「……たねしまさん?」
「たねしまさーーん?」
キッチンから、わたしを呼ぶ声が聞こえた。
慌てて振り返ると、相馬さんが出来上がった料理を台に並べている。
「○卓のお客さんの出来たよ!」
「あ……う、うん!」
ぼんやりしていた自分を起こし、料理を手に持った。その料理は、あの例の騒がしいお客さんのものだった。
やだなーー。あそこのお客さんとこ行きたくないなーー。
なんて、少し思ったけど、これも仕事。まあ、料理を置いてしまえば追加注文しない限りはもう、行かなくても良い。そんな風に自分を説得してわたしは、料理を両手に持ち、そこに向う。
近くに来ただけで、丁度、酒の入ったその団体客はテンションもピークに達しているようで、とても関わりたくないような状況だった。
わたしは、そんな雰囲気から逃れようと、急いで料理を置き、去って行く。そして、最後の料理を両手に持ち、早歩きでその料理を置こうと、した時だった。
外側に座り、酒が入って一番騒がしかった男性客が、話の流れで大げさに手を持ち上げるようなジェスチャーをした時、丁度、わたしの右手に強く当たり、右手に持っていた料理を床に落としてしまった。
――ガシャン! という派手な音と共に床に料理がぶちまけられ、皿の破片も飛び散った。
「あっ……? ……あ! す、直に替えをお持ちしますので!!」
一瞬、わたしは何が起きたか理解できなかったのだが、床にぶちまけられたハンバーグを見て、その事態に気づいた。
「ちょ! なんだよーー!! 俺のハンバーグ! ああ! ソースとか、スゲー服にも付きまくって……ああ!! もう! ふざけんなよ!」
こういう事態は初めてじゃなかったけど、あまりのそのお客さんの怒気に満ちた雰囲気にわたしは圧倒され、おろおろしてしまう。頭では、こういう時こそ、冷静に判断しなくちゃいけないことなんて分かっていたけども、恐怖と驚きで真っ白になった頭では、瞬時に動けない。
なんだが、足首がガタガタと震えだしてしまって、それに気付かれないように足を隠しながら、しゃがみ込んで料理を片付けるも、震えた足では、思うように片付けも進まない。
「つーか、お前が悪いんじゃん!? お前が、腕振り回すから、当たったんだろうが、バーーカ!!」
その団体さんのわたしが料理をぶちまけたお客さんの前にいた女性が、かん高い声で目の前の客に言った。
「……はっ!? うるせーーよ! だいたい、こいつが小さくて見えなかったんだよ!! 手の位置も下の方にあるから、当たったんだろうが!! 俺はそんな腕振り回してねーーよ!!」
言われた方のお客さんは、酒が入って唯でさえ赤い顔を更に赤くして。酒が入って唯でさえうるさい声を荒げて言った。
わたしを指差して、店全体に聞こえるように、はっきり罵倒されたことがわたしは何より、恥かしくて、悲しかった。それでもわたしは仕事だから、と自分に言い聞かせて、片付けた料理を急いで運ぶと、相馬さんに同じものを作ってもらうよう、頼みに行った。
相馬さんは、「聞こえていたよ」と、ちょっと、怒ったように言い、「気にしなくていいからね、あんなの」と、言ってくれたのが嬉しくて、泣きそうになった。
わたしは、おしぼりを持って、お客さんの所へ戻る。それを渡すと、わたしから毟り取るようにそれを取り、服にたいしてかかっていないソースを拭き始めた。おしぼりを取るとき、必要にわたしは睨まれたのもとても恐かった。
その内、少し前に到着した八千代さんが、援護に来てくれる。恐さに耐え切れずにフロアに出られなくなったわたしの変わりにお客様に謝ってくれた。それも申し訳ないと思った。
結局、その時、他にお客さんが多かった訳ではないことから、わたしはしばらく休憩していて良いと、八千代さんが言ってくれて、そのままわたしの変わって働いてくれた。
そして、その内、見かねた店長が例によってそのお客さん達を追い払ってくれた。
――そうこうしている内に、バイト終わりの時間から30分を切っていた。結局、あの時からの一時間余り。わたしは復帰することが出来なかった。途中、暇になった時の数分の間に、八千代さんが、わざわざココアを持ってきてくれたりして、励ましてくれた。店長も、どら焼きをくれた。相馬さんも、声をかけてくれた。
誰も、わたしを悪いとは言わなかった。そんなみんなは本当に良い人達だなと思った。
ワグナリアは変人ばかりとは言うけど、本当は変人だけど優しい人達の集まりなんじゃないかな……と、思うと、わたしはこんな場所でみんなと過ごせて、幸せだなと思った。
まだ、バイト終わりの時間までは少しあった。そう言えば、八千代さんは「途中で上がって良いから」なんて言ってくれていた。だけどさすがにそれは出来なかったのでわたしは、時間をつぶそうと外の空気を吸うため、裏口から外に出た。
裏口から、外に出てぼんやりと、さっきのことを思い出す。もう一時間も前のことだけど、まだ、わたしの頭から離れない。あの時、罵倒された言葉が、今でも繰り返し頭の中で再生されている。
――薄暗くなった夜空と、裏口から見える殺風景な景色を見つめていると、肌寒い風が流れた。熱を帯びた目とは裏腹に、夏でも北海道の夜は涼しい。
そんな、静けさが心地よくて、しばらくそうしていた。頬がかゆい。風に当たるとひんやりする。そんな中でゆったりと外を見ていた。
――そんな時。
誰かが遠くでこちらに向って走っている影が見えた。
あの人は、何をそんなに慌てているのだろう? そんな風に思った。
薄暗い中で、しばらくぼんやりとその人を観察していると、なんだか、良く知っているような、一緒にいると、安心するような、心地よくなるようなそんな、感覚を思い出す。
なぜ、こんな感覚になるのだろう? そう、不思議に思っていた次の瞬間だった。
「あっ……」
思わず、声が出た。その人はかたなし君だったことに気付いたからではない。わたしのかたなし君への正直な気持ちに自分が気付いてしまったからだ。
――すがりたい、包み込んで欲しい。あの大きな体で抱きしめて欲しい。そんな風に思ったんだ…………。
「せんぱーーい!」
走りながら、そう叫んだかたなし君がわたしの前まで来ると、
「だいじょうぶですか!?」
息切れした自分を庇う素振りを見せず、聞いていた。
「ど、どうしたの? かたなし君……今日はお休みでしょ……?」
「ええ、そうですけど、チーフから連絡を貰ったんですよ! せんぱいがちょっと、落ち込んでるって……。それ、聞いて俺……すぐに飛んできたんですよ……」
「……そう……なんだ、でも、もう、落ち着いてたからっ! だいじょうぶだよ……」
空元気でわたしは答えた。
「そう……なんですか? でも、せんぱい……? さっきまで、泣いてませんでした?」
そんな、かたなし君の言葉にドキリとする。そこで初めて気が付いた。わたしの目から涙が頬を伝っていたことに。
「……あれっ? あっ? わたし、泣いてたんだ……」
そう言って、かたなし君の顔を見上げると、かたなし君は真剣な表情を軽く崩して、微笑むと、
「……いいんですよ、せんぱい。辛い時は、泣いたって……今は、誰も見ていませんから……いくらでも泣いて大丈夫ですよ……」
そう言って、わたしの頬に左手をやると、親指で伝う涙をぬぐってくれた。
そして、その大きな手でわたしの頬を包むと、次に右手で頭を撫で始めた。
――久しぶりのかたなし君のなでなでは、いつものような、可愛がるなでなで、ではなく、いつくしむような気持ちを感じるものだった。
そんな、なでなでに――わたしの理性は――どこかに行ってしまった。
「――かたなしくん!」
わたしは、そう言って、かたなし君の胸に飛び込んだ。
――包まれたい。――抱きしめて欲しい。
そんな気持ちが抑えきれなくなった。
「わたし……怖かった! 久しぶりに大きなミスしちゃって……怒鳴られて……睨まれて……ちっちゃいってこと……馬鹿にされて……」
気付けば、そんな感情も……涙も……全部、抑えきれなくて……あふれ出てくる……。
不安とか……悲しさとか……ちっちゃいっていうコンプレックスとか……自分への不甲斐無さとか……そんなのが、全部。ぜんぶ、ぜんぶ、ぜんぶ…………。
「せんぱいっ!」
かたなし君がわたしを抱きしめる腕に力が入った。
そんな風に……かたなし君が……言葉もなく……ただ、わたしの体を……抱きしめてくれる。包み込んでくれる。――唯それだけで……安心した。
男の人の体は――思ったより、ずっと大きかった。
顔がかたなし君の胸に押し付けられる。――すきなにおい。……それを、体全体で感じた。
「……かたなしくん! ……かたなしくぅん!」
――求めていた。――すがっていた。この人に、自分の全てを預けたい……。自分の全部を見て欲しい……。そう思っていた。
かたなし君のことが――好きに。なっていた。
わたしは、その後もわんわん泣いていたばかりで――。
それでも、かたなし君は、ずっと、抱きしめていてくれて――。
赤ちゃんの時に戻ったみたいに……ずっと、暖かくて。ホッとして。そんな、気持ちに包まれて……幸せな、今までで、一番に。幸せな瞬間だった――。
――どれくらいの時間そうしていたのだろうか。
気が付けば、わたしの涙はとっくに枯れ果てていて……腫れぼったくなっている。そんな、目をかたなし君に見せるのは恥ずかしくて、あまり、上を見られなかった。
……だから、横を向いて……かたなし君の背中に手を回したままで……。
「わたしね……昔、背が小さいことを本気で悩んでいた頃……学校から、泣いて家に帰ったことがあったの……」
思い出した、昔の記憶。なぜだか、かたなし君に喋っている。かたなし君は、何も言わずに、そのまま聞いてくれた。
「からかった男の子は……冗談で、言ったんだと思うけど……あの時のわたしは、本気で気にしてたし……まだ、言われ慣れてなかったから……ショックだったんだぁ……」
えへへと、笑って恥ずかしさを誤魔化しながら、続ける。
「それで……わたし、家でもさっきみたいにわんわん、泣いちゃって……悲しんでいたら……お母さんが、わたしを抱きしめてくれたの……今みたいに……」
顔は見えなかったけど、かたなし君が「フフッ」っと、声に出してほころんだ。
「……その時のこと……思い出しちゃった。それでね? お母さん言ったの。『背が小さくても、心を大きく持てばいい。ぽぷらの心は……ちっちゃくないよ……!』って……」
「えっ? それじゃあ……」驚いたようにかたなし君が言う。
「うん、それからは、誰かに小さい、って言われても、『ちっちゃくないよ!』って、自分で言えば……お母さんの言葉を思い出すの……そうやって、大きな、心で相手を受け止めることが……出来るの……」
「そう、だったんですか……俺、何回もせんぱいにちっちゃくて、可愛いって……」
「いや、いいの! かたなし君は……」
「えっ……だって」
申し訳なさそうな声になってしまったかたなし君を見つめて、笑顔を送る。
「かたなし君の、ちっちゃくて可愛いっていうのは……最初はなんとも思ってなかったんだけど……その……だんだん、嬉しくなって……そのうち……ちっちゃくてもいいかなって…………ちっちゃくて良かったな、って、そう思うようになったの……」
そう、言った瞬間、わたしの顔が一気に風邪を引いた時みたいに、赤くなっていくのが自分でも分かった。
「せんぱい……その……今、言うのは……アレかもしれないですけど……でも! 言わせてください、その……赤くなったせんぱい……凄く……可愛い……です」
――そんなこと言われると……もっと、赤くなっちゃうよぉ……っ!
「あ、あの……かたなしく……ん、えっと、ちょっと……しゃがんで、もらっていいかな??」
赤くなった顔で、目をキョロキョロさせながら、わたしが言う。
「えっ? ……こうですか?」
わたしの意図に気付かない様子でかたなし君は、その場にしゃがみ込んだ。
――かたなし君の顔が……目の前に……目の前より、少し下に……あった。
「あの……せんぱい? なにを……?」
丁度いい位置にかたなし君の肩があるので、手を乗せる。
「わたしをはずかしめたおれいっ!!」
そう、言ってわたしは、
「――えっ? それ、どういう――」
何か、言うかたなし君を無視して――
「……んっ……んっ…………」
かたなし君の唇を奪った。
「……ん……あっ……ぷ、はぁ……!」
年上だからと、お姉さんだからと、かっこつけたけど、初めてだったから、そんなに上手くはできなかった。つい、息をするのを忘れて、口を離してしまった。
「せん……ぱい……たねしま先輩…………ぽぷら……」
うわ言のようにかたなし君が言うと、そのまま今度はかたなし君のほうから、キスしてきた。
「……んっ……ん、はぁ、は、あ……んっ……!」
舌の短いわたしが、出来なかったディープキスの見本を見せるかのように、わたしの口の中にある舌はかたなし君の舌にすぐに見つかり、乱暴に包み込まれ、愛撫された。
それから、わたしはヘニャヘニャになって体の力がほとんど無くなるくらいまで、しばらくの間、かたなし君に口の中を舐めまわされ続けた。
そんな、わたしの姿に気付くと、やっと、理性を取り戻したかたなし君が、
「……っ! あ、あの……せんぱい……とりあえず……帰りましょうか? 送っていきます……」
そう言って、わたしの手を掴む。
――お互いに、火照った顔が、暗さで見えにくかった事が、何より幸いだった。