちに倉敷を始めとする先輩たちが声をかけようとするが、この状況のショックは彼女たちにとっても大きく、口を開けないでいた。
「……あのっ!」
「……!」
そんな状況が少し続いた時だった。倉敷はこの状況で口を開いた彼女を見て、目を丸くしていた。
(野崎……?)
「近藤さん」
「な、なんですか?」
「この雨の中恐縮ですが……肩を作るのを手伝ってもらえませんか?」
「……!」
そして野崎が発したこの言葉に近藤だけでなくベンチにいた全員が驚いた。
「……ええ! いきましょう!」
スコアブックをベンチに置いた近藤が準備を整え野崎と共にブルペンへと向かっていくと、雨音を切り裂くようなストレートの捕球音が響いていた。
「信じて……いるんですね」
初瀬がぽつりと溢すように言ったその言葉に皆が心の中で頷くと、沈黙が振り払われていった。
(そうか。分からなくたって試合が続くと……信じて準備する。言葉じゃなく行動で示してみせたのね)
野崎の行動を受けて活気を取り戻したベンチを見て彼女を野球部に入ってからだけではなく、共にドッジボールをしていた小学生時代のことも知っている倉敷はどこか一歩後ろに引いて皆に合わせていた彼女と今の彼女の違いを感じ取り、穏やかな微笑を浮かべていた。
(……そういえば、翼と東雲さんは?)
試合の続行を信じて身体を冷やさないようにストレッチをする中野の手伝いをしながら、河北は周りを見渡したが翼と東雲の姿はそこには無かった。
待機の通達が届いてからベンチ裏に来ていた2人は周囲に誰もいないことを確認して話し始める。
「試合が続行されるか、続行されないか。それはもう天に委ねるしかないわ。今出来ることを……しましょう」
「今出来ること……?」
「……有原さん。今日の貴女はいつもの貴女じゃない」
「それは……分かってる」
「いいえ、分かってないわ。苦しそうな表情は消えた。けどその後の貴女は……真剣な表情だけをしていた」
「……そう、かも」
「シニアの時の私なら……それを良しとしたでしょう。真剣勝負の場で、真剣さ以外など不要だと。……けど貴女はあの時、私の中の当たり前を……壊した」
2人の脳裏にシニアの大会で対戦した時のことが蘇ると、東雲は翼を腕の中で挟むように壁に手をついていた。
「貴女が私のことを完璧な人だと特別視して違ったように、私も貴女のことを……分かっていたつもりだったみたいね。貴女はどんな試合であっても、笑顔でいるものだと……そう思っていたわ」
「………いつもは考えなくても、野球やってるだけで楽しくて、自然に笑ってるんだ。けど今日は全然気持ちが上がりきらなくて……」
なんとか笑ってみせようとする翼の不格好な笑顔を見ないように視線を逸らした東雲は壁から手を離すと、背を向けたまま話を続けた。
「私に……相談してくれないかしら。それが直接の原因じゃなくても、どうして貴女がこうなったのか、知りたいわ」
「……ありがとう。頼らせてもらうね」
翼は自分が解決することが出来ないでいた悩みの元となった椎名家の三姉妹との食事会でゆかりに告げられたことや小学生時代に対戦したことを包み隠さず話した。
「椎名ゆかりさん……同じクラスだから名前は知っているけど、なるほどね」
「……?」
「気になってはいたのよ。有原ゆいという名前は……姉と一緒の食事会という言葉でその訳は分かったわ。有原ゆいと椎名じゅり……貴女達の姉は一時代を築き上げた黄金バッテリーじゃない」
「そうだよ。私の自慢のお姉ちゃんなんだ。勿論みさお姉ちゃんも」
「…………私は椎名ゆかりさん、彼女の気持ちが少し分かるかもしれない」
「本当!? 教えて……!」
「ええ……構わないけれど、貴女には……その気持ちは分からないかもしれないわ」
「……それでも知りたいんだ」
「……分かったわ。それを話すにはまず私のこと……貴女にも話したことが無かった、私がプロを目指そうと志した理由を伝える必要があるわ」
「ええっ!? 確かにそれは気になってたけど……どうして今?」
背を向けて話を聞いていた東雲がゆっくりと振り返ると鋭い眼光で射抜くように翼を見つめて、こう言った。
「私が兄へのコンプレックスを抱いていた。それがプロを目指そうと思った大元の理由だからよ」