皆で綴る物語   作:ゾネサー

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虫時雨に包まれて

 高波高校との試合の翌日。試合の疲れを癒すべく里ヶ浜高校女子野球部はこの日を休養日としていた。各々が自由気ままに過ごす中、逢坂と初瀬は近藤のことを探していた。すると小腹が空いた時用のお菓子を互いに交換している新田と永井の姿が目に入る。

 

「あー。咲なら野崎と一緒に出掛けたよ。買い出しついでに用事を済ませてくるから遅くなるって」

 

「そうですか……」

 

「残念ねー。恋愛小説トークしようと思ったのに」

 

 所在を聞いた二人が残念そうにため息をついていると小気味の良い着信音が鳴った。それに気づいた逢坂が携帯端末を取り出すと届いていたメッセージに顔を輝かせた。

 

「翼ちゃーん!」

 

「なーに?」

 

「アタシの覚えてた通りだったわ! ゆかりちゃんもサッカー部の大会で公欠だって!」

 

「そっか……! それで、もう一つの方は……」

 

「あー。NINE(ナイン)のID交換したいって話? 『良いけど……』だって」

 

「そ、そっか」

 

 ゆかりの返事から気乗りしていないことを察した逢坂は彼女の声色を真似るようにしてそれを伝えると、翼の表情を窺うように覗き込んだ。

 

「何があったのかは知らないけど……アタシが代わりに言おうか?」

 

「ありがとう。けど……私の口から直接伝えたいんだ」

 

「んー……分かった。あ! あと今日は試合があって忙しいみたいだから、何かあるなら夜にしてって」

 

「うん! 分かったよ」

 

 逢坂に元気よく返事を返した翼は窓に近づいて空を見上げると、今頃試合会場へ向かっているであろうゆかりに思いを馳せるのだった。

 

 ——ガタンゴトン。電車に揺られ、野崎は窓の外の景色に目を向けていた。しかしビルやマンションが次々と流れる光景は今の彼女が見ているものではなく、彼女は憂わしげな表情を浮かべていた。

 

「野崎さん。次の駅で降りますよ」

 

「あ…………はいっ」

 

 近藤に話しかけられ野崎は我に返ると、自分でもその返事のたどたどしさを感じていた。

 

(ふぅ……。今からこんな感じでは、近藤さんに迷惑をかけてしまいますね。あら……?)

 

「近藤さん、それは……」

 

「これですか? 昨日の試合のスコアブックです」

 

 外に目を向けていた時間は長く、その間に近藤が取り出していたものに野崎はようやく気がつき、この移動時間を活用してスコアブックを確認していた近藤に驚いた。

 

「実は昨日私ならどうリードするかなと考えながらスコアブックをつけていたんです。強打の高波相手に7回5被安打2失点の内容……。もし私がマスクを被っていたら被安打の数も……そして失点もこの程度では済まなかったと感じました」

 

「そ、そんなことは……」

 

「いいんです。私は中条さんの第二打席を始めとしてそれを強く感じましたから。けど、こうして比較する一つ一つの判断が私の勉強にもなったんです」

 

「近藤さん……」

 

「私はまだ目の前のバッターに合わせてリードをするのが精一杯です。ですがこうして学んでいって……いつかもっと全体を見てみんなを引っ張っていけるような、そんなキャッチャーになりたい」

 

「……なれますよ。近藤さんなら」

 

「ありがとう。……これはね、野崎さんのおかげだよ」

 

「え……?」

 

「紅白戦が終わった後、あれがその時点での私たちの全力だったと認めさせてくれた。だから、全力でやってもなお足りなかったものを自覚することが出来たんです」

 

「そう……だったんですね」

 

「うん。あなたは……前に進む勇気をくれた。それはあなた自身、前へ進もうとする勇気があったから」

 

「あ……」

 

 その言葉に野崎は自身の名前である夕姫(ゆうき)は勇気のある強い子に、そして勇気を分けてあげられる優しい子に育ってほしいという想いを込めて名付けたと両親に聞いた時のことを思い出した。

 

「……高坂さんの容態がどんな状態なのかは分かりません。それに私は彼女のことをよく知らない。けど……あなたのことはよく知っているわ」

 

「近藤さん……」

 

「昨日の話を聞く限り、きっとあの肘は軽い怪我では済まないと思うの。彼女が受けるショックは私には計り知れない……。だけどあなたなら……前に進む勇気を分けてあげられると思うんだ」

 

「私が……。……はい!」

 

 力強く返事する野崎の表情を見た近藤は頷くと、開くドアの音をバックにスコアブックを鞄にしまい、野崎と共に電車を降りて病院へと向かうのだった。

 やがて病院にたどり着いた彼女たちは面会簿に記名して名札をつけ、エレベーターで高坂のいる階へと向かっていた。そして目的の階にたどり着いた野崎は開閉ボタンの『ひらく』を押して車椅子に乗っている患者を優先して降ろすと、端に寄っていた近藤と共にその階へと足を進めた。独特な消毒液の匂いを鼻に感じながら、目的の病室へと向かっていく。その途中だった。不意に野崎が病室とは逆方向へと振り向いた。

 

「野崎さん?」

 

 そんな野崎に釣られるように近藤も振り向くとその先にあったのはデイルームと呼ばれる談話室。そこで向月高校のキャッチャーと高坂が何かを話している様子が窺えた。

 

「……アタシもアンタのこと信じるだけで、何もしてあげられなかった」

 

「馬鹿じゃないの……。アタシが肘の痛みを隠してたのが、どう考えても悪かったでしょ」

 

「それは反省して欲しいけどね。でもそれは……アンタ一人に背負わせすぎたんだよ。あの子のことも、互いに話題にするのを避けてた」

 

「…………そうね」

 

「昨日の試合さ、清城のバッテリーには信頼し合うだけじゃない何かを感じたんだ。きっとそれは……アタシたちに足りなかったものだと思う」

 

「何かってなによ」

 

「言葉にするのは難しいんだけど……任せっきりにするんじゃなく、腹を割ってその時その時の気持ちを分かち合う覚悟、かな。……あのデッドボールの後、アタシはタイムを取るべきだったんだ」

 

「アタシがマウンド寄っていかれるの嫌いなの、知ってるでしょ」

 

「知ってる。でもあの時アンタが抱えていたものをアタシは分からずに勝負した。だから最後の決め球で……迷いが生まれたんだ」

 

「……確かにね。勝負で迷った時点で、つけ込まれる隙を与えていた……」

 

「ねえ、椿。アタシは……なりたいよ。アンタと全国No.1のバッテリーに。アンタはどうなの?」

 

「……その答えは……」

 

 やがて二人の会話が終わると離れて病室の前で待っていた野崎と近藤のもとに彼女たちがやってきた。

 

「教えやがったわね……クソキャッチャー」

 

「はは……教えた方が良いと思ったからよ。来てくれてありがとう。アタシはここでおいとまするよ」

 

 そうして彼女が去っていくと暫しの静寂の後、野崎が口を開いた。

 

「こ、高坂さん……! 肘は……?」

 

「……はぁ。“また”全治3ヶ月よ」

 

 高坂は自身の右肘を固定するように巻かれた包帯に目を向けてため息をつくと、その言葉に野崎は一瞬戸惑ったが、次第に安堵した表情へと変わっていった。

 

「全治3ヶ月……ということは、ピッチャーは続けられるんですね……!」

 

「アンタたちにとっては……続けられない方が良かったかもねぇ?」

 

「……そんなことはありません。それに高坂さんがピッチャーを出来なくなったら、あの時の……あなたを超えるという約束も果たせなくなりますよ」

 

「……ふん。言ってくれるじゃない」

 

 そう返事をした野崎に少し笑った高坂は隣にいる近藤が気になりそちらに視線を向けた。睨んでいるようにも感じられる目つきに近藤はドキッとする。

 

(私がいると気兼ねなく話せないかな)

 

「野崎さん。下で待ってるので終わったら来てください」

 

「わ、分かりました」

 

 近藤はそう言うとエレベーターで下に降りていき、残った二人は先ほどのデイルームへとやってきた。

 

「また全治3ヶ月……ということはやはり、あそこにある総合病院に通っていたんですね」

 

「その言い草だと気付いてたみたいね」

 

「はい……。ただ疑問なのですが、今から3ヶ月というと夏大会の前に肘を痛めたんですか?」

 

「違うわ。アタシが肘を痛めたのは8月の夏大会決勝戦よ」

 

「それだと……3ヶ月経っていないのでは」

 

「そうね。保護期が過ぎた回復期……つまりアタシの肘は症状は収まったけど、完治には至ってない。そういう段階だった。それでもシュートの球数制限さえ守れば、問題は無かった。守れば……ね」

 

「どうして……守らなかったんですか?」

 

「……ついてきなさい」

 

 そう言うと高坂は椅子から立ち上がり、野崎がその後ろをついていくとたどり着いたのは奥にある換気用の窓の前だった。その窓を通してリーリーという松虫の鳴き声がひっきりなしに聞こえており、静寂に包まれた病室とのはっきりとした違いを野崎に感じさせた。

 

「あそこにうるさい鳴き声を出してるやつが一匹いるでしょ。アイツはなんで鳴いてるんだと思う?」

 

「え? それはどういう……」

 

「………」

 

 何も答えない代わりに「いいから」と言わんばかりの目線を向ける高坂に野崎は戸惑いながらも、質問の答えを探ることにした。

 

「そう……ですね。オスがメスへのアピールをするために鳴くというのを聞いたことがあります」

 

「そういうやつもいるだろうけど……あれ見て」

 

「あれというと……紅葉した大きな木がありますね」

 

「あれは桜の木らしいわ。そしてこの病院で最も大きい樹木でもある」

 

「そうなんですか!? 桜といえば春のイメージがありますが、紅葉した桜も綺麗ですね……」

 

「……。あれはね……縄張りを守るために鳴いてるのよ。あのアオマツムシってやつは毎年好物の桜の葉を求めて住み着くらしいけど、普通なら夕方ごろから鳴くらしいわ。だからこんな昼から鳴くのは珍しい」

 

「確かにあまり昼にマツムシの鳴き声は聞きませんね。涼しくなってきた時間に聞こえてきて、風流だと感じますから」

 

「そう? ……アイツは何がなんでもあの頂を他のやつに譲りたくないのよ。アタシも……そうだった。たとえ羽根を痛めても鳴き続けるのを止めるわけにはいかなかった。それが球数制限を破った理由よ。全く……治るのに時間がかかったくせに、一瞬で壊れるものね」

 

「高坂さん……」

 

 そう語った高坂は自嘲するように笑うと桜の木を背にして歩き出し、こぼすように呟いた。

 

「でもアタシは……負けた」

 

「それは高坂さんの肘が限界を迎えたのが原因で、高坂さんのせいでは……」

 

「やっぱりアンタは甘いわね。その限界を見極められなかったのはアタシ自身なのよ。……なによ。そんな顔して。アンタ、昨日の試合見てたでしょ?」

 

「はい……」

 

 松虫の鳴き声が遠く小さくなっていくと、デイルームに戻った二人は椅子に座り直し、一拍置いて話を続けた。

 

「なら当然見てたわよね。あのランニングホームランを」

 

「6回の高坂さんの打席……ですね」

 

「そうよ。けどあの走塁は……最悪のワンプレーだった」

 

「どういうことですか……?」

 

「スタンドにいたアンタは分かんなかったかもしれないけど……ホームに突っ込む時、コーチャーはストップの指示を出していたのよ」

 

「そうだったんですか……。確かにそれは止まるべきだったのかもしれませんが、結果的にはセーフでしたし、最悪と言うには……」

 

「最悪よ。そんな場当たり的な結果論で良しとしていたら、今は良くてもいつかは痛い目見るわ。もしコーチャーの判断が間違ってるならプレーの後、指摘する。けどランナーとしてダイアモンドに出たら、コーチャーの判断を信頼すべきなのよ」

 

「え……」

 

「何?」

 

「いえ……その、高坂さんの口から信頼という言葉が出るとは思わなくて……」

 

「……あ? 喧嘩売ってんの?」

 

「め、め、滅相もないです! ただ、夏大会前の向月との練習試合での高坂さんの部員への態度を思い出してしまって……」

 

「ああ……三軍の試合ね。当然よ。あれはアイツらがまだ信頼されるだけの実力が無かったんだもの。単なるレフト前ヒットを後逸したやつもいたでしょ」

 

 野崎はその試合のことをよく覚えていた。特にそのエラーをしたレフトを交代しようとし『向月に下手な選手はいらないの』と告げる高坂をベンチから見ていた野崎はそのことが強く印象に残っていた。

 

(私はあの時……すごく冷たい人だと思いました。けど、あれは今考えると……)

 

「あれは……信頼するために、必要な実力を一軍以外にも求めたということだったんですか?」

 

「当然でしょぉ? ポロポロ溢すやつを信頼できる? 口だけじゃなく……心から」

 

「……それは……確かに本当の信頼ではないのかもしれませんね」

 

「ふん……だからアタシはエラーが嫌いなのよ。信頼を裏切る行為だから。そしてそんな行為を……アタシはしたのよ」

 

(……先日『エラーなんてものはないのが当たり前』と高坂さんは語りました。私はそれを投手には関係ないと言わんばかりの言葉だと感じました。けど、そうでは無かったんですね。実力を信頼しているからこそ、エラーしないということを前提にしていた……)

 

 コーチャーの静止を無視したプレーを思い出して鬼気迫る高坂の表情を見て、明條との練習試合の後にそう語られたことを思い出した野崎はその話の後に向月への勧誘を受け、その時の高坂は平常心を失っていたことを思い出した。

 

「もしかすると……余裕が無かったのかもしれませんね」

 

「ちっ、そうかもね。あの試合、今思い出すと途中からアタシは周りが見えてなかった」

 

(さっきクソキャッチャーに言われた通り……か)

 

 しばしの時間を置いて高坂が落ち着きを取り戻したのを見計らい、野崎は聞こうと思っていた本題をここで問いかけた。

 

(肘の容態が最悪の事態を免れ、前に同じようなリハビリをしていることもあってか、肘の怪我によるショックというものは近藤さんが心配していた程には大きくないように感じます。ですが……)

 

「あの……試合が終わった後、どうして私に謝ったんですか?」

 

「あれか……」

 

(そうね……。アンタには話さないといけないわね)

 

 その問いかけに苦さと諦めが混じったような顔を浮かべた高坂は観念したように話し出した。

 

「アンタはね。あまりにも似てるのよ……」

 

「似てる……。あ……キャッチャーの方が話していた同じボーイズリーグ出身のですか?」

 

「アイツそんなことまで話したの?」

 

「ええ……。この前の夏大会で投手生命を絶たれて、野球部を辞めてしまったと聞いています」

 

「……そうよ。過度の投げ込みがたたって肩を壊したのよ。アタシはね……そいつの代わりを無意識のうちにアンタに求めていたのよ。アンタに指導したのもアイツにしてやれなかったから……」

 

「そう……だったんですか?」

 

 野崎が驚きながら問いかけた言葉に高坂が首を縦に振ると、暫しの沈黙が彼女たちに乗しかかった。

 

「……それでも謝ることはないと思いますよ」

 

「そんなことはない……! だってアタシはアンタのことを、アイツだと思って、自己満足で教えていたってことよ……!」

 

 静寂を破った野崎に高坂は机に勢いよく左手をついて怒涛のように反論すると、それに対して野崎は静かに首を横に振った。

 

「確かに重ねていた部分はあったのかもしれません。ですが……私のことを高坂さんはきちんと見ていましたよ」

 

「なんでそんなことが言えるのよ……!」

 

「聞いた話だと……その方はコントロールの良いピッチャーでしたよね。でも私はお世辞にもコントロールの良いピッチャーではありませんでした。もし、私を彼女だと思って自己満足で教えていたら……上手くなれなかったと思います」

 

「あ……」

 

(……アイツに必要なのは下半身の筋肉に負荷をかけて鍛えることだった。けど野崎にはそれが優先して必要なわけではなかった……)

 

「キャッチャーの方も私がその方に似ていると言っていました。どうしても重なってしまうのは仕方のないことだと思います。けど高坂さんは私のことをしっかり見てくれた。だから……私は気にしていませんよ」

 

「…………」

 

 身体を乗り出して至近距離で刺すような視線を向ける高坂の目を真っ直ぐに見て返したその言葉に高坂が困惑と安堵の混じった表情を浮かべると、再び座り直した。

 

「それに、覚えていますか? 私が四隅の練習をしていた時に焦らずにじっくり時間をかけて身に付けるしかないと言ってくれたことを。きっとそれは同じように投げすぎで、肩を壊さないようにと……そういった心配もしてくれたのだと思います」

 

(……そう言ってくれるのは嬉しいけど、アイツとアンタはそういうところが……似てるのよ)

 

 野崎の言葉に心のつかえが取れるような感覚を一瞬覚えた高坂だったが、不意にそんな野崎と彼女が重なって見え、顔を背けてしまう。

 

(夏大会で投手生命を絶たれたその投手。この大会で肘を痛めてまで投げ続けた理由。高坂さんが余裕が無かったのはきっと彼女が関係していますよね……)

 

 毅然とした態度が崩れた高坂を見て野崎は心の中で決断すると再び高坂に語りかけた。

 

「……肩の容態はどうなんですか?」

 

「最後に聞いた話だと……リハビリで日常生活に支障がない程度には回復したけど、ピッチングどころか送球もままならないくらいには酷いわ」

 

(そんなに……。確かにそれは投手生命を絶たれたということになってしまいますね)

 

「その方とはボーイズリーグから一緒にやっていたんですよね」

 

「そうよ。前に少し話したけど、アタシと同じ時期にピッチャーを始めたの」

 

「肩を壊された後……どんな話をされたんですか?」

 

「……話してない」

 

「えっ?」

 

「話せるわけ……ないじゃない。今更アタシがアイツに何をしてやれるっていうのよ」

 

(そんな……。私と重ねるほどその方のことを気にしているのに、話すことが出来ていないなんて……)

 

 険しくもどこか追い詰められたような高坂の表情を見てこれ以上の追求に戸惑いを覚えた野崎だったが、先ほどの決断を貫くように話を続けた。

 

「ですが……ずっと野球を一緒にやっていた高坂さんと話くらいはしたいと思っているのではないでしょうか」

 

「さあね? アタシはアイツに必要なトレーニングが何かを分かっていたけど、アイツ自身の手で道を開くことを期待して言わなかった。むしろ恨んでて話もしたくないかもね……」

 

(……後悔、しているんですね。ですが……)

 

「……高坂さん。私がシャドウピッチングで無駄のあった投球フォームを安定させてしまいそうだった時のことを覚えていますか?」

 

「急になに? ……覚えてるわよ」

 

「もし、ですよ。もしあの時偶然あなたと会わずにその投球フォームが身について、身体に余計な負荷がかかって故障してしまったとしても……他の誰かを恨むことはないと思います」

 

「……!」

 

「それどころか……高坂さんに限らず、他の誰かに聞くという選択をしなかったことを、ずっと……後悔してしまうかもしれません」

 

「まさか……アイツがアタシに話してこない理由は、アタシがアイツに話しかけない理由と同じで……!?」

 

「きっと、後悔してるんだと思います。どんな理由があれ、チームにも……そして高坂さんにも自分の選択で迷惑をかけてしまったと」

 

「違う! だってアタシが……! アタシが…………」

 

 とっさに反応した高坂が興奮気味に立ち上がったが、次第にその声が尻すぼみに弱まっていくと、やがて口が閉じられ、唇が強く噛みしめられていた。野崎は一度落ち着かせるように高坂を座らせると、自動販売機からカフェオレを二つ買ってその内一つを高坂の前に置いた。そして固定されている右肘を見てその缶の蓋を開けると、それを飲んだ高坂が少し落ち着いたのを見ながら座り直した。

 

「一度……話してみませんか?」

 

「……はっ。今のアイツと話しても過去の古傷を抉るだけよ」

 

(きっと……それが先に進めない一番の理由なんですよね。その方がピッチャーが出来ない以上、もう前に進むことが……。何か……ないんでしょうか)

 

 野崎は自分が野球を始めてからこれまでの記憶を必死に探る。すると……一つの記憶に思い至った。

 

「野崎さんは今ピッチャーとしての練習が中心ですが、ベンチに置いておくにはもったいないバッティングの成績を残していたのでファーストでの起用になりました」

 

 紅白戦が終わった後のスタメン発表でピッチャーの練習をしていた自分がファーストで起用された時のことを思い出した野崎は恐る恐る高坂に問いかけた。

 

「あの……その方はバッティングはどうなんでしょう?」

 

「……悪くはないわよ。外野で起用するか試されたこともあったわ。……ま、アタシの方がバッティングの成績良かったし、打での起用は結局ほとんど無かったけどねぇ」

 

「それならその……野手、としての道は残されているのではないでしょうか?」

 

「野手、ねぇ……」

 

(無い話ではないと思うのですが、思ったより反応が薄いですね……)

 

「アンタ……バッティングのことしか考えてなかったでしょ。守備はどうするんのよ」

 

「守備……あっ! 送球……」

 

「そうよ。左肩で投げるのは無理……右で投げようにも左利きのアイツには簡単な話じゃないでしょ」

 

「で、ですが……」

 

「それに……」

 

「……?」

 

「アタシたちは名門向月よぉ? 野手の層だって厚い……。左肩のディスアドバンテージを背負って、勝ち残れっこないわ」

 

「…………! ど、どうして……」

 

(……? どうしてってなによ。……!?)

 

 下を向いた野崎の顔を覗き込むように見た高坂は流れ落ちる涙に気付いて目を丸くした。

 

「どうして……そんなことを言うんですか。私が、野崎夕姫が高坂椿から学んだ一番大切なことは……」

 

 これまでの指導が次々と流れるように浮かび上がってくる中で、最も大きく浮き上がったのは最初に高架下で出会った日の出来事だった。

 

「やる前から限界を自分で作って諦めてしまうことの……馬鹿らしさ、ですよ」

 

 涙で潤んだ瞳は怒気を含むように力強く見開かれ、高坂の瞳を突き刺すような視線で見つめていた。

 

「……!」

 

 対して高坂はその視線と共に突きつけられた言葉を受けて黙り込むと、少しの時間を挟んで大きなため息をつき、口を開いた。

 

「アンタの……言う通りよ」

 

「……高坂さん。私には……今のが本心であったとは思えません」

 

「……そう、ね。アンタに野球を教えたのと同じ。どれだけ御託を並べても、奥底にあるのは格好のついた理由じゃない。ただ……怖かったのよ。今からの野手転向は茨の道。アイツが断る可能性もある。けどそれ以上に……また間違った選択をして後悔することが、怖かった」

 

 左肩を押さえて悲痛な声を上げる彼女の姿や、もうピッチャーをすることは出来ないと聞いた時のショックが、彼女の記憶に強く刻まれており、それが震えとなって現われてきていた。

 

「その方が断るかどうか……そればかりはその方次第です。彼女のことをよく知らない私が言えることはありません……ですが」

 

 震える左手を一回り大きい手のひらで包むように握った野崎は驚いたように見てくる高坂に穏やかな笑顔を向けた。

 

「高坂さんなら、大丈夫です」

 

「どうしてそんなことが言えるのよ……」

 

「あなたは知識の無い私に多くの的確な指導をしてくれました。私は指導者としてのあなたの実力をよく知っているんです。だからそれを……信頼することが出来るんです」

 

「あ……」

 

 強烈に刻まれた記憶を包み込むように高架下での特訓で野崎が成長した日々が鮮明に思い出されていく。すると震えは次第に収まっていった。

 

「……!」

 

 それを確認した野崎が手を離すと高坂は急に立ち上がって背を向け、飲み干したカフェオレをゴミ箱に捨てると、換気用の窓の方へと歩いていく。すると先ほど一匹だけで大きな鳴き声を出していた松虫がいつの間にか群れをなして共に鳴いているのを目にしながら、小さく鼻を鳴らした。突然のことに戸惑いながら少し遅れてついていった野崎は鳴き声に紛れて聞こえてきたその音に足を止める。二人はしばらくの間、窓から合唱のように聴こえてくる虫時雨に包まれた。やがて高坂が振り向くと伝えられた短い言葉に野崎は顔を(ほころ)ばせたのだった。

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