「どうぞ……」
伊波さんに、コーヒーを出される。俺の隣のせんぱいの前にもコーヒーが置かれ、せんぱいは、「あっ、うん、ありがとう」と、小声で返した。
俺達は、伊波さんに話をするべく、こうして伊波さんの家に出向いていた。伊波さんは、二人で家の玄関にいる俺達を確認すると、「やっと、来たのね」と、小さく言って、そのまま、家の居間へと案内してくれた。
「……今日は、私以外誰もいないから……」
伊波さんは、相変わらず、笑顔を見せない。かといって、不機嫌な顔をしている訳でもない。隣にいるせんぱいを見ると、伊波さんの前までとは違う雰囲気に、圧倒されているのか、遠慮気味に縮こまっている。
「えと……伊波さん? やっぱり、その、怒ってます……?」
伊波さんと話し合いをしなくてはいけないことは、既に確定しているのだ。言いにくくても、聞かなければならない。
「……えっ? そんな、やだ、そう見えた? そんなことないよ? いつも通りだよ?」
指摘された伊波さんは、急に笑顔を作ってそう言って否定した。別段おしゃべりではない伊波さんが、早口でまくしたてる姿を見ると、やはり不機嫌なのだろう。
「えっと、それで――今日は、何の用事かなっ?」
下手な笑顔で、そう聞いてくる伊波さんは正直見ていられなかったが、その原因を作ったのは俺なのだと思うと、いたたまれなかった。
その後、俺は出されたコーヒーを一口飲み、
「……伊波さん……えっと、実は伊波さんに言っておかなくてはならないことが……」
と、切り出した。
はっきり、言ってしまったほうが良い事は分かっているのだけども、いざ、こうして、本人を目の前にすると、なかなかズバッとは言い出せないものだった――。
「……え? うん、なになにー?」
俺達へのお菓子を用意しているのか、台所のほうで、色々ものを探しながら、こちらを向かずに伊波さんが言った。
しらじらしく、作りものの、ごきげん声で言う伊波さんの声を聞くと、段々と言い出しにくくなってきた。……だが、せんぱいにも、『俺が言います』と、言ってしまっている。ここで、怖じ気づく訳には行かない。
「その……俺と、せんぱい……種島せんぱいは、その……付き合うことになりまし……た」
付き合う……と、言った辺りで伊波さんの、台所付近の下の棚を漁る手が止まった。顔は、向こうを向いていて、確認は出来ないが、どんな顔をしているのかは、見なくても、なんとなく想像できた。
その後、10秒ほどだろうか、外でカラスが、カァーカァーと、鳴いている間も、俺達三人の誰も何も言わない沈黙の時が過ぎた。そして、
「あ――そ、そうなんだー! へぇ! よかったじゃない? うん、よかったよかった……」
不自然な、沈黙の間なんて無かったかのように、そう言って、伊波さんは棚からお菓子を探す作業を再開した。
その内、せんべいを持って皿と一緒に俺達の前のテーブルまで持ってくる。「良かったじゃない」と言っていた、言葉とは裏腹に、陰りのある表情で冷や汗をかいている。せんべいを持つ手もおぼつかない様子であり、テーブル付近で、せんべいの袋を落としそうになった。
「あっ、危ない!」
俺は、咄嗟にせんべいの袋を、掴む。その時、伊波さんと手が強く触れてしまった。
「あっ……!」
咄嗟に、殴られる覚悟を決める俺だったが、いくら待っても、俺は殴られることは無かった。不思議に思い、伊波さんの様子を見てみると、伊波さんはソワソワしつつも、困った様子を見せた後、「はぁ……」と、溜息をつき、何事も無かったかのように、その場に座り、コーヒーを一口飲んだ。
……? なんで、俺は殴られなかったんだ? もしや、伊波さんの殴り癖は治った……のか? そうとしか……だって、手が触れ合った訳だし……。
「えと……伊波ちゃん……男の人……大丈夫になったの……?」
せんぱいも、驚いたのだろう。ここに来てほとんど喋っていなかったのに、思わずそう聞いていた。
――だが、その言葉に対し伊波さんは何も答えず、コーヒーに口を付けた。
「えっと……そうだ、来週の休みの日、お店のみんなで旅行に行くんだけど、二人も行くよね……?」
急に、伊波さんが新しい話題を振る。
旅行……? ……えと、そう言えば、佐藤さんからも、前に言われたな。
「あー、わたしも八千代さんから、話し聞いたけど……」
思い出したようにせんぱいが言った。
「二人とも、予定大丈夫? あっ、まあ、どっちにしても二人は、休みの日には一緒にいるだろうから、小鳥遊君に聞けばいいのかなっ?」
伊波さんが、冗談っぽくそう言った。
「い、伊波ちゃん……!」
そんなのでも恥ずかしいのか、せんぱいは恥ずかしそうに下を見た。
伊波さん……無理してるんじゃ……。
「まあ、その日は、大丈夫ですけど……せんぱいも、来ますよね?」
隣にいるせんぱいに顔を向けて言うと、
「そ、そりゃあ、かたなし君が、誘ってくれるなら……」
顔を赤くして縮こまりながらせんぱいが返した。
――ちょ、せんぱい……伊波さんの前で……!
「ふふっ! 種島さん、照れちゃって、かわいー」
口に手をやって、笑う伊波さん。傍から見れば、カップルをからかう普通の女の子だろう……。だが俺には、そんな伊波さんの行動のどこまでが演技なのか、そればかりが気になっていたのだった。
「せんぱい……伊波さん……とりあえず、俺達のこと、認めてくれたみたいですね……」
伊波さんの家を出て帰る俺が、隣に歩くせんぱいに向って言った。
「うん……でも……伊波ちゃん……やっぱり、思うところがあったみたいだね……」
「そうですね……でも、表面上は良かったって、言ってくれましたし……俺達もとりあえず、けじめは付けましたよ……」
「うん、そうだね。でも、結局、伊波ちゃんからたかなし君を奪っちゃったのは事実だから……わたしは、もう一生、伊波ちゃんには軽蔑されて生きて行くんじゃないかな……?」
せんぱいは、いつもと違い淡々とそう言うと、胸の辺りにある物を服の上からぎゅっと、掴んだ。そう言えば、今日も何か首から付けているみたいだ。まるで願いを込めるかのように、大事そうにそれを握る。よほど、大事な物なのだろうか。
「軽蔑だなんて……そんな……伊波さんだって、せんぱいとはいつも通り接していたじゃないですか……?」
――あの後、特に喋ることが無くなった俺は、一人で少しの間、外に出ていたのだが、家に戻るとせんぱいと伊波さんは、前みたいに普通に会話しているようだった。それを見て俺は、安心したのだが……。
「うん……まあ、表面上はね……実際、伊波ちゃんは、これからもわたしには普通に接するんだと思う……だけど、心の中ではもう、伊波ちゃんはわたしのこと、友達だなんて思ってない。でも、嫌われることも無い。なぜなら、伊波ちゃんはもう、わたしのことなんて、嫌うほど、意識もしていないからね……」
――つまり、せんぱいは伊波さんに呆れられているということか……。
「きっと、恥ずかしいんだよ……わたしに怒ったりしたら、みんなに、今回のことがすごく堪えてるんだって言ってるようなものだから……」
せんぱいは俺の方をチラリと横目で見ると、達観したようにそう言った。
「……でも、伊波さんが、俺の事が好きってことは、店のみなさんは知っていたんですよね?」
気付いたように俺が言うと、
「それでも、言いたくないものなんだよ……かたなし君には女心がわかってない!」
――珍しくせんぱいにそんな怒られ方をしたのだった。
――――小鳥遊君たち……帰っちゃったな……。はぁ……だめだな、私……。あれじゃあ、演技だって、バレバレだよね……種島さんなんか、ちょっと引いてたし……。でも、私のなかでも、そこまで冷静でいられなかった。前々から分かってたのに……あの、小鳥遊君と種島さんと一緒に海に行った後……もう、何日もしないうちに、相馬さんが、佐藤さんとかに、『小鳥遊君と種島さんが怪しい』って、噂してた。それを偶然聞いてしまった私は、思わず、動揺してしまった。けど、あくまでも噂だと思えば、少しは気が楽になった……。だけど……小鳥遊君の様子は観察してみるとたしかに、変になっていた。種島さんを露骨に避けていたし……私と一緒に帰ることも、忘れて一人で帰ってしまった……。次の日に謝ってくれたからその時は良かったけど、その内、また、忘れて帰った日があった。最初に忘れた日から一週間も経ってなかった。その時も小鳥遊君は謝ってくれたけど、前にも忘れたことなんて、気にしたような素振りは見せなくって……。……その時、思った。ああ、この人は私のことなんて何にも考えていないんだな……って。
そして、決定的だったのが、たまたま帰り際、休憩室に立ち寄ろうとした時だ。なぜか、鍵がかかっていることに不審に思っていると、中から声が聞こえてくる。近くに誰も居ないことを確認し、耳を傾けてみると、種島さんが、必死に小鳥遊君にアピールしている所だった。「わたしのこと嫌いになったの?」とか「わたしにもっとかまって」とか……。
それを聞いた私は、二人ができている、あるいは、いずれそうなることを確信した。その頃から、おそらく、小鳥遊君は、私にその事をいずれ言いに来るのだろうと思っていた。だから、その時から覚悟はしていた。しているつもりだった。
だけど、こうしていざ来ると、やっぱり、わたしは動揺してしまったし、正直、堪えた。小鳥遊君のことは本当に好きだったし、まあ、わたしが小鳥遊君と付き合えるなんて、男性恐怖症なこともあるし、思ってなかった。……けど、やっぱり、どこかでそうなることを夢見ていたし、種島さんとかに、応援されると、柄にもなくその気になっている自分もいた。その時はだいぶ、治ってきたこともあり、結構、望みはあるかな? なんて思ってたりもした。それがこのザマだ…………。
種島さんに――というのは、前々から思わないことでもなかった。だけども、その時、だいぶ症状が良くなってきたこともあったし、応援してくれる種島さんをそんな風に見るのも失礼だし、良いように捕らえていた。それが甘かったのかもしれない。
――そして、今日。
皮肉にも、わたしは小鳥遊君を殴らなかった。いや、殴れなかった。恋人という立場の種島さんを隣において、そんなあまりにも女々しい愛情表現は出来なかったのだ。そう、私は今まで、気付いていなかったのだけど、私が男の人を殴るのは、男の人に対するテレが、少なからず含まれるんだと思う。もちろん、殴った人はみんな好きということではないけど、少なくとも小鳥遊君は好きだから殴っていたんだと思う。
そのことに気付いていたわたしは、さっきのあの場で、小鳥遊君を殴っていなかった。気絶した時を含めなければ、手を触れられて殴らなかったのは初めてだ。あの時、自分でも本当に驚いたんだけど、気付けば私は溜息をついていた。なぜなら、もう、小鳥遊君は自分のものにならないと分かっていたからで、恋人がいる人にその恋人の目の前でする愛情表現ほど、馬鹿らしいことはない。そう思うと、私の心は、これ以上に無いほどに冷め切っていたのである――。