真新しい雪を踏む。
ざくり、と細かい氷細工の床が砕ける音を立てて足が沈んだ。足元には折れた枝やら土やらが半ば埋もれて散らばっている。昨夜から天と地の色を同じくし、未だに降り続けているこの雪は周囲の木々を覆ってもなお足りないとばかりに勢いを増す。
雨と違い、水溜りのように世界を逆さまに映すものはない。音も熱も吸い取った雪化粧はさも高尚に、清涼な空気を吐き出して束の間の平穏を装う。かろうじて取り戻されつつあるのは絶叫と紅の二つのみ。
ただ生憎、その色彩は自然のものと言い難いものだった。
「ぃや──いや! お願い、誰か助けて!」
すっかり白く染まった小屋。そこから、取るものも取り敢えずといった風の少女が叫びながら飛び出して来た。裸足で雪を踏むが小柄なためか足を取られることもなく走る彼女を、丁度向かい側から歩み寄った剣士が抱き留める。
「大丈夫。慌てないで、茂みの方に隠れてて」
「ぁ……」
それが誰かも知らないだろうに、少女は己を包み込む温和な優しさに寒さも忘れて従う。胸元を押さえて茂みの後ろに隠れようとして、驚いたように息を潜める姿を剣士は見届け、すぐに振り向いた。
小屋の方向だ。開かれた扉からもう一人、少女とはどう見間違えても血縁関係にない巨躯が影を落とす。
「一つ、聞きたいことが、」
ふと言いさした言葉が小さい白息に溶ける。尾は口端から引かれて横に棚引き、それに一拍遅れて黒い物体が飛来。裂けた空気の悲鳴を寒空に打ち上げる。
その律動を引き継ぐ形で再び雪の踏まれる音が、ざくり。
次いで脚の筋繊維を引き絞ってつま先が地肌を抉り取るほどの摩擦音。
「水の呼吸」
それら全て、一つの呼吸音に塗り潰される。獰猛な野獣とは異なる雰囲気に、もはや威嚇を超えて清冽に透き通った殺意。
途切れることなく、乱雑さを排した息遣いと流れのまま殺意を纏った剣士が突き破る。
影の、視認の限界を。
脆弱な皮膚と無防備を晒すほか無い臓腑まで一切の抵抗も許さず。
「漆ノ型……雫波紋突き!」
「ちぃ──っ!」
間合いの外から一息に距離を詰めたくせに、慣性も素知らぬ顔で眼前にふわりと停止する異様な立ち姿。冗談みたいな芸当、ゆえに衝撃は一切の漏れなく影の身体に浸透し波打つ。
背中から突出した刃の先端を滑って血が飛び散る。積雪に染み付くのは不規則な紅い斑点。だが影は舌打ちこそすれど抜き身には意を介さず、緩慢な動作で腕を振り上げた。当然連動して動いた筋肉が貫通した刃を締め付け、しかし脆くなった骨に耐え切れる道理はなく、関節諸とも砕け散る感触が鋼越しに剣柄を震わせる。
一瞬の震え。
隙に、見えたのだろう。自ら傷口を開いたために滂沱と溢れ出す鮮血を影は反対の手で受け止める。すると疑問も浮かばせない間に血が固まり、歪な形をした刃物に生まれ変わる。刃渡りも極端に短く粗雑だが生半可な鋳物よりはよっぽど人を殺す武器として卓越しているはずだ。
なにせそれは、鬼の手で造られたまさに人外の業物なのだから。
ともすればその様を悲哀と憐憫を以って眺める剣士も、人と在り方を別にしているのだろうか。
少女の目にはそうは見えなかった。
あの剣士は人間だ。
彼女は、どこまでも。
「……鬼を」優しい響きだ。豪雪の紗幕に消え入る寸前の、まるで凪に靡く濤声の如き声音だった。「人に戻す方法。あったら教えて」
しかし答える声は、律儀に優しさなど含むべくもない叫びだ。「死ねぇ! お前もあの小娘も、腸ぁ引きずり出して食ってやる!」
下段から斜めに斬り上げた鬼の一撃を、剣士は大仰に後ずさりしてやり過ごす──つもりが、その不自然な動きのせいでほんの僅かだが二の腕に切っ先が擦れた。比較的筋肉の薄い柔肌につうと線を引く紅い水滴。同じ色をした瞳が細められ、反対に鬼の目には一滴の返り血と共に勝機が灯る。
やや仰け反った姿勢は反撃の踏み込みとは程遠く、そのまま後ろに倒れこんでしまいそうな勢いだ。唯一の武器である剣すら握ることが叶わない状況でどちらが優位かなど明白だ。
確信の淀みを宿した鬼が前屈みに上半身をくねらせ、頭上に掲げた得物を剣士の心臓目掛けて振り下ろす。軋みを上げる右肩の刃のことなどとうに忘れていた。
「……そう」
落胆の交じった一言。
意識の端に聞き届けた鬼は、その意味が脳に伝わるまで、己の視界を遮る物体の正体に気付けなかった。
なぜか疼く左目に意識を向けると、いつの間にか赤黒いものが滲んでいる。視界の片隅を蝕み、徐々に広がっていくその異物。水の中に血を垂らしたようにじわりと膨らむ違和感がして眉を顰める。
途端に、滲みが強く発光し出した。反射的に鬼は目を瞑る。ただし付随したのは光だけではない。
「ああぁぁあ、熱い! め、目が! 目が焼ける! お前……何をした!? 何を、お、おお、くそったれがぁっ!」血を垂らしたように、ではない。血そのものだ。先ほど、剣士に負わせたかすり傷から飛び散った血液。それが熱を帯びて眼球を焦がしているのだと気付く。「燃えるような、この血……まさか稀血、か──!」
苛立ちの末に表した歓喜が鬼の手を動かした。すでに深手を負った右手を、残り少ない筋肉の引き千切れるのも構わず振りかざして左目まで持ってくる。そうして健在な爪を躊躇無く眼窩に突き刺したかと思うと、見る方が顔を顰めるほどに痛ましい仕草で掻き混ぜた。
いかに頑丈な鬼の身体であろうと網膜や視神経は、ましてや自身の意思で壊した部位は容易くもとの機能を失う。どうせ簡単には死ねない身だ。一時的に片目の視覚を諦めてでも喰らい付くほどに、稀血というのは鬼にとって垂涎の的だった。
しかしながら。
挙動一つ一つが命の天秤を傾ける要因となり得る戦場で、動機を殺意から欲望に替えたこと。強いて言うならばそれが鬼の敗因だ。
ようやく晴れた視界に飛び込んできたのは、長い脚を天高く蹴り上げた剣士の姿。
肩に刺さったままである剣の柄に踵が落ちるのを、よだれを垂らしながら卑しげに笑う鬼は防ぐことが出来ない。
人間の脚力とは思えないほどに強烈な衝撃。食い込んだ刃は肩口の支点を中心に衝撃とは反対方向、つまり上へと背を引き裂いて駆け上る。肩の上といえば、あるのは首と頭だけだ。
いかなる出血も厭わなかった鬼の表情がこの時初めて緊迫感に歪む。首こそ強靭な鬼の身体中唯一の弱点であることを、他でもない鬼自身がよく知っていた。
日の恵みを煌かせる刃で頭と胴体を切り離しさえ出来れば、わざわざを手で剣を握って振るう必要は無い。鬼はただ、目を見開いた。
自分の中の、自分でない何か──あの御方に分け与えられた血が、沸騰したように騒ぎ出す。左目を焦がした稀血よりも激しい痺れと痛みが伴う大熱。背筋の煮え滾る熱さは肌に張り付いた雪を溶かし、体中の血流を加速させる。
結果、意識に追従しない身体限界を捨て置き、思考だけが異常な速度で活性化した。
一結びに束ねて横に倒した前髪。黒い艶めきは耳元に流れており、後ろの髪筋と曲線を描いて纏められている。惜しげなく晒した額の下には、炯々と底知れぬ意志を宿した瞳孔と鋭利な鼻筋、遠慮がちに覗く犬歯。
そして、華やかな葉柄の着物や鬼殺隊とやらの隊員服よりも目に付いたのが顔の左右に揺れる日の模様。
「その、耳飾り──……」
かろうじて発した言葉は、迫り来る純粋な殺意より遅い。
酷く冷め切った光沢を一条に残して刃は振り抜かれた。
大きく旋回したそれは鬼の頚椎を完全に両断し、なおも消えぬ力強さで虚空に黒い円を描く。ようやく主の手に収まった頃、彼女の前には千切れ千切れの灰が雪に溶けて舞っていた。断末魔も死骸もその場に留まることはない。
あるいは人よりも空しく、最初から存在しなかったかのようにどこかへ消え去っていくのだ。誰も知り得ぬ彼方まで。
殊更に感傷を露にせず、女剣士は目を伏せておもむろに納刀する。先の大胆な回避動作のせいか、丁度鬼の最期が背に遮られて見えなかったらしい少女が茂みから出、どうなったのかと首を巡らせる。無論、もうどこにも彼女を狙っていた脅威の姿は見えない。
そんな少女と手を繋いで隣に佇むのは、奇しくも鬼と似た気配を発する少年。額にある痣のような傷跡、そして緑と黒の羽織が特徴的だ。逆にいえば、それ以外は目に付くものもなく生気に欠けた雰囲気だった。
「ありがとう、お姉ちゃん! すっごく強いんだね! あのお化けはどこ行ったの?」
「退治したから、もう怖がらなくていいよ。大丈夫。……大丈夫だよ。麓まで、一緒に降りようか。そこまで行けば村があるから。それにしても、まさか一人で山に登ったの?」
「うん。明日お父さんの誕生日だから、お花を集めようと思って」
「そっか。優しいね。でも、これからは気を付けないと」
たおやかに差し出した手に少女が残った方の手を重ねる。小さな温もりに笑みを返し、その向こうの少年に目を向ける女剣士。激しく燃えているようで、やはり包み込むように嬋娟な双眸をふっと眇める。一方の彼は気にした素振りも見せず前を見やるだけだ。
雪を踏むと少しだけ多く降り積もった分、ざくりと深くまで窪んだ。三人分の足跡が並んで刻まれる。そこに人と鬼の分け目はない。
きっとそれは、本質的にも変わりないはずだと信じて歩む。信じるだけの絆が兄妹を──いずれは誰もを、この温もりと共に結ぶ日が来るから。
「私は竈門禰豆子。あなたの名前は?」