ピッチングの邪魔にならないよう髪を結った東雲がマウンドで投球練習を行っている間、内野間のボール回しで回ってきたボールを初瀬は緊張のあまり弾いてしまう。
「あわわ……ご、ごめんなさい」
「初瀬さん。リラックスリラックス!」
「私も代わったばかりだから気持ちは分かるよ。お互い頑張ろうね!」
「肩の力ぬいてこー!」
「は……はい! 頑張りますっ」
(ベンチから見ていた時も感じたけど、グラウンドに立つと思った以上にみんな声が出てる。特に普段とのギャップで驚いたのが……)
投球練習が終わりマウンド上でバッテリーが意思疎通を終えると、鈴木がホームベース側へと歩いていき、キャッチャーボックスに座る前に外野にも届くように大声を出していた。
「最終回。あとアウト3つ! しまっていきましょう!」
(鈴木さん。普段は大人しい方なのに、試合になると腹の底から声を出されていて驚きました。キャッチャー……だからなのでしょうか)
掛け声に皆が各々の返事をしていくのに気づくと初瀬も「お、おおー!」と精一杯の声量で声を出す様子を見た鈴木は頷くようにするとそのまま座り、右打席に入っていくバッターを横目で見ていた。
(この回は7番から。1人でもランナーを出せば上位に回ってしまうから、出来れば3人できりたい。下位はまだヒットはないけど、この人は2打席目に投げた膝下のストレートに対してあわやホームランという打球を放っている。ここはアウトローにこれを……)
(……まだ早いわ。久しぶりのマウンドで投げる初球でコントロールの難しいボールは下手したらテンポを崩す恐れがある)
考えた末に鈴木はサインを出したが、東雲の首が横に振られ、両校のキャッチャーが反応を示す。
(……あの人は首振るんだ)
(……あっ。首を振ったのね。そうよね……なら、こうしましょう。さっきの打球の感覚を求めてインローを狙ってるかもしれない。ボール球でいいからここに)
(分かったわ)
今度のサインに東雲は頷くと投手として握るボールの感覚を確かめながら、第1球を投じた。
(よっしゃ! 今度こそ!)
ストライクゾーンから低めかつ、内側に外されたストレートを思い切り引っ張ったボールは芯を外れて平凡なゴロとなった。
(しまった! 振らされた!)
「サード!」
(いきなりですか!?)
三塁線に転がる打球に初瀬は足を動かして正面に回るとボールをキャッチしにいった。
(と、捕れた!? 後はファーストに……え! ランナーがもうあの位置に……!)
初瀬は捕球後、すぐに送球体勢に移行するとベースで構える秋乃目掛けて送球を行った。
(……! 慌てすぎよ初瀬さん。あのバッターは一塁ベースに遠い右打者で足は並。立ち位置と足の向きを整える余裕くらいはある……!)
サードを本職とする東雲が抱いた感想を裏付けるように初瀬の送球は秋乃が構えたミットより高めの送球となっていた。
(よし。これなら二塁まで……!?)
送球が越えると判断した清城の一塁コーチャーはランナーに指示を出そうとした瞬間、思わず目を見開いた。
「とりゃ!」
ベースについていてはキャッチ出来ないと判断した秋乃は足首をバネのようにしならせて垂直方向にジャンプすると長いファーストミットの先で収め、着地の際そのままベースを踏んだ。
「セーフ!」
「ありゃ」
「うっ……」
秋乃がベースを踏むより一瞬早くランナーがベースを駆け抜けたことで、セーフの判定となる。
(や、やっちゃったあ……)
後悔の念に駆られる初瀬に有原が声をかけようとしたが、その前に東雲が近づいており、初瀬は思わず今の失敗を謝っていた。
「謝らなくていいわ。そして反省も試合の後でいい」
「えっ……?」
「やってしまったことは無かったことにはならない。それを悔いる暇があるなら、これからのプレーで何とかするしかないのよ。あなたも、私もね」
「……わ、分かりました。切り替えます!」
初瀬の表情が変わる様子に東雲は無言で頷くとマウンドに戻って秋乃からボールを受け取った。
(……ミスはミスとして認めて、次のプレーに意識を向けさせたんだ。私は惜しかったとかつい言っちゃうから、東雲さんのこういう所を見習わないと)
マウンドに戻った東雲は短く息を吐き出すと右バッターボックスに入ったバッターに目線を向ける。
(バントの構え、ね)
(この試合清城は実は長打が1本もない。だからランナーを効率的に前に進ませたいでしょうね)
(……そうね)
鈴木が出したサインに東雲は頷くと目でランナーを1度制してから、クイックモーションでボールを投げた。
「走ったよ!」
一塁ランナーがスタートを切り、バッターはサインで出ていた盗塁の補助をすべくバントの構えを解くとバットを振りだす。
(外された!?)
バットが届かない場所にはっきり外されたアウトコース高めのボールにバッターは焦りを覚えながら空振ると、ストライクの宣告が終わる前に鈴木の送球が行われ、ワンバウンドしてから二塁ベースに入った河北のミットに収まり、タッチが行われた。
「アウト!」
(なっ!)
ランナーがスライディングを行ったタイミングで既に河北がタッチの体勢を整える形になり、余裕を持ってランナーはアウトになった。
「代わったばかりの投手が打ち取った打球を同じく代わったばかりのサードがエラーして出塁。浮き足立つであろう所に盗塁を仕掛けましたが、思ったより落ち着いていましたね」
「うん」
「余裕あったけど、キャッチャー肩強かったっけ」
「あ、先輩。いえ、肩はむしろ弱い方に見えます。ただキャッチャーが送球しやすいアウトコース高めに予めピッチアウトで外されていたのと、スローイングまでの動作が早かったです。加えてワンバウンドではありますが、送球が低めに来ていました。高めにいくとタッチにいくまでロスがあるので、それも大きかったと思います」
「なるほどね……」
「ワンナウト!」
「ワンナウトー!」
ランナーを刺した鈴木の掛け声が内野に響くと次に声を張り上げたのは河北だった。
(ナイス送球だったよ。和香ちゃん! キャッチャーをやるには肩が弱いから、その分練習しなくちゃって頑張ってたもんね)
(良かった。上手くいったわ。いずれはノーバウンドで低めに投げられるようになりたいけど、これが今の私にとっての精一杯)
「ワ、ワンナウトー!」
(た、助かった。私が出しちゃったランナーをアウトにしてくれた。……いや、そんな考えじゃダメだよね。東雲さんに言われた通り、この後のプレーにしっかり集中!)
心臓の鼓動の音をかき消すように精一杯声を上げ、息が大きく吐き出されると、その目は前を見据えていた。
(さて。こちらにとっては理想的な形になり、ストライクも1つ貰えた。けどバッターもこのままじゃ終わらないはず。慎重に行きましょう)
鈴木のサインに東雲は頷くと2球目となるボールを投じた。
「ボール!」
アウトローを狙ったボールがはっきり低めに外れ、バッターは迷わず見送った。
「OK。悪くないわ!」
(この場面、甘く入るくらいなら外れていた方がいい。要求よりはだいぶ低めとはいえ、それは仕方のないこと。最初の清城との練習試合以来、4〜5ヶ月ほどマウンドに立っていなかった以上、感覚は簡単に取り戻せない)
(低すぎね。慎重にしたって限度があるわ。ただ私には倉敷先輩のような精度の高い制球や、野崎さんのような球威があるわけじゃない。それを踏まえた上でどうするか……それが大事なことよ)
次の鈴木のサインに対して首を振ると東雲側からサインが出される。鈴木は少し驚きながらもそれを踏まえてサインを出すと、東雲は頷いた。
(ピッチャーからもサインを出すのか。今時珍しいな。だが今のコントロールを見るに、カウントを下手に悪くしたくないはず。打てる場所に来たら行く! ……少し、間が長いな)
東雲は球審に注意されない程度にボールを長く持つとようやく投球姿勢に入る。今までとの変化にバッターは眉を動かす暇もなく、投げられたインコースのストレートにバットが振り出され、打球はバックネットに突き刺さった。
(ランナーがいないのにクイックモーションで投げてきた……!?)
(バッティングは0.1秒のずれで全く異なる結果を生み出す。それほどバッターにとっては大事なタイミング、それをずらす手段があるなら使わない手はない)
「タイミングをずらすためのクイックモーションですか。ですがあれは諸刃の剣。それを分かっていて使用したのかは気になりますね」
「小也香も試そうとしたことあったけど、投手側もリズムが崩れるからやめたんだよね」
「ええ。投手の感覚はそれほど繊細なものです。もし目先の結果に拘ったものならば、相応の結末が待っているでしょう」
(今のはバッターにとって内に速い印象を覚えさせたはず。ここしかない)
(そう。ここでよ)
(ここと最初に練習試合をした時、私はベンチメンバーだったけど、その時彼女が投げたのはストレートだけだった。そしてここまでもストレートのみ。しっかりタイミングを掴めば捉えられる! ただ追い込まれたし大きいのは狙わなくていい。重心を後ろに置いて、セカンドの頭上を意識して弾き返す!)
サインの交換が終わると、東雲は今度は通常のモーションでボールを投げた。
「……!」
(よし、体勢を崩した!)
指先から抜かれるようにして投げられたボールは弧を描きアウトコースに曲がっていく。
(カーブ……か!)
(……! 体勢を崩したのに、上体を残された……!?)
バッターはずれたタイミングを修正するように崩れた体勢のままボールを引きつけるとようやく始動に入り、アウトコース真ん中やや低めの高さに投げられたカーブを打ち返した。
(捕る!)
河北はちょうど頭上に放たれた打球に反応してジャンプを行い、ミットを可能な限り上にあげてキャッチを試みた。
「……っと」
「アウト!」
ちょうどポケットの位置に刺さるように捕球が行われ、着地した河北は少しバランスを崩したが立て直すとミットを掲げ、アウトが宣言された。
(くぅー。打球が上がりきらなかったか。カーブに上手く合わせられたと思ったんだけどな)
「ふぅ。ナイスキャッチよ河北さん」
「うん! あとアウト1つ取ろう!」
(……ちょっと高かったかしら。私はピッチャーが本職じゃない分クイックの影響はあまりなかったと思うけど、さっきからコントロールがブルペンの時と違って高低のずれが大きい。気をつけないと。……それにしても、代わったばかりのところってどうしてこうも打球が飛びやすいのかしら)
(最初の練習試合で投げられなかった変化球をようやく投げられたわね。あの時は私に変化球の捕球技術がなくて投げさせてあげられなかったけど、今は違う。リードの幅も広がるわ)
2アウトになり9番バッターが右バッターボックスに入っていく。
(意地悪だなあ。ここまでストレートだけで来てて、いきなり緩いカーブでタイミングを崩しに来るなんて。でも……このまま簡単に3アウトになんかさせないもんね)
目つきが変わると東雲の全体像を大まかに見るようにしてバットが構えられる。
(あのバッター……こっちを見ているようで、見ていない? 不思議なバッターね)
(ここまで2三振で良いところなし。気合いが入ってるみたいね。ならここは打ち気を削ぐように……)
サインに頷いた東雲は高さを意識して1球目を投げた。投じられたのは真ん中低めへと変化していくカーブ。このボールをバッターは見送った。
「ストライク!」
(バットを振り出さなかった? タイミングが合わなかったのかしら)
(危ない。高さは良いけど、今度はコースが甘かったわ)
東雲は真ん中に入ったことに焦りを覚えながら次のサインに頷くとインコース目掛けてボールを投げた。
「ファール!」
(カーブの後のストレートかぁ。頭にはあったんだけどな)
バットに当たってから右斜め後ろへと飛ばされた打球はそのままファールになり0ボール2ストライクとなった。
(緩急が効いてるわね。……これで締めましょう)
(……いいわ。次で最後よ)
東雲はミットの中で握りを確認するように1度ストレートの握り方をしてから、人差し指と中指をボールの外側にずらして揃え、その握りでボールを投じた。
(よし。このボールはアウトローにいく。コースも高さも悪くない!)
(……ストレートじゃない。この“回転”は……スライダー!)
——キィィィン。芯で捉えた打球が右中間へと飛ばされる。
「なっ……!」
東雲が驚きで目を見張る中、その打球を見上げながら中野と宇喜多が打球を追っていた。
「宇喜多! そのまま下がりながら打球に突っ込むにゃ! 頭越えられた時のフォローは私に任せるにゃ!」
「う、うん。分かった!」
声を出し合いながら高く上がった打球を懸命に追う二人。右中間深めのゾーンまで来たところでようやく落ちてきた所に宇喜多が飛びついた。だがボールは伸ばしたミットの少し先を越え、高くバウンドしたボールはそのままフェンスに当たった。
(うっ! 打球が上に上がった分勢いが無くて、全然跳ね返ってこないにゃ!)
駿足を飛ばす中野だがそれでもフェンスにかなり近いところでボールを拾うまで時間がかかり、焦燥感に駆られる。
「中野さん。中継の河北さんに! ランナー三塁狙ってます!」
「分かったにゃ。河北!」
「任せて!」
九十九の指示を受けて中野は素手で直接拾ったボールを河北がいる方向に投げる。距離のある送球だったが河北が少し外野に近づいていた分もあり、ワンバウンドしてすぐのところで河北が捕球するとすぐさまサードに向かって送球が行われた。
(あっ……!)
外野に近づいていた分の距離感の差と、スリーベースヒットへの焦りから送球が横に逸れてしまう。三塁で構える初瀬はこのボールをベースについたままキャッチしにいき、タッチプレーに持ち込もうとした。
「……! 初瀬さん! ベースから離れてボールを捕りにいって!」
「え……は、はい!」
二塁への帰塁に備えて二塁ベースで構えていた有原がとっさに初瀬に指示を出すと、初瀬はそれを受けてベースから離れて捕球しにいった。送球はランナーの右側にバウンドしてからキャッチしにいった初瀬のミットの先に何とか収まると、ランナーは三塁にスライディングを行いスリーベースヒットが成立していた。
(い、今のそのまま逸れてたら……)
(私がベースについたままだったら……)
このイニングから交代して守備に入った2人がランナーを見ながら今のプレーで得点が入ってしまった時のことを考え、心臓が縮み上がる感覚を覚えた。
「翼……ありがとう」
「有原さん、助かりました」
「どういたしまして。でもまだピンチだよ! しっかり抑えよう!」
(私は……こう、東雲さんみたいに的確なアドバイスは出来ないかもだけど、せめてプレーで皆を支えよう!)
マウンドに立つ東雲の背中を見ながら、有原は決意を固めていた。
「ふふーん」
「ほら、ドヤ顔晒してないで早くグローブ外しなさい」
「もー。余韻に浸らせてよぉ」
同じく東雲の背中を見て塁上で胸を張りながら満足げな顔をしていたところを三塁コーチャーに咎められたバッターランナーが口を尖らせながらグローブを外していた。
(ようやく外の打てそうなとこに投げてくれたねえ。意地悪キャッチャーさんにもリベンジ成功だ。それにしてもここでストレートでもカーブでもないボールとはびっくりだよ。ただ
「タイムお願いします」
鈴木がタイムを取ってマウンドに駆け寄るとミットで口元を抑えるようにして話し始めた。
「ごめんなさい東雲さん。勝負を焦ったわ」
「……そうかもしれないわね。冷静に考えれば3球で仕留めにいく必要はなかった。お互い上位に回る前に終わらせたいって考えが先走ってしまったようね」
「そうね。次のバッターだけど……」
話し合いが終えられると互いにミットを合わせてから鈴木がキャッチャーボックスに戻り、座る前に野手に声をかけた。
「ツーアウト! セーフティ警戒! サードもここはベースにつかなくていいわ!」
「え……あ、はい!」
(ふーん? リード取り放題じゃん。ホームスチール行っちゃおうかなぁ)
(冷静ね、キャッチャー。ここはセオリーなら牽制のためにサードは三塁に寄る。そこにバントで転がせば私の足ならかなり高い確率でセーフに出来るのに。ま、それならそれで割り切れていいわ)
思い思いの考えがグラウンドの上で浮かび上がるように交錯すると鈴木は座り、1番バッターも右打席へと入っていった。
(ストレート、スライダー、カーブ。他にもあるか分からないけど、今のところこの3球種みたいね。ストレートは前の練習試合の時の感覚で打ち返せるはず。変化球を下手に打ち損じないよう気をつけましょう)
(相手に持ち球は全て見せた。後はこれをどう使って抑えるか。初球は……)
サイン交換が終わり大きくリードを取るサードランナーを横目に東雲は1球目を投じた。投げられたのはアウトコースの低めのストレート。
「ボール!」
(外に大きく外してきたわね。意図的な見せ球か、コントロールの影響かは分からないけど)
鈴木はサード方向に一度目をやってからボールを投げ返した。
(ううーん。ホームスチールは……さすがに厳しいかぁ。ここは先輩に任せようかな)
ボールを受け取った東雲は少し帽子の位置を調整する。
(見せ球のつもりとはいえ外に外れすぎね。倉敷先輩はよくあそこまでシビアな投げ分けが出来るわね……)
2球目。東雲の指から抜けるように投げられたボールはバッターの体がある方向に向かっていく。
(このボールは……!)
その緩い軌道から球種を判断したバッターは腰を引くことなくスイングを行い、ホームベースに向かって曲がってきたカーブを捉えた。
「ファール!」
打球は勢いよく三塁側フェンスにライナーでぶつかると、跳ね返ったボールがファールゾーンに落ちてくる。
(よし。これは最初から待っていなければファールにしかならない)
(
3球目。アウトローを狙って東雲が投げたボールにバッターは目を見開く。
(カーブ!?)
バッターは打ちに行こうとしたがタイミングを外されバットが出ずにこのボールを見送った。
「ストライク!」
(よし! 追い込んだ!)
要求通りアウトコース低めに投げられたボールがストライクとなり、キャッチャーマスクの下で鈴木の口角が上がる。
(さて、さすがにもうカーブは使えないわよ。ここからどうするつもりかしら?)
(ここは東雲さんのもう1つの変化球、スライダーを使って……)
4球目。再びアウトローを狙って東雲の指先からボールが放たれる。
「ボール!」
追い込まれていたバッターはスイングを行おうとしたが、その球種と曲がっていくコースをとっさに感じ取り、バットを止めた。
(これはスイングを主張するだけ無駄ね。しっかり止まっている。さっきの長打になる打球を見た後だし、またゾーンのスライダーで勝負するのはやはり得策ではなさそうね)
しっかり見極めた様子のバッターを横目で確認しながら鈴木はボールを投げ返した。
(あなたの要求通り、ボールになるように投げたわ。私のコントロールだとフルカウントにするのはあまり好ましくない。次で勝負に行きたいところよ)
(内にカーブ。外のストライクゾーンにカーブ。外のボールゾーンにスライダー。変化球を段々と外に流れるように見せてきた。布石は十分。これで勝負に行くわよ)
(……! ……分かったわ)
東雲は鈴木が出したサインにしっかり頷くと息を短く吐き出し、リードを出来るだけ取ろうとしているサードランナーに1度目をやった後、投球姿勢に入った。
(な……ランナーがいるのにセットポジションじゃなく、ワインドアップポジション!?)
(2アウト2ストライクまで来たから思い切ったってわけ? でもリードはその分取らせてもらう……! パスボールでもしたら即1点だよぉ)
セットポジションと比べ投球動作に時間がかかる投球姿勢を取ったため、目での牽制で一瞬足を止めたランナーは反応するとその隙に大きくリードを取る。右投げの東雲にはその様子がしっかり見えていたが、意に介さずそのまま踏み込むとインコース低め目掛けてボールを投げ込んだ。
(ストレート!)
バッターは膝下のストレートに反応してスイングを行う。振り出されたバットはやや根元側でボールの上側を叩いた。その打球は三遊間へと向かっていき、転がっていくボールを横目にランナーは迷わずスタートを切った。
(詰まった当たりだけど、振り切った分思ったより勢いのある打球になった! どっちに任せる……?)
このボールを捕りにいく初瀬と有原。ちょうど2人の間に転がっていく打球はどちらもギリギリ追いつけそうに見えた。
(翼が捕球できるとしても位置は深め。バッターランナーの足を考えれば!)
「サード!」
「はいっ!」
瞬時に判断した鈴木はこの打球を初瀬に任せる。それを聞いた初瀬は懸命にボールを捕りにいき、有原は捕球を狙うのをやめて進む方向を転換した。
(和香ちゃんは初瀬さんに任せたんだ。だったらもう捕れなかった時のことは考えない!)
(この打球、強いスピンがかかっていてゴロのスピードが増していくような……!? 届いてっ……!)
正面に回り込むのは難しい打球。まだ際どい打球が安定して処理出来ない初瀬は不安を覚えたが、ボールをキャッチに行く瞬間今までの特訓が脳裏に浮かび上がると目の前を通り過ぎていきそうなボールに気づいたら飛び込んでキャッチをしにいっていた。
(と、届いたっ……!)
飛び込んだ上でミットの先ギリギリに収まったことに安堵したのも束の間、初瀬の体はミットを伸ばした状態のまま着地した。
「初瀬さん! ボールを!」
「……! お願いします!」
崩れた体勢から立て直しての送球は難しいと判断した有原は既に初瀬の近くまで来ており、その意図を理解した初瀬はボールを取り出すと下手投げでボールを放る。ボールが投げられたコースを確認した有原は目を切ると送球体勢に入り、後ろから来るボールを素手で掴むとそのまま一塁ベースの側面に触れるようにして精一杯足を伸ばした秋乃のミット目掛けて投げこんだ。
「……アウト!」
「ええっ!?」
際どいタイミングとなったが、一塁審判によりアウトのコールが為された。一塁を全速力で駆け抜けたバッターランナーは思わず声を出す。
「あ、アウト……? 点、入らなかった?」
「うん! これで3アウトだよ。ナイスキャッチ! 初瀬さん!」
「よ、良かったぁ」
「わわっ」
有原が差し出した手を掴んで立ち上がろうとした初瀬だったが安堵感から思わず力が抜けてしまい、体勢を崩しそうになったところを慌てて有原が引っ張り上げるように支えた。
「あ、ありがとうございます。今のプレーも有原さんのおかげでアウトに出来ました」
「いや、私だけじゃないよ。東雲さんが打ち取って、和香ちゃんが指示を出して。初瀬さんが飛びついて、私が投げて、秋乃さんが出来るだけ前の位置で受け取ってくれたからアウトに出来たんだよ!」
「……そうですね。私も、捕れて良かったです」
「あー! 仲間外れにしたなぁ」
そこに秋乃と一緒にやってきた河北が冗談交じりに拗ねたように話しかけてきた。
「ごめんごめん! でもともっち、送球が逸れてもランナーが二塁に進まないようにファーストのカバーに入ってくれてたでしょ。だから私も思い切って投げられたよ」
「そっか。それなら良かった。今のアウトは内野全員で取ったアウトだね!」
「みんなで掴んだアウトだー!」
(低めを続けたからインハイを攻める選択肢もあったけど、あのバッターは差し込まれても振り抜いてくる。あくまで低めを攻め続けたのが功を奏したわね)
先にファールラインを超えてベンチに戻る鈴木と東雲。すると東雲が内野陣の足が止まっていることに気づいた。
「貴女たち、いつまでグラウンドにいるつもりなの。早くベンチに戻るわよ」
「分かったよ、りょー!」
「いや、だからあまり名前では……」
言葉を全て伝え終える前に元気よくベンチに走っていく秋乃に東雲は呆れながら、こちらに小走りで向かってくる初瀬に話しかけた。
「良いプレーだったわ。あの打球はダイビングキャッチが必要な場面だった」
「ありがとうございます。でも、最初から飛び込もうとしてたわけじゃないんです。気づいたら飛びついてて……」
「特訓の成果でしょうね。頭で考えるより先に体がそうしないと捕れないと判断したのよ」
「そ、そうなのかな……」
初瀬は自分がしたプレーにまだ実感が湧かない様子だった。
「理由はどうあれ、あなたが2週間でしっかり守れるようになったのはあなた自身が練習を頑張った成果よ。胸を張りなさい」
「は、はい! ありがとうございます!」
「初瀬ー!」
「わっ。中野さん」
外野から走ってきた中野は初瀬の肩を抱えるようにすると、そのまま勢いよく話し続けた。
「ナイスプレーだったにゃ! 初めての試合で緊張してたと思うし、最初の送球が浮いた時にはドキッとしたけど、最後捕れて本当に良かったんだにゃー! 特訓頑張ってたからここで結果に繋がらなかったって考えるとなんだかワタシも緊張しちゃって——」
「お、落ち着いて下さい」
「はぁはぁ。なんか言葉が纏まらないんだにゃ。ジャーナリスト失格なんだにゃ」
「ふふ。でも、ありがとうございます。中野さんが心配してくれたのが伝わって、嬉しかったですよ」
「そ、そうかにゃ? それなら良かったんだにゃー」
初瀬から零れ落ちた笑顔を見て中野はほっと胸をなでおろした。
「あおいー! あおいはー!?」
「おお、こむぎん。どうしたのだ?」
ベンチにダッシュで駆け込んだ秋乃はそのまま一直線に阿佐田のもとに向かっていった。
「あ、いたー! ねえねえ、今のプレー見てくれた?」
「もちろん見てたのだ。みんないい動きだったのだー。こむぎんもよく足を伸ばして構えてたのだ」
「でしょー? あれね、ちょっと前の回にあおいがやってたのを見て、ギリギリの時ああした方がいいんだなーって分かったから出来たんだよ!」
「……? ……ああ! こむぎんの代わりにベースカバーに入った時のプレーなのだ?」
「そうだよー! おかげで今のアウト取れたんだよ! だから元気出してよー!」
「……へっ? な、何言ってるのだ。あおいはちょー元気なのだ」
「えー! ほんとにー? ……でもさっきより顔がしょんぼりじゃなくなった気がするー」
「……心配してくれてありがとうなのだ。もう大丈夫だから、気にしなくていいのだ」
「んー? あおいがそーいうならもう気にしないことにするー!」
阿佐田が自身より10cmほど低い秋乃の頭に手を置いて撫でると、秋乃は不思議そうにしながらも納得した様子だった。頭から手を離すと先頭打者としてヘルメットを被りバットを持って
(……後輩にも心配かけちゃったのだ。上手く誤魔化していたつもりだったのに。……先輩として、しっかりしなきゃなのだ)
九十九のテーピングで楽になった足を気にしながら、阿佐田は試合が終わった後にそのことをキャプテンに誤魔化さず打ち明けようと決断したのだった。
座りながら防具を全て外した鈴木は息を長く吐き出すとベンチに背中を預ける。
「はぁ……」
「お疲れ様です鈴木さん。お水どうぞ」
「あ、ありがとう。いただくわ」
そこに近藤がやってきて紙コップを差し出すと鈴木はそれを受け取って喉を潤した。
「だ、大丈夫なの鈴木さん。すごくぐったりしてるけど……」
「7回、それも3人のタイプの違うピッチャーのリードを考えて疲れたんじゃないかな。それにキャッチャーは座るっていうけど、実際には中腰でずっと構えてないといけないから体力的にもきついんだ。私も練習させてもらってるけど、かなりきついもの」
「そうなんだ……」
コップを一気に空にすると少し放心気味になる鈴木を見て永井が心配そうにする中、近藤は永井の言葉に答えながらコップを受け取ると首にタオルをかけていた。
「ありがとう」
「いいんです。皆さんが頑張ってるのはベンチから見てても十分に伝わってますから。私は私に出来ることをしたいんです」
「それでも助かるわ。私がブルペンで東雲さんのボールを受けている間に野崎さんのボールを受けてくれたし、ボールの状態まで教えてくれたのはリードにも役立ったわ」
「いえ……! 私はまだ変化球が捕れないので、東雲さんのボールも受けて負担を減らせなかったのがむしろ申し訳ないというか」
「いやいや、それでも……」
「えっと、この流れずっと続いちゃうんじゃないかな……?」
「そ、それもそうね」
「あはは……ついね」
終わらなそうな会話に永井が割って入ると2人とも引き際を逃したことに苦笑を洩らす。するとそのタイミングでベンチに東雲の声が響いた。
「鈴木さん。宇喜多さん。少しいいかしら?」
「はいっ!」
「何かしら?」
「最終回だし、代打攻勢に打って出ようと思うの。悪いけど貴女達の打順で代打を出すわ」
「……分かったわ。結局私はこの試合神宮寺さんのストレートにバントでしかバットを当てられなかったもの」
「茜も2三振だから……。分かりました」
浮かない顔ではあったが代打を受け入れた2人に東雲は頷く。すると宇喜多は投球練習が終わり、7回の裏が始まりそうなことに気づき、河北と共にコーチャーをするためグラウンドに出ていく。それを見届けながら、東雲は他の2人に声をかけた。
「岩城先輩。逢坂さん!」
「おう! ウチの出番か!」
「来たわね! ヒーローは遅れてやってくるものよ!」
声をかけられたのはレフトをノーエラーで守りきった九十九に賛辞を送っていた岩城とこの回の守備をやりきった初瀬を新田と共に
「あの……逢坂さんは女性なので、正確にはヒーローではなくヒロインではないでしょうか……?」
「……そ、そうとも言うわね?」
(そうだったっけ……?)
「……あっ、ごめんなさい。つい……」
「謝ることじゃないわよ? ヒロインは遅れてやってくる! でもカッコイイし」
水を差してしまったと謝る初瀬を逢坂は不思議そうにしながら気にしないよう伝えると岩城と共に代打の準備を進めていた。
「2人とも準備しながらでいいので、ちょっと聞いてくれますか?」
「なんだー?」
「どうしたの?」
「スタメン陣と、交代で打撃の機会があった河北さんと野崎さんには伝えてあるんですが、まだお2人には伝えてなかったと思って」
そう前置きすると鈴木は1打席目の時に気づいていた変化球がベースの外側に曲がるよう投げられている法則を伝えた。
「それ間違いないの?」
「ええと、100%ではないんです。東雲さんと有原さんの打席で1回ずつ高速スライダーが内から中に入るものがあったので。ただ河北さんの打席でワンバウンドしたボールが高速スライダーだったようなんです。それ以降高速スライダーは投げられてなくて、他の変化球は法則通りに投げられているので、賭けてみる価値はあると思います」
「分かったぞ!」
「……その、悪いんだけど。スライダーとシュートってどう曲がるの?」
「あ……そうよね」
野球に対する知識がない状態での入部だった逢坂はまだ変化球の球種を把握していなかったため、鈴木が軌道を説明する。すると金属音がグラウンドから響いた。
「サード!」
「うっ……!」
ファールラインを超えたところでサードはボールを見上げて捕球体勢に入る。
(高めを続けてみてよく分かった。この人は低めの打球にはバットが線になるように打ちにいけるけど、高めは点でしか打ちにいけないんだ。だから当たりにくいし、当たっても芯から外れやすい)
落ちてきたボールを難なくサードがキャッチすると秋乃が悔しそうにベンチに戻っていく。
「うー。また高いのが打てなかったー」
よほど悔しかったのかベンチの近くまでやってくると高めのボールを打つような仕草で2、3度素振りをしていた。
「どんまい秋乃さん。今度練習で高めのボールの
「うん。やりたい!」
「分かった。だけど今は試合に集中しよう!」
「んー? 小麦、もう出番ないよ?」
「出来ることがなくなったわけじゃないよ。一緒にベンチから精一杯の声援を送ろう!」
「あ! そうだね。分かったー!」
グラウンドとの境になる柵の近くにいた有原に声をかけられ駆け足でベンチに入った秋乃は身につけていた道具を置くと有原の隣まで来て声援を送った。
(……そっか。打順が回る可能性があるのは2番の河北さんまで。3番の有原さんや4番の東雲さん、5番に入れてもらった私はもう出番はないんだ)
そのことに気づいた初瀬は深呼吸してから思い切って立つと秋乃の隣まで来てネクストサークルから打席に向かう中野に声援を送る。ベンチからの声援に気づいた中野は1度止まって任せろと言わんばかりのサムズアップを見せてから、再び歩いていった。
(多分ワタシが代打を出されなかったのは敬遠の分1打席しかチャンスが無かったのと、残りのベンチメンバーのスイングが固まってないからにゃ。初瀬もそうだから、恐らく意図して打順が1番遠い5番に……。守備でもリズムを作ってくれたし、何とか初瀬の分もワタシが塁に出たいんだにゃ……!)
(……一塁コーチャーが代わらない?)
中野が気合いを入れて左打席に入ると神宮寺はこのタイミングでいつも交代していた宇喜多がそのままコーチャーボックスにいることに気づき、相手ベンチの方に目を向ける。するとネクストサークルに座る岩城とベンチの出口でバットを持ちながら鈴木と話している逢坂が目に入った。
(なるほど。最後のイニングですし思い切って代打攻勢を仕掛けようというわけですか)
(この試合延長はないから守備のことは考えなくてもいい。とはいえ、逢坂さんはそのままライトに、岩城先輩には近藤さんに代わってもらえば守備も成立する実戦的な代打でもある。本番でこういう機会もあるかもしれないし、今回守備重視でオーダーを組んだ分、これも試しておきたかった)
東雲がそんなことを考えながらグラウンドを見ていると神宮寺も打者の方に視線を戻し、牧野からのサインを待った。
(この人は小也香のストレートに合ってない。ストレートで押すよ)
(さっきストレートに全然合わなかったから来ると思うけど、打ち返せる気がしないんだにゃ……)
神宮寺はサインに頷くと縫い目に指先がしっかりかかったことを確認し、ボールを投じた。
(ま、最初から狙いはこれだけどにゃ……!)
(……! セーフティ!)
アウトコース低めに投げられたストレートに中野はバントでバットを合わせにいく。
(ストレートだと分かってるならバントくらいしてみせるにゃ!)
ボールの中心から少し上の部分にバットが当たるとキャッチャーの目の前で大きく跳ねた打球がサード側に転がっていき、中野も一塁に向かって走り出した。
(大きくバウンドしてる分、転がる勢いはあまりない。ここはサードに任せるんじゃなく……)
「ピッチャー!」
「はい!」
サードも打球に反応していたが神宮寺の方が早く処理出来ると判断した牧野は神宮寺に指示を出す。それを受けて神宮寺がミットにボールを収めようとする。
「……!」
膝を落としてボールを捕ろうとした神宮寺だったが、その際に膝がガクン、と想定以上に落ちてしまい体勢を崩しながらの捕球になる。送球前に体勢の立て直しを必要としたファーストへの送球より先に中野は余裕を持って一塁を駆け抜けた。
「セーフ!」
(にゃはは。打撃にスランプはあっても、足にスランプはないんだにゃ)
中野はしてやったりといった表情でゆっくりとベースに戻ると、グローブを外す。
「中野さん、ナイバン!」
「あやかー! 速いよー!」
「な、ナイスバントです……!」
声援に応えてグローブを外した左手でガッツポーズを決める中野を横目に牧野は神宮寺に話しかけた。
「小也香、大丈夫?」
「ええ、問題はありません。ただ思ったより下半身に疲れが溜まっていたようですね」
(……無理もないか。1人でここまで投げてるんだから、最終回で疲れが溜まってないわけはないよね)
「牧野さん。そんな顔をしないでください。あと2人抑えますよ」
「……! うん。分かった」
そう声をかけ神宮寺は気丈に振る舞うとマウンドに戻っていく。牧野はそんな神宮寺を見ながらキャッチャーボックスへと戻っていった。
(ピッチャーを支えるキャッチャーが逆に励まされてどうするの。……私に出来るのはリードで小也香を支えること! そして小也香を支えられるのは、私だけじゃない!)
キャッチャーボックスに立った牧野は一度神宮寺から目線を外して地面に向かって息を吐き出すと、振り返って皆に向かって大きく声を出した。
「ワンナウト! あとアウト2つ、しっかり取ろう!」
「おう!」
「任せて!」
「打たせてこい!」
「後ろには私たちがいるわよ!」
(……心強いですよ。こんなにも頼もしい味方が前にも後ろにもいるんですから)
神宮寺は自分を包み込むようにあげられる声を聞きながら、軽く叩いたロジンバッグを放ると、左座席に入る岩城に目を向けた。
「……いいチームだな! けどウチらも負けないぞ!」
(これで前の回から合わせて4人連続左打者。小也香の
座りながらそれを見た牧野は夏の大会で里ヶ浜高校と対戦した時に同じようにバットを短く握った岩城にホームランを打たれたことを思い出していた。
(この人にはバットを短く持ってもスタンドに運ぶパワーがある。けど選球眼には難があった。積極的に振ってくるバッターだし、その打ち気を利用してボール球でカウントを稼ぎ、最後は膝下のスライダーで仕留めよう)
牧野からサインが出され神宮寺は頷くとプレートに触れながらランナーの位置を確認し、眉をわずかに動かした。
(さーて、そう簡単にバッターだけに集中させるわけにはいかないにゃ)
(……あの範囲がセーフティリードだというのですか)
(あ、あんなに大きく塁から離れちゃって大丈夫なのかなぁ?)
一般的に取られるリード範囲よりも中野は明らかに大きく取っており、宇喜多は不安そうな表情を浮かべる。神宮寺はランナーから目を切るとそのままボールを長く持った。
「バック!」
(それ来たにゃ!)
宇喜多の声が届くより早く一塁ベースに向かった中野は頭から滑り込むと牽制球を受け取ったファーストが腕にタッチし、一塁審判にアウトのアピールをする。
「セーフ!」
(……今、かなり戻るタイミングが早かった。もしかして、帰塁に特化したリード? ……だとしたら、恐らくあのランナーは走るつもりはない。小也香、あなたはバッターに集中して)
ファーストからボールを受け取った神宮寺はミットの中を軽く叩いてから構える牧野を見て頷き、再びボールを長く持った。そして今度は牽制を挟まず、サイン通りのコースめがけてボールを投じた。
(インコース高め!)
「どぅおおおりゃああ!」
インハイに投げられたストレートに岩城は迷わずフルスイングで応じた。
「ストライク!」
「たぁー……」
ボールはバットの上を通過すると立って構えられた牧野のミットに収められた。するとすぐさま岩城の背中の後ろをボールが通過する。
(に゙ゃ!?)
「……セーフ!」
牧野の矢のような送球に慌ててベースに飛び込んだ中野。かなり際どいタイミングでの帰塁になったが、判定はセーフとなった。
(あ、危なかったにゃ。ファーストがベースにつくのがやけに早かったから、こっちも少し早めに戻っといて正解だったにゃ)
「……ピックオフプレーね」
「へ? な、何それ?」
「事前にサインで共有しておいて、走者の虚をついてアウトを狙うプレーのことよ」
「えー。せっかく塁に出たのにそれでアウトにされたら、超ショックじゃん」
「そうね。それだけに試合の流れを大きく変えることもあるわ」
(そしてそんなプレーを練習なしに出来るわけはない。得点された時のプレーもそうだったけど、清城は実戦的なプレーに力を入れているのね。新入部員も硬球に慣れてきた頃だし、うちも今まで人数が少なくて出来なかった練習メニューを取り入れるべきね)
神宮寺がボールを受け取るのを見ながらユニフォームについた砂を叩いて落とすと、中野は再びリードを取る。
(……ここで引くわけにはいかないにゃ)
(リードを小さくしませんか。しかし意識には突き刺さったはず。私はバッターに集中すればいい)
牧野のサインに神宮寺は頷くと今度はほとんど間をおかずに投球姿勢に入り、アウトコース低め目掛けてボールを投げ込んだ。
「だりゃあああ!」
このボールに対して踏み込んだ岩城はそのままフルスイングを敢行する。
(よし。ここから……!? シュートが枠の外まで流れない!?)
——キイイイィン。バットがボールを捉え、金属音が響き渡った。
「レフト!」
(大丈夫! バットの先だった。このボールは伸びない!)
左中間方向に高々と上げられた打球をレフトが追っていく。フェンス手前まで来たレフトはボールの位置を確認すると一歩内野側に踏み出してからミットを構えた。
(くぅー! 短く持つようになってから少し当たりやすくなったけど、外の球がちょっと打ちにくくなったような気がするぞ! ……おっと!?)
少しでも前に進もうとした岩城だったが中野が一塁ベース付近まで戻っていたため、追い越さないよう慌てて一塁ベース前でブレーキをかけ、その場で駆け足をしていた。
「早く前に行きたいぞー!」
「それはちょっと難しい注文だにゃ。レフトも前に向いてるし、これは捕られるんだにゃ」
「くそー! 己の力不足が憎い!」
「……いや、飛距離は……十分だにゃ!」
一塁ベースの端を踏むようにした中野はレフトの捕球に合わせて走り出す。
「……! セカンド! ランナータッチアップしてるよぉ」
「なにっ!」
センターの指示を受けてレフトがセカンドに送球する。中野がベースにスライディングするのを確認するとセカンドはタッチが間に合わないと判断してベースから離れてワンバウンドしたボールをミットに収めた。
「おおー! 綾香、ナイスダッシュだ!」
「岩城パイセンのファイトは無駄にはしないんだにゃ!」
一塁ベースから離れベンチに戻りながら岩城は拳を突き出すと、中野も塁上から拳を突き返した。
(やられた。一塁からタッチアップしてくるなんて……。ただ、それ以上に気になるのは小也香のシュート。いつもの変化ならボールゾーンまで流れるのに、今のは変化量が小さかった。握力が落ちてきてるんだ……)
「ここ! 頼んだぞ!」
「はい! 任せてください♪」
岩城に後を託された逢坂は上機嫌で返事をするとバッターボックスへと向かっていった。
(最終回で同点。2アウトランナー二塁で代打! 龍ちゃんも分かってるわね! ここ1番の目立つチャンスでアタシ! 美味しいところ持っていってやるわ!)
気合いを入れて右打席に入る逢坂を確認しながら、牧野はネクストサークルに入る九十九に一瞬目を向けた。
(この人を下手に歩かせたら上位に回る。1番の人は今日ヒットを打ってるし、前の打席でスライダーにもついてきた。情報がないバッターだけど、出来ればこの人で勝負したい)
牧野の指示で外野が前に出され、中野もその様子を塁上から確認する。
(前には来たけど極端なほどではないにゃ。2アウトで迷わずスタートがきれるし、打球によってはホームまで突っ込んでやるんだにゃ)
(守備位置なんて関係ないわ。アタシは茜ちゃんの代わりにこの場面を任されたのよ。その分も背負ってここは打ってみせる!)
(立ち位置は少し左寄りかな……? ただ外に届かないと決めつけるのは危ない。初球は……)
牧野が逢坂の構えを見ながらサインを出すと神宮寺は頷き、二塁ランナーの様子を一度確認してから投球姿勢に入った。
(……へ!?)
投じられたインハイのストレートに逢坂は大きく仰け反る。
「ボール!」
(さすがに球威は落ちてきてるか……)
(大女優になる身として顔にぶつけられるのはNGよ!? しっかり投げてよね!)
投げた神宮寺を睨むようにしながら逢坂はバットを構え直すと、ボールを受け取った神宮寺はサインに頷きあまり間を置かずに2球目を投じた。
(低い……)
「ストライク!」
(ええっ!? 嘘ぉ!?)
(外にきっちりとはいかなかったけど、しっかり低めには来てる。初球の見せ球でバッターにはかなり低く見えたはず。次は……)
(今のコースから曲がるスライダーですか。先ほどのシュートのように変化が小さくなってしまうかもしれない。コースには細心の注意を払うとしましょう)
(ええい、初めての打席だし慎重にと思ったけどやめよ! 振らなきゃ当たらないわ! 次打てそうなところに来たら振る!)
サインに頷いた神宮寺は握力がなくなってきた手でボールがすっぽ抜けないよう丁寧に握るとボール長く持ち、ランナーを2度確認してからアウトロー目掛けてボールを投じた。
(いける! ……ん?)
思い切って踏み込みバットを振りだそうとした逢坂だったが違和感を覚えていた。
(なんかタイミングが……あ! これがさっき和香ちゃんが言ってた……!)
逢坂はバットを振り出す軌道を無理やり外にずらしてスイングを敢行する。
「ストライク!」
(い、今ので届かないの……?)
(スライダーの変化はそれほど変わった感じはしないかな。ただこの人、スイングは泳いでたけどスライダーに反応してた……?)
牧野はボールを投げ返すと警戒しながら次のサインを出す。
(今度はボールになる軌道にですか。……いいでしょう)
少し遅目にサインに頷いた神宮寺は息を深く吐き出してから、4球目となるボールを投じた。
(このタイミングで外ってことは……)
逢坂はストレートのタイミングで踏み込むとタイミングの違いを感じ取り、振りだそうとしたバットをなんとか止めた。
「ボール!」
(またこのボールを見極められた……!? スライダーを投げる時にクセがあるとか? でも6回では左の5番打者に通用した。確かにスライダーの軌道はこのコースに投げるなら右打者の方が見れる時間は長いとは思うけど……。小也香のスライダーはそれだけで攻略出来るものじゃない。現にこの試合スライダーはヒットにはされていないし……)
普段なら仕留められることの多い決め球がこの試合では見送られやすく、牧野はボールを投げ返しながら頭の中でその原因を探っていた。
(ふぅ。追い込まれている状況で見逃すのって、中々怖いわね。ここで決められたら試合終わっちゃうし。けど天才子役として一世を風靡して大舞台を経験してきたここちゃんは度胸なら誰にも負けないんだから!)
逢坂は自信満々といった表情を崩さないまま神宮寺の目を真っ直ぐに見つめる。
(……そうだ。小也香のスライダーを初対戦で打てるはずない)
結論に達した牧野はサインを出す。すると神宮寺は首を横に振った。
(落ち着いてください牧野さん。さすがに外低めに三球続けてスライダーはバッターも目が慣れてきて危ないでしょう)
(……! ……だ、ダメか。確かにちょっと強引すぎるかも……)
首振りを受けて思い直した牧野は次の手を模索する。
(左打者が続いて投げられなかった高速スライダーいってみる? いや、今の状態で未完成の高速スライダーはちょっと賭けが過ぎる。……よし、決めた)
決心して牧野が出したサインに神宮寺はしっかりと頷いた。
(インコース低め厳しいコースにストレート。外れてもまだフルカウントですし、追い込まれているバッターが見逃すとは限らない。外野の位置を考えれば高めは危ないことも踏まえて、強引過ぎず良い選択だと思います。あとは私が投げきれるか……ですね。……投げきってみせましょう、エースとして!)
時間を少し使って神宮寺も投げる決心をつけると、セットポジションから5球目となるボールが指先から放たれた。
(げっ! 外じゃない!?)
アウトコースに意識が向いていた逢坂はインコース低めに投げられたストレートに意表を突かれながらバットを振り出した。
(……! 腕をたたんだ……!?)
インコースのボールにとっさに腕をたたみながら振り抜かれたバットはボールを捉え、弾き返した。中野はバットがボールに当たった瞬間に走り出す。
——パァン。中野はトップスピードに到達する前にスピードを緩め、逢坂も打席から出てすぐに足を止めた。
「アウト!」
弾き返した打球が飛んだ方向はサード正面。スピードがある打球をしっかりキャッチしたサードがミットを掲げ、アウトが認められると同時にそれは
「……くうぅ……!」
(捉えたのにぃ! ……悔しい!)
その場で立ち尽くし言いようのないもどかしさを感じる逢坂。その横を牧野が通り過ぎると神宮寺に話しかけた。
「ナイスピッチ小也香。最後のボール、良いコースに来てたよ。あそこに投げきれたから打球が上がらなかったんだと思う」
「ありがとうございます。牧野さんも良いリードでしたよ。ピンチを迎えることも多々ありましたが、1点で抑えられたのはあなたのリードあってこそです」
「えへへ……そうかな。ありがと、小也香」
「事実ですから」
同点ではあるが練習試合により延長がないため、両校の選手がグラウンドで相対するように並ぶと球審のゲームセットの宣言と「両校、礼!」の言葉に続いて双方から「ありがとうございました!」という声が飛び交った。
「有原さん。お疲れ様です。有意義な練習試合になりましたね」
「神宮寺さん、お疲れ様! うん。これからやらなきゃいけないことが見えてきた気がする。今日はありがとうね!」
「こちらこそ。……それで話があるのですが。
「え? えーと……聞いたことない、かな」
「おっと翼。こういう情報はワタシに任せるにゃ」
有原が神宮寺と話をしていると中野が話に割って入り、どこからともなくメモ帳とペンを取り出していた。
「確か夏季大会の出場校にいたはずにゃ。……えーと、あったにゃ。明條は芸能人を多数輩出していることで有名な高校だにゃ。夏の大会は1回戦で敗れているみたいだにゃ」
「ええ。その明條学園です。どうやら私たちが戦った1回戦を見ていたようで、話を頂いて先日練習試合をさせてもらいました」
「開幕試合だったからにゃー。結構色んな人が見てたみたいだにゃ」
「いいなー。私たちも練習試合の相手欲しい……」
「はい。まさしくその話です。明條さんが貴女方にも興味を持ったようで、良ければ紹介してもらえないかと」
「えっ、本当に!」
「本当です。なのでそちらがよろしければ後日連絡がいくよう手配させて頂きますが、どういたしますか?」
「ぜひぜひ! よろしくお願いします!」
「わ、分かりました。 ……あの、近いです」
「わわっ! ごめんなさい」
女子硬式野球部の数の少なさが故に練習試合の相手が不足していたため、有原は願ってもない話に飛びつくように賛同し、神宮寺に注意されていた。
「牧野さん。少しいい?」
「えっ、あっ、は、はい!」
「ちょっと花〜。緊張しすぎだよぉ」
「だ、だって……」
「試合中、外野にもはっきり聞こえるくらい堂々としてるのにねぇ。意地悪キャッチャーさん。花はすこーし人見知りだけど優しくしてあげてね」
「ちょ、ちょっと。その呼び方は失礼だよ」
「あら、キャッチャーにとって意地悪は褒め言葉よ。失礼には変わりないけど」
「ごめんごめん。2三振させられたからさあ、勘弁してねぇ」
「気にしてないわ。それよりその後三塁打を打たれたことの方が気になるくらいよ」
「そっかー。でもその秘密は教えられないなあ」
「……何か打つのに繋がった秘密があるのね」
「おっと。なんという誘導尋問。私は退散させてもらうよ〜」
(勝手にそちらが喋ったような……)
緊張する牧野の背中を軽く叩いてから去っていくのを見届けると鈴木は話を再開させた。
「それで話というのは、そちらに提案があるのよ」
「提案……ですか?」
「ええ。お互いのチームのレベルアップのために、相手チームを見て気づいたことをキャッチャー同士話し合えないかと思って」
(……お互いに相手チームと再戦することを考えれば得ではないけど、チームがもっと上に行くためには必要なこと、かな)
「……分かりました。いいですよ」
少し考えてからOKを出した牧野に鈴木は頷くと、言い出した側ということで先に気づいた情報を提供した。
「……なるほど。だから外に流れるスライダーが見極められてたんだ」
「ええ。とはいえ、そうなると半ば決めつけられていたからこそね。例えば……あれだけの変化量があるのだから、右バッターならボールゾーンから膝下に切れ込むようにスライダーを使うとまた幅も広がるんじゃないかしら」
「……そうですね。ありがとうございます。勉強になりました」
ベースの外側に流れるように変化球を使うパターンが読まれやすいことを伝えると牧野は納得がいった様子で素直に感謝を伝え、牧野側からも気づいた情報を提供した。
「特に先発の方はコントロールがいい分、キャッチャーの頭の中だけではパターンが出来てしまうので、それが仇になることもあると思うんです」
「そういえば、あなたにアウトコース低めを思い切り読まれたこともあったわね」
「はい。私たちも夏の大会が終わってから始めたことなんですが、首を振るというのは信頼していないということではなく、相談なんだってことが分かりました。2人の考えが合わさることでパターンも読まれにくくなりますし、何よりお互いに考えることでバッターを打ち取るビジョンが共有出来るのが大きいと感じました」
(バッターを打ち取るビジョン……。確かに、コントロールが良い倉敷先輩は狙った打ち取り方が出来ることも多いけど、そのビジョンはあまり共有出来ていないかもしれない。配球と投球の役割分担、そう考えていたけど、考え直した方がいいのかもしれないわね)
「なるほどね……。ありがとう。助かったわ」
サインに対しての首振り。特に先発して5回を投げた倉敷が1回も首を振らなかったことを指摘され、危機感を覚えながら鈴木は感謝を伝えると今日のところはこれでお開きとなった。
「ここ、惜しかったねー」
「そうねー。早くミットが届かないスタンドまで打てるようになりたいわ」
「ほ、ホームランですか。あれだけ速い打球が打てるだけでも驚きでしたが……」
荷物を置かせてもらっている部屋で部員たちはユニフォームから制服へと着替えていた。
「でもさー、意外だったよね! 私たち入ったばかりだからさ、新入部員は試合出れないかなーと思ってたら6人中3人も試合に出れるなんて!」
「おいしいものクラブは全滅だったけどね……」
「いやいや、逆だよ加奈子! 私たちも頑張れば、チャンスあるかもだよ?」
「……!」
新田の発言に既に着替えを終えた東雲が眉を動かした。
「珍しいね美奈子。なんかやる気じゃない」
「岩城先輩に引っ張られて試合近くで見てたけどさ、やっぱりみんな楽しそうだったじゃん。頑張れば試合出来そうなら、やってみたくない?」
「それは……やってみたいね」
「うん。やってみたい」
試合を間近で見たことで触発された新田がやる気を出しているとそんな新田に引っ張られるように2人とも試合への憧れが増していた。
「……有原さん。お先に失礼するわ。悪いけど、後のことは任せるわ」
「え? ……あ、うん。分かった。お疲れー」
東雲は有原だけに聞こえるように小声で伝えると足早に部屋を去っていった。
(……東雲さん)
「翼、ちょっといいのだ?」
「阿佐田先輩。どうしたんですか?」
そこにまだユニフォームを着替えていない阿佐田が話しかけて来たため、有原は東雲が出ていった扉からそちらに視線を移した。
「実は初回一塁ベースを駆け抜けた時に……」
阿佐田は同じところを捻挫してしまったこと、そしてそれを隠していた理由など、今まで誤魔化していたことを打ち明けた。
「そう、だったんですね……。ごめんなさい、阿佐田先輩。私先輩がそんな思いをしていたなんて知りませんでした」
「あ、謝ることはないのだ。これはあおいが誤魔化していたのが悪かったのだ」
「……阿佐田先輩。少しいいですか?」
有原の隣で着替えており、それとなく話が聞こえていた河北が声をかけてきた。
「翼や東雲さんは知らないと思うけど、私たち未経験者組はずっと阿佐田先輩の背中を追ってやってきたんですよ」
「そうだったの?」
「……えっ! そ、そうだったのだ?」
「初めての清城戦、結局エラーしなかったのは経験者の翼と東雲さん、それと阿佐田先輩だけでしたよね。試合後、皆で夕日に向かって叫んだ時、勝負に負けて悔しいけど試合で後悔することは無かったって1人言い切った阿佐田先輩を見て、私たちはまず翼や東雲さんじゃなく、阿佐田先輩のようになろうって思ったんです」
「知らなかったのだ……」
「でも先輩、私は追いかけてるだけじゃなく、いずれその隣に並べるようにならなきゃとも思いました。だから先輩が休んでいる間も必死に頑張っていたんです。その遠い背中に少しでも追いつきたくて」
(……だから休んでいた時、置いてかれるような感覚を感じたのだ? 止まっているところに追いつこうとされていたから……)
「先輩、まずはしっかり捻挫を治してください。その間の練習、私は少しでも追いつけるように頑張ります。けど、それだけじゃ追いつかない。この二桁の背番号と、一桁の背番号にはそれくらいの差があると思うんです」
「……!」
着替え終わり畳まれたユニフォームにある10の背番号と阿佐田の背中に浮かぶ4の背番号。その差の重さを否応なく感じていた河北は偽りのない気持ちを伝えた。
「私はたとえ先輩が練習していても、その背番号を諦めるつもりはないですから」
(……馬鹿なのだあおいは。どこか練習していれば追いつかれないみたいな……そういう驕りがあったのだ。後輩にここまで言わせてやっと気づくなんて……)
「……分かったのだ。まずしっかり休んで捻挫を治す。そして出来るだけ早く練習に復帰するのだ」
(スタメンを張っている者として追われているのは、休養中も練習中も変わらない。あおいに足りなかったのはもっとシンプルなものだったのだ)
「けど、あおいもこの背番号を譲るつもりはさらさらないのだ! ともっちが追ってくるなら、届かないところまで走り去ってやるのだ〜!」
「私だって負けません!」
(ともっちがスタメンに選ばれなくても、奮起して一桁の背番号に追いつこうとしていたのは知っていた。ただ、阿佐田先輩がそんな悩みを抱えていたなんて思ってなかった。……そうだよね。皆、何かを抱えていても、素直にそれを見せるわけじゃない)
全員の着替えが終わり、清城に挨拶をしてから里ヶ浜高校の面々は現地解散となった。新田たちが打ち上げパーティーを企画する中、有原は断りを入れてからある場所へと向かっていた。
(……やっぱり、ここにいた)
たどり着いた場所はひまわりグラウンド。彼女たちがいつも練習で使っている場所。そこでは一定間隔で金属音が響いていた。バッティングティーをホームに置いてバックネットに向かって繰り返しボールを打つ者がいたのだ。
(厳しい練習の成果か、鈴木さんの言った通り他の部員がフォローできる問題だったのか。新入部員のやる気が弛緩する様子は無かった。その原因の追求より……何より厳しく出来ていなかったのは、私自身だった!)
「……東雲さん!」
「……! 有原さん……!? どうしてここに……」
「……東雲さんの気持ちになって考えてみたんだ。今日の東雲さんの打撃成績は東雲さんとして納得できるものじゃ無かったはず。すぐにでもバッティングが出来る場所に行きたいと思ったんじゃないかって」
「……バッティングセンターという選択肢もあるわよ」
「部屋から出て行く時急いでたように見えたんだ。バッティングセンターなら夜でも打てる。日が落ちる前に練習出来て硬球が打てる場所は……ここかなって」
「……ふぅ。貴女、そういうことに頭が回るのね」
有原が遊歩道から坂を下って近づいてくると東雲は観念したようにバッティングを中断した。
「それで、何の用?」
「あのね。私東雲さんに謝らないといけないことがあって……」
「貴女が私に……?」
思い当たることがない東雲は怪訝な表情を浮かべた。
「私、東雲さんがプロの野球選手を目指すって、私が1度は諦めちゃった野球を貫き通してるんだって知ってから、どこか東雲さんのことを完璧な人だって特別視してたんだと思うんだ」
「……」
「でも、完璧なんてことないよね。私たちまともに話してから半年も経ってないし、分かっていたつもりなだけだったんだ」
「あら、今日の私の打撃で失望させたかしら?」
「そうじゃない! 私、新チームが始動してから東雲さんの負担を全然考えられてなかった。投手の練習をまた始めて、新入部員の守備練習を徹底して、初瀬さんの特訓に毎日付き合って……サードとしての東雲さん自身の練習の時間が減っていたことに気づかなかったんだ」
「初瀬さんの特訓は本職がサードである私がやるべきだと思うのだけど」
「慣れるまではそうだったかも。けど、初瀬さんがプロテクターを外して捕れるようになってからは交代でやっても良かったはず」
「……そうかもね。けどバカね。私の練習時間が減っていたとして、その責任は私自身にあるに決まってるじゃない」
「……!」
そう言って東雲が自嘲するように浮かべた笑顔は、どこか脆くて、どこか危なげで、気づいたら有原は東雲を支えていた。
「な、何?」
「私たち、もっと強くなるから。だから東雲さんも私たちのことをもっと頼って! 自分のことを全部自分で何とかしようとしないで……!」
「……!」
いつもならすぐにでも手を振り払うところだったが、そう言われ胸の中にあるつかえが溶けていくような感覚を覚えた東雲は憑き物が落ちたような笑みを浮かべた。
「……参ったわね。私のことを他人に任せろなんて。自分のことは自分で……そうやってきたのに。貴女といると、私の中の当たり前がどんどん壊されてしまう……」
自分の弱さを振り払うように先ほどまでひたすらにバットを振っていた東雲はその安心感のある手を今日だけは振り払おうとはしなかったのだった。