―チャールズ・チャップリン―
これは雨が降り続けるなかの、高架橋の下から始まる物語だ。橋の下には少年がいて、その横には、少年がどこからか拾ってきたか、それとも骨とう品やで買ってでも来たのか、とにかくそんな感想を抱くような古めかしいラジオが置かれていた。そんななりでもキチンとラジオ足らしめる機能はまだ生きているようで、しかし酷い雑音を伴奏に、ニュースキャスターの声がつらつらと垂れ流されていた。内容はこうだ。
『"ツヴァイウィング"のコンサート事故から数か月が経ちましたが、未だに遺族の怒りは収まりません。街頭インタビューでは、"生存者は責任を取って欲しい"という声が相次いでいます。私も同じ気持ちです。何故生存者はあのようなことを平然と――』
そのえこひいきを利かせた、我こそは正義の代弁者だと言わんばかりのキャスターの声を聞いて、少年はクツクツと奇妙な笑い声を、けれど雨音によって掻き消える程度の声量で発した。少年の特徴はまだ何も明かさない、それは今ここでダラダラと書くべきものでもないのだ。どうせ後で嫌と言うほど書かなければいけなくなるのだから。
少年はひとしきり笑ったあと、静かにだがこう言った。
「リフジンだな。フジョーリだ。楽しくなるぞ。きっと、楽しくなる。楽しみだなぁ」
少年は"口いっぱい"にニヤけてみせた。するとどうしたことだろうか、少年の姿が高架橋の下から、きれいさっぱり無くなっちまったのだ。もう影すら見えない。あるのはさっきからえこひいきのキャスターの声を披露させてるラジオだけだ。とは言っても、ラジオはとっくに次の話題に話を変えていた。次はこういうのだ。
『数年前に起こった"新興宗教団体一斉自殺"事件について続報です。ガスでの自殺ですが、遺体はどれも炭化しており、ノイズが来たことで絶望して行ったことではないかと言う意見が、公式な見解として認められました。自殺メンバーの息子と思われる人物も依然として行方不明ですが、口の部分に大きな傷を負っていたとの情報から、死亡した可能性が高く、警察は捜査の打ち切りを決定しました』
――そうだな、ここでとりあえず一つだけ、少年の大きな特徴を言っておこうと思う。
口が裂けちまってんだ、パックリと。
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Number.01 Virtual Insanity
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話はさっきの雨から数年後、そして場所は朝の街中に移動する。登場人物は――ああ、安心してほしい、今度はちゃんと女の子が出てくる。しかもとびきり可愛い子だ。とは言ってもその子は今、木登りをしていてまともに喋れるような状態じゃない。――なんで木登りなんかしてるんだって? それも今からわかるだろう。
「だいじょぶだよー、ほーらいい子だから、ほらこっちにおいでー」
別に彼女は木に向かって話しかけてるわけじゃない。木の高いところに猫がいるのだ。その猫が降りられなくて困ってるとでも思ったのだろう。彼女は学校の遅刻も省みず、猫の救助に果敢にも向かったというわけだ。
彼女の名前は立花響、栗毛くせっ毛のボブカットを、快活な顔の上に乗っけた、人助けが趣味の女の子だ。
「よーしいい子いい子……よし捕まえたー!」
響はようやく猫を抱き上げ、声に出して喜んだ。しかしそれも束の間、"バキッ"という音が彼女の鼓膜をくすぐった。
「――え?」
と響が言うより先に、彼女の身体は勢いよく落ちていった。
「「――ぐえっ!?」」
彼女は猫を守るように落っこち、激突した衝撃で妙な声が出てしまった。――しかしここで、彼女の他にいやに低い叫びも聞こえた。
「……てて、痛ったー……くない。あれ?」
響は違和感を覚えた。地面にたたきつけられたはずなのに痛くない。というよりかは、アスファルトのはずの地面が不思議な感触をしている。そう思っていた時、地面からこもった低い声が出た。
「……あの」
「うわぁ!? ご、ごめんなさい!」
響が下を見てみると、そこには響自身が下敷きにしてしまったのであろう男がいた。響は慌てて立ち上がり、男を見下ろした。
「ご、ごめんなさい。下に人がいるとは思ってなくて……」
響が謝罪するが、男はそれに無反応だった。やがて男はゆっくりと起き上がり、服についたホコリを払ったあと、響を見据えた。
男は長身痩躯だった。濡れガラスのような黒髪で、顔をマスクをしていてわかりにくいが、少なくとも大きく、それでいて気だるげな眼を持っていた。
「……あ、あの――えっと……」
「……猫」
「え?」
唐突な言葉に響は呆けた声を出してしまったが、男が自分が抱きかかえている猫を指さしているのを見て、ようやく理解した。男は言葉を続けた。
「猫、助けたんですか?」
「――あ、はい! 木から降りられなくなっちゃったみたいだったから、つい……」
「良いことをしたんですね」
「い、いやぁ~そんなこと~」
こんな風に褒められるとは思ってなかったのか、響は男の言葉を聞いて照れくさそうに身をよじらせる。そんな彼女はお返しとばかりに男に言った。
「でも、ありがとうございます。アナタがいなかったら、きっと私も猫ちゃんも大けがしてました」
響は屈託のない笑顔でそう言った。すると男は「そうか」と困った様子で呟いた。そのあと男はこう言った。
「俺は良いことをしてしまったわけなのか?」
「――プフッ!」
男のそんな様子を見て、響は思わず吹き出してしまった。「良いことができた」ではなく「良いことをしてしまった」という男の困り顔が、彼女にはどうにも可笑しく見えたのだ。
「アハハハ! いいことしたんだから、そんな困った顔しなくていいじゃないですかー」
「……そうですか、まあそうなんでしょう」
マスク越しに脱力しきった声で言う男を見て響は、この人は、ちょっと変わってるがいい人だと、そう思った。そして彼女はこの人に御礼がしたいと思ったらしい。
「――私、立花響! キラキラの15歳女子高生です!」
「……そっか」
「……えーと、そちらは?」
せっかく勇気を出して名乗ったのにも関わらず、そのまま受け流しちまうような男を見て、響は思わずといったように催促した。本当に変わった男だと、彼女は思っていることだろう。その催促は無駄にはならなかったようで、男は名乗った。
「――"ツギハギ ツギ"、ツギハギが苗字、ツギが名前」
「へーなんかかっこいい名前ですね!」
世間一般に見てかっこいいかどうかは別として、本名かどうかすら怪しいそれに対して、きっと彼女は本心からそう言っているのだろう。彼女の笑顔にはそう思えるだけのものがあった。
「歳は響さんと同じですよ」
「わー同い年だー! やったー!」
そうはしゃぐ響に対し、ツギハギは何か物思いにふけってるようだった。それが不思議だったのか、響もはしゃぐのをやめ、そのことについて聞いた。
「どしたの?」
「……あんた、ジョシコーセーって言ってたよね?」
「うん」
「学校はいいの?」
「うん……うん? あ、あーッ!」
今まで忘れていたようだ。響は携帯で時刻を確認するなり、断末魔のような声をあげた。
「うあーもー絶対遅刻だよー! あ、ゴメン猫ちゃん! 私もう行くね!」
そう言って彼女は抱えていた猫を地面に降ろした。すると彼女は
「ツギくん! ゴメン御礼はまた会ったらで! ほらツギくんも学校遅れるよ!」
「……わかった、また」
「うんまたね!」
響はがむしゃらに走り出し、あっという間に数百メートル先まで行ってしまった。
「俺もボチボチ行くかあ」
ツギハギはそう言って背中を伸ばした。すると下の方から「ニャア」という声が聞こえた。ツギハギがその方を見ると、声の主は先程の猫だった。
「ニャア」猫はもうひと鳴きして、ツギハギの後を去った。すぐそこの曲がり角を曲がって、猫はすぐに見えなくなった。先程の鳴き声が、礼のつもりか否かは、だれにもわからないことだ。
「……さぁて、確かこの先――」
そうしてツギハギが最後にその場を去ろうとした、その時だ。その時だった。
車のブレーキ音と共に、ぐちゃりという何かが潰れた音が、ツギハギの鼓膜に触った。
「……?」
ツギハギはその音を不審に思い、先程猫が曲がった角に行ってみた。するとどうだろうか、そこにいたのは猫ではなく、若い男女のカップルと、その車だった。
「うわーヤッベ、轢いちゃったよ……」
「ちょっと勘弁してよー! 気持ち悪いじゃーん!」
カップルの喧嘩をBGMにして、ツギハギはクルマの下を覗いてみた。猫はいた、確かにいた。頭が潰れ、見事にタイヤの下に潜り込み、もはや頭の原型をとどめていない猫が、そこにいた。
「あ……もしかしてキミの猫だったー? ごめんねー?」
「ちょっとアンタ、タイヤ血まみれじゃん! どうすんのこれ!」
ツギハギに気づいたらしいカップルが、彼にそう捲し立てる。しかし彼は聞いていないのか聞こえていないのか、ただ動かず、じっと猫の死体を見ていた。
「ちょっと! 聞いてんのアンタ!」
「まあまあよせって。あーあのさ、こんなとこで放し飼いしてる方にも責任あると思うしさ、今回はおあいこってことでさ――」
ヒステリックな女と軽い口調の男に挟まれ、ツギハギは何を思ったろうか。それはわからないが、少なくとも彼はこの時こう言った。
「別に、気にしてないですよ」
本当に何でもないように、心の底からどうでもいいことのように、ツギハギは無表情で言い放った。彼は続けた。
「この猫のことは、別に重要なことじゃないですよ。重要なことはもっと別にある」
「お、キミ話がわかるねー。そうそう、たかが猫でうるさく言わないのが大人ってもんよ」
カップルの男は安堵したことだろう。今目の前にいるこの15歳の少年が、面倒くさいタイプじゃないとわかったからだ。仮に面倒くさいタイプだとしても、マスクをつけた内気な外面のツギハギを見て、いざとなったら脅してやろうと思っていたのだ。きっとその手間も省けたと考えているだろう。男が言い終わると、今度は女が言ってきた。
「何でもいいけど、タイヤ代弁償しなさいよね。高いんだからこれ」
「やーめろってー、もうお互い水に流そうぜ? 人生楽しまなきゃ損だって、ねえキミ?」
「ええ、その通りだと思います」
「そうそ……う?」
カップルの男の考えに賛同するツギハギに、更に乗っかろうと男はツギハギを見た。しかし彼が感じたものは、底知れない違和感だった。
ツギハギの眼は、酷く穏やかなものだった。こんな場所で、こんな場面でする表情ではないくらい、彼の眼は優しかった。彼はその表情のまま、声を出した。
「重要なのは、何が死ぬか、いつ死ぬかじゃない」
「人生は理不尽で不条理だ」
「だから最高なんだ」
「だから楽しいんだ」
――――どのような過程があったかを語るのは難しい。しかし今結果として残っていることを言うと、死体が増えた。先程のカップルの頭が、奇しくも彼ら自身が轢いた猫と全く同じように潰れていた。一瞬のことだったのだろう。彼らは"立ったまま"頭を潰されていた。
二つの死体が派手な音を立てて倒れる。するとどうだろう。まるで肉体が役目を果たしたとでもいうように、死体はその形状のまま、みるみるうちに炭化しちまったのだ。
ツギハギは先程と変わらず、じっと猫の死体を見続けていた。それがどれくらい経った時だろうか。ツギハギのポケットから電子音が鳴った。彼の携帯端末によるものだ。彼は気怠そうに端末を取り、耳にあてた。
「ハイハイ。ああ、ああ、わかってるともさ。街中でぶっぱなすんだろ? ――ああ、そっちはクリスに任せるさ。こっちの方が楽しそうなんでね」
ツギハギは先程とはうって変わって饒舌になった。それはまるで、新しいおもちゃを貰った子供のようにも見えた。
「ああ、こっちは好きにやらせてもらうさ、"フィーネ"」
それを最後に、彼は通話を切った。すると、彼は猫の死体をタイヤから引きずり出し、抱きかかえた。頭のない猫に、ツギハギは言った。
「あの木の上で死ぬのと、どっちがマシだったかね?」
「しょうがないさ、あの子は良いことをした、何も悪くない。悪くない結果がこれってだけだ」
「しょうがないさ、"良いこと"を振りかざされたら、どんなことでも黙って受け入れなきゃってのが、世界だ」
「……不満か? 退屈か?」
「……」
「俺は退屈だ」
「だからいっぱいにしてやるのさ、この世界を、
彼はそう言ってマスクを取った。
見るとどうだろう、耳まで裂けた口だけが、彼の表情を笑顔にしていた。
「書かないとこの熊の命はない」ってテディベアの写真を送られたので書きました(大嘘)