「か、かたなし君……おはよ……っ」
「おはようござい……せんぱ……」
後日、ワグナリアでのこと。
この前の海に言った日から、初めてかたなし君と一緒のシフトの日だった。
ワグナリアでは、今まで通りでいられると……そう、思って声をかけてみたのだけれど、かたなし君は、わたしの挨拶に対して、小声で目を合わせずに言った。
……どうしちゃったんだろう。かたなし君……。なぜだか、この前の海の日からわたしを避けているような気がする……。
……もしかして、わたしのこと、もう、飽きちゃったわけ? もう、どうでも良くなっちゃったわけ?
……って、何考えてるんだろ……。わたし。かたなし君の彼女でも、あるわけじゃないのに……。
あっ……。そっか、伊波ちゃんと上手く行ってるんだね……。そっか、そっか、それなら、安心だよ……。安心……。……むぅ。
――なんだろう。この、胸の中のもやもやした気持ちの正体は……。
結局の所、この日、かたなし君とは仕事関係以外で話すことは一度もなかった。かたなし君は、わたしと目を合わさず、口早に必要事項を伝えるとわたしから遠ざかることが多かった。
――俺は、店を出るといつも通りの帰り道を歩き出した。
最近、せんぱいに前までのように接することが出来なくなっていた。あの、海でのことがあったからだ。せんぱいを女性として意識してしまった、あの、海。
その後、少し、冷静を保って見せたが、あの後のカップを渡された時のこと以降はさすがに恥ずかしくてせんぱいの顔をまともに見れなかった。
――あの時、左手が塞がっていて止むを得なかったとはいえ、せんぱいと間接キスをしてしまった……。その時のことが今でも気にかかり、せんぱいの顔をまともに見ることが出来なかった。せんぱいは、何とも思っていないようだった。そりゃ、そうか。意識しているのは俺だけなんだから。
くう、しかし、前までの俺は何だ……。あの、せんぱいを大声で『可愛いー!』なんて、言いながら、頭撫でてたのかよ! 失礼すぎるだろ!? 俺!!
くそう……。せんぱい……せんぱい……! 可愛い……可愛すぎる……! なんで、今まで気付かなかったんだ……! いや、気付いてたけど! ……もう、ダメだ! ……俺は……せんぱいを……もう、完全に好きになりすぎている……。
元々、せんぱいに好意はあった。でも、恋愛感情は全く無かった。けど、こうしてせんぱいを女性として認識してしまった今では、その感情が愛情にシフトするのは、むしろ、自然なことなのだろうな……。まあ、そんな、冷静に分析した所でどうにもなるワケじゃないのだが――。
それにしても、暑いな。もう、夏だ。今日も天気が良い……。何気ない帰り道を一人歩き、そう思った。
わたしはワグナリアに仕事に行く途中の道をトボトボと歩いていた。あれから、何日か経ったけど、状況は変わっていなかった。
かたなし君は相変わらず前みたいに、わたしを撫でることは無くなり、会話自体も少なくなっていた。
子供扱いされなくなったっていうのは、良い事だけど……なんだか、やっぱり、さびしいな……。なんだろう……。最近、かたなし君のことばかり考えている。
わたしは……かたなし君をどう思っているのだろう……? ふと、そんなことを考えてしまう。真面目に考えながら、しばらく真っ直ぐ歩いていると、気付けば曲がるべき道を一本通り過ぎていたことに気付く。わたしはきびすを返し、来た道を戻った。
――店に着く。わたしは、惰性で更衣室に入り、ロッカーを開けると仕事着に着替えた。その後、トイレの鏡で髪を確認し縛り直す。まだ、働く時間には少し、早かったのでいつものようにそのまま休憩室に居ると、八千代さんが何やら、わたしの方を見ながらたどたどしい様子で休憩室に入ってきた。わたしのことで何かあるのかな? と思ったわたしはなんとなく息を飲んで、何かと待った。
「あ、あの、ぽぷらちゃん?? ちょっと、お話があるんだけどいいかしら?」
八千代さんは、そう言って、慌しくイスを引くと、わたしの前に座った。
「は、はぁ……なんですか? 八千代さん」
「えっとね……? 最近、ぽぷらちゃん、なんか元気が無いみたいだったから……どうしたのかなと、思って……」
そっかぁ……八千代さんは気付いてたんだ……そ、そうだよね……心配かけちゃったな……。
「わ、わかるかな……? 八千代さん」
「わかるわよぉ……! だって、ぽぷらちゃん、最近、なんだか誰ともあまり、喋ってないみたいだったし……今だって元気ない」
「あ……あははは……」
笑って誤魔化すことしかできなかった。前までの自分……それが、思い出せない。たしかに前は、わたしはもっと笑っていた気がする。何か、一つ、線がプツンと切れてしまったような、そんな感覚一つで、人はこうも変わるのだなと、ふと、そんなことを思った。
「やっぱり、小鳥遊君とのこと?」
ふいに、八千代さんが言った。
「えっ!? な、なんでわかるの!?」
びっくりして、とっさにそう答えてしまう。
「だ、だって、小鳥遊君、最近、ぽぷらちゃんのことを可愛いーって言って、撫でているところ全然見てないんだもん……」
ま、まさか、八千代さんが気付いていたなんて……意外だよ!
「い、いつから気付いてたんですか……?」
「そうねぇ……というか、相馬君がね、何日も前からそう言ってたんだけど、その時はたまたまだと思って、あまり気にしてなかったの。でも、そう言われて、次の日から観察してると、たしかに撫でてないみたいだったし、ぽぷらちゃんの元気が日に日に無くなっていくじゃない?」
八千代さんはそう言って、口元をほころばせた。
他の人から見てもわたし、元気なくなってたんだ……。自分でもあまり気付いていなかったことを他人に指摘されると何か、少し恥ずかしい気持ちになった。
「ねぇ……ぽぷらちゃん? おせっかいかもしれないけど、小鳥遊君と……何かあったの?」
普段見えない目を少し見開いて八千代さんが言った。
「かたなし君と…………わかんないの……何があったのかも……でも……今のままはいやだから……ちゃんと話してみたいって、思ってる……!」
震える声で、わたしがそう言うと、八千代さんはクスッと笑い、
「そう……ぽぷらちゃんの気持ちはよく分かったわ、それじゃあ、今日はあなた達、同じ時間に上がりだから店が終わったら、ここで少し話し合ってみなさい……? ね?」
「で、でも……かたなし君はわたしをさけて……」
「それは、私が何とかするから。いいチャンスじゃない!」
そう言って、八千代さんはテーブルの上に置いていたわたしの手を握ってくれた。わたしの手より大きな八千代さんの手からは温もりを感じた。その温もりから元気も一緒に貰ったような気がした。
今日の、仕事上がり……か。よし……! その時……話してみよう。かたなし君がどうしちゃったのか、わたしのことをどう思っているのか……。
「小鳥遊君! 今日は、お仕事終わったあと、何か用事でもある……?」
ふいに、チーフにそんなことを聞かれた。俺は、「いえ……」と返事をするとさらにチーフは、
「じゃあ、今日お仕事終わったら、休憩室で待っててくれない? ちょっとお話があるの!」
と、にこやかに言う。
どうしたんだろう……。チーフが俺に話があるなんて、おかしくないか……?? そんなこと、今まであっただろうか、いや、ない。まさか、佐藤さんとのことで相談とか? いや、違う相談するとしたらそれは佐藤さんの立場か。でも、佐藤さんが俺にそんなことを相談するなんて、絶対無いよな……って、今は関係ないな。ていうか、あの二人はどこまで進んでいるんだ? そこからして知らないんだが……!?
八千代さんに言われた謎の「お話」が気になり、俺はこの日、そればかり気にしながら仕事を進めていた。幸い今日はそこそこ忙しく、仕事に没頭していればあまり、余計なことを考えずに済むのだった。特に最近は、まだ、せんぱいを必要以上に意識してしまってあまり、顔を合わせたくないのが実情だ。前までは『可愛い』で済んだこの気持ちも今では、頭の中でそう思うだけで顔が赤くなってしまう。まるで伊波さんだ。もう、伊波さんのことは馬鹿には出来ないな。せんぱいには悪いが、せんぱいのことは今日も避けさせてもらう。今日は金曜だから。今日を乗り切れば、休みに入る。来週の月曜までシフトに入っていないので、3日間はせんぱいと会わなくて済む。その間にせんぱいともう少し、冷静に応対できる自分になっておきたいものだ。
――気付けば、今日も上がりの時間になっていた。
「お疲れ様でーす!」まだ、キッチンで後片付けをしている佐藤さん、相馬さんに挨拶をし、俺は更衣室に向った。さて、今日はさっさと帰ろう。そして、せんぱいをさっさと距離を置いて、一度冷静になるんだ。そんなことを考えつつ、更衣室を出ようとドアノブに触れた時。……ん? なにか、忘れているような……?
――あっ。そ、そうだ。チーフと約束していたのか……!
うわぁ、何だろう、ていうか、今の今まで本気で忘れてたよ……。
……まあ、しかたない。約束だし……行くか……。
そんな感じでなんだろうとソワソワしながら、休憩室の扉を開ける。
「チーフ、来ましたよー! 話って何です……か……」
歩きながら、そう言い、テーブルを見ると、俺はその場で固まってしまった。その場にいたのは、チーフではなかった。そこにはなぜか、今は顔を合わせたくはないせんぱいが不安げな表情でちょこんと座っていた。
だ、だめだ。まだ、俺はせんぱいを目にすると、やばいんだ……。緊張してしまう。
俺は咄嗟に、きびすを返して出口に向った。だが、そこにはどこから現れたのか、チーフが出口の前で立っていた。
「ち、チーフ! なんなんですか!? これは! 話があるのってチーフじゃなかったんですか!?」
「た、小鳥遊君! 落ち着いて! えっとね、最近、二人がなんか、仲良くないみたいだったから……ぽぷらちゃんに聞いてみたら、話がしたいって言うから、私が取り繕ったの……!」
「な!?」
まさか、チーフにまんまと騙されたとは……。まったく……。しかし、そうだったのか……せんぱいは俺と最近話していなかったことを気にして……。
――考えた末、俺はせんぱいの待つ、テーブルへと向った。チラッと、せんぱいを確認し、せんぱいの正面の席に、少し横を向いて座る。
「かたなし君……その……迷惑だった?」
恐る恐ると言った表情でせんぱいが、そう口にした。せんぱいも緊張しているのか、気まずいのか、自信なさげにあちこちに視線を逸らし、元々小さい体を更に小さくして縮こまっている。
「えっ……? め、迷惑だなんて思ってませんよ! なんで?」
反射的に俺が言うと、
「だって、かたなし君、最近、わたしのこと避けるじゃない? ……その……あたまも撫でてくれないし……」
恥ずかしいのか、ボソボソと、下を向きながらせんぱいが言った。最後の方は尻つぼみにほとんど聞こえない位の声量だった。
――うっ、可愛いな……せんぱい……今のは……キタ……。
というか、そうだったのか……俺が最近、あまりほっといてばかりだったから……拗ねてる……のかな……? ま、マジで? 拗ねてるせんぱい、超可愛ええーーー!!!
――って、そんなこと、考えている場合ではない! 割とマジに!
「わ……わたしのこと、嫌いになったの……?」
何も答えない俺に対し、不安を感じたのか、せんぱいがそう口にする。震える瞳に、チラチラと上目遣いで言うせんぱいに俺は目を合わすことが出来ない。
「あ、えーっと、その、最近ちょっと忙しかったって言うか……あの、せんぱいを嫌いになったわけではないですよ……?」
「ウソ! だって、ここの所、毎日、わたしのこと避けてたじゃない――。仕事のこと意外では何も話してないよ!」
まさに、その通りであったのだが、さすがに、せんぱいを恋愛対象と見てしまって好きになりすぎて、近くに居るだけで色々抑え切れそうに無くてやばいとか、そんなこと言えるわけが無い。
「あーー、いや、それは、色々、忙しかったんですよ、ええ、まあ」
全然、なっていない言い訳をし続ける俺であった。
「そんな……わたし……さびしいよ……前みたいに、わたしにかまってよぉ!!」
駄々をこねる子供のような表情でせんぱいが言う。久しぶりに至近距離から見つめられて、心臓がドキッとする。いつも背丈の差から、距離のあるその瞳が、こう、イスで向かい合っている状態だと、上からあしらうこともできず、より対等な立場になっているような気がした。
俺の、動悸は激しくなる一方だ。せんぱいの伝えたいことは何やら、俺への好意のそれに近い。そのため、ちょっと期待をしてしまう俺だったが、
「その……伊波ちゃんとのことだって、上手く行ってるか気になるし……」
突然、しおらしい声で言うせんぱい、心なしかその頬が赤くなっている。
その言葉によって、俺の気持ちは落胆するのだった。
け、結局、伊波さんとの仲が重要なんだな……せんぱいは……。
自分への好意だなんて勘違いは恥ずかしかったが、冷静を保つには都合が良かったのであった。
「伊波さんとは……まあ、現状維持でしょうかね……」俺が言うと、
「そ、そう……あ、いや、本当にそうか確かめるために……かたなし君の家で会議だよーー!」
相変わらず、少し顔が赤いせんぱいだったが、急に元気になると、そんな訳の分からないことを言い出した。
「えっ? 会議って……せんぱいと伊波さんが、俺ん家に来るって事ですか……?」
「い、いやーー?? わたしだけだよーー?」
なんでだ!? なんで、俺と伊波さんとの仲を上手く行かせるためにせんぱいだけが家に来るんだ!? ……わからない! ……だが、何かせんぱいに考えがあるのかもしれない。伊波さんには言えない秘策とか……? しかし、どちらにしても無理だ。せっかく、せんぱいと距離を置けるっていうのに、自分からせんぱいを家に呼んでどうする!?
「せんぱ……やっぱ、む……」
「じゃあ、明日が丁度、わたし空いてるの! ね! 明日にしよう?」
まくしたてるようにせんぱいが言う。先ほどまでのシリアスな雰囲気はどこに行ってしまったのか、せんぱいはウキウキした様子で、もう、ぴょんぴょんとその辺を飛び回っている。ちなみに比喩ではない。本当に跳ねている。
そんなせんぱいの様子を見ていると、俺は断ることは出来なかった。例え、せんぱいが俺の事なんか眼中に無くても、例え、俺が今せんぱいの近くにいるだけで、伊波さん並に上がってしまって、殴らないけど、どうしていいかわからなくなるような状態でも、それでも、断るという選択肢は粉砕され尽くされていた。せんぱいの可愛さによって、全て。
――話が終わり、帰るため、休憩室の扉を開ける。扉の前で俺達の話を聞いていたチーフが俺の顔を見て「クスッ」っと、笑ったように見えた。
「じゃあね~! かたなし君! 明日ね~!!」
元気いっぱいのせんぱいが、ぴょこぴょこと手を振り、帰って行った。
俺は、冷静を装いながらそんなせんぱいを見送り、自分の家への帰り道に足を向ける。
――ふう。一人で帰り道を歩きながら、一息つく。さっきまで、冷静を装っていたが、実際は内心、緊張で居たたまれなかった。自分で頬を触ってみる。熱い。おそらく、少し赤面していたのだろう。
――ああ、チーフは、これに気付いたのか。
チーフには色々と気付かれてしまったかもしれない。あの人は自分のこと以外は普通程度には鋭いからな……。
チーフの、微笑を脳裏に浮かべ、今以上に頬が熱くなった。……それにしても熱い。今日も天気がいいのだろう。