清城高校との練習試合の翌日。放課後になり、練習前のミーティングに向かおうと教室を出た秋乃は1年6組を訪れていた。
「ここー。まりあー。一緒に……」
「む、無茶ですよ。逢坂さん」
「いや、やってみせるわ! よいしょ……って、きゃあ!」
「わっ」
角材に片足で乗り、1秒でバランスを崩した逢坂がよろけて倒れそうになるところを慌てた様子で初瀬が支えた。
「だいじょうぶー?」
心配そうに秋乃が駆け寄ってくると、逢坂は支えてもらいながら体勢を立て直して角材の上から降りた。
「だ、大丈夫よ。助かったわ。麻里安ちゃん」
「だから無茶だって言ったんですよ……。まだ角材に乗っても3秒持たずにバランスを崩しているのに、それに加えてハンドグリップをそれぞれの手で握って握力のトレーニングも同時にやろうなんて……」
「…………ハンドグリップは常識的な範囲で使えば、初心者でも怪我の心配がないトレーニング器具よ。頭が痛くなってきたわ」
教室の入り口から逢坂の両手に握られた棒状の2つの鉄をバネで繋いだトレーニング器具を見ながら東雲はこめかみの辺りを押さえていた。
「あれ、龍ちゃん。なんでここに?」
「りょーはねー、小麦と同じ5組だから一緒に行こうって誘ったんだー」
「貴女たちは揃いも揃って名前で……」
「えー、さっき呼んでいいって言ったじゃないー」
「貴女があまりにも呼ぶから、仕方なくね……」
東雲は首を2、3度横に振ると教室の中に足を踏み入れた。
「あのね、逢坂さん。根拠のないトレーニングをいくらやっても意味ないわ。練習後にしっかりしたトレーニングを教えてあげる。体幹は今の状態で角材に無闇に乗るより効果的なものがあるわ。ただハンドグリップに目をつけたのは悪くない」
「そうなの?」
「握力は送球やバットコントロールにも影響するし、大きく負荷のかかるトレーニングをする際にも求められるから鍛えていて損はない。それに……」
東雲は話しながらハンドグリップを1つ借りると胸の前に持っていき、両手で押さえるようにして握った。
「こうすれば胸筋を鍛えることも出来る。低い負荷で回数も重ねやすくて、しかも怪我の心配は今みたいに無茶なことさえしなければまず無い」
「へぇー。これ、握力鍛えるだけじゃないんだ」
逢坂は片手でもう1つのハンドグリップを握って放してを繰り返しながら、東雲がハンドグリップを扱う様子をまじまじと見つめていた。
「あ、それダメよ」
「へ?」
「握ってからすぐに力を抜くと少し楽に感じるでしょ。それはせっかくかけた負荷を軽減してしまっているのよ。こうやって握った後、一度静止してから放しなさい」
「えーと……こう?」
東雲のやり方を真似るように逢坂はハンドグリップを握った状態を一定時間保ってから放してみせ、その様子に東雲は頷いた。
「あ、あのっ。私も練習後にトレーニングのこと一緒に聞いていいですか?」
「小麦も聞きたーい! 高い球もかきーんって飛ばしたいもん!」
「構わないわ」
(随分モチベーションが高いわね。……そうか。3人とも試合を経験したから、やりたいことが出てきたんでしょうね)
東雲は教室を出ると3人と共に部室へと向かっていく。
「昨日のピッチャー……神宮寺小也香さん、だったっけ。彼女を見てアタシの目標は更新されたわ!」
「逢坂さんの目標というと……ああ。エースピッチャーとしてチームを率いて優勝して……という」
「そう! そこをエースピッチャー兼4番打者に変えたわ!」
「あら、私から4番を奪うつもりなのね」
「……も、もちろんよ! 今はまだ及ばないかもだけど、いずれはアタシが4番になるんだから!」
(す、すごい。逢坂さん、本人を前にそこまで言いきるなんて……。私はまだ、まともにバットにも当てられないのに)
「そう。楽しみにしているわ。もっとも、それを実現するためには地道な努力が必要不可欠でしょうけど」
「そのためならなんだってやってやるわ! それにピッチャー今はダメって言われてるけど、そっちだって諦めてないんだから!」
「貪欲ね……。でも、それくらいやる気があるのは嬉しいわ」
(鈴木さんも言っていたけど、彼女の球速は悪くないのよね。体幹トレーニングの成果が出れば、ピッチャーを検討してもいいかもしれない)
部室にたどり着いた東雲はノックをしてから扉を開き、他の3人も後ろをついていくようにしてカーテンをくぐって部室内に入る。すると先客が鼻歌交じりにミーティングの準備を進めていた。
(やけに上機嫌ね……)
「るんるん気分だね!」
「何か良いことあったんでしょ、和香ちゃん」
「……そう見えたかしら? 実は昨日お兄ちゃんが帰ってきて、試合のことを話したら頑張ったんだなって褒めてくれて……」
(お兄さんと仲がいいんですね……)
普段冷静な鈴木が感情を包み隠すことなく嬉しそうに話す様子を初瀬は意外そうに見ていた。
「へぇー。良かったじゃない。昨日点取ったの和香ちゃんだけだったもんね。私も打ちたかったけど……あ! アドバイスくれたの助かったわ」
「小麦もねー。わかのおかげで守りやすかったよー」
「私も鈴木さんのおかげで、思い切って動けました」
「ありがとう。……ふふっ」
(昨日点が1点しか入らなかったのは……やはり、
「有原、入りまーす! ……って、東雲さん?」
河北と共に部室に入ってきた有原が東雲に気づくと、頬を軽く引っ張った。
「リラックスリラックス〜」
「な、なにひゅるのよ。……もう」
東雲が有原の腕をそっと下げさせるのを見て河北は目を丸くする。
「表情が硬かったから柔らかくしたんだ〜」
「誰もそんなこと頼んでないわよ……」
「それで、どうしたの?」
「昨日の試合、得点は結局1点止まりだったでしょう? 勿論、神宮寺さんは好投手ではあるけど、この結果はやはり私が打てなかったのが大きかったと思うのよ」
「えー、そんなこ——」
有原がいきなり言葉を紡ぐのをやめ、東雲は怪訝な表情を浮かべる。
(いや、ここで「そんなことない」なんて言っちゃだめだよね。それはチームの為にも、東雲さんの為にだってならない)
「——うん。確かに4番が打てなかったのは大きかったと思う」
(つ、翼……!? そんなこと言ったら東雲さん、もっと落ち込んじゃうんじゃ……)
「そうよね。特に2、3打席目は得点圏にランナーがいる状況。4番にも関わらずブレーキになってしまったのは、疑いようのない反省点。ピッチャーをやるために減らしていたバッティングの練習時間を増やすことにするわ」
「それが良いと思うよ」
「ピッチャーといえば、私のピッチングは貴女からどう見えたかしら?」
「後ろから見てた感じだと失投らしい失投もなかったし、ストレートも走ってたと思うよ。ただ変化球が少し甘く入ってたかな……?」
「貴女もそう感じたのね。私からしても変化球はコースか高さのどちらかは甘くなりがちだったわ。三塁打を打たれたスライダーだって悪くはなかったけど、それだけ。理想的なコースからは程遠かった。今は変化球を決め球として使うには不安が大きい。……となると、ピッチングの時間もやはり欲しいのよね」
「大丈夫! 今まで東雲さんがやっていた分の負担を私たちで分担して、東雲さんの練習時間を確保出来るようにするよ!」
「そうね。こうして話してみると昨日貴女に言われた通り、やるべきことに練習時間が足りていない。……分かった。頼らせてもらうわ」
その言葉に有原が満面の笑みを浮かべながら頷くと東雲は照れくささを誤魔化すようにミーティングの準備を手伝いにいった。
「ねえ、翼。東雲さんと何かあったの?」
「え? うん。あったけど……なんで?」
「だって翼が調子に乗った時はいつも東雲さん睨みつけるのに今回は軽く振り払っただけだったし、東雲さんが自分のことを他の人に聞くなんて今までなかったから……」
「そっかー。えへへ……」
「一体何があったの?」
「うーん。秘密!」
「えー? 教えてよー」
河北が有原に食い下がっているとその間に他の部員も集まり、準備が整ったため東雲が皆に声をかけるとミーティングが開始された。
「さて、昨日の試合の反省点を洗い出して課題をはっきりさせておきましょう。まず守備をテーマとして選んだスタメンだけど、予想以上に良い影響があったと思うわ。ランナーの出塁も抑えられたし、清城打線を1点に抑えられたのは大きかったわね」
「7回で6被安打、1四死球、1失策。投手陣の踏ん張りも大きかったと思うわ」
「うっ……1失策。私がいきなりやっちゃったエラーですね」
「そうね。あれは慌てすぎだったわ。……ただ貴女だけの反省点でもないのよ。今まで人数が少なくてケースバッティングもランナーがいる想定で、実際に走らせたわけではなかった。新入部員も硬球に慣れてきたし、これからの練習メニューはより実戦に近い形にしていきましょう」
「え? あ、はい……」
(なんというか……あっさりですね。あの場面でのエラーはかなりまずかったと思うのですが……)
メガネのツルに触れながら困ったような表情を浮かべる初瀬に東雲はため息をつくと話を続けた。
「あのね初瀬さん。確かにエラーも反省すべきことだけど、貴女にとって1番の反省点はそこじゃないのよ」
「えっ! ほ、他の反省点ですか……?」
(でも他というと後はなんとか3アウト目を取ったあのプレーくらいしか……。打席では出番はなかったですし)
「……どうやら自覚はなさそうね」
「ご、ごめんなさい……」
「もー、龍ちゃん。麻里安ちゃんをいじめないの!」
「いや、別にいじめてるわけでは……そうね。逢坂さんはこの点において問題はなかったわ」
「へっ?」
(私の出場機会は守備のみで、逢坂さんは攻撃のみ。……もしかして反省点はプレーのことじゃない?)
話題が初瀬の反省点になり、割って入った逢坂はかけられた言葉に心当たりがなく目が点になる。初瀬は自分が交代した時と逢坂が交代した時の様子を交互に思い出すことで自分の反省点を探ることにした。
「そして野崎さんに代わり、初瀬さん。あなたにサードに入ってもらうわ」
「……えっ。ええええっ!」
「岩城先輩。逢坂さん!」
「おう! ウチの出番か!」
「来たわね! ヒーローは遅れてやってくるものよ!」
初瀬は交代を告げられた時の自分の反応と、岩城や逢坂の反応を比べるようにして思い返すとあることに気づいた。
「あっ……もしかして、出番があると思っていなかったことでしょうか……?」
「……! そうよ。オーダー発表の時、有原さんが言っていたでしょう。スタメンに選ばれなかった者も出番がある可能性があるから、そのつもりでお願いすると」
「そ、そうでしたね……。すいません。私試合には出れないとばかり……」
「貴女がエラーしたのは、基礎がまだ固まりきっていないのも一因でしょうけど、何より“心構え”が出来てなかったからよ。交代したばかりだろうと試合は容赦なく進んでいく。つまり交代したらすぐに気持ちを試合に集中させなくてはいけない」
「そのためには交代を告げられる前から心構えをしておく必要がある……ということですか」
話し合いながら達した結論に東雲はゆっくりと頷いた。
(そうか……そうだよね。出番があることに驚いてちゃダメなんだ。次からは試合に出る心構えを、しっかりしておこう)
「ありがとうございました。次はしっかりベンチで気持ちを作っておきます」
「あら、次もベンチでいいのかしら」
「ええっ! あっ、いや……」
「もー! りょー、そーいう言い方良くないよー? ことばのあわじゃないー」
狼狽える初瀬に助け舟を出すように今度は秋乃が話に割って入った。
「言葉の
「は、はい。頑張ります!」
(そのつもりでないと困るのよ。細かい情報は中野さん待ちとはいえ、次の試合は恐らく……ね)
初瀬と秋乃を始めとした新入部員たちを東雲が見渡していると秋乃が先ほど話に割って入った勢いを収めることなく前に出ていた。
「ねー。なんでエラーが1なの? 小麦も、ミスしちゃったよ?」
「ああ……牧野さんの1打席目の時のプレーね。確かに理想よりは逸れたけどベースカバーに入る倉敷先輩の手の届くところには来ていたからあれは内野安打なのよ」
「そうなのかー。でも、やっぱり悔しい。もっと上手くなりたいよー」
「一塁ベースカバーに入る投手に投げる練習はしたけど、あそこまで崩れた体勢での送球はとても基礎を固める2週間で出来るものではなかった。普通ならライト前に抜けるところを捕ったのだし、タイミング的にあれしか間に合わなかったことも考えると仕方のないことではあると思うわ。ただ貴女がもっと上手くなりたいのなら、それは応援するわよ」
「うん! 練習頑張るよー」
(本人が望まなそうだから言わないけど、貴女の守備はとても初試合とは思えないものだったのよ。経験者にも劣らない守備範囲、ベースから離れて捕球する判断、阿佐田先輩を見て学んだというプレー……。いい反射神経と吸収性を持っているわ)
「ただ貴女にも1番の反省点はあるのよ。守備じゃないところにね」
「えー?」
秋乃は困ったような顔をしたが思い当たったことがあったようでぱあっと顔が明るくなった。
「高い球が打てなかったことだ!」
「……それは確かに課題ではあるけど、1番ではないわね。打撃に関してはまだ始めたばかりで未発達の領域。課題自体は多くあるけど、初試合の打席でヒットを打てたのだから評価としては十分よ」
「んー? 2つ消えたらもうなくなっちゃうよー?」
(ちょっと自力でたどり着くのは難しそうね)
「……走塁よ。貴女、ライト前にヒットを打った時に一塁を駆け抜けようとしたでしょう」
「うん! 小麦、まっすぐ走るの大好きだから思い切り走っちゃおうかなーって」
「打球はライトゴロもまず有り得ない緩めの軌道だったし、駆け抜ける必要はなかったのよ。……鈴木さん」
「ええ。分かってる」
鈴木がホワイトボードにグラウンドの簡易的な上面図を書くと一塁ベースの横にファールラインに並行するように矢印が書かれた。
「秋乃さん、いいかしら。一塁ベースを駆け抜けようとするとこの方向に走ることになるのよ」
「そうだねー」
「このプレーが必要ない時にこのプレーをすることのデメリットを伝えるわね。あの時はライトがサードに送球した時に宇喜多さんの判断で二塁に向かうことになった。一塁を駆け抜けようとする貴女はこう動いたのよ」
先ほど書かれた矢印にほぼ垂直になるように二塁ベースへの矢印が書かれていく。
「んー。そういえば慌てて急に曲がったような気がする」
「そう。これほど急な方向転換、減速は避けられないでしょうね」
「あー! そっかぁ……。ちょっと膨らんで走った方がスピード落ちないではやーく走れるもんね」
「そうね。きっと東雲さんが言った1番の反省点はそのことを指してると思うわ」
東雲が頷くと最初に書いた矢印からベース付近で弧を描くようにして矢印が追加された。
「それに一塁ベースから駆け抜けてこの場所から二塁に向かうことになったら距離もある。守備の乱れなどで一見二塁に行けない打球でも向かうことはあるから、最後に書いた矢印のように回ってから無理そうならベースに戻ればいいのよ」
「そっかー。うん、分かった!」
「そうだったんだ。全然知らなかったね」
秋乃だけではなく新入部員を中心として鈴木が書いた図を見ながら走塁について納得したような声が漏れると、秋乃も満足したように後ろに戻っていった。その後も試合のプレーを取り上げながら反省点を洗い出していると、扉がノックされて開かれる。
「失礼します。ごめんねみんな、遅れちゃって」
「そんな、謝らないで下さいよ〜。今週の土曜に剣道部の大会があって忙しいのにこっちにも顔を出してくれるだけでもありがたいんですから!」
「ありがとう。そう言ってもらえると助かるわ」
野球部の顧問と兼任して剣道部の顧問も務めている掛橋は有原にそう言われて微笑むと、話を切り出した。
「東雲さん、有原さん。昼に電話があった明條さんとの練習試合だけど2週間後の日曜日に組めたわ」
「ありがとうございます!」
「ありがとうございます」
「後さっき有原さんが言ってたけど土曜は大会があるから、責任者不在になるので……怪我だけは気をつけて欲しいの」
「はい!」
「分かりました。細心の注意を払います」
「とりあえずそれだけ……で、もう戻らないといけないの。後はよろしく頼むわね」
「まっかせてください!」
「はい。先生もお疲れ様です」
他の部員たちからもお疲れ様ですと声をかけられながら掛橋は扉を開いて部室から出ていった。
「翼、東雲! 土曜は応援団としての活動を優先させてくれないか!」
「あ、はい! 分かりました。剣道部の応援に行くんですね」
「そうだ! ……東雲、練習が大事なことはウチも分かってるつもりだが、応援もウチにとっては大事なことなんだ」
「……清城との練習試合では先輩の応援に試合に出てるメンバーだけでなくベンチメンバーも引っ張られました。それは先輩の応援に対する姿勢が生み出したものだと思います。否定することなんてしませんよ」
「そうか!」
岩城が嬉しそうに少し強めに東雲の背中を叩いている後ろで驚いたような表情をした新田が小声で話し始める。
「……東雲。悪いものでも食べたのかな。なんか今日しおらしくない?」
「ええと……ちょっと柔らかくなったかも?」
「そこ! 私語は厳禁よ!」
「「は、はい!」」
「あと新田さん。貴女は後でグラウンド10周ね」
「げっ! 聞こえてた!?」
(わたしに対しては全然しおらしくないじゃん……!)
グラウンド10周を免れた永井が内心安堵している中、新田が不満げに向けた目線を東雲は無視するとミーティングが再開された。
「……さて、こんなものかしら。着替えて練習に行きましょう」
反省会を兼ねたミーティングが終えられると各自練習用ジャージに着替え始める。
「アンタ、足大丈夫なの?」
「大丈夫なのだ。幸い軽い捻挫だったから3日安静にしたら大丈夫ってお医者さんに言われたのだ〜」
「そ。あんまり無理するんじゃないわよ」
着替えない阿佐田に気づいた倉敷が話しかける。捻挫を治すために今日から3日間の練習は休むことになっていた。
「ねえ、話があるんだけど……。アンタさ、勝負師らしいじゃない」
「お? まいちんまさかギャンブルの世界に興味が……」
「無いから。今試合で選手の交代は東雲が、攻撃の指示は鈴木が出してるじゃない。でも鈴木は守備の指示も出しているから、負担が大きいと思うのよ」
「ふむふむ。つまりあおいがどっちか……って言ってもいきなりキャッチャーは無理だから」
「そう。攻撃の指示出し、アンタなら出来るんじゃない?」
「ふむ……面白そうなのだー! すずわかー!」
目を輝かせながら阿佐田が鈴木の方に歩いていくのを見て、倉敷は短く息を吐き出した。
(これでいい。アタシから鈴木に言うのはお節介焼いてるみたいに見えるだろうし)
「ううん。まいちんのアドバイスなのだー!」
「んなっ……!」
阿佐田の提案ということにして深く関わらないようにする倉敷の目論見は早くも崩れ去り、鈴木が阿佐田と共にこちらに歩いてきた。
「倉敷先輩、私の負担を考えて提案してくれたんですね。ありがとうございます」
「……別に、そっちの方が良いだろうなと思っただけよ」
「いやいや、さっきすずわかの負担がどうこうって言ってたのだ!」
(……コイツには迂闊なことは話さないようにしよう……)
阿佐田に話したことを倉敷は心底後悔しながらグラウンドに向かう間も話が続けられ、阿佐田は鈴木から本を借りて戦術を勉強することになった。
「今度の試合で試してみましょう。慣れないと思うので私もサポートします」
「うむ。お願いするのだ」
「和香ー! ちょっといいかー!?」
「あ、はい。今行きます」
グラウンドについたところで、先についていた岩城に呼ばれた鈴木は遊歩道から坂を下っていった。
「……まいちん。ありがとうなのだ」
「え? なによ急に……」
先ほどまでのおどけた態度から一転して真面目な表情で阿佐田は感謝の気持ちを伝えた。
「この提案、すずわかのためだけじゃないのだ。練習休んで不安になるあおいのためにも、戦術の勉強に時間を使えばいいって。その気持ちが嬉しかったのだ。だから……ありがとうなのだ」
「……どういたしまして」
(……何も考えてないようで気づいていたのね。もしかして鈴木に伝えたのも、アタシが隠そうとしているのに気づいた上で……)
「あっ! はせまりー! 図書室に野球の戦術の蔵書ってあるのだ?」
「ええと……数は多くないんですが、あったような覚えがあります」
「分かったのだ! 今日はすずわかの本もないし、自主勉強するのだ。ばいばいなのだ〜」
あおいは反転して手を振りながら今来た道を帰っていった。それを見届けながら倉敷は坂を下りていく。
「……少しはいつものアイツらしくなったわね」
そう呟きながら微笑むとグラウンドに足を踏み入れたところで鈴木が岩城にバットを渡しているのが目に入った。
「おお! なんだこのバットは! グリップがいつものより太いぞ!」
「はい。そのバットをグリップエンド一杯に持ってもらえますか?」
「分かったぞ! グリップエンドも厚いな……おお!? み、右手の小指が浮くぞ! いいのか!?」
「大丈夫です。その持ち方であってます。それなら岩城先輩の悩んでいた外角に届きにくい問題も解決すると思うんです。1度振ってみてもらえますか?」
「分かった。いっくぞー!」
鈴木が距離を取るのを確認した岩城はいつも通り思い切ってフルスイングをすると、風を切るような音が響いた。
「おお! 持った時は重い感じがしたが、思ったより軽く振れるぞ!」
(そう。このタイプのバットは手元での振りやすさがある。その分、一般的には単打の打ちやすさが魅力とされている。けど……)
振った感触が良かったようで岩城は気持ちよさそうにスイングを繰り返し、風を切っていた。
(左打者は前側にある右腕を主導としてバットを振り出しやすい。だけど岩城先輩は驚異的なパワーのある左腕を主導にしてバットを押し込むタイプで、それが長打に繋がっている。だから小指を浮かせて力を抜かせた右腕を支えに徹させて、左腕で押し込むこのスタイルは相性が良く感じられる。右腕主導じゃなければこのバットもアベレージヒッター用からパワーヒッター用へと変貌を遂げる……!)
「うおお! これ振り切るの気持ちいいぞ! 早く打ちたい!」
「そうですね。皆も集まってきたことですし、練習を始めましょうか」
声がかけられ練習が開始される。バッティング練習で順番が回ってきた岩城が新しいスタイルを試そうとするタイミングでなんとかグラウンド10周を終えた新田が守備についた。
(あら。走った分休まさせろと言ってくるかと思ったけど、やる気あるじゃない)
倉敷にバッティングピッチャーを任せサードにつく東雲は外角のボールを打ち返した岩城の打球に飛びついた。
「……!」
打球はミットの上を超えると鋭く転がっていきレフトを守る九十九の横を抜けていった。
「おお! 和香! 外角もしっかり届いたぞ!」
「ギリギリまで長く持っているのでその分、届きやすくなっていますね。打球のスピードを見るにパワーも落ちていないように見えます」
「そうか! よーし、どんどん打つぞー!」
バッティング練習が終えられるとケースバッティングでの守備練習が行われた。実際にランナーを配置し、ノッカーが打球を打った瞬間にホーム近くからランナーを走らせてより実戦に近い形になるように練習形式が変えられていた。その後も走塁についてミーティングで確認したものを実際に走ることで体験させ、日が落ちてきたところで今日のメニューは終えられた。
「——総合病院前。お出口は左側です」
練習後。電車を降りた野崎は駅を後にしてある場所へと向かっていた。
「美味しい……!」
徒歩3分の場所にある喫茶店に入った野崎は注文した好物のティラミスを一口頬張るとほっぺが落ちるような美味しさを感じていた。
(今日は自分へのご褒美で来ましたが、今度新田さん達にも教えてあげましょう。新メニューとして期待してきましたが、ここまで美味しいとは……)
満足して喫茶店を後にした野崎は帰りの電車の時間までまだあることを確認すると、食後の散歩として近くを歩いていた。すると下に降りる道に気づいた。なんとなく降りていった野崎は周りを見渡すと、そこは駅の下付近にある高架下で、スプレーでいたずらされた壁が印象的だった。
「ここなら練習しても、誰の迷惑にもならないかも……」
そう思った野崎はコンクリートの上にバッグを置くとそこからタオルを取り出してシャドウピッチングの練習を開始した。
(東雲さんが投手の練習をまた始めたのは私が崩れたときのため。阿佐田先輩がサードの練習を始めたのも空いたサードを務められる選手が今までいなかったから。皆に任されてマウンドに立っているのに、私が頼りないから……)
タオルが抵抗を受けながら空を裂きブーンという長い音が静かな空間に響く。その後も野崎は夢中にシャドウピッチングの練習を続けていると、それを上から見る者がいた。
「……」
その者は様子を2、3度見ると上から降りてくる。コンクリートを叩くような足音でようやく誰かがいることに気づいた野崎は顔を上げると目を見開いた。
「アンタさぁ。それ、シャドウピッチングのつもりぃ?」
「あ、あなたは……」
長い金髪をツインテールにして纏め、それぞれの根元に青いリボンをつけた少女が棒のついた飴を舐めながら高架下に足をつけた。
「高坂さん……!?」
野崎が目を向ける先にいたのは先の女子高校野球夏季大会の準優勝校、
岩城先輩が渡されたのはいわゆるタイカップ型バットというやつです。