「来た来た来た来たぁー!……はぁ……眠くないのにだるぅ……」
高波高校キャプテン、中条明菜。秋大会に敗れた彼女たちは練習の日々を送っていた。上げられたトスに昂った彼女が大声を上げながらバットを振り出すと、快音と共に放たれた鋭い打球が目の前に設置されたネットのポケットに突き刺さり、そして見る見るうちに声量が下がっていった。
「急に生活習慣を変えたから、身体が順応しきれてないのよ」
「キャプテン」
「元、ね。今はあなたがキャプテンでしょ」
「……そうだった。今は私が……。私がキャプテン……ふふ……ふふふふふ……!」
「きょ、今日は随分乱高下が激しいわね」
(無理もないか……。明菜は身体が寝た状態から極度に興奮することでゾーンに入ることが可能になった。ただその代償として自律神経のバランスが乱れた状態に身体が慣れてしまった。今、生活リズムを元に戻すということは、それに逆行するということだもの。……それでも)
「トスバッティング……打撃の基礎を固めるにはいい練習ね」
元キャプテンである高波OGが様子を見にくると中条を良く知る彼女からしてもその不安定さはいつも以上だと感じられていた。そんな中、彼女が周りを見渡すと中条だけでなく他の部員もトスバッティングの練習に励んでいるのが見受けられた。
「里ヶ浜に負けてからみんなで話し合いました。キャプテンが主導して私たちが負けた原因を徹底的に探ったんです」
中条とパートナーを組む部員がカゴから取り出したボールをバットを構え直したタイミングで放る。今度は芯を外してワンバウンドで鈍くネットを揺らした打球を横目に彼女はOGの方へと振り返って、静かにそう告げていた。
「そうね。誰かのせいにしても仕方ないもの。同じ過ちを繰り返さないためには逃げずに向き合って、そこから学ぶ……それが本当に大事なことよ」
「はい。キャプテンも次勝つためにもこの負けを無駄になんかさせないと言ってました」
「あー、きつぅ……ほら次っ!」
「あ、はい!」
話に気を取られかけた彼女の意識が中条の一声によって呼び戻されると身体の向きが元に戻り、トスバッティングがペースを落とすことなく続けられていく。そしてそのペースを維持したまま話も続けられた。
「ふっ! ……まず負けた原因の一つは私が得点圏にランナーがいない時、身体が寝た状態で打てるはずがないこと。私の打席が潰れるだけじゃなく、チームにまで負担をかけてた」
「……明菜の驚異的な得点圏打率を生かすために、明菜の前にチャンスを是が非でもつくらなければいけなくなった。つまりあくまで点を取るための手段に過ぎなかったのに、いつのまにかその手段がみんなに課せられた重荷になってしまったってことね……」
「正直、私はこの生活習慣を変えるつもりはなかった。最初は怠惰で偶然見つけたものかもしれないけど、それを直してしまうことで……もうチャンスで今までのように打てなくなるんじゃないかと……怖かった。けど、それでみんなに迷惑かけてちゃ意味ない……!」
(……明菜はあの0から100に沸騰するような異常なゾーンで想像出来ないような快感があったはず。それを二度と味わえないかもしれない状況に自ら身を置くってことはその快感と同じレベルの虚脱感を感じてるはずよ。……それでも今、明菜は必死に変わろうとしている)
高波OGが中条の表情を覗くと非常に辛そうな風に見て取れ、その理由は体力的なものだけではないと感じられていた。
「それに……大きな原因がもう一つありました。あの試合で私たちは5安打2得点、強打が売りの私たちにしては物足りない結果です。2得点もキャプテンの犠牲フライによるもの……持ち味の勝負強さを封じられたのはキャプテンだけじゃなく私たちにも理由があると考えたんです」
「確かに……明菜の特徴を生かそうとした影響もあるかもしれないけど、5安打は私たちにとっては少ないと言っていい数字ね」
「はい……。”強打の高波“、この称号に私たちは自惚れてしまったんだと思います」
「どういうこと?」
「この称号を築き上げてきたのは……私たちの世代じゃありません。先輩たちの世代です」
「得点圏にランナーがいない時、繋ぐ意識が無かった私が当然のように凡退してもそれを補って余りある打線、それがこの新チームにも引き継がれていると思い込んだ……。過信した……! 私たちには強打という強みがあるって……疑わなかった」
二人にそう言われ、高波OGは彼女自身が一部となって築き上げた高波の打線を思い返した。後輩たちにプレッシャーをかけまいとする心意気とそれを実現出来る確かな地力を彼女たちは持っており、その上級生が作り出した波に伸び伸びと自由に振らせてもらっていた下級生の打線も乗って大量得点に繋がるケースが多かったことからいつしか周りから“強打の高波”と評されるまでになっていた。
「なるほどね。もしかしたら私たちのフォローも足りなかったのかもしれないわ」
「……それは違う……。先輩がこんな私にキャプテンマークを託したのは、そのことに私たち自身が気付かないと意味がないことが分かってた……!」
「そうだったんですか?」
「……そうよ。練習中にうたた寝したり、得点圏にランナーいないとバットも振らなくなった明菜をキャプテンに指名するのは反対も多かったわ。けど、それをきっかけにあなたたちに自覚して欲しかったの。世代が変われば、目指す野球の形も同じままじゃいられない。あなたたち一人一人が今の高波というチームを築き上げていくんだってことをね」
「…… One for all, All for one。1人はみんなのために、みんなは1つの目的のために」
「きゃ、キャプテン? どうしたんですか……?」
打球をネットに突き刺した中条がぽつりと漏らした言葉にパートナーは彼女のイメージと合わないフレーズと感じたようで目を丸くしていた。
「先輩がキャプテンマークと一緒に託してくれたメッセージ。その時はよく分からなかったけど、里ヶ浜に負けた時に……足りなかったものに気付くきっかけになってくれた」
「そうだったんだ……」
バットを振り切った体勢で右腕の袖口につけたキャプテンマークを見据えた中条は一度目をつぶると、最後の打席で見た光景を可能な限り思い出してから目を開け、実際にバッターボックスに入っている時のように地面をならしてからバットを構え直した。
(明菜は元々チャンスに強いバッターだったけど今の得点圏打率7割9厘と比べてしまうと一般的なものだったわ。けど、その時は得点圏にランナーがいなくてもまるで打てないわけじゃなかった。……まずは原点回帰、ね)
上げられたトスに合わせて中条が静かにスイングに入ると、芯でボールが捉えられ、低く強い打球がネットに突き刺さっていた。
「数あるバッティング練習の中でトスバッティングは遠くに飛ばしたり速い打球を打つことじゃなく、正確に打ち返すことを目的にした練習。今の明菜にとって、一番必要な練習かもしれないわね」
「はい。……それに私たちの強みは、やはり打にある。けどそれは今までのようにはいかない。またこうして基礎から全員で見つめ直して、新たな“強打の高波”を一から築き上げていくしかない……!」
「私もみんなもキャプテンに賛成しました。過信を捨て去るためにも、今の自分たちの現状を受け止めて、そこから前に進もうって」
「よく分かったわ。だから今は全員基礎的な練習メニューを中心に取り組んでいるのね」
周りを見渡した高波OGは部員それぞれが一つのスイングにしても流れで雑に入らず一球一球集中して振っている様子を見て、全員が同じ目的を見据えて練習に励んでいることを感じていた。
(心配で様子を見に来ちゃったけど、余計な心配だったみたいね)
「春こそ見せつけてやる……! 強打の高波の真骨頂をーっ! ……あー、喉痛い……」
そしてそんな部員をキャプテンとして自分なりのやり方で引っ張る中条を見た高波OGは安堵の笑みを漏らすと静かにその場を離れ、ベンチにノートを置いていた。
(後は身体に負担をかけずに『ゾーン』に入る方法……その模索のヒントになってくれたら良いんだけど。……私に出来るのはここまでね)
高波と里ヶ浜の試合が終わってから医学部を志望する彼女なりに調べ上げたフロー理論についてのノートを置いた高波OGは中条につられるように声を出して練習に励む後輩たちの姿を視界に収めながら、その場を去っていくのだった。
高波のように秋大会のトーナメントから敗れ、次に向かって動き出しているチームは他にもいた。
「ぎゃっ!?」
「結ー! 腰が高いよ! もっと落として!」
「わ、分かったー!」
さきがけ女子高校のグラウンドではシートノックが行われていた。ファーストを守る芹澤は放たれたゴロを弾いてしまい、気を取り直して次に放たれたゴロをやや不格好な体勢でキャッチしていた。
「足が動いてないよー。ほら、見てて」
交代して入ったもう一人のファーストが次に放たれたゴロに対し、足を動かして打球の正面に入り、綺麗に捕球する。
「わぁ……もう、肉離れは大丈夫みたいだね」
「大会の時は心配かけちゃったね。もう平気だよ。……って、それよりほら」
「う、うん。……あれっ!?」
「うーん……足動かすのに意識向けすぎてまた腰が浮いちゃったね。それだと一歩目が遅くなっちゃうよ」
「ごめーん。次こそ気をつけるから……!」
(うぅ。秋大会でも初回にエラーしちゃったし、こりゃスタメンには入れなさそー……。……はっ、いけないいけない。こんな調子じゃ、あの練習試合の二の舞になっちゃうよ)
「そういえばさ、今日二回戦を突破した里ヶ浜って私たちと同じ新設の野球部なんだって」
「え!? そうなの……!?」
(凄いなあ……。……待てよ。同じ条件であたしたちは一回戦負け続き……もしかしたら里ヶ浜を偵察すれば、何か分かるかも。……あたしの練習時間は減っちゃうけど。どうしよう……)
同じポジションを守る選手との差を強く感じた芹澤はシートノックで打球が飛んでくるたび、揺れ動く思いを胸に抱くのだった。
そして同日、朝のうちに会場近くの小さな病院を後にした高坂はようやく以前から世話になっている総合病院への移動を完了させていた。高坂の分の荷物も持っていたキャッチャーはやや疲れた表情をしている。
「まずは安静にしておきなさいよ」
「分かってるわよぉ」
「本当にー?」
「なによ。信用できないって言うの?」
「信用させてくれなかったのはあなたでしょ。今度は信用させてよね」
「……分かったわよ。まずは治すことに専念し——」
「椿ちゃんっ!」
「……!?」
「ごめんね。椿ちゃんに迷惑をかけた私が今更来ても迷惑だと思うけど、また肘を痛めたって聞いたから……」
「…………馬鹿ね。本当に」
向月キャッチャーと高坂にとってはボーイズリーグの時から共に野球をやってきた少女が病室を訪ねてきた。そしてそんな彼女の発した言葉を聞いて高坂は深くため息をつくと、左手でそばに来るようにジェスチャーを送った。
「肘は全治3ヶ月、ちゃんと治るわ」
「……よ、良かったぁ……」
肘の容態を聞いた瞬間、安堵感から膝から力が抜けていくようにへたりこんだ彼女に高坂はそのまま左手を伸ばした。
「アタシは……あんたと沢山話すことがある。付き合いなさい。……アンタもね」
その言葉に目を見開く彼女に対して、向月キャッチャーはそれを待ってたとばかりに頷くのだった。
そのほぼ同時刻、会場近くの病院から宇喜多と掛橋先生、そして野崎が出てきていた。
(高坂さん、もうあちらの病院にいかれてしまったのですね)
既に病室を後にした高坂の行動の早さに驚きながらも、その行動力と以前の会話から高坂が自分と重ねていた彼女とのコンタクトを取るであろうことを推測し、上手くいくよう祈るように空を見上げていた。
「先生もこの前紅白戦で審判やった時に打球が当たってね。硬球って当たるとこんなに痛いんだってなったから、大事に至らなくて本当に良かったわ」
電車に乗り込み、宿舎の近くの駅まで向かっていると掛橋が胸を撫で下ろしながらそう言った。
「痣を見た時はどうしようかと思いました……。折れていたらと思うと心配で……」
「2人ともありがとうございます。それに応急処置が適切だったから、二週間程度で治るって……帰ったら九十九先輩にもう一度お礼言わなきゃ」
「ふふっ、そうですね」
「それと師匠の打球に当たっちゃったのは、茜の注意が足りなかったと思うから、そこは気をつけなきゃ……」
「怪我の危険もありますもんね……」
ほとんど軌道が変わっていない打球に当たってしまったのは自分の不注意からだという自覚があった宇喜多は目をつぶるようにして反省していた。するとちょうど宿舎の最寄駅へとたどり着く。
「さ、いきましょう」
「はい。……宇喜多さん」
「あ、ありがとう野崎さん」
固定した足をかばうように立とうとする宇喜多は野崎の手を借りて立ち上がると駅へと降りていった。
「打球に当たる結果にはなりましたが、それはとにかく点を返すんだっていう強い気持ちがあったからだと思います。その気持ちはあの後、皆さんにも伝染していったように感じました。その気持ちは、きっと誇っていいものだと思いますよ」
「……そっか。うん。そうかも。……ありがとう!」
「ふふっ。どういたしまして。……あ!」
「……? どうしたの?」
「今日の試合に備えて、夕ご飯を食べてから寝るまでの間、皆さん宿舎の外でバットを振って自主練されていたことを思い出しまして。恐らく明日あたりもそうなると思うので塩分を取れるよう、おにぎりの具材を買い出しておこうかと」
「……えっ。あ、野崎さん……その、それは」
この時、宇喜多の脳裏に体験会で野崎から貰ったはちみつレモンが砂糖の入れすぎによって異様に甘かったことがよぎった。
「足のこともありますし、先生は宇喜多さんについていてあげてください。それでは……」
「……行っちゃったわね」
「だ、大丈夫かな……?」
こうして野崎と途中で別れた二人は宿舎へと帰ってきた。すると、里ヶ浜が借りている部屋の前で翼と鈴木がある人物と話をしているのが目に入った。
「え……? 帝陽の……乾さん?」
同じ宿舎に泊まっている帝陽学園。そのキャプテンを務める乾ケイが何かを話しながらファイルされたプリントを渡す様子が二人の目に入った。
「どうして……界皇高校のデータを私たちにくれるんですか?」
「それは私の口から話すつもりはない。……この資料をどう使うかは君たちの自由だ。では、失礼する」
「あ……」
そうして資料を渡し終えた乾は宇喜多と掛橋とすれ違い、自分たちの部屋へと戻っていく。資料を渡された翼と鈴木も彼女の背中を呆然と見つめていると、その姿が見えなくなり、困惑が混じった沈黙がその場に残ったのだった。
水曜日、終わらず。