ネロ帝が女のわけないだろ!いい加減にしてくださいお願いしますから!!   作:オールドファッション

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なんでルシウスが温泉当てるかって話と仲直りする話よ


親方、空からルシウスが降ってくるわけないだろ!伝説は再び蘇るその二!!

 時は遡りつつも急激に未来へと上昇する。

 

 場所は織田信長の居城。この城の大部分はヒノキを素材として建設されており、当然、風呂場も高品質のヒノキが使われている。香りの高いヒノキの芳香が広がる浴場には二人の少女たちが湯に浸かっていた。

 

 一人は越後の軍神にして女神長尾景虎。

 諸国の温泉を旅し続け美容に磨きを掛けた彼女は、相次ぐ戦国武将たちの告白と、秘境の湯を争ってとある武将と戦国無双を繰り広げる毎日に流石に疲れていた。最近ある城下町にカカオ風呂なる珍しい湯場が出来たと聞いて訪れてみれば、茶屋で知り合った相手と意気投合して温泉仲間になる。あとちょこれーと団子なる甘味が美味しかった。あとで他の甘味処散策してる家臣たちに買わせておこう。

 

 もう一人はこの城の主人織田信長。

 カカオの人工栽培に成功した信長は加工した物を名産品として売り出しぼろ儲けである。カカオ風呂も一部の人間の間では大流行中でさっき茶店で捕まえたカモに高値で売りつけようと画策していた。あとまた弟が謀反したのでこの間ついに粛清している。

 

「いやー、いいですね。このヒノキ風呂、私の城にも作れますかね?」

 

「うーん、どうじゃろうなぁ。城がヒノキ素材じゃないなら一人サイズの浴槽作る方が楽じゃね」

 

「そうですか。できれば二人で入れる大きさがいいのですがねぇ」

 

「おー?まさか越後の軍神殿にもとうとう春が来たのかのう」

 

 によによと何やら無性に腹の立つ顔を見て、景虎は瞳孔がわずかに開いたがすぐに笑顔になった。本来なら武将の恋話など政治のネタになりえる代物だが、景虎の思い浮かんだ存在の荒唐無稽さを思えば話しても問題ないかなぁと吹っ切れる。

 

「幼い頃に一度会ったきりなんですがね。実は異国の方でして」

 

「ほー!何じゃ、其方も異国大好きウーマンじゃったか!しかも軍神のくせにロマンチックなやつじゃのうーこのこの!」

 

「ん?」

 

「すいません」

 

 虎の眼光で睨まれ思わず湯船から上がって土下座する信長。魔王の威厳のかけらもなかった。

 

「まあ、かなりの変人でして、初めて会った場所は湯の中でした。最初はただの変態かと思えば生来の風呂好きで、私の人生相談にも乗っていただきました……まあ、その方はずっと全裸で縛られたままでしたが」

 

「いや、ただの変態じゃろそいつ……ん?あれ、どこかで覚えのある展開じゃのう」

 

 信長が思い出そうとうんうん唸っていると二人のすぐ前の水面から泡が上がってくる。信長はああ、またいつものかと諦観の眼差しで側にあった縄を手に持つが、血まみれの男の背中が浮かび上がって悲鳴をあげた。

 

「ひえええ!風呂の底から死体が!」

 

「いや、生きてるんじゃないですか?これ息してますし」

 

 言われてみればまだ水面からぽこぽこと泡が上がってくる。おそるおそる男の体を仰向けにしてみれば、二人はその顔を見て言葉を失う。かつて自分たちの前に現れ、唐突に姿を消した浴場技師。それが瀕死の重傷となって目の前にいた。

 

「殿ぉ!大丈夫ですか!」

 

「景虎ぁ!大丈夫か!」

 

 風呂の底から現れる家臣や兄のことすら眼中になく、二人はルシウスの体を抱き上げる。しょんぼりするんじゃない殿バカ三人組とシスコンよ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 ルシウスは夢を見ていた。

 

 自身の体が星々の海を揺蕩い、光の粒子が体を包み込む心地よい夢。まるで母親の胎内で安らかに眠る胎児のように平穏な休息を得ていた。もう、このまま永遠に寝ていたかったが、それは宇宙が許さない。宇宙が優し気な母の声で告げる。

 

 ――今まで貸した分は働きなさい。

 

 なんか急に脳内イメージの母が中指を立てていた。そして隣に立つ黒いローブの怪しい男は誰だろうか。なんだかすぐ側に種族オーバーロードっぽい骸骨が倒れているんですけど。あ、試験菅に入った謎の液体を持ってにじり寄ってくる。やめ、やめろー!

 

 

 

 

 目を覚ますと目の前には知らない天井。数秒ほど考えてから明日から働こうとかなと思って布団に潜るニートの思考だった。

 

「いてっ」

 

 布団の中に潜ると爪楊枝で突かれるような痛みに無理やり起こされる。布団を捲れば不自然に広がった影がルシウスの体から伸びていた。

 

「さっきはありがとう。縄切らなかったらわりと死ぬと思ったわ」

 

『………………………………』

 

 軽い怪奇現象を目の当たりにして彼は平然と影に話しかける。その言葉に反応を示すよう影が揺らいだ。

 

「え、もう何ヶ月も経ってるの?仕事めちゃくちゃ溜まってない?」

 

『………………………………』

 

「まあ、そうか………で、何で私縄で縛られてるのかな?」

 

 自分の縛られた手足を見せると影は困惑したように揺らめく。大抵は言いづらいことがある時の動作であったが、わりと容赦なく言い放つ性格のそれが動揺する姿にルシウスも困惑した。すると襖が開き、広がった影が瞬時にルシウスの影の中へ消える。慌てて戻るような動きにルシウスが呆けていると、襖の間から覗く金色の眼光が彼の体を貫いた。具体的に言うならホラー映画界の女王並みの眼力である。

 

「ルシウス殿ぉ……」

 

 美しく伸びた銀髪を揺らしながら女はゆっくりとルシウスへと近づく。まるで蜘蛛のように床を這いながらそれはきっと来る。あれ、いつの間に呪いのビデオ見たかなと思った。

 

「ルシウス殿ぉ!」

 

 銀髪のタッチダウンが見事命中し、治りかけの体にデビルバッドゴーストが炸裂。激痛でルシウスのゴーストもバッドしそうになった。

 

 だが、この音を置き去りにする一撃には覚えがある。そしてこの病んだ虎のような目。

 

「お、お虎ちゃん?」

 

「はい!お虎ちゃんです!」

 

 自分で言っておいてなんだが色々変わってないだろうか。背丈とか胸とか。この押し当てられている胸とか。

 

「おほん、どうやら無事のようじゃのう」

 

 襖の向こうで不敵な笑みを浮かべる少女がいる。この無性に腹の立つドヤ顔は、

 

「……信長」

 

「ふふ」

 

「お前はそんなに変わらないのな。むしろふと」

 

「ふん!」

 

「痛い!何で!?」

 

 信長の渾身の右ストレートが顔面に炸裂したルシウス。治すか拷問かはっきりさせて欲しかった。

 

 三人は大広間へ移動し、織田家中の者たち、景虎の家臣と護衛が揃う中で白い死装束を纏ったルシウスが手足を縛られたまま連れて来られた。なぜ死装束かって?腹切りの時によく使うだろ。なあ、カッツ。

 

 ルシウスの語った荒唐無稽な馬鹿げた過去の話。だが、彼を知るものだけがその空想にも等しい現実を受け入れる。中でも信長は自身の特殊な経験上からすぐに物事の本質を看破していた。

 

 ふと、ルシウスは殿バカ三人衆に空席があることに気づく。

 

「信勝か……もう、この世にはおらんよ」

 

 信長の一言で重く沈む織田家中の者たち。ルシウスも信長の弟殺しの逸話は知っていた。カッツ、お前はいい奴だったよ……だが、

 

「じゃあ、そこのカッツは?」

 

 離れた場所で着物で美しく着飾ったカッツを指差すルシウス。

 

「あれはな、妹のお市じゃ。なあ、お市!」

 

「……は、はい。妹のお市デス」

 

 死んだ目でこちらを見つめて来るカッツ。そういえばお市って長政って男と結婚しなかった?あ……ふーん、そこまで生き恥を晒したいのかカッツよ。

 

 ――ギシッ

 

 手足の小さな圧迫感に思い出し、ルシウスはただ何となく呟いた。

 

「で、そろそろ縄解いてくれない?ローマに帰りたいんだけど」

 

 ルシウスが何気なく放った一言に広間にいた全員が驚愕する。1ヶ月もの間、生死の境を彷徨っていた男が、その死にかけた場所に戻ろうとしていた。今度こそ死ぬかもしれない。それなのにルシウスは平然としている。あるいはそんな場所だから主人の元へ戻ろうとしているのか。

 

 なんという忠義心だろうかと畏敬を抱く家臣たち。その忠臣を持った主人を羨む武将たち。しかしルシウスの脳内には気絶中に溜まった膨大な依頼と、僅かに残る休暇のやり直しのチャンスのことくらいしか頭になかった。

 

「……めです」

 

 だが一人だけ毛色の違う気配を纏っている。純白の花畑の中にひとつだけ黒く毒々しい花が混じっているような異様な存在感。ルシウスがその暗雲とした空気に身じろぎした瞬間、白虎の化身が彼の背にもたれ掛かる。

 

「そんな危険な場所にルシウス殿を行かせるわけないじゃないですかぁ。ルシウス殿がしっかり治るまでこの景虎が面倒を見ます。食事、排泄、睡眠。何から何まで……」

 

 縛られていた理由を察したルシウス。前世の自称八宝菜が得意な妹にもこんな時期がありましたと目から光を失う。というかヘルプミー信長ぁ!

 

(是非もなし。家臣になるならいいぞ)

 

 とアイコンタクトを返す無慈悲な魔王がいた。まさに前門の魔王、後門の虎である。

 

 家臣一同にも目線を送るが皆ルシウスから目を背ける。一部例外にウェルカムな殿バカ三人衆とガン飛ばしてる景虎兄がいた。だめだ、これだけ人がいるのに味方はいない。むしろ敵だらけ。

 

「とりあえず、お風呂入っていいですか」

 

 とりあえずワープポイントに戻ろう。たとえその先がさらなる地獄であっても。

 

 それがあの中心地に飛ばされるまでの出来事であった。

 

 そして舞台は元の場所へ。二つの光線がぶつかり合う数秒前の中心地にワープし、極光に『目がー!』とのたうち回っているルシウス。そのまま行けばルシウスの死亡は確実だった。

 

 ――これを食らうのは少しやばいな。

 

 閃光で全てが白く輝く空間の中でルシウスの影は消えることはなかった。平面に存在するはずの影は歪に広がり、徐々に三次元へと盛り上がる。影の中で蠢く無数の目が辺りを見渡した。左右へ避けたとして衝突し合ったエネルギーは大爆発を起こし周囲一帯を焼き払うだろう。遠くへ逃げつつも、衝突し合うエネルギーを和らげる緩衝材が必要だった。

 

 何、いつものことかと無数の眼は笑った。盛り上がった影は徐々に黒髪の少女の形を取り、赤い月のような双眸で足元の大地を見下ろす。そのはるか地中に存在する星の息吹を睨めつけた。あの膨大な二つのエネルギーは自分でも食べきれない。なら、いつかの大火と同じように地中に流れる生命の奔流に返そう。

 

 少女を起点とし、空気と大地が揺れた。自己の意思をガイアと直結させ、因果に干渉してその望む空間になる確率を意図的に取捨選択し、世界を思い描く通りの環境に変貌させる。 未だ神代の自然界に漂う黄金のマナを吸い上げ、朱い月の落とし子はその名を口にした。

 

空想具現化(マーブルファンタズム)

 

 地表を内側から突き抜けた生命の奔流とも言える間欠泉が二人を遥か空へ運び、地表で衝突し合う膨大なエネルギーを吸収する。破壊的なまでの光と熱と衝撃を母なる大地が全て受け止めた。残ったエネルギーは暴風として周囲へ拡散する。

 

「ははははっ!これだからお前といると飽きないよ!食わなくて正解だった!」

 

 気絶するルシウスを抱えた少女は鋭い犬歯を見せて大笑いした。人がおよそ抗えぬ運命という鎖を引きちぎり、世界の意思すらも遇らう豪運。どれだけの悲劇もこの男の前では笑い話となる。だからこいつの三番弟子になったのだ。死徒二十七祖の席はいらない。ただ『伯爵』という名だけを得た。

 

「見てるかぁ!くそったれ!このルシウスは何から何まで計算づくだぜーッ!」

 

 星々の海からこちらを睥睨する糞真面目なアラヤに向かって、ガイアの代弁者は中指を立てながら不敵に笑った。まあ、計算云々は本当は違うけど、こう言っておけばアラヤは悔しがるかなと伯爵は思った。実際急所入った上に会心の一撃で血吐いてるよ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 人々は見た。二つの極光によってはるか空高く舞い上げられた男の姿。直後、吹き荒れた暴風で皆が目を覆う。まるで一瞬幻でも見たかのような錯覚を覚えた。だが、彼らはそれが幻ではないことを願ったのだ。風が止む、続々と目が開けられ視線ははるか上空の豆粒ほどの形を見据えた。

 

 初めに動いたのは二人の王だった。二人は先ほどまでの諍いを忘れ、空からゆっくりと落ちて来る男を抱きとめる。衝撃はほとんどなく、重力を失ったように男の体は軽かった。男の顔を見て二人の心に久方ぶりの平穏が生まれた。だが、なぜ死んだはずのルシウスがこの場にいるのかと疑問が生じる。不思議とルシウスに触れている間は思考が綺麗に動いた。ルシウスの纏うガイアの意識が、アラヤによって強められた呪縛を解いたのだ。

 

 熱病に冒されたが如き二人はようやく誰かの掌の上で踊らされていたのだと気づく。互いに謝罪の言葉が喉に詰まった。今更どうやって今までの関係を取り戻せるのだろうか。それでも、ルシウスがいればまだ戻れるような気がした。なぜなら二人の青春は、ルシウスとの青春でもあったからだ。

 

 だが声を掛けど、体を揺らせど、ルシウスは目覚めなかった。まるで死んだように眠っている。

 

「ま、まさか」

 

「そんなっ」

 

 あまりのことで動揺していた二人は勘違いをしたのだ。自分たちがルシウスを殺めてしまったのだと。ふたりの悲壮感が周りを囲む群衆にも伝わったのか、一人一人の目に宿った炎が消え、皆が涙を流す。影の中に潜んでいた伯爵は脈を取れよと思った。

 

「大ババ様、ルシウス様しんじゃったの?」

 

「ルシウス様は二人の戦いを止めるために命を捧げ、その役目を全うしたのだよ。ごらん、皆の目から怒りの火が消えておる」

 

 深読みした老婆の言葉が不思議とその場には響いた。怒り、憎しみ、それを晴らすために誰かを貶すことの愚かさを知った彼らは、振り上げた拳を納めて嗚咽する隣の者の背を優しくさすった。

 

「ブーディカ」

 

 ネロは眼に涙を浮かべて言った。

 

「余を殴れ。ちから一杯に頬を殴れ。余は、姉のように慕っていたお前を疑った。お前がもし余を殴ってくれなかったら、余は彼の前で姉と抱擁する資格さえ無いのだ」

 

 ブーディカは涙を拭うと、すべてを察した様子で頷き、群衆に音が届くほど強くその掌でネロの右頬を打った。するとブーディカは微笑みながら言った。

 

「ネロ、私を殴れ。同じくらい強く私の頬を殴れ。私は己の血と怒りに捕らわれ、最後まで目の前の妹を信じることができなかった。ローマ兵を殺めた罪は永遠に消えることはないだろう。罪深い私を殴ってくれなければ、私は彼の前で君と抱擁できない」

 

 ネロは同じくらい音高くブーディカの頬を打った。そして二人は姉妹の抱擁を交わし、悲しみを超越した心境の中で再び涙を流したのだ。信実とは、決して空虚な妄想ではなかった。

 

「ブーディカさま!」

 

 すると群衆の中をかき分けて三人の人間が王たちへ駆け寄った。

 一人は誰かを担いだ神父。その誰かはまるでミイラのように全身を包帯で覆い、ところどころ赤い染みが滲んでいる。もう一人はロクスタであり、医療カバンに詰まった数々の器具で包帯の人物の容体を安定させているように見えた。

 

 抱えられたその人は地面の上に置かれ、弱々しい力でブーディカの手を握りしめて言った。

 

「ブー…ディカ……さま」

 

「お前は!」

 

 声ですぐにわかった。その男は自分が殺めたはずのローマ兵の隊長である。

 

「不覚を取り、ローブの男たちに皮膚を…奪われました。部下も、私も、最近まで意識を失い、今朝、ようやく目を覚ました……申し訳ありません。私に成り代わった者が不逞を働いたと耳にしました」

 

「謝らないで!私こそ、あなたたちを信じきることができなかった!」

 

「いいえ、謝るのは、私の方なんです」

 

 男は謝罪のために姿勢を取ろうとしていた。体の節々が痛み、包帯にさらに血が滲んでいく。ブーディカは男を抱き留めた。だが、それでも男は何か大事なことを言おうと動きを止めなかった。

 

「私は、いや俺は、あんたたちが嫌いだった。蛮族のくせに恩着せがましく親切にしてくるあんたたちが嫌いだった。でも、あんたらと打ち解けていくルシウス様を見てそんな傲慢な自分が馬鹿らしくなってよ。飯の味もなんか心に染みるような優しい味が気にいって、俺らは村とローマの橋渡しになることを望んだんだ。俺らは好きだった、母親みたいに世話を焼いてくれるあんたも、ステージで歌って踊るあんたも大好きなんだ。だからこそ、あんたの涙に心から謝りてえんだよ……」

 

 男は言い終えると薬が効き始めた影響で安らかな寝息を立てて眠った。すぐそばに立っていたロクスタに担がれ担架に乗せられる。涙が止まらず嗚咽するブーディカの代わりにネロが言った。

 

「必ず、彼らを治して欲しい。そして、また伝令役を全うできるように」

 

「おまかせ下さい。ルシウス様が残された文献の皮膚移植なる技術で必ず治してみせます」

 

 散り散りになったはずの思い、壊れた信頼関係が元に戻っていく。ルシウスという尊い犠牲の元になりたった平穏。それはより強固となって人々を繋ぎ止めた。

 

 多大なる感謝の念を抱いたネロは横たわるルシウスの遺体を見た。

 

『もしも、もしもそなたが皇帝になるようなことがあれば、誰もが人として暮らせる国をつくってほしい――次期ローマ皇帝よ』

 

 かつてこの男はネロに誰もが人であれる国を願った。誰よりも人として生きたかったその男が怒れる群衆と戦う自分たちを見て何を思っただろうか。きっと人ですらない獣たちを見て心を痛めたのだろう。ルシウスは激しい激情に捉われず、誰よりも願った人の生を犠牲に、人として彼はその生き様を皆に見せたのだ。

 

 感謝を抱くべきはずなのに、それでもどこかで怒りがこみ上げた。仮初めの喪失で怒りに囚われた自分では決して考えられなかった。取り戻して再び失ったものの大きさを実感したネロは言った。

 

「お前が、ルシウスがいなきゃ意味ないじゃないか。この馬鹿者っ」

 

 消え入りそうな声はきっとブーディカや群衆には聞こえなかっただろう。ネロはうつむき再び涙を流した。

 

 

 

 

「誰が馬鹿だって?自称皇帝さま」

 

 

 

 

 

 すぐそばにいたネロ、ブーディカは固まった。耳にした懐かしい声。ありえるはずがない。目を向けて、それがただの幻聴だったらどうするのだと自分に言い聞かせる。それでも彼女たちは希望を抱いて横たわっていたはずの彼を見た。

 

 異国の白衣を纏い、地表に空いた穴から溢れる輝ける黄金の湯を踏みしめて、彼は悠々とそこに立っていた。いつも通りのどこか呑気な顔を構えている。群衆の中からも一人一人『ルシウス様が立った』と言葉が紡がれた。盲目の老婆だけは彼の姿が見えず孫たちにその様子を尋ねる。

 

「ああ、子どもたちよ、わしの老いた目の代わりによく見ておくれ」

 

「ルシウス様、真っ白な異国の服を着てるの」

 

「まるで輝く金色の温泉を歩いているみたい」

 

 老婆はかつてギリシャにて村人を儀式の生贄にしていた魔術結社を温泉にて滅ぼした奴隷の少年の姿を思い出した。

 

「うおおっ、その者白き衣を纏いて金色の湯に降りたつべし。その者の歩いた地からは枯れることのない湯の源が湧き上がるだろう。その者は湯の化身。悪人が触れれば善人へと清められ、すべての争いは灌がれる…… 古き言い伝えはまことであったか」

 

 盲目の老婆の目から枯れたはずの涙が絶えず流れ出た。孫たちもなぜかそれが嬉しくて涙が止まらずに泣く。ペトロに無理やり連れてこられた売れない小説家兼キリストの使徒ヨハネも、目の前の光景と老婆の言葉にインスピレーションが爆発しパピルスに長編小説を書き留め始めた。

 

 号泣する群衆に囲まれ、気絶から目覚めて立ち上がったルシウスは言った。

 

「説明ぷりーず」

 

 対話こそが人間の最低条件である。




次回、魔術師組とアラヤが酷い目に合う話

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