「ただいまー! お兄ちゃん」
「ああ、ただいま、なずな」
笑顔で、玄関の前に立つなずなに迎えられ俺は自宅に入る。
小うるさい梢姉さんを、いつも通り適当にあしらい、俺は晩御飯の支度をするため、キッチンに着いた。
――冷蔵庫を開けると、入っているものはもやし……鶏肉 (むね)……後は、卵に牛乳……玉ねぎ一玉……。今日の献立は麻婆もやしにしよう。
献立を決めた俺はご飯がもう少しで炊き上がるのを確認し(ご飯はなずなに頼んであるのだ)早速、準備に取り掛かった。
冷蔵庫で若干、干からび始めているしょうがとにんにくを取り出す。チューブのやつじゃない、生のものだ。これらの皮を向き、包丁でみじん切りにする。量は少し大め。長ネギがないので玉ねぎで代用。これもみじん切りにする。鶏肉は包丁でミンチにしておく。これらの準備が整ったら次の作業だ。
フライパンを熱し、なずなが買ってきた徳用ごま油を回し入れ、温度が十分に上がった所で、しょうがとにんにくを入れ、その30秒後に玉ねぎを入れる。玉ねぎに少し、色が付いてきたらミンチにしておいた鶏肉、水少々、しょうゆ、ソース、豆板醤、甜麺醤を入れ、味を付ける。鶏肉に火が通ったら、もやしを投入。サッと火を通した所で水溶き片栗粉でとろみを付けて完成だ。
もやしの火の通し加減が重要である。通し過ぎるとクタっとなり、通しが甘いと生っぽくなる。なずなが辛いのが苦手なので豆板醤は少なめにしている。安い食材でも工夫次第でそれなりに美味しいものが作れるのである。
「よーし、出来たーー」
「あっ、お兄ちゃん、なずながやるよぉ……!」
麻婆もやしを皿に盛りつけようとした時、なずながそう言って、俺の手伝いを買って出た。最近はなずながこうして色々手伝ってくれることが多い。身長が俺と並んだ成長ぶりにはショックだったが、こういった成長は素直に兄として嬉しい所があった。
俺は、人数分盛り付けしたおかずを、そのままテーブルに運ぶなずなを横目で見ながら冷蔵庫の作り置きのスパゲティサラダを取り出す。それを入れる小皿を持って来ようと、食器棚を見ようとした時、
「あっ! お兄ちゃん、小皿も出しといたからねー、ホラそこ!」
と言って、なずなが台所の脇を指差した。
俺はその皿を取って、サラダを盛り付けながら思った。
本当になずなは気が利くな。姉さん達が自分勝手な性格ばかりだからだろうか。それを反面教師にした結果なのだろうか……? 何にしても大事な妹の事だ。家では親役である俺の監督責任は大きい。ぜひとも幸せになってほしい所である。
――晩飯の時間が終わった。姉さん達は散り散りに自分の部屋に戻っていく。ちなみに麻婆もやしは割と好評であった。いつものように惰性で食器を洗い始めた俺に、テーブルを拭き終えたなずなが、俺の隣に並ぶ。「えへへっ」っと、意味不明の笑顔を浮かべ、ひょいと、流し場に重なっている食器を手に取った。
「いいのに。俺一人でやるから」
「えっ? 遠慮しないでよ! お兄ちゃん、なずなにおまかせだよ!」
何が楽しいのか、なずなは笑いながら食器を洗う。
「――雨降ってきたみたいだねぇ……天気予報では雨なんて言ってなかったけど」
ふいになずながそう言うので、俺は顔を上げて外を見てみた。もう、時間は午後7時を回っていて、辺りもだいぶ暗くなってきていた空からは、たしかに土砂降りとまではいかない物の小雨とも言えない位の雨が外で音を鳴らしていた。
「あーーあ、もっといっぱい降れば、明日の体育、体育館でドッジボールになるかもしれないのになぁ……」
はあ、と溜息をつきながらなずなが言う。
「なんだ? なずな、明日の体育は外でマラソンかなんかなのか?」
「そう! よく分かったねぇ! お兄ちゃん! そうなんだよー!! なずな本当はドッジボールがやりたいのに~~!」
「ハハハッ! なずなはドッジボールが好きなのか! 雨が降ってグラウンドが使えなくなれば、中で球技確定ってことか」
「いやいや、球技だったら何でも良いって訳じゃないんだよー!」
「えっ? どうして?」
「だって……バレーボールやバスケだったら、背の高いなずなは期待されまくっちゃってプレッシャーかかりまくりなんだよ~~!」
ああ、なずなって小学生の中では長身だもんな……。
「でも、ドッジボールでも同じじゃないのか?」
「いや、ドッジボールだったら、体が大きい分玉を避けにくくて有利じゃないんだよぉ……」
「なるほど……」
たかだか食器を洗うという一つの家事をこなすだけの事が、こうして妹と二人でやると、俺もなぜだか、遊びみたいに楽しい気分になってきてしまう。普段は聞けないこんな妹の話を聞けたりもして……結構、面白い。こんなことで人間って小さな幸せを感じたりする。そんな風に思うと……人間とは不思議な生き物だな――と、ふいに思うのだった。
晩御飯の後片付けを終えて居間でイスに座り、風呂に入る順番待ちをしている間……俺は、ふと気付けばせんぱいの事を考え込んでいた――。
せんぱいの事を意識してしまったのはやはり、あの海での出来事が皮切りだろう。それまではなんていうか……可愛すぎて、正直、女性として見ていなかったという節がある。可愛すぎて、と言えば、矛盾しているようにも聞こえるが、俺にとって、普通の男が言う女性に対する『可愛い』と俺の中の『可愛い』は全く別物で、俺の中の『可愛い』は言うなれば自分の好きな物に対する気持ちであり、ゲームが好きな人にとってのゲームであったり、スポーツが好きな人にとってのその打ち込んでいるスポーツであったり……である。だから、そんな俺の中での『可愛い』であった今までは、逆にせんぱいを恋愛対象と意識するようなことは無かったのだ。何も、俺は小さなぬいぐるみや虫に恋愛感情を抱くような人間ではないのである。
――だが、そんな俺の中の『せんぱいの位置付け』を大きく変えたのが、あの時の海での事だった。何も見ていない状態で――つまり……せんぱいである、という先入観が全く無い状態で、女性の象徴と言っても違いない、あんな、大きな膨らみを顔に押し付けられた時の衝撃と言ったら、俺の中の『せんぱいのイメージ』を大きく改変させるには十分過ぎるほどの破壊力を持っていたという訳だ。
特に、『見えていなかった』というのが大きい。いくら、女性として見ていなかったせんぱいの胸であっても、それがせんぱいと知らない状態で押し付けられたら、そりゃあ、無理やりにでも意識せざるを得ない。男とはそういうものなのだと思う――。
かくして、無理やり突然に女性の胸の心地良さを教え込まれてしまった俺は、その本人であるせんぱいを女性として意識しないなどと言う考えそのものが俺の中から無くなってしまったということである。それに、元々可愛いと思っていたせんぱいである。『自分の小さい物好きという趣味』そして、『女性として意識してしまった』という二点が合致した今、俺は、せんぱいのことが『好きどころの騒ぎではない』と言う状態になってしまったのだ。
そんな、状態になった俺は、それこそ、欲しかったゲーム機を買ってもらって喜んでいたら、そのゲーム機が突然女の子に変わったなんていうそんな心境に近いのかもしれない。正直、俺は今の状態に戸惑っている。せんぱいのことが好きだという気持ちは、完全に分かっているのだが、それに向き合うとか、そんなレベルではない。そんな冷静な考えが出来ない。だって俺は、自分でも生まれて初めての経験をしているのだから――。
俺はなんだか、急に恋とか、愛とか、そういう事柄に敏感になってしまったようだ。今まで、そんな恋だの愛だのという話をする女という生物を不可思議に思っていた節もあった。――だが、これが、そうか。恋か……。愛なのか……。
急に自分が乙女チックになった気恥ずかしさと共に、今まで知らなかった事を知り、一皮向けたような気持ちになり、なんだかある意味、大人に近づいたような変な気持ちになり、気付けば頬が温かくなっていた。
……今なら、梢姉さんや、伊波さんの気持ちが少しは分かるようなそんな気がしないでもない。
――ピンポーン。
インターホンが鳴った事には、居間にいた俺が一番良く分かっていた。だが、せんぱいの事で考え込んでいた俺は、すぐに出る気分にはなれずにいた。台所で牛乳を取り出そうとしていたなずなが、俺が立ち上がらない様子を横目で確認すると、牛乳を慌てて冷蔵庫に戻し、「は~い!」と言いながら玄関にかけて行った。
「わ、わあ~~!! 大丈夫ですか! ……さん!」
玄関の方では、なずなが何やら騒がしくしているようだったが、距離がありはっきりとは聞こえない。……ていうか、こんな雨の中、誰が来たんだろう?
なんて、今更になって気になっていた時、
「お兄ちゃ~ん!! ちょっと来て~!!」
俺を呼ぶなずなの声が聞こえてきた。なずなにしては珍しく慌てた様子に、なんだろう? と疑問を感じながら俺は重い腰を上げ、玄関に向かった。
「――っ! せ、せんぱい!?」
玄関に着いた俺が見たのは、雨でびしょ濡れになった制服を着ていたせんぱいだった。制服は、雨水を吸って重そうになっており、前髪からも水が滴り落ちている。トレードマークのポニーテールもぐっしょり濡れて垂れ下がっている。
「えっと……ちょっと公園に居たんだけど、気付いたら、雨がすっごく降ってきて……近くに雨宿りするところかたなし君の家くらいしか思いつかなくて、迷惑かなって思ったけど、きちゃったの……」
そう、小声で言うせんぱいは何だか、いつもより元気が無くて……それは、急な雨に降られたからだけじゃないって――そう、直感で思った。
「いえ、迷惑なんかじゃないですよ……雨……止みそうにも無いですし……まあ、とりあえず上がってください」
俺は、そう言ってせんぱいを家に招き入れた。先ほどまで、せんぱいの顔を恥ずかしくてまともに見れなかった俺も、せんぱいのその様子から自然と冷静に対応することが出来た。
「あ、悪いけどなずな、バスタオル持って来てくれるか?」
俺のその言葉に、なずなは「あっ! うん!」と、浴室にバスタオルを持ってくるために行った。俺が行かなかったのは、まだ泉姉さんが風呂に入っている事と、せんぱいの近くに居た方が良さそうだったからだ。
「せんぱい……大丈夫ですか?」
「……え? あ、ああ、雨凄いねぇ~! 服、中までびちょびちょだよぉ~~!!」
俺の言葉に急に、気を使うように大げさなリアクションで言うせんぱい。
「いや、そうじゃなくて……なんだか、せんぱい……元気ないみたいなんで……」
「えっ? あ、そう……見える? あ――っと、ま、まあ、わたしのことはいいよ、それよりかたなし君と伊波ちゃんとの事のほうが……大事……だよ」
なぜだかせんぱいは、はぐらかすようにそう言った。丁度、その頃、なずながバスタオルを持って戻ってくる。
「はい! たねしまさん!」
「あ、ありがと……」
小さく、せんぱいが言ってなずなから濃い青色のバスタオルを受け取る。
――って、そのバスタオル俺のじゃん!? 何やってんの!? なずな!?
「……っ!」
思わず、焦って取り乱す俺だったが、そんな事を知らないせんぱいが、当たり前のように俺のバスタオルで、顔や髪を丁寧に拭いていく――。
「……ん? どしたの? かたなし君?」
つい、せんぱいの髪や肌にまとわりつく俺のバスタオルを凝視してしまう。
――大丈夫か? 匂いとか……。というか……俺の匂いが……バスタオルの中でせんぱいの匂いと混ざり合ってる――!?
「あ、はい、これ返すね……? ありがとう」
そんな俺の妄想を知る由もないせんぱいは、無垢な表情でそう言い、俺にバスタオルを差し出す。それを受け取った俺は、思わずそのバスタオルを一刻も早く、顔に埋めて匂いを嗅ぎたい衝動に駆られたが、グッと堪えた。
「……とりあえず、せんぱい。このままでは風邪引いちゃいますから……お風呂入ってください」
「あ――うん。ご迷惑かけちゃって悪いけど、そうさせてもらおうかな……」
このままでは、風邪を引いてしまうだろう。丁度、泉姉さんが上がった所だったので、俺はそのまま、せんぱいを浴室に案内した。俺の青いバスタオルは、脱衣カゴの奥に入れておき、その上に来客用の綺麗なバスタオルを棚から取り出し、載せておいた。
せんぱいが、浴室に入って行ったのを確認して、俺はソファに腰を下ろして一息ついた。
せんぱいが家に来た理由……は、なんだろう? 本当に雨に参って、たまたま家に来たっていうこともあるが……それにしても、真っ直ぐ自宅に帰らなかったということになる。
今日の仕事終わりに、チーフの罠……いや、心遣いで、せんぱいと話した時に、取り付けた「伊波さんと俺との事をたしかめる会議」という理由の訪問も怪しい。もしかすると、……せんぱいは、俺に何か伝えたいことでもある――のだろうか?