「あっ……! じゃあ、わたし、こっちだから……」
街灯が灯り始めるような薄暗がりの中をしばらく歩いて来た後、自分の家の方向を指差してわたしが言った。
「…………家まで送らなくて大丈夫ですか?」
かたなし君が言う。
「んーん、だいじょうぶ、もう、すぐそこだから!」
そう言って、繋いでいた左手をほどく。すると、手を覆っていた熱がたちまち寒空に消え、少し寂しい気持ちになった。
「それじゃあ、せんぱい……また、今度」
テレくさそうにしながら、かたなし君はそう言って左手を上げると名残惜しそうに、その場を去って行った。
――家までの距離を歩きながら、わたしは今日あったことを思い出していた。
今日は、色々あった。久しぶりにお店でミスしてしまって……へこんで……悲しい気持ちになって……昔を思い出していた。昔みたいに、わたしが挫けなくなったのは、全部、この店のみんなのおかげだ……。そして……お店をそんな雰囲気にしてくれたのは、わたしの事をいつも可愛いと褒めてくれた、かたなし君のおかげだ……。
そんなことに気付いてわたしは、改めてお店のみんなへの感謝の気持ちでいっぱいになった。そして、かたなし君のことも少しずつ、意識してしまって……気付けば、好きになってしまっていた。
――考え事をしながら、歩いていると、既に家の前まで来ていた。わたしは、家に入り、両親にただいまと、あいさつをすると、着替えて晩御飯を食べ始めた。
お父さんや、お母さんがいつものように、今日はどうだった? とか、テレビのクイズ番組なんかを見ながら、談笑をしている。わたしは、心配されないよう、いつも通り、適当に話に参加しながら、晩御飯を食べた。晩御飯を食べ終えると、お母さんが、食器を洗い始める。わたしは、自分とお父さんの分の食器を流しに置くと、お母さんに一声かけ、自室に行った。
部屋に入ると、電気を付けるのもおっくうで、わたしはそのままベッドにもぐった。
ベッドに入り、今度は、かたなし君と会った時の事を思い出す。さっき晩御飯を食べている時には考えないようにしていた。本当はすぐにでもそのことで頭をいっぱいにしたかったけど、そんなことしたら、顔が真っ赤になってしまいそうで、お母さんに心配されかねないと思ったからだ。
あの時、薄暗がりと高ぶった感情に身を任せて、思い切った事をしてしまったことに、わたしって、案外、行動派なんだなぁ……なんて思っていた。
「ぽぷら~お風呂沸いたわよーー」
そうしているうちに、リビングから母の声が聞こえた。わたしは、「はーーい」と返事をし、そのまま浴室に向った。
浴室で服を脱ぐ。髪留めをはずし、手で髪を梳く。そして、先日から付け始めた物も首から外して、大事に服の上に置いた。
ガラガラと音をたてて、扉を開くといつも通り、見慣れた我が家の浴槽に湯が張ってある。
わたしは、桶を使って、浴槽のお湯をすくうと、そのまま体にかけた。
「わっ……! ちょっと、あっつい……!! お母さーーん! ちょっと熱いよ~!」
「あら? あつかった? 水入れなさい、水」
そんな、無責任な母の声を聞き、わたしは水を入れると、そのまま、浴槽に浸かった。
お湯の刺激が全身に行き渡り心地いい。
――かたなし君……。わたし……かたなし君に……キスしちゃった……かたなし君と……キスしちゃったんだ……。
少し暑めのお風呂の温度が、ほてった体には丁度良かった……。だって、もし今のわたしの赤い顔を見られても、お風呂が暑いからって、いいわけできるからっ……!!
――ふと、浴槽に顔を沈めてみた。ブクブクと、鼻から息が泡となって、出ていく。かたなし君も……わたしのこと好きなのかな……? 好き……なんだよね……?
「ぐふっ……ぐふぐふっ…………ぶ……ぷはぁ!!」
心地よい、気持ちに浸り、お湯の中で息をすることも忘れ、にやけていた。さすがにそのうち息苦しくなり顔をお湯から出した。
……こんな顔……誰かには見せらんないよ……へへ。
しばらく、そんな風にして、にやけた顔を引き締めて……でも、また、へにゃっとした顔になって……その、繰り返しだった。
――そこまでは、良かった。思えば、わたしは今日、予想外のことが起きすぎて、簡単なことにも全く、気付かずにいた。『そのこと』に気付くと、わたしは一瞬にして、不安の絶頂まで、心が病んだ。
「伊波ちゃん…………」
わたしは――何をしているんだろう? わたしが、かたなし君を好きになって……あんなことしちゃって……どうするんだろう? 伊波ちゃんは? 伊波ちゃんの気持ちは!?
……そんなことにも気が付かなかったなんて、伊波ちゃんの友達……失格だ。わたしは、伊波ちゃんの友達なんかじゃない……。いくら、今日、あんなことがあったからって言っても……許されることじゃないよね……。
少し前まで、泣いていたためか、伊波ちゃんのことがよほどショックだったのか、もう、枯れ果てていたと思っていた涙が、わたしの両目から、ぽろぽろと流れ落ちる。
だけど、お風呂だったから、好都合だったかもしれない……。涙をすする嗚咽の音も、赤くなって腫れぼったくなった目も、お風呂の中でなら、どうにか両親にばれずに済みそうだから……。
――俺のワグナリアへの道の足取りは重かった。別に、嫌な事があったからという訳ではない。緊張からだと言って良いだろう。当然、その理由に関わって来るのは、せんぱいだ。先日の事。あの夜。俺とせんぱいは……その……き、キスをしてしまった。それも、せんぱいの方から……。
あれは、何を意味していたのだろう? いや、そんな事は愚問か。薄暗がりの中、何か、幻想的な雰囲気に包まれた幻のような、そんな瞬間だった。正直、俺は、本当にせんぱいと、あんなことがあったのか。つまり、夢ではなかったのだろうかと、そんなアホらしいことを、割と本気で思っていた。……まあ、単なる現実逃避なのかもしれないが……。
そんな訳で、俺の店への足取りは重い。せんぱいと、どんな顔をして会えばいいのか……何を言えばいいのか……それが、正直分からなかったからである――。
――店に着く。裏口の扉を開ける。
「あっ……小鳥遊くん……おはよー……」
休憩中なのか、珍しく相馬さんがその場にいて、にこやかに話しかけてくる。どうして、この人の笑顔はこうも向けられた方は、不安を感じるのだろうか。
「お、おはようございます……相馬さん……今日もいい天気ですね……」
なんとなく、嫌な雰囲気を感じ取った俺は、ついそんな無難な台詞を口にすると、そそくさとその場を後にしようと更衣室に向う。
「え? ちょ、ちょっと! 小鳥遊くん! そんな、逃げるように行かなくても!? ホラ、まだ、時間あるんだしさぁ……もう少し、話そうよ……!」
相馬さんは、逃げる俺を呼び止めると、時計を見せて言う。たしかに俺の出勤時間まではまだ、10分ほどある。足取りの重い日でもいつも通りの時間に来てしまうなんて、習慣って恐ろしい。
「……なんですか、相馬さん……手短にお願いしますよ……?」
「うわぁ……なんで、そんな不機嫌なの? ……まあ、いいや。なんかさー最近、だいぶ、種島さんと仲がよろしいみたいだけど、今はどうなってるの?」
目をキラキラさせて、聞いてくる相馬さん。男の目がキラキラしても気色悪いだけだなと思った。というか、単刀直入にも程がある……。
「あのですね? 相馬さん、当事者にはそんなに面白い問題じゃないんですよ、真剣に悩んでいるんですよ!?」
「そんな、でも、俺だって結構本気で応援してるんだよ? ほら、君と種島さんがくっつけば、佐藤くんの方も上手く行きそうじゃん?」
……なんだよ、その理由。俺は、今、佐藤さんのことまで考えられるほど余裕はないんだよ。……でも、相馬さんも、案外、本気で応援してくれている部分も半分くらいはあるのかもしれない。まあ、言っても、悪い人ではないしな……。
「……それで、俺とせんぱい、佐藤さんとチーフがくっつけば、今度は相馬さんと、やまだ……って、ことですか? ああ、相馬さん実は、まんざらじゃなかったんですね? おめでとうございます」
「えっ!? なんで、そうなるの! やめて!? 俺の事はいいからっ!」
テンぱる相馬さん。……山田ネタは、相馬さんの数少ない弱点だな…………。
――その日は、暇な日だった。もう、やばいくらい暇な日だった。暇な日って、食品補充とか、チェックとか、今の内に出来ることを当然するわけだけど、暇なので急がずとも、その内終わってしまう。しかも、今日に限って、というか、まあ、大概そうなのだが、せんぱいも同じシフトだ。せんぱいとは、ある意味予想通りというか、助かったというか、つまりは、前みたいにお互いに、緊張してしまって、あまり話せずにいた。
――そんな、具合で前に海に行った後と同じように、俺は遠くから、客席で働くせんぱいを遠めで見ていた。
自分でも思う。同じ事を何度繰り返すのだと。しかし、今回は前とは状況が違う。せんぱいを女性として意識してしまったあの時とは、レベルが違う。せんぱいと……おそらく、両思いに……そして、あんなことまで……。
……やばい。思い出すと、また、顔が赤くなってしまう。昨日も居間でなんでもないバラエティを見ていたのに顔が赤くなった俺を見て、なずなに「ぐあいわるいの?」と、ひどく心配されたんだっけ。もちろん、理由はあの時のせんぱいとのことを思い出していたからだ。
――それに、気掛かりなのはそのことだけではない。そう、伊波さんのことだ。
俺が好きなのはせんぱいだが、伊波さんとのことにもきちんと、けじめを付けないといけないと思っている。
……このままじゃ……いけないな……。
よし。今日の仕事が終わったら、せんぱいに話してみよう。とりあえず、今の俺がするべき事は……せんぱいとの、仲をはっきりさせることと、伊波さんとのことをどうするかだ。その二つの問題をクリアするためには、まず、せんぱいとの仲をはっきりさせなければいけない……。
――そう一度、決心してしまうと、案外と心がスッキリしたように、軽くなった。だが、しばらくすると、また不安が心を渦巻いてくる。
誰か、他の人の意見も聞けたらな……と、なんとなく思った俺は、今日が暇だった事を良い事に、キッチンで暇そうにしていた佐藤さんに声をかけた。
「……佐藤さん」
「ん? 小鳥遊か? ……どうした? ああ、そう言えば、お前に聞いておかなきゃらならないことがあったんだ、この日、何か予定あるか?」
佐藤さんは、突然そう言うと、カレンダーの休日を指差して言った。
「えっと、その日なら別に用事はないですけど……?」
「そうか、わかった……ああ、それで?」
その日に何かあるのだろうか? 疑問は浮かんだが、まあ、その内、分かるだろう。今は、せんぱいとの事だ……。
「佐藤さんは……その、チーフのことが好きなんですよね? だから、俺の気持ちも分かるんじゃないかなと……思いまして」
「…………種島のことか?」
回りくどい俺の聞き方に対し聞きたかったことを簡潔にしてくる佐藤さん。
「……ええ、はい。あの、俺……せんぱいのことが好きなんです……!」
俺は、近くに誰もいないことを確認して言った。
「…………それで?」
俺のほうを見ずに、少し間を置くと佐藤さんがそう言った。
「えと、知ってました? ていうか、店のみなさんは、どの程度まで知ってるんですか?」
俺が言うと、佐藤さんは冷蔵庫を空け、食品の確認をしながら、
「まあ、そういう噂は結構前から、相馬経由で聞いていたよ、まあ、お前が種島を好きになることは、ありえないことじゃなかったし……それほど、驚きはしなかったがな……」
と言った。
「それで……どう思います? その、佐藤さんは、一番せんぱいを良く知っていると思うので……」
「……どうって。まあ、いいんじゃねーの? 店では恋愛ごとは禁止って言われてるけど……それだと、俺もダメってことになるし……正直、いざこざに発展しなければいいってことだろ?」
「……そうですよね、俺……頑張ります」
そっけなくも、肯定的に俺の話を聞いてくれる佐藤さんの言葉に自信を持ち、決心したように俺が言うと、
「あー……で? 告白したのか?」
冷蔵庫をあさる手を止め、こちらを向いて佐藤さんが言った。
「いえ……、その……今日、しようと思います」
「…………そうか」
佐藤さんがそう考え込むようにして言った後、丁度、お客さんが来た合図が聞こえた。
「あっ……その、ありがとうございました、話、聞いてくださって……それじゃあ」
そう言って、俺は接客に向おうとする。そんな、俺の背中に、
「……頑張れよ、小鳥遊」
小さくそっけない、でも、心のこもった一言を貰った。
――ほとんど、本当に話を聞いてもらっただけだったけども、言葉の数以上に、お互い通じ合えた気がした。男同士の会話ってそんな独特の物がある。まあ、もちろん相手によっては、そうはならないが……。
佐藤さんのようなタイプは、正直、姉妹達に囲まれて男一人で今まで生きてきた俺には、憧れるような所がある。言葉の重みというか、無駄口を叩かないような、ドライな所なんか素直にかっこいいと俺は思っていた。