皆で綴る物語   作:ゾネサー

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目算が甘くて伸びてしまい申し訳ない。ようやく完成しました!


幕切れまで一筋の糸を

「方針を変える?」

 

「低めを捨てる方針は3つの狙いを持って立てましたが……その内の2つ。低めの厳しいボールを捨てて高めの甘いボールにアジャストしやすくする、低めに外れるボール球を振らないことで球数を多く投げさせる。これらの狙いは上手くいってませんでしたから」

 

「でも、肝心なのは3つ目の狙いだってミーティングの時に確認したような……」

 

「ええ。なのでその狙いだけは続行出来るような方針に変更しようと思います」

 

「分かった。それでこれからどうするの?」

 

 4回の表が終わったところで牧野と神宮寺はこれから取るべき作戦を相談していた。そして現在の方針から別の方針へと変更することに牧野が納得すると、神宮寺はベンチにいる皆へと呼びかける。すると皆の視線が神宮寺へと集まった。

 

「ここまでの投球を見ると鎌部さんのストレートを除いた持ち球はデータ通りシュート・カーブ・フォークの3つのようです。この内シュートとフォークは速球系……ストレートとの見極めも難しい。ですがカーブはその独特な弧を描く軌道からも見極め自体は可能なボールです」

 

「ということは……」

 

「はい。彼女の中で唯一緩急の緩に当たるカーブ……これに狙いを絞りましょう」

 

「なるほど……カーブはタイミングを外されたり、体勢を崩されると空振りや凡打を招きやすい。けど予め待っていれば他の球種に対応が難しくなる代わりに、遅い分軌道の予測もしやすいから捉えられるかもしれないね」

 

「ウチはどうする? 低めを捨てる方針からは外してもらったけど、それなら高いボールが苦手なウチでも参加出来るぞ!」

 

「お願いします。チーム全体で鎌部さんにプレッシャーをかけ続けましょう」

 

「おう!」

 

 こうして神宮寺の口から全員に方針が共有されると、4回の裏が始まり1番バッターが右打席へと入った。

 

(カーブ打ちの基本は重心を後ろに置いて無理に引っ張らずセンター返し。ここまでこっちの攻撃は三者凡退続きなんだ。流れを変えるぞ……!)

 

 身体の前で握ったバット越しに鎌部を見て士気を高めたバッターがバットを構えると、そんなバッターを見て鎌部も気合いが入り思わずボールに込める力が強くなっていた。

 

(ここから2巡目。8番の打席は気になるけど1巡目の攻撃で清城は低めにほとんど手を出さなかった。……千秋、初球はここにカーブを。ついでに上手く肩の力を抜きなよ。さっきの神宮寺のピッチング見て気合い入ってるのは分かるけど、余計な力はボールのキレを悪くするだけだ)

 

(……分かったんですけど)

 

 サインを受けた鎌部は息を軽く吐き出してから投球姿勢に入りボールを投じた。放たれたボールは弧を描いてアウトコース低めへと曲がっていく。

 

(いきなり来た! もらっ……いや、外れてる!?)

 

 カーブを待っていたバッターはこのボールを引き付けてからスイングの始動に入ると、その軌道が外へと外れていることに気づいてバックスイングの段階でバットを止めてこのボールを見送った。

 

「……ボール!」

 

(よく見たな。要求通り少し外に外れてたのに。……それとこのバッター、今バットを振ろうとしたな。1巡目のように低めを簡単に見送ってくれるとは思わない方がいいか)

 

(……今日は指先の感覚が良すぎるくらいには良いんですけど)

 

(一打席目と同じ入りかと思ったら、今度は少し外れてた……。それにここまでヒットを打たれてないのにボールから入る慎重さ、相手に油断は無さそうだな……)

 

 テンポ良くサインの交換が終えられ2球目、3球目と続けてインハイにストレートが投じられると、見送られたボールはどちらも際どいコースに続けて決まりカウントは1ボール2ストライクとなった。

 

(くっ。今の手を出してみても良かった? ……いや、ダメだ。このスピード差じゃカーブもストレートもなんてやれる余裕は無いし、それに相手は緩急をつけるためにカーブを使う必要があるんだ。迷うな……神宮寺さんが言ってたようにチーム全体でプレッシャーをかけるんだ)

 

(2球目の反応が悪かったから続けてみたけど見てきたか。まあ、こう際どいところに千秋レベルの速さのストレートが決まると手は出しにくいかもね。後はフォークを低めに外して……えっ)

 

 ここまでスムーズにサインを交換してきた界皇バッテリーだったが送られたサインに鎌部は首を振っており、一度ここで投球のテンポが落ち着いた。

 

(……じゃあシュートをストライクからボールに外して……)

 

(違う……ここはボール球を費やしたくないんですけど)

 

(……まさか)

 

 戸惑いながらも続けて送ったサインにも首が振られ、キャッチャーは少し考えた後、ある事に思い至りサインを送る。すると鎌部はそれに頷いた。そして4球目が投じられる。インコース真ん中に来たこのボールにバッターはバットを止めた。

 

(……変化が始まるポイントはここか!)

 

 その軌道を目に焼き付けるようにしてバッターがフォークを見送ると、ボールはインコース低めに構えられたキャッチャーミットにバウンドせず収まり捕球音をならした。

 

「……ストライク! バッターアウト!」

 

「えっ……」

 

(フォークをストライクゾーンに投げてきた……!?)

 

(フォークは回転がほとんどない。つまり力の無いボールだ。いくら千秋のフォークにキレがあっても、フォークをストライクゾーンに投げるのはリスクが高い。……ここまで低めギリギリを突けなければ)

 

 ストライクゾーンを通過したフォークをバウンドする寸前の高さで捕球したキャッチャーはその精度に思わず身震いしてから、鎌部へとボールを投げ返す。それに対して鎌部はさも当然とも言いたげに自信の浮かんだ表情でボールを受け取った。

 

(手が出ないのか相手はあんまりバットが振れてない。それなら思い切って低めギリギリを狙って投げ込むくらいやってやるんですけど)

 

(いくら千秋でもこの絶妙な高さを狙うのは難しい。確信があって投げたわけじゃないのは私には分かる。なのにあんな自信満々で……けど、そうだよな。千秋は変わったんだ……)

 

 キャッチャーは鎌部に「ナイスピ!」と声をかけてから野手陣と共にワンナウトの声かけを広げながら、界皇に入学して鎌部と初めて出会い練習でバッテリーを組むことになった時、彼女は今のような威風堂々とした態度とは程遠く、「けど……」と口癖のように言っておどおどしていたことを思い出していた。

 続く2番バッターが左打席に入るとインハイのストレートが見送られてストライクとなり2球目。投じられたカーブがインコース低めへと曲がっていく。

 

(……よし、カーブだ。これを……!)

 

(上体を残されたか……!)

 

 ストライクゾーンの際どいところへと曲がってくるカーブに対して始動を溜めたバッターが軌道に合わせるようにバットを振り出すと、芯で捉えられた打球が二遊間方向へとゴロで放たれる。

 

(……捕れる!)

 

 ややセカンドの相良寄りに放たれたゴロを二塁ベース近くの深さで逆シングルの体勢で捕球した相良はすぐ様送球に移ると、ファーストの前でワンバウンドしたスピードのあるボールがすくいあげるようにファーストミットに収められた。

 

「アウト!」

 

(アウト!? センター前に抜けたと思ったのに……)

 

(このバッターは引き付けてからバットを合わせるのが上手いのが特徴だ。鋭い打球が来るとしたら二遊間だと思ってたよ。……それでも届いたのはギリギリだったけどね)

 

 一塁ベースを駆け抜けたランナーはアウトにされたことに驚きを隠せずその視線を相良に送ると、その相良は今のプレーで落ちた帽子を拾ってついた砂を払い、ランナーを背にして短く吐息を吐き出してから帽子を被り直していた。

 2アウトになり右打席に3番バッターが入ると少しバットを短く握って構える。

 

(3点ビハインドでこっちは出塁無しでもう4回の裏なんだ。ここで上位が三者凡退はシャレにならないぞ……!)

 

 初球として投じられたシュートがインコース真ん中のストライクゾーンから内のボールゾーンへと変化するとバットを出す振りをしてバットが止められ、2球目として投じられたフォークがインコース真ん中から低めへと落ちるとバッターはこれを同じようにして見送った。

 

「……ストライク!」

 

(あれ入ってるのか……)

 

(千秋くらいの投手でも普通1試合を通して投げれば失投が0なんてことはそうそうない。それだけピッチングには集中力が必要なんだ。けどここまでのコントロールは完璧だ……。そんなに神宮寺に刺激を受けたのか?)

 

(この試合でアイツを超えてやるんですけど……!)

 

 カウントは1ボール1ストライクとなり3球目。投じられたのはカーブ。

 

(来た……!)

 

 真ん中やや低めの高さからアウトコース低めへと曲がっていくカーブに左足を上げて溜めを作ったバッターはその左足を踏み込んでバットを振り出すとライナー性の打球が放たれた。

 

「ほいっ……と!」

 

「……!?」

 

 ショートに入っている大和田が二遊間方向に足を少し動かすと右足を踏み込んで上に向かってジャンプし、頭上を通過しようとする打球にミットを伸ばしていた。そしてジャンプの衝撃を膝をクッションにするようにして難なく抑えた大和田はミットを掲げる。

 

「アウト!」

 

(なんてジャンプ力なの……。それと打球がちょっと低かった? 上手くタイミングは合ったしショートの上は超えると思ったのに……)

 

(一打席目と同じようにストライクからボールになるカーブで打たせて取れた。こういうタイプのバッターは得意なんですけど)

 

 低めに外したカーブを短く持ったバットの先で捉えた打球は大和田の守備範囲に飛び、3つ目のアウトのコールが響いていた。狙い通りの結果に満足したように鎌部はベンチへと帰っていく。

 

(この嫌な流れの理由の一つは攻撃時間の差……。こちらの攻撃の短さに対して界皇の攻撃はあまりにも長い。それが私たちの心を蝕み、焦りを呼ぶ。……鎌部さんがフォークでストライクを取る選択をしたのは恐らくその差を顕著にして、ピッチングを攻撃のリズムに繋げるため。……正念場ですね)

 

 ネクストサークルに座っていた神宮寺が目の前で三者凡退を見届けるとベンチへと戻りミットを持ってマウンドへと向かった。そして準備投球をしながら高鳴っていく鼓動を落ち着かせていくと、やがて試合は5回の表に入り先頭打者のレナがバッターボックスへと向かう。するとレナは打席に入る前にスコアボードを見上げてから右打席へと入った。

 

(……ここで手を緩めてはダメね。4番として、神宮寺小也香……あなたという柱を揺らがせる一撃を打たせてもらうわ。あなた達ならここで4番を抑えることの大きさは分かっているはず。なら、この打席で必ず決め球のスライダーを投じる。たとえ一球であっても、それを捉え損ねたらお終いだと思って……狙わせて貰うわよ)

 

 そして投じられた初球は真ん中低めからインコース低めへと曲がっていくシュート。これがバットを出さずに見送られると僅かに低めに外れてボールとなった。

 

(見た? そんなに大きく外れてたわけじゃないのに……)

 

(ふぅ……。ストレートを狙っていたら思わず引っ掛けてしまいそうな軌道ね)

 

 冷静に見送ったレナを見上げながら牧野は次のサインを送ると神宮寺は少しの間を挟んでからそれに頷いた。

 

(アウトローの厳しいコースにストレート……先ほどツーベースを打たれたボール。甘く入ったら持っていかれますね……)

 

(さっきの見送り方は多分今はストレートを狙ってないんだ。これも見てくるならストレートを軸に組み立てよう)

 

 先ほどの打席で投じた渾身のストレートを痛打されたことが脳裏によぎった神宮寺は首筋に滲む冷や汗を袖で拭ってから投球姿勢に入るとアウトローを狙ってストレートを投じた。

 

「……!」

 

 するとレナがスイングの始動に入り左足を踏み込んだ。しかし腰の回転が途中で止められてバットが止まると、見送られたストレートはボール1個分外に外れ、牧野はキャッチャーミットを外に動かすようにして捕球した。

 

「ボール!」

 

(狙いすぎましたか……)

 

(……スライダー待ちの今のタイミングで振っても、振り遅れるわね。けどこれでボールが2つ先行したわ)

 

(今振ろうとしたけど止めた……まさかさっきのシュートも今のストレートも見送ったのは、外れていたから? レナさんはもう小也香のボールを完全に見極めて……)

 

 2ボール0ストライクとなり、不敵な笑みを浮かべながらレナはバットを構え直す。牧野はそんな捉えがたいレナの本心を探りながら、一度ネクストサークルにいるバッターを横目で見た後、意を決したようにサインを送った。

 

(5番だって好打者……歩かせて痛いのはこっちだ。ここは内からフロントドアで入ってくるスライダー! 合わされてもファールになりやすいし、ここに見せられれば外も生きてくるはず)

 

(なるほど……分かりました)

 

(……狙いは変えない。スライダー……一打席目で高速スライダーの軌道に合わせて空振り三振に取られた時、その変化量は私なりに確認したわ。恐らく高速スライダーはスライダーよりスピードを重視してサイドスピンの量が落ちている。それでも並のスライダーほどは曲がっていたわ。そして彼女のスライダーは私が打ちたいポイントでは……)

 

 頷いた神宮寺は人差し指と中指をボールの外側で揃えるようにして握り、3球目を投じた。すると牧野の要求通りボールゾーンから切れ込むようにスライダーがインコース低めのストライクゾーンへと曲がっていく。

 

(高速スライダーよりボール2つ分外! スライダーの軌道に線で合わせず、予測したところを点で振り抜く!)

 

(タイミングが合ってる……!?)

 

(待たれていたというのですか……! しかし線で合わせるだけではファールに……)

 

 このスライダーに対し、レナはバットを振り切った。

 

(……そんな……)

 

(なんですか……この澄み切った打球音は……)

 

 響いた快音は余韻を残すようにグラウンドからスタンドに流れて段々と弱くなっていくと、唖然として打球を見上げる牧野と神宮寺をよそにレナはバッターボックスから出て歩き出す。

 

(ボールを点で打つということは、少しでも予測やスイングにズレがあれば即打ち損じに繋がる。だからこそ両者にズレが無かった時……)

 

「嘘だろ……」

 

 高く打ち上がった打球を追っていたレフトは外野フェンスの前まで来ると身体の向きを変えずにさらに先を飛んでいく打球を見て、信じられないような表情を浮かべていた。そして打球がようやく草地に落ちてくると、快音の余韻を味わうかのように静まっていたスタンドが一斉に歓声で包まれた。

 

(生きた打球が生まれるのよ)

 

 打球はポールから少し離れたフェアゾーン側を通過し、スタンドインしていた。レナは歓声に包まれながら一塁ベースを踏み、悠々とダイヤモンドを回っていく。すると二塁ベースを回ったところで神宮寺の姿が目に入った。

 

(……見事なスライダーだったわ。けど、ボール先行のカウントからストライクを取ろうと少し中に入ったわね。それがフロントドアを打ち返す窮屈さを僅かに軽減してくれた)

 

 神宮寺から目を切って三塁ベースを回ったレナが開いた口が塞がらない様子の牧野を横目にホームを踏むと球審のホームインの宣言が響き、界皇の4点目が認められた。

 

「この回で一気に崩しましょう」

 

「ああ。決め球のスライダーを打たれて動揺してるだろうしな。レナが作った隙は逃さないよ」

 

 そして一塁側の界皇ベンチへと帰る際に5番バッターと言葉を交わしたレナはベンチからの祝福を受けた後、プレーが再開したグラウンドを背にバットやヘルメットを片付けていた。

 

(タイムを取らなかったわね。どうやら牧野さんの動揺も大きそう。界皇はこの隙を逃す打線じゃない……ここまでかな)

 

 今のバッティングを見た大和田が4番への憧れを募らせて興奮気味に話しかけると、レナは彼女と話しながら少し時間をかけて道具をしまい終えた。するとこのタイミングで球審のコールが聞こえてきた。

 

「……ストライク! バッターアウト!」

 

「え……!?」

 

 振り返ったレナの目にインコース低めで構えられた牧野のミットと腰を引いた様子の5番バッターが映る。

 

「今の……フロントドアで入ってくるスライダーでしたよ」

 

「な、なんですって……!?」

 

 今の打席を見ていた相良が見送り三振に取ったボールを告げると、レナはその言葉に大きく動揺していた。

 

「小也香! ナイスボール!」

 

(牧野さんも見事なリードでしたよ。この回……共に乗り越えましょう)

 

 先ほどのホームランの後、彼女達は言葉を交わしていなかったが、互いに向月との試合で高坂にランニングホームランを打たれた後のことを思い出していた。今グラウンドでは神宮寺が声かけと共にボールを受け取りながら、冷たい手のひらを温めるかのように彼女からのボールを握り、続く6番打者を左打席に迎える。

 

(……! 解除のサイン。いつもは既に出ているサインを解除するサインだけど今はサインは受けていない。これは今回予めミーティングで共有していた……スライダーを捨てる方針を解除するってことだ。北山監督は神宮寺がさっきのレナさんの一撃に構わず、これからもスライダーを投げ込んでくると読んだのか)

 

 サインを受けた6番打者はその意図を汲み取るとバットを構えた。そしてカウントは1ボール1ストライクとなり3球目。アウトハイに投じられたストレートが打ち上がると少し押し込まれたような打球が三塁側ファールゾーンへとバウンドしてファールとなった。そして4球目として投じられたシュートが今のストレートの軌道に沿うように向かっていくとそこから外のボールゾーンへと変化していく。バットを振り出したタイミングでそれに気づいたバッターはこれに辛うじてバットを止めると、カウントは2ボール2ストライクとなった。

 

(スライダーはまだ投げてない。そろそろ来るか……?)

 

(……このバッターは低めをすくうのが得意。なら……)

 

(……懐かしいですね。ストレートを中心に追い込んで、ホームベースの中心から離れるスライダーで仕留める。前の私たちに戻ったような配球です)

 

 そして5球目が投じられると真ん中高めやや内寄りからスライダーが変化していく。このボールに対してタイミングを合わせたバッターはバットを振り切った。

 

「任せて!」

 

(あ、あそこから内のボールゾーンに……!?)

 

 予測した軌道よりさらに食い込んできたスライダーをバットの根っこで打ち返した打球は打ち上がり、アピールしたファーストがファールゾーンで構えてキャッチして2アウトとなった。

 

(くそ……。ここまで見れたスライダーは最初の打席の1球目だけ。しかもストレートを打とうと振ったから軌道が上手く把握できなかった。せめてもう一球見れていれば……)

 

 目測を誤ったバッターが悔しそうにベンチに戻っていくと、グラウンドとの境になる柵を掴むレナの手が震えているのに気付いて顔が上げられた。

 

「私たちは……いえ、もしかしたら向月も……見誤っていたのかもしれないわね。彼女の最大の武器はあのスライダーでも球持ちのあるストレートでもなく……どんな時でも立ち上がれる精神力にあるんだわ。きっと何があっても成し遂げたい……強い目標があるのね」

 

「精神力……ですか。確かに今の打席、甘いボールは一球も来ませんでした」

 

「……」

 

 バッターがレナの言葉に同意するように頷いているとネクストサークルに向かえるよう準備を進めていた鎌部はそのやり取りを聞いて去年の夏大会直前の合宿での出来事を思い出していた。

 

「鎌部。次カーブね!」

 

「け、けど私カーブは……」

 

「あれ? 投げられたよね?」

 

「ええと投げられますけど……その……期待には添えないと思うので」

 

「それは見てみないと分からないからさ! とりあえず投げてみて。右バッターのアウトローを狙うイメージでさ」

 

「は、はい……」

 

 レギュラー入りしたピッチャーとキャッチャーでグループを作りブルペンでの投げ込み練習が行われる中、背番号20をつけた鎌部は上級生のみで周りを囲まれて萎縮しながらカーブを投じていた。

 

「っと……」

 

 すると外に大きく外れてしまい鎌部はたたでさえあまり良くない顔色が青ざめていくとキャッチャーから声をかけられた。

 

「うーん。キレは悪くないんだが、ちょっと外れすぎだな」

 

「そ、そうですよね……けどカーブのコントロールは元々こんな感じで」

 

「そっか。じゃあ藤原のカーブを少し参考にしてみたら?」

 

「え……け、けど」

 

「良いよね?」

 

「ああ、構わないよ。で……どんなシーンだっけ?」

 

「あ、えと……右バッターのアウトローを狙って、だったと思いますけど……」

 

「あー。違うんだ鎌部。そうだな……じゃあ1点リードで7回の表、2アウト満塁でカウント2ボール2ストライク。ここでカーブが外れるとランナーがオールスタートを切ってくるけど、入れにいってヒットを打たれたら逆転されるシーンで」

 

「点取られた後?」

 

「ん、そうだな……この回1点取られて後続の攻撃ってことにしとこうか」

 

「了解! じゃ、ちょっと待っててね……」

 

(……? ブルペンでの投げ込みなのに、ボールを長く持ってる?)

 

 セットポジションに入りボールを長く持った藤原がクイックモーションからカーブを投じると弧を描いて曲がったボールがアウトローの際どいコースへと収まっていた。

 

「……ストライク、だな。高さもコースもギリギリだ」

 

「凄い……」

 

「参考になった?」

 

「す、すいません。凄いのは分かったけど、私が学べるものは……」

 

「んー、そっか。じゃあそうだな……。鎌部は1試合投げ切るのに一番大事なものはなんだと思う?」

 

「それは……決め球だと思います!」

 

「お、決め球と来たか。それはなんでかな?」

 

「1試合通して相手に意識をさせ続けられる決め球……それがあれば、最後まで相手を抑えることが出来ると思ったからです」

 

「……なるほど。それも面白い考えだね」

 

 鎌部の答えに意外そうにする藤原だったが、明るくなった表情で答える彼女に投手としての信念を感じると、少し悩んでから話を続けた。

 

「鎌部の決め球はフォークだったよね?」

 

「はい! フォークだけは自信あるんです!」

 

「他の球種はどう?」

 

「カーブは自信ないけど、ストレートはまあまあ……です」

 

「釈迦に説法かもしれないけど、握力の消耗が激しいフォークだけで1試合組み立てるのは難しいよ。その様子だとカーブはまだ実戦で投げてなさそうだけど……少なくともストレートは多く投げてるよね」

 

「はい……。ストレートで追い込んで、後はフォークを振らせるというのが多いです」

 

「そっか。でも一番大事だと思ってる決め球を自信を持って投げられるってのは良いと思うよ」

 

「あ、ありがとうございます……!」

 

「ただ最後まで相手を抑えるって言ってたけど……鎌部はさ、全ての試合で完封出来る?」

 

「それは……えっと、そのつもりで投げますけど」

 

「うん。点をやらないつもりで投げるのはいいね。ただ鎌部は今まで失点した試合もあるよね」

 

「はい。沢山ありますけど……」

 

「悲しいかな。ピッチャーってのは相手の攻撃に対して何度も何度も投げるから、ヒットを打たれることがあるのは当たり前だし、失点だってしちゃうことはあるんだよね。ま、失点は何度しても気分の良いもんじゃないけど……。鎌部、わたしが1試合を投げ抜くのに必要なのは、“自信”だと思うんだよね」

 

「自信……ですか? その……ちょっと、ざっくりしているような」

 

「そ、自信ってざっくりしたものだからさ……結構揺らいじゃうんだよね。失点した時とか、決め球を痛打された時とか……」

 

(失点した時……あっ!)

 

 自信という藤原の答えに困惑していた鎌部だったが、先ほど藤原がシーンを確認してカーブを投じていたことを思い出し、今の説明と繋がるような感覚を覚えていた。

 

「ピッチャーやってると時間を巻き戻したくなることって一杯あると思うんだ。けど、試合は進む一方だからね。といってもその場で切り替えるのは簡単じゃない。だからわたしは実践練習じゃない時でも色んな状況、カウントで練習して自信を持つようにしてるんだ。やってきたから投げられるんだぞって感じでね」

 

「そ、そうだったんですね。やっぱり先輩は凄いです。けど私は……」

 

「……わたしたちのいる界皇はさ、名がある分部員も多いでしょ。だからベンチに入る人より、スタンドで応援する人の方が多いし、その中には最上級生……3年生もいる」

 

「……はい。私も……メンバー発表の時それを凄く痛感しました」

 

「この背にある番号は重いよ。……わたしね。一年の時、あなたと同じようにベンチ入りして……夏大会決勝の最終回でリリーフしたんだ。一点差で勝ってる場面でね。けど追いつかれちゃって……それを切り替えられなくてフォアボールを出したところで降板」

 

「先輩……」

 

「藤原……」

 

「あれから色々考えて、思ったんだ。この背番号をしょってマウンドに立つ以上、このチームの中で……一番の自信家になってやろうってね」

 

「そうだったんですね……」

 

「自信がないボールがあるなら今のうちに一杯投げておいた方がいいよ。そのカーブも……あ、それと『けど』ってすぐ言っちゃうのは直したほうがいいよ。自分の自信を奪っちゃう言葉だからね」

 

「けど……あっ!」

 

「口癖はそうすぐには消えないか。じゃあ、そうだなあ……『ですけど』って足すのはどう? それなら自信が垣間見えていいんじゃない?」

 

「……ちょ、ちょっと恥ずかしいですけど。そうしてみるんですけど」

 

「いいね。鎌部、いつかあなたがチームで一番の……あ、でもわたしも負けたくないな。じゃあ二番目以上の自信家になった時。その時には……決勝の最終回であなたにリリーフしてもらおうかな」

 

 ——キィン。金属音に導かれるように鎌部は顔を上げると外野に打ち上げられた打球はやがてほぼ定位置で構えるライトのミットへと収まり、3つ目のアウトが宣言されていた。

 

(くっ。追い込まれてスライダー来る前に打ちにいったら、高速スライダーに合わせるだけになった……)

 

「自信家……」

 

「……? どうかした?」

 

「……いえ、なんでもないですけど」

 

 手に持っていたヘルメットをそのまま置いた鎌部は代わりにミットを手に取りながらベンチへと下がっていく神宮寺を見てそう呟き、不思議そうに見てくるレナにふてぶてしく笑って返すとマウンドへと上がっていった。

 

(この大会で私は全国No.1の自信家になってやるんですけど。あの自信の塊のような高坂椿にも、そして……勿論アンタにも負けないんですけど)

 

 4番バッターとして右打席に入る神宮寺を射抜くように見つめた鎌部はボールを投じるとインハイへのストレートは内に外れ、神宮寺は顔を引くようにして見送り、同じように鋭い視線を鎌部へと返してきた。

 

(延長に入らなければこちらの攻撃は残り3イニング。4点を返すにはこの回で私が打ち取られるわけにはいきません)

 

(……引かないって感じなんですけど。なら……)

 

(カーブ……! それもこれは……肩口から入ってくるカーブ(ハンガーカーブ)!)

 

 自分の身体に向かうように投じられたボールに対してカーブを意識していた神宮寺は上体を残すと中へと曲がってくる軌道に合わせるようにバットを振り抜いた。するとレフト方向へと放たれた打球にレナがその足を動かすが、自身から逸れていくような軌道に追いつけずに足を止めた。

 

「ファール!」

 

(し、しまった……。今のはストライクゾーンには入らず、内に外れていた……!)

 

(残りイニングが少なく、相手がビハインドで打席に入ったシーンでは普段なら落ち着いて見極められるボール球も打つ意識が強い分手を出してしまいやすい……想定通りなんですけど)

 

 続くシュートがインコース真ん中から内のボールゾーンへと外れて見送られると、4球目のストレートが見送られてインコース真ん中、内に厳しく決まってストライクとなりカウントは2ボール2ストライクになる。

 

(さて……これだけ内に厳しく見せたんだ。ここはフォークをアウトロー……ゾーンギリギリを狙ってもらうよ)

 

(はなからそのつもりなんですけど)

 

(やはりシュートもストレートもスピード、コントロール共に質が高い……。ここはカーブを……!?)

 

 そして投じられた5球目のフォークがアウトコース真ん中からアウトコース低めへと落ちていくと、神宮寺のバットが止まってこれが見送られた。

 

「……ストライク! バッターアウト!」

 

(は、入っているというのですか……)

 

(高さだけじゃなく、コースも外ギリギリ……この試合最高の一球だ)

 

「ナイピ!」

 

(当然……なんですけど)

 

 アウトローの四隅を通すような精度で投じられたフォークに神宮寺は背筋に冷たいものが走る感覚を覚えながら、唇を固く噛み締めてベンチへと戻っていった。

 そして5番打者は1ボール2ストライクからアウトローのフォークで見逃し三振に取られると、続いて左打席に入った6番打者は0ボール1ストライクからアウトローに投じられた際どいカーブを逆方向に打ち返していた。

 

「……!」

 

 際どいコースに投げ切れた感覚があった鎌部は目を見開くと打球は前進してきたレナが身体の重心を落とすように滑り込んでキャッチし、レフトライナーで3アウトとなった。

 

(う……なんてこった。カーブに狙いを絞ってるのに、こうもヒットが出ないのか)

 

「……カーブが狙われてる感じがするんですけど」

 

「かもな」

 

「かもなって……気付いてたんなら言って欲しかったんですけど」

 

「確信が無かったんだよ。他の球種に反応してるバッターもいたしな。ただ1巡目でほとんど低めに手を出さなかった清城打線が2巡目で低めのカーブに手を出すようになってきた……。だから他の球種と違ってカーブは念のためゾーンに入れにいかせなかったんだ」

 

「ふーん……ま、抑えられたからいいですけど」

 

「……ねえ。ところで気付いてる?」

 

「……? なんのことか分からないんですけど」

 

「あ、気付いてないならいいんだ」

 

(ここまで完全試合ペース……。ただあまりそれを意識して崩れてもらっても困るからな。このままの調子で頼むよ)

 

 そして6回の表の界皇の攻撃。8番バッターは初球打ちに打って出た。

 

(スライダー解禁のサインは出たけど、速球中心で追い込んでスライダーのスタイルは変わってない。なら狙うは変わらず……ストレートだ)

 

(振ってきた……! けどこれは膝下の厳しいコースに決まってる!)

 

 インコース低めに投じられたストレートにバッターは縦に振るようにバットを振り出すと、芯より外側でミートされたボールは一二塁間へと打ち返され、セカンドがこの打球へと飛びついた。

 

「うっ……!」

 

 しかし伸ばしたミットの先を打球が抜けていき、ライト前ヒットとなる。

 

(強い打球を飛ばすコツは内のボールは引っ張り、外のボールを流すこと……このバッターはセオリーに当てはまらないということなのですか)

 

(悪いな神宮寺。どんな好投手にも相性の悪いバッターってのはいるもんだ)

 

 ノーアウトランナー一塁となり9番バッターとして打席に入った鎌部はバントの構えを取った。

 

(ここは簡単にバントをやらせるわけにはいかない……!)

 

(ええ。やらせはしませんよ)

 

(くっ!?)

 

 投じられたアウトハイに曲がる高速スライダーにバントの構えを崩さずに合わせにいった鎌部だったが、ストレートを予測していた分反応が遅れて空振る形になった。二塁へ進塁する意識があったランナーは逆を突かれるような形で一塁ベースに戻ると牧野の送球がファーストへと届き、タッチが行われる。

 

「……セーフ!」

 

(危な……! しっかり当ててよね!)

 

(つ、次は決めるんですけど)

 

(今のでアウトにしたかったな。……次は)

 

(もはや出し惜しみはしていられませんね)

 

「……!」

 

 次に投じられたアウトローへのスライダーにバットが合わされると打球は一塁線に転がっていたが、すぐにファールゾーンへと逸れていった。

 

「ファール!」

 

(外に逃げすぎなんですけど……! ……!)

 

(スリーバントですか。下手に打たせるより、スリーバント失敗の方が痛くないということでしょうか)

 

(スリーバントはファールになったらその時点でアウト。鎌部さんは今、フェアゾーンに転がさないとって意識が強まったはず)

 

(奇遇ですね。私もそれを投じたいと思っていました)

 

 そして投じられた3球目がインハイへと投じられると鎌部は先ほどのようにファールゾーンに逸れないようバットを合わせる。するとボールはさらに内へと食い込んでバットの根本寄りのポイントに当たった。

 

(しまっ……! シュートだったんですけど……!?)

 

「小也香! 二塁に!」

 

「はい!」

 

 この打球がピッチャー正面に転がると捕球した神宮寺が反転して二塁カバーに入ったショートへと送球を行い、一塁ランナーはアウトになった。

 

(これはまずいんですけど……!)

 

(させるかぁ!)

 

(……! っと、お願い!)

 

 二塁ベースへと伸ばされた勢いのあるスライディングが一塁に向かって直線的に踏み出すポイントと交錯すると感じたショートは左に一歩動いてから送球を行う。

 

(どうだ!?)

 

 ベースにスライディングの勢いが吸収されて止まった一塁ランナーが振り向くとファーストミットに収まったボールと一塁ベースを駆け抜けた鎌部の姿が映る。そして一塁審判から判定が下された。

 

「……アウト!」

 

(くっ。少し送球は遅れさせたけど、転がったところが悪すぎたな……)

 

「切り替えなよ鎌部!」

 

「……! ……分かったんですけど」

 

 肩を落としてベンチへと戻る鎌部に小走りで追いついた8番バッターが背中を軽く叩いて先にベンチへと戻っていくと、つかえが弾き出されたように鎌部も前を向いてベンチへと入っていった。

 これで2アウトになり、ランナー無し。右打席へと入った大和田へのカウントも1ボール2ストライクとなり、投じられたスライダーが真ん中低めやや内寄りからアウトコース低めへと曲がっていく。

 

(……ここ、と!)

 

(なっ……!)

 

 すると僅かに低めに外れていたスライダーをすくうように打ち上げた大和田の打球はレフト前に落ち、突っ込みそうになったレフトは慌てた様子でミットを上に伸ばしてワンバウンドしたボールを捕球していた。

 

(さっきセーフティした時、軌道は把握したけんね。おおよそだったけど、上手く打てたと)

 

(先ほどのプレーでランナーが無くなったのは良いのですが、これで大和田さんに走られてしまう……)

 

(界皇はもう速球系に絞るのをやめたのかな……? それにまた初球で走ってくるかも)

 

 2アウトランナー一塁となり相良が右打席へと入る。神宮寺はボールを長く持つと牽制は挟まずにクイックモーションに入った。

 

(2アウト……下手にランナーを意識しすぎるより、ここはバッター勝負!)

 

「スチール!」

 

(やっぱり走ってきた! 一番送球しやすいアウトハイのストレート。刺してみせ——)

 

(大和田の足を意識すれば自然と速球中心のリードになる。ならそれを生かすことこそ……次のバッターの役目!)

 

 アウトハイのストレートにタイミングを合わせた相良がバットを振り出すと、流し打ちで放たれた詰まり気味の打球はライトの前へと落ちた。

 

(ナイバッチやけん相良!)

 

 スタートを切っていた大和田はその駿足を飛ばして三塁へと到達し、相良も一塁を少し回ったところでベースに戻っていくと中継のセカンドにボールが戻され、これで2アウト一塁三塁になった。

 

(ノーアウトからのダブルプレーがあったというのに、このしぶとさ……。ピッチャーとしてはたまりませんね)

 

(……あんたは良い投手だよ。でも私からするとやっぱり一年だ。打席にいるのは私なのに、ネクストにいるレナに意識が少し向いちゃってる。ここで考えることなんて一つしかない……さっきホームランを打ったレナに回すわけにはいかない、でしょ)

 

「ファール!」

 

(くっ……)

 

 そして右打席に入った3番バッターが追い込まれても粘りを見せて2ボール2ストライクから高速スライダーを一塁ベンチ方向へのボテボテのゴロにしていた。

 

(なんでこんな振り切ったスイングでしっかりカットが……)

 

(彼女も界皇のクリーンナップを任されたバッター……そのフルスイングの裏には確かな技術の裏付けがあるというわけですか)

 

 牧野からの掛け声を受けながら神宮寺は乱れた息を整えて9球目となるボールを投じるとインコース低めにスピードボールが向かっていき、バッターは前足を踏み出そうとする寸前で僅かなボールの変化を感じ取りバットを止めて見送っていた。

 

「……ボール!」

 

(ストライクからボールになるシュートか……一打席目と同じ手は食わないよ)

 

(見ましたか……)

 

(6球目から4球速球系を続けたんだ。小也香。ここは一番信頼の置けるアウトローへのスライダーで勝負しよう!)

 

(ええ。これで決めましょう!)

 

 フルカウントとなり10球目。一塁ランナーの相良がスタートを切る中、投じられたスライダーがアウトコース低めへと曲がっていく。するとこのボールに対して外に踏み込んだバッターは振り出したバットを……止めにいった。

 

「……ボール!」

 

「スイング!」

 

 球審のボールの判定に対して身体の前に出るか出ないかという際どいところで止められたバットを見て牧野がスイングを主張すると、一塁審判に確認が行われた。

 

「……ノースイング!」

 

(フォアボール……!)

 

(変化量の大きい小也香のスライダーは体力が落ちるとコントロールがブレやすいんだ。でも外れても振らせられると思っての選択だったのに……)

 

(ふう……止められたのはギリギリだったな。けど、ここで無理に私が決めなくてもいいんだ。後ろには……信頼の置けるやつがいるんでね。……繋いだよ)

 

 相良が走り出した足を止めて進塁権に応じるよう歩き出すと、バッターもバッターボックスを出て歩き出し、その途中でネクストサークルから立ち上がったレナに拳を突きつける仕草を見せた。

 

(……任せて)

 

 拳を合わせるようにレナも軽く拳を突き出すとバッターランナーは一塁へと歩いていく。ここで3回目の守備のタイムを取る清城を見たレナは一度目をつぶって、可能な限り心を落ち着けていった。

 

「大丈夫? 神宮寺さん」

 

「体力という意味でもこの状況がという意味でも……かなりきついですね」

 

「今のうちに少しでも息整えておいてね」

 

「はい」

 

「牧野。ここは勝負しかやりようないと思うけど……抑えられる算段はある?」

 

「……えっと……」

 

(ここまでの打席、レナさんは高速スライダーもストレートもスライダーも捉えてきている……正直、小也香の言う通りかなりきついな。……けどここまで来たらきつくてもなんとかするしかないんだ)

 

「あの……ここまでのレナさんの打席を見て気付いたことはありませんでしたか? 些細なことでもいいんです」

 

「気付いたことかあ……」

 

「前評判通り。いやそれ以上かな……。広角に長打を打ち分けている印象あるね」

 

「ボールが低くてもお構いなしに打ってくるもんね。普通低めに決まったボールをあそこまでポンポンと長打には出来ないよ」

 

「……! そっか……そうだったんだ」

 

「何か思いついた?」

 

「……はい!」

 

「そっか。じゃあリードは任せた! 後のことは私らに任せて、精一杯勝負しておいで」

 

「分かりました!」

 

「……ありがとうございます」

 

 やがてタイムが解かれるとレナが目を開いて右打席へと入っていった。6回の表、2アウト満塁。スコアは界皇のリードで4-0。ピッチャーもバッターもうるさいくらいに高鳴る心臓の鼓動を収めていくように静寂の間が続くと、とうとう神宮寺が投球姿勢に入った。

 

(……! アウトハイ……ストレート!)

 

 そして投じられたアウトハイへのストレートにバットが振り出されると快音がグラウンドに響き渡った。流された打球がライト方向へと飛んでいくと、フェアゾーンから逸れるように変化していった打球はファールグラウンドのフェンスへと衝突する。

 

「ファール!」

 

(……今のは入っていた。コースも凄く厳しかったわけじゃない。ただ……高めから入るとは思わなかったな)

 

(やっぱりそうだ。ここまでの配球は一打席目、アウトコース低めのストレート・ど真ん中の高速スライダー・インコース低めの高速スライダー・インコース低めのシュート・アウトコース低めのスライダー。2打席目、アウトコース低めの高速スライダー・アウトコース低めのストレート。3打席目、インコース低めのシュート・アウトコース低めのストレート・インコース低めのスライダー。……広角に長打に打ち分けてくる前評判と一打席目の高速スライダーを打った大ファールで、気付かないうちに長打の打ちにくい低めばかりの配球になっていたんだ。でも……低めをつくだけじゃこのバッターは抑えられない。……!)

 

 サインの交換が終わり投じられた2球目はアウトハイへの高速スライダー。これが外に大きく外れると神宮寺が目を見開く中、牧野がこのボールに飛びついた。

 

「ボール!」

 

(いけると!? ……!)

 

 三塁ランナーの大和田がそれを見てスタートを切ろうとするが、レナが左手を伸ばして静止しているのに気付いて足を止めると、キャッチャーミットの先に引っかかるようにして捕球されたボールを見てベースへと戻っていった。

 

(……助かります。牧野さん)

 

(スライダーでコントロールのずれがあるんだ……ただでさえ制御しづらい高速スライダーがこうなるのは考えてたよ。それでも投げないわけじゃないと思わせたかった。次は……)

 

(……怖いコースですが、いいでしょう。このバッターに安全なコースというのは無さそうですから)

 

 そして3球目が投じられるとインハイに投じられたスピードボールにレナがバットを振り出した。

 

(ストレートに差し込まれないよう前で……。……!)

 

 すると手首が返され、レフト方向に放たれた打球は大きくフェアゾーンからは逸れていき、ファールとなった。

 

(シュートか……。そのまま振っていたら凡フライね)

 

(今のは良いコースにいったのですが、それでも引っ掛けてくれませんか。……! アウトローにスライダー。それもこれは一打席目で仕留めた時の、僅かに外に外すものですか)

 

(狙いより外れてもいいよ。思い切って狙って!)

 

(……分かりました)

 

 投じられた4球目はスライダー。このボールにレナは少しタイミングを崩されながら外へと踏み込んだ。

 

(……外れてる!)

 

 すると振り出そうとしたバットが止められ、見送られたスライダーがキャッチャーミットに収まった。

 

「ボール!」

 

(要求よりボール1個分外に外れた。でもこの終盤のきつい体力で小也香はよく投げてる)

 

(……! ここでそのサインですか……!)

 

(さっきはスライダーを狙ってホームランにしたけど、狙わずに打つのは難しいし、追い込まれた場面だと意識しないわけにはいかないわね……。……! またインハイ……!?)

 

 5球目として投じたコースはインコースの高め。そしてこのボールに……レナはバットを振り切った。

 

(ストレート……!)

 

 ——キイィィィン。響く金属音と共にランナーは一斉にスタートを切る。高く高く打ち上がった打球はあっという間に内野を越えていき、この打球を追うセンターは必死に走りながら遥か高く上がった打球を見上げた。

 

(た、高い……)

 

(これは……)

 

 センターが打球を見上げている間に一塁ベース手前まで来たレナはベースを回ろうと膨らんだ際に自分の放った打球を視界に収めた。

 

(……高すぎる。高低を織り混ぜ、スライダーとの緩急差、対角線への配球、一瞬シュートに備えた身体、そしてそこに……球持ちの良いストレート。バットが押し込まれたのね……けれど、それでも私は振り切ったわ)

 

(お、落ちてこない……! 嘘でしょ……!?)

 

 未だ遥か高く上にある打球に焦りながらセンターがさらに下がっていくと身体の向きを内野方向へと変えながら、一歩、二歩と下がっていく。そして……彼女の背中が外野フェンスへと触れた。

 

(違う……先ほどの澄み切った打球音とは)

 

(え……!?)

 

(これは……打球が死んでいる!?)

 

 打球は前へ進む力を失ったかのように急激に下へとグングン落ちていく。そしてセンターは外野フェンスに背中を触れたまま、後ろにのけぞるようにミットを伸ばした。

 

「……アウト!」

 

 打球は外野フェンスを越える僅か手前の位置に落ち、センターが伸ばしたミットに収まっていた。

 

(……やられた。芯を……外されていたんだわ)

 

「小也香、やったよ……!」

 

「やりましたね……!」

 

 ホームベースカバーまで来ていた神宮寺に興奮気味に牧野が話しかけると神宮寺も珍しく興奮した様子でそれに答えていた。そして盛り上がる清城ナインと共にベンチへと戻っていく。3アウトチェンジだ。

 

「キャプテン。あんまり気にしないで欲しいんですけど。元はといえば私のバント失敗が流れを止めたと思うんですけど」

 

「鎌部さん……」

 

 ベンチに戻ってきたレナにマウンドへと向かう鎌部が声をかけると、ベンチに入ったレナは一度両手で頬を叩く。その音にベンチにいたメンバーが驚く中、レナはミットを持ってレフトの守備へと向かっていった。

 

「ストライク! バッターアウト!」

 

(ここに来て、フルのストレートを連投……!?)

 

(清城の下位打線は一年だけあって、力押しに弱いな。ただ次のバッターは膝下のストレート持っていってるからな……ここは)

 

 6回の裏、清城高校の攻撃は先頭の7番打者がインローのストレートを見送って1アウト。続く8番に投じられた初球は……カーブ。

 

(よっしゃ! 来た……!)

 

(かかった! ボール球に食いついたぞ!)

 

 真ん中低めからアウトコース低めに外れるカーブをすくいあげるようなアッパースイングで打ち返した打球は左中間へと伸びていく。やがてこの打球が落ちてくるとセンターが外野フェンス手前で走りながら捕るランニングキャッチにより捕球していた。

 

「ったぁー……捉えたと思ったんだが」

 

(馬鹿な……低めに大分外れてたぞ。それをあそこまで……。もしかしたらこの8番バッターは鎌部にとって、相性の悪いバッターかもしれないな。……が、もうこのバッターには打席は回らせないさ)

 

(う……カーブだけど外に外れてる)

 

(このバッターは基本に忠実なタイプだ。引きつけてセカンドの頭を意識して打ってる感じだし、外は見せ球でいい。球数も上手く抑えられてるし、最後は……力で抑える)

 

「ストライク! バッターアウト!」

 

(くっ……。上位にはフォークで、下位にはストレートか……!)

 

 カーブが外れ2ボール2ストライクから投じられたストレートがインコース高めに決まり、見逃し三振。6回の裏の清城の攻撃が終了した。スタンドで見守る観客がざわめき出す中、7回の表。

 5番打者がフロントドアで入ってくるスライダーに線で合わせるように振り出すとあえて詰まらせて押し出すようなバッティングでショートの頭を越えて、左中間手前に落ちるレフト前ヒットで出塁していた。続く6番打者で界皇はエンドランを仕掛け、バッターはサードゴロに倒れたが一塁ランナーが二塁に進む。そして7番打者が1ボール2ストライクから外低めのスライダーで空振り三振に取られ、2アウトランナー二塁。ここで神宮寺の制球が乱れて3ボール0ストライクとなり、バッテリーは敬遠を選択した。

 そしてタイムを取ってマウンドに駆け寄っていた牧野がキャッチャーボックスへと戻ってくると9番バッターの鎌部が打席に入る。

 

(……良かった。今の体力無くなってきた小也香に対してここで代打を出されると結構厳しかった。ここは細かいコントロールはいいから、ボールの力で抑えよう)

 

(さすがに界皇としても鎌部さんを代えるわけにはいかないというわけですか)

 

(舐めないで欲しいんですけど。ここで追加点を……上げてやるんですけど!)

 

 ストレートを続けて1ボール1ストライクとなり、投じられたスライダーは外に外れていたが鎌部が振らされたことで1ボール2ストライク。4球目として投じられたインコース真ん中へのボールに鎌部はストレートのタイミングで振り出していた。

 

「ストライク! バッターアウト!」

 

(ち……ど真ん中への高速スライダーだったんですけど)

 

 鎌部は今までの打席からこの変化を感じ取ってバットを振り出していたが、バットの僅か先をボールが通過していき、空振り三振に取られていた。

 

(キレで無理やり空振りに取った……というところですね)

 

 こうして7回の表が終わり、7回の裏。円陣を組んで気合いを入れた清城から先頭の1番バッターが出てくる中、スタンドは異様な緊張感で包まれていた。

 

(方針は解除。最後の狙いは上手く出来たはずだからね。……私は向月との試合でも結局塁に出れなかった。この試合でも塁に出れなかったら何のための1番打者よ! 絶対に出る!)

 

 そして初球が投じられるとフォークが切れ味鋭くアウトコース低めへと落ちていく。

 

「ボール!」

 

(相変わらず見てきたか……。まだカーブ狙いか、それとも低め捨てるのに戻したのか。どちらにせよ今までフォークからのストレートには対応出来てないんだ。ストレートでストライク取るよ)

 

(了解なんですけど)

 

 続けて投じられた2球目はアウトローへのストレート。このボールにバッターはバットを振り切ると、弾き返された打球は二遊間へと転がっていった。

 

(な……!?)

 

(私らが低め捨てたりカーブ狙いをしていたのは、低めにほとんど投げられるフォークと、ストレートとの見極めをこの試合の内にするためだ! 今のはストレートだと分かったよ……!)

 

「大和田!」

 

「分かっとるよ!」

 

「……!」

 

(捕ったのか!? くそっ。間に合え!)

 

 二塁ベースを通過したところで打球を逆シングルで捕球した相良は一塁を背にした体勢のままグラブトスを刊行すると走り込んでいた大和田がそれをミットで受け取り、取り出したボールをファーストへと送球していた。そしてファーストの捕球とほぼ同時にバッターランナーが駆け抜けた。

 

「……セーフ!」

 

「やった……!」

 

(くっ。同時セーフを取られたか……)

 

 一塁審判の判定はセーフ。そのコールと、掲示板に記されたヒットの表示に静寂に包まれていたスタンドが一斉に湧き上がっていた。

 

(ち……振り切った分、打球にトップスピンがかかって捕球位置が少し深くなったんだ。もう少し前で捕れれば……って)

 

「鎌部先輩。す、すまんとー。折角のパーフェクトゲームが崩れてしまったけん」

 

「パーフェクトゲーム?」

 

「あっ。大和田、何言って……」

 

(気負いすぎないように皆そのことを話題にするのを避けてたのに……!)

 

「……ああ。そういえば。確かに惜しいことしたんですけど。……ただ私の狙いはハナから2被安打以内……とりあえずは気にしてないんですけど」

 

「ほっ。良かったけん……」

 

(本気で気付いてなかったんですか……!? 途中まで気づかないことはあっても、最終回はさすがに意識してると思ってたのに……)

 

 飄々とした鎌部の態度に相良が度肝を抜かれていると、その様子を見てキャッチャーは少し安堵しながら声の出てきた清城ベンチの方を横目で見る。

 

(ストレート狙いか……? いや、だけど一球目のフォークをああも平然と見送れる理由はなんだ。…………まさか2巡かけてフォークとストレートの見極めに当てたんじゃないだろうな)

 

(ふう……3つ目の狙い、ストレートとフォークの見極めが上手く出来て良かったよ。ただそれまでも高めの甘い球やカーブを打って崩す算段だったからな……正直3巡目が7イニングになるとは思わなかった)

 

 そして2番打者が左打席へと入ってくるとバッテリーの選択したボールはフォーク。それがインコース低めのストライクゾーンへと入ってくる。

 

(……! フォークの軌道に合わせて振ってる……!)

 

 落ちてくるフォークに合わせるようにバットが振られるとボールの右側面を掠るように打たれた打球はそのままキャッチャーの横を抜けていってファールとなった。

 

(どうする……。なら外にカーブを……)

 

(ん……違うんですけど。そのバッターの特徴を考えると外に遅いボールは危ないんですけど)

 

(首を……そうか。外にカーブはまずいか。……狙われていてもまだ千秋のコントロールは落ちてないんだ。さっき打たれたストレートは安易にストライクを要求してしまった。……インハイに厳しくせめてこい!)

 

(そ……こっちが怖気付くことはないんですけど。分かっていようがいまいが……打てないボールを投げ込んでやればいいんですけど!)

 

(……! くっ!?)

 

 インハイのストレートに反応したバッターだったが、振り出したバットはタイミングが遅れて空を切ってしまう。

 

「ストライク!」

 

(7回に来てまだこれだけのストレートを……なら)

 

(カット打法に変えてきたか……)

 

 追い込まれたバッターは外へと大きく踏み込む構えへと変更するとバットを短く持ち直していた。そして3球目として投じられたインハイのストレートを軽く振って当てるようにし、バックネットのファールとしていた。

 

(嫌なバッターなんですけど……。ただ……手はあるんですけど)

 

(身体に……!? うっ、これは……!)

 

 4球目として投じられたボールが膝へと向かっていくと外に踏み込んでいた分、デッドボールの衝撃を和らげようととっさに腰を引いてしまい、内へと切れ込む変化に勘付いたものの腰が引けてバットを振り出せずに見送った。

 

「……ストライク! バッターアウト!」

 

(シュート!? しまった……)

 

(向月との試合データは全部目を通した……アンタの弱点はそこなんですけど)

 

 2番バッターが見逃し三振に倒れ、スタンドからはため息が漏れ聞こえてくる。

 

(まだ1アウトだ……繋ぐぞ)

 

(先輩……お願いします)

 

(点差は4……まだ繋いでいけば分からないんだ。きっと私まで繋いでくれる。私も繋げるように準備しておこう……!)

 

 ネクストサークルに神宮寺が座り、ベンチでは牧野が準備を進めている中、3番バッターがサードの守備位置をさり気なく見てから右打席へと入った。そして……その初球。

 

(セーフティ……!? しまった。要求したのはサードの前にバントしやすいインロー……!)

 

 3番バッターの取った構えにキャッチャーは目を見開くと、インコース真ん中からインコース低めの際どいところへとフォークが落ちていき、この軌道を見極めたバッターは三塁線へと打球を転がした。

 

「くっ……!」

 

 すると意表を突かれたサードはスタートが一瞬遅れ、必死に前へと出てくる。

 

「……! ピッチャー!」

 

(えっ! 千秋!? なんでもうその位置に……まさか、セーフティを読んでいたの!?)

 

 するとサードより早く三塁線に沿うように転がる打球に鎌部が追いつくと、前へと突っ込んでいったサードが足を止めて三塁ベースのカバーに戻る中、鎌部は下半身に力を込めてボールを拾う際の沈み込む動作をこなすとファーストへと送球が行われた。

 

「……アウト!」

 

「アウトだって……!?」

 

(3番は高坂の化け物シュートを勢いを殺して転がせるほどのバント巧者、そして清城は理由はどうあれここまでうちの広い守備範囲にヒット性の当たりを阻まれてる……セーフティを仕掛けてくる可能性はむしろ高いと思ってたんですけど)

 

「ごめん、神宮寺さん……後はお願い!」

 

「ええ……最後まで諦めずいきましょう」

 

(神宮寺小也香……この試合の幕を閉ざすラストバッターとしては相応しいんですけど)

 

 2アウトランナー二塁となり右打席に神宮寺が入っていく。

 

(終わらせませんよ。今の打席もストレートとフォークとの見極めが出来ていた……ここまでやってきたことは決して無駄ではないはずです)

 

 この打席に全神経を集中させるような真剣な面持ちに鎌部は満足そうに笑うとロジンバッグを放り投げ、セットポジジョンに入った。

 

(アンタが速球系に絞られてもストレートを続けたように……私だってそう易々と打てるストレートは投げないんですけど)

 

 投じられたストレートがインコース低めの際どいところへと向かっていくと神宮寺は振り出そうとしたバットを止めてこれを見送った。

 

「……ボール!」

 

(……ストレートのスピードにも慣れてきました。ボール球を簡単に振らせられるとは思わないことです)

 

(気に食わないほど冷静なんですけど。なら、打てるもんなら打ってみればいいんですけど……!)

 

(インハイにストレート……!)

 

 2球目のインハイのストレートに対して神宮寺が振り出したバットはボールの芯より下を捉えると打球は低い弾道でバックネットへと突き刺さった。

 

「ファール!」

 

(バットが下に入った……。これが全国レベルのピッチャーのストレートのノビ……)

 

(……ストレートに意識を向けさせられたかな。千秋、これでフィニッシュだ)

 

(ん……分かったんですけど)

 

 捉えた位置を確認するようにバットを見つめた神宮寺を見てキャッチャーはほくそ笑むように笑うとサインを送り、それを受けた鎌部が3球目となるボールを投じた。

 

(またインハイ。今度こそ……!)

 

(残念だけど、それはストレートじゃないんですけど……!)

 

「……!」

 

 インハイのストレートのノビに応じるように振り出された神宮寺のバットは根っこに当たる部分でボールを捉え、打球は高く打ち上がった。

 

(し、しまった……! シュート……!)

 

(よし! これでゲームセットだ!)

 

 打球は神宮寺の後方へと上がり、キャッチャーがマスクを取って追いかけていく。そしてバックネットの前まで来たキャッチャーが打球を見上げてミットを上に構えた。

 

(擦った分スピンがかかって落ちてくる! これは捕れる……!?)

 

「ファール!」

 

 打球はキャッチャーの目測とはずれてスピンの影響が大きく及ぶ前にバックネットへと当たり、ファールとなった。

 

(……! か、風……!?)

 

(ちっ、運が良いんですけど……)

 

 上空に上がっていた打球は風に後押しされるように流されていき、ゲームセットの確信を持っていたキャッチャーは焦燥感を覚えていた。

 

(風は確かに少し吹いていましたが……このタイミングで強くなるとは。助かりましたね……)

 

 大きく息を吐き出した神宮寺はバットを構え直すと、集中は切れていなかった。

 

(ふん……それでも、追い込んだんですけど。内を続けた今……これに手を出さずにいられるとは限らないんですけど!)

 

 4球目として投じられたボールがアウトコース低めへと向かっていく。神宮寺は外へと踏み込みバットを振り出そうとしたところで、このボールの正体に気づきバットを止めていた。

 

「……ボール!」

 

「スイング!」

 

「ノースイング!」

 

(……よく見たんですけど)

 

(辛うじて止められましたね……。これまでの打席で見極めを怠っていたら振らされていたでしょう)

 

(なら……さっきの打席で仕留めたボールだ。低めギリギリを狙ってフォークを投げてこい。この妙な流れを一気に断ち切るぞ!)

 

(……続けてフォーク。今風は私からバッターボックスに向かって吹いてる。フォークは投げる方向と逆方向の風が吹いていた方が落ちが良い。この風ならストレートという選択肢もあると思うんですけど……。まあ、それでも決め球……投げてやるんですけ……!?)

 

 そして5球目を鎌部が投じようとした瞬間だった。キャッチャーが早期決着を望んで要求したフォークの連投。それが……フォークという球種の最大の弱点をさらけ出す結果となった。

 

(ま、まずいんですけど……!)

 

(この力の無いボールは………!)

 

 アウトコース真ん中の高さへと投じられたのはスピードの無いボール。試合も終盤になってここまでフォークを投げ続けた鎌部の握力は弱くなっており、それが……“すっぽ抜け”に繋がっていた。そしてこのボールの正体にいち早く勘付いた神宮寺はバットを振り切る。するとグラウンド中に鋭い金属音が鳴り響いた。打球は左中間へとグングン伸びていく。

 

(や、やられたんですけど……)

 

(……まだよ!)

 

(草刈レナ……!?)

 

 この打球を追いかけていたレナはグラウンド上の誰よりも早く打球に起きていた変化に気付いていた。目を切ってレナが打球を追っていく中、周りもそのことに気づき始める。

 

(か、風で……打球が押し戻されている!)

 

「届かせる……!」

 

 外野フェンス上の金網の上まで登ったレナは右手で金網を掴みながらミットを可能な限り伸ばした。そして——その僅か先を打球が越えた。

 

「つ、ツーランホームラン……」

 

 牧野がぽつりと呟いたのとほぼ同時だっただろうか。スタンドから一斉に飛ばされた歓声がグラウンドを包み込んでいく。

 

「……やられた、わね」

 

 金網から飛び降りて着地したレナはダイヤモンドを周る神宮寺を見ながら、歓声に埋もれるように小さく呟いていた。

 

「ホームイン!」

 

「小也香……!」

 

「これで2点差……決して返せない点差ではありません。後は、お願いします」

 

「……うん」

 

 喜んでばかりはいられないと少し緩んだ自分の表情を引き締め直した牧野は、ここで守備のタイムを取った界皇内野陣を見つめていた。そこに伝令が送られていく。

 

「監督……鎌部を交代させますか?」

 

「ブルペンに気持ちの準備はさせておいて。けど、ここはまだ……」

 

 そして伝令の言葉を聞いた鎌部が驚いたような表情でこちらを見てきたのが分かった北山は静かに頷くと言葉を続けた。

 

「エースを信じればいいわ」

 

 タイムが解かれ、試合が再開される。途切れ途切れだった清城の応援はいつのまにかひっきりなしに聞こえるようになり、鎌部はそんな声援に囲まれるようなマウンドである言葉を思い出していた。

 

(1試合投げ切るのに一番大事なもの……)

 

 右打席に入った牧野に投じたインローへのストレートに対して振られたバットはタイミングが遅れて空を切っていた。すると牧野がバットを短く持ち直す。

 

(7回でこれだけのストレートを……。点差は2点。大きいのは狙わなくて良いんだ。しぶとく食らいついていこう)

 

 続けて投じられたボールがインコース低めに向かっていき、牧野は短く持ったバットで小回りの効くスイングの始動に入ると、振り出したバットを止めて内に切れ込んだシュートを見送っていた。

 

「ボール!」

 

(焦らないで……チャンスは必ず来る!)

 

(まだ2点差ある……というよりはもう2点差しかないというべきか。特にあの相性の悪い8番まで回れば何が起きてもおかしくない。……フォーク……要求するべきか? けどさっきのことを考えると……。……! 首を振った?)

 

(風もタイムの間に収まって強い風は今のところないんですけど。ストレートは意識されてるし、一辺倒でいくとコンパクトに合わされる可能性はあるんですけど)

 

(……恐れずいくべきか)

 

(当然なんですけど)

 

「……!」

 

 3球目として投じられたボールがインコース真ん中からインコース低めへと落ちていくと、ストレートとの見極めが出来た牧野はこのボールを見送った。

 

「……ストライク!」

 

(……! ここに来て低めギリギリに……。それにすっぽ抜けがあったから避けてくると思ってたけど、フォークも投げてくるんだ)

 

(……千秋。これでどう?)

 

(……そのサインが欲しかったんですけど)

 

 少しキャッチャーが考えてから出されたサインに鎌部は内心満足げに頷くと心の中で今の状況を復唱するようにしてから投球姿勢に入り、ボールを投じた。

 

(これは……!?)

 

 まずストレートに振り遅れないように、フォークが来て入っていたらカット……そんな風に構えていた牧野は一瞬投じられたボールへの理解が遅れるとボールは弧を描いてアウトコース低めへと曲がっていく。

 

(か、カーブ……!? しまった。スイングが止まって……は、外れて……!)

 

 このカーブに対して上体を残せず身体の軸が揺らいだ牧野のバットが止まると、緩やかな軌道で曲がったボールはほとんど動かなかったキャッチャーミットへと収まった。

 

「……ストライク! バッターアウト!」

 

 そして球審の宣言が響くと牧野の表情に痛恨の念が浮かび、スタンドからのどよめきがグラウンドを満たしていった。

 

「……整列です。行きましょう」

 

「神宮寺さん……」

 

 試合が終わる瞬間までベンチから声援を送っていた神宮寺はその宣言に時間にして2、3秒ほど空を見上げるとそう声をかけてグラウンドへと足を踏み入れた。そしてそんな神宮寺に引っ張られるように他の部員もグラウンドへと出ていくと、両校の部員が向かい合うように並び、4対2で界皇高校の勝利が宣言された。

 

「両校、礼!」

 

「「ありがとうございました!」」

 

「神宮寺さん。……また会いましょう」

 

「ええ。今度は……負けません」

 

「ふふ……楽しみにしてるわ」

 

(高坂さん以来だったな……。全打席勝負してくれたのは)

 

 レナに握手を求められた神宮寺はそれに応じると必要以上に話はせずにグラウンドを後にした。そして荷物を纏め終え、三塁側ベンチから裏の通路へと出ていった時だった。緊張の糸が途切れたように身体が疲労を強く感じ出し、足がふらつく神宮寺を牧野が支えるように歩いていると、次の試合で三塁側ベンチを使うために待機していた里ヶ浜とばったり会う形となる。

 

「……河北さん」

 

「神宮寺さん……」

 

「……申し訳ありません。貴女と神社で交わした約束は果たせませんでした」

 

「ん……そっか。残念……だけど。その表情を見れば分かるよ。やらないと後悔しちゃうようなことは、全部やり切れたんだよね」

 

「ええ」

 

「約束は果たせなくても……込めた気持ちは変わらないからさ。だから私もこの試合、神宮寺さんに負けないくらい頑張るよ」

 

「……ありがとうございます」

 

 河北の言葉にそう神宮寺が呟くように返事をすると清城野球部はベンチ裏から去っていった。

 

「……翼、頑張ろうね」

 

「うん……! 私たちも、神宮寺さん達に負けないくらい頑張ろう!」

 

 そして彼女達と交代するように里ヶ浜野球部が三塁側ベンチへと足を踏み入れると、一塁側ベンチにも明條学園の姿が見えていた。

 こうして界皇高校と清城高校の試合は4対2で界皇高校の勝利という幕切れとなり、試合の熱も冷めやらぬ中、明條学園と里ヶ浜高校の試合という新たな戦いの幕が上がろうとしていた——。




来週はスキップで、次の更新は再来週でお願いします。

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