――どうして?
――それはね、"バナナ熱"にかかるのさ。これはとても怖い病気なんだ
―J・D・サリンジャー『バナナフィッシュにうってつけの日』より―
聖リディアンからモノレールでしばらく揺られた先、そこからさらにストリートを抜けた先に、立花響が目当てにしているCDショップがあるわけだが、今夕方のこの時間、CDを売ってくれるような気配はなかった。何と言っても、ショップの店員が全て炭になってしまっては、売れるものも売れないのだ。
曲がり角を曲がった響は、その光景を見て立ちつくした。そこら中に落ちている人間大の炭を見つめる。このような場所で、焦げ臭さが少しもしない、ぐずぐずな炭が転がっているとなれば、彼女が考えられるものはひとつしかなかった。
「ノイズ……!」
彼女がそう呟いた直後、子供のような悲鳴が聞こえた。響は踵を返してその声がした方へと振り向いて、走り出す。見るとそう遠くない場所で、幼い女の子が、まるでゼリーのような色をした化物に襲われていた。あのお道化たような化物こそが、人を炭に変えると言われる、"ノイズ"なのだ。
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Number.04 I'll Keep Coming
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――子どもの手を引いてノイズから逃げる響を、建物の屋上からツギハギは見ていた。しかしその顔は酷くつまらなそうであり、先程のはしゃぎようは見る影もなくなっている。ツギハギは振り向いて、誰もいない場所に向かって言った。
「最悪だ、ああ最悪だ。余計なことしかしないんだぜ、あのオバハンはさ」
響を追いかけているあの大量のノイズたちは、実はツギハギが手配したものではない。ツギハギのやっていることを察知したフィーネによるものだ。フィーネがなぜ今この場所に、ノイズを放ったのか。それをツギハギは知る由もないが、そもそもそんなことは彼にとってどうでもいいことだった。今の彼は、ただただおもちゃを取られた子供の用にへそを曲げちまっていた。
ツギハギは響の方に向き直した。見ると、川沿いの道へ出ていた。目の前には川、そして響は横の方へと走ろうとするが、両側にもノイズがいて、挟まれていた。後ろからもノイズ、横にもノイズ、目の前は川。八方ふさがりだ。
さてここからどうするのか、ツギハギはそう思いながら見ていると、なんと響は子供を抱えて川へと飛び込んだ。
「ほお、すごいすごい」
ツギハギはゆっくりとわざとらしい拍手をしながらそう言った。川に飛び込んだこと自体ではなく、あの土壇場で子供を見捨てず、すぐに川に飛び込むあの度胸と慈悲に、彼は称賛を送ったのだ。
そこで彼はある考えに至った。彼女らに見つからないよう、ついていってみようと思ったのだ。ひょっとしたら、彼女はあの大量の"ゼリー寄せ"から逃げ切れるかもかもしれない。そう思って、彼は思わず顔をほころばせた。
「かわいいなぁ響、すごくかわいい。ハハハ」
彼はそう言って、歩き出した。
◇
「状況を教えて下さい!」
大急ぎで駆けつけてきた風鳴翼はそう言った。物々しく、まるでロボットアニメに出てくる指令室のようなその場所は、司令官である風鳴弦十郎を中心に、大勢がせわしなく動いていた。
「現在、反応を絞り込み、位置の特定を最優先としています」
コンソールを動かしている男がそう言った。モニターには赤い円のようなものが大量に映っており、しかしその中にひとつ、ノイズではなく、ある死体を映していた。それを見て、弦十郎の隣にいた、ドクターの櫻井了子は聞いた。
「あそこに"口裂け男"が出たのね?」
「――! 櫻井女史! そいつは……」
その名前を聞いて声を荒げる翼に、了子の代わりに弦十郎が答えた。
「翼、今はまだ動くな。いいな?」
その言葉を聞いて、翼は抑えきれないように歯を食いしばった。それを少し落ち着かせた後、翼は弦十郎にこう聞き返した。
「……おじさま、"口裂け男"が何者か、わかりましたか?」
「いや、観測した場所を見たが、既に姿はなかった。――ただ、近辺の住人の何人かが、不審な死に方をしているのを確認した。おそらく、ノイズが来る前に奴がやったのだろう」
「炭にする前の余興ってとこかしらね」
了子はモニターを見ながらそう呟いた。
「了子君」
弦十郎はそれを窘めるように了子の名を口にした。聞いていた翼は、爪が食い込むほど強く、拳を握りしめていた。
彼らが所属している特異災害対策機動部二課の間で、しばらく前からある男が話題に上がることがしばしばあった。"口裂け男"と呼ばれるそれは、ノイズの出現と共に現れる、正体不明の人物である。現れては猟奇的な殺人を繰り返しており、この不可解な行動から、このノイズの異常な出現率と何かしら関連があるのではないかと言われ、マークすることになったのである。しかし、身柄の拘束はおろか、その顔すら見ることができていないのが現状だった。反応を見つけたと思っても、そこにはすでに彼が施した死体が置かれているのみであり、どのように逃げたのかすらもわからないので、本当にそんな男がいるのかという声すら、二課の中であがったほどである。この"口裂け男"という名前も、奇跡的に生き残った生存者が見たという情報からつけられた、いよいよもって都市伝説のような名前なのである。
「……翼、落ち着け。目的を見失うな」
「……心得ています」
弦十郎に対して翼はそう言うが、その内心は当然のように穏やかではなかった。先日の一課全滅の騒動は、あの男の仕業ではないかという話が二課で上がってから、翼は口裂け男を特段憎むようになった。
彼女は憤りに満ちており、しかし今は動くこともできず、ただ震えて拳を握っていた。
◇
子どもを連れて逃げながらどれほど経った頃だろうか、気づけば辺りがすっかり日が沈む中、響たちは巨大な工場施設に逃げていた。屋上に向かっているのだろう。彼女は子供を背負い、やっとの思いで長い梯子を上っていた。
響は梯子を登り切り、子どもを降ろしてから仰向けに寝転がり、ぜいぜいと息を吐いた。
「死んじゃうの?」
同じように倒れて息を吐く子供は、不安そうに響にそう聞いた。それに響は何も言わず、けれど優しく目を細め、首を横に振った。――そんな時だ、パチ、パチ、パチ、そんな手を叩くような音が連続して聞こえた。
「やあ、やあ、やあ。良く生き残ってくれた」
響が音のした方を見ると、そこにはツギハギが立っていた。そのわざとらしい拍手をする彼に対して、響はその裂けた口に驚いたものの、すぐに息を整えて言った。
「あ、あなたは?」
その言葉を聞いて、ツギハギは頭に疑問符を浮かべたが、自分の恰好を思い出し、すぐに合点がいった。響の前では隠していた顔の下半分が今は露出していて、変わりに響の前で出していた顔の上半分が、中折れ帽子で隠れてしまっている。今は声もマスクでこもっているわけじゃないし、服もさっき血がついてべとべとになってしまったので着替えてしまった。つまり、響が知ってるツギハギと判断するには、少々判断材料が足りないのだ。
「ああ、いやおれは――」
ツギハギは特に隠す理由もないので、彼女に正体を明かそうとしたが、すんでのところでやめた。彼は考えた。もし、ここで正体を明かしたら、少なくとも自分がこれから、響の目の前で行うことを考えると、今度一緒に遊ぶという約束が流れてしまう可能性がある。それはツギハギとしては避けたいところだった。
そしてさらに考えた、彼女が今後親交を深めるであろうツギハギが、"今後憎むであろう"目の前の男と同一人物だと知った時はどう思うだろうか? 彼はそれに酷く興味を持ってしまい、そのために今は正体を明かすまいと決めた。果実が熟すのを待つことにしたのだ。
「――俺も逃げてきたんだよ。あの商店街からさ。生きてる人がいて安心した」
「じゃあ、他に誰か生きてる人は……」
「それは……」
彼は言いあぐね、そして響の隣で、怯えた様子で彼を見ている子供を見てから、言った。
「そう言えば、一緒に逃げてる人に、子どもとはぐれたって言ってた女の人がいたな、ちょうどその子ぐらいの歳の女の子だって」
「お母さんだ!」
それを聞いて、子供の顔は喜びに満ちた。それは響も同じようで、そのまなざしには期待と希望があった。響は男に聞いた。
「どこにいるんですか!?」
「あっちの塔屋の中にいる。一緒に行こう」
「うん!」
三人は塔屋へと向かった。その途中響は嬉しそうに男の方を見た。
「ありがとうございます。あの子のお母さんを助けてくれて」
「……別に助けてなんかいないさ」
「え?」
その言葉に響は疑問を持ったが、それを声にする前に、彼は前を走っている子供に近づいていった。そうしている間に塔屋の扉の前に着き、子供は言った。
「ここにお母さんがいるの?」
「そうだとも――ああでも、お兄さんが先にお母さんと話をするよ、いいかい?」
「ええ、どうして?」
「さっきまでノイズに追われていたんだから、いきなり扉が開いたらびっくりしちゃうだろ? お兄さんがまず、大丈夫だって言うから」
「……わかった」
子供はしぶしぶと言った感じで、彼を前に行かせた。そんなやり取りを見て、響はあることを思い出した。冷静になって考えてみれば不思議なことだ。考えてみれば"あまりに不自然なこと"なのだ。響は聞いた。
「そう言えば、なんで私たちが商店街から逃げて来たって、知ってたんですか」
「それはね、ずっと見てたからだよ、響」
「え? なんで、私の名前――」
そう言い切る前に、彼は塔屋の扉を開けた。中には、子供の母親がいた。顔以外すべてが炭と化した。子供の母親がそこにいた。
「――え?」
子どもも響も、何が起こったのかわからないという顔をしている。そんな中で、炭になりかけていた、子どもの母親がやっとのことで口を動かした。
――ニ、ゲ、テ
母親は口を動かすと、涙を流しこと切れた、そして最後に残った顔すら炭になり、ぐずぐずにくずれ、それが子どもの顔にかかった。
「お、母さ……いや……」
子供は声にならないような叫びをあげながら、母親だった炭に抱き着いた。それを見て、ツギハギは先程と同じように、パチパチと惜しみない拍手をその親子に送った。響は困惑した。これはなんだろう? どうしてこんなことになったんだろう? なんであの人はあんなに嬉しそうにしているんだろう? 響はツギハギの方を見た。それに気づいた男は言った。
「さて、さて、さて、そろそろ物語も分岐点だ。こっからどうするかが重要だぜ?」
そう言って、彼は炭にしがみついて泣きじゃくる子供を引っぺがし、その頬に、どこから取り出したか、ナイフを突きつけた。響に見せつけるように、そうした。
「――なんで?」
「ここからだよ響、ここからなんだ。楽しいか楽しくないかはここからが全てなんだよ」
響の言葉にも答えず、彼は愉快そうに裂けた口をつり上げる。響はナイフを突きつけられている子どもを見た。
「ごめんね、お姉ちゃん」
響は、心が折れかけている子供を見て、思った。
――諦めちゃダメだ。まだ折れちゃダメだ。
――諦めないで
――生きるのを諦めないで
そして、ツギハギはナイフを振りかざした。
Balwisyall nescell gungnir tron
光が起こった。眩しいほどの光が。それを見て、ツギハギはナイフを落とし、子どもを突き放して、その光景を独り占めだと言わんばかりに見つめていた。
「……ハハハハ、スゲエ」
ツギハギが新しいおもちゃを貰った子供の用にはしゃいでいる。そうこうしているうちに光が晴れる。すると、先程とは様子がまるで違う響が現れた。何やら機械のようなものが体から次々に這い出てきて、そしてそれが出る度に響は人ではないような叫び声をあげる。それがひとしきり終わると、響はゆっくりと立ち上がった。まるでヒーローコミックに出てくるような、オレンジ色のコスチュームを身にまとい、男の前に立ちはだかった。
「――そう言えば、なんでって言ってたな、さっき?」
ツギハギは心底嬉しそうに響にこう言った。
「知ってるはずさ、響。知ってるはずなんだよ、君は。だって、君が人助けをする理由と、寸分違わず一緒なんだから」
ホラー映画にハマって著名な精神科医になる風鳴源十郎博士見たい。