日→杵要素が割とがっつりありますがにほへしです。人間原理(https://syosetu.org/novel/197207/1.html)の別ルートかもしれない続きかもしれない。pixivにも投稿してます。
それは、一月も三週目に入った、星の照る夜のことだった。ショウケースの中に並べられただけで百を優に数えるふるき物らのうち、しかし互いに言葉を交わせるほど意識を留めているのは一部屋に一つ二つあればいい方だ。年に一度展示される程度の物はともかく、常に表に出ている物ではっきりと付喪の姿を保っているのは、金印の他には三位の位持つ日本号くらいであろう。
日本号は元々街の方々へ出かけては人の暮らしを眺め、そのまま二週間も帰らないような槍だったが、本性たる槍がこの建物から動かなくなったあたりからはそれも控え、出てもほんの数時間で戻るようになっていた。今の彼の楽しみと言えば専ら、号付きの刀剣、とりわけ槍である一国長吉が飾られる時に酒を飲み交わすことだった。号のない物で長く意識を保っていられるのは多くないため、槍ともなると杯を交わせるものはぐっと数が減ってしまうこと以外には、然程困った様子も見せず、彼は今年もそこに在る。
「おお、来たか。今年も息災そうでなによりだ」
毎年、年始の休みが明けて真っ先に並ぶ刀に、去年と似たり寄ったりの挨拶をする。声を掛けられた刀は藤色の瞳に笑いを浮かべて、これまた定型句と化した口上を述べる。
「正三位殿もお変わりないようで」
とはいえ彼が日本号に対しこんな呼び方をするのはこの一言だけだであるが。
一月のへし切長谷部と二月の日光一文字とは、日本号としてもこの博物館としても毎年恒例の、言わば「冬の刀」である。冬に一度、もしかしたらそれ以外にも一度──こちらは此処でとは限らないが──の展示の間だけ目を覚ます彼らと日本号とはもうずっと昔からの知り合いで、まあ一献、と日も登ったか怪しい時分から日本号が酒を勧めるのも、まあいつもと言えばいつもの話だ。
「日本号。好きだ」
へし切長谷部の展示期間も半分を過ぎて、意識体は見られることもないのに昼中ずっと気を張っている藤色には疲れが見えてきた、そんな夜だった。人も付喪も起きているものは誰もいないのだからと自身より一回り大きな槍に凭れて、金象嵌銘の刀はそう呟いた。
「知ってるよ」
低く柔らかな、厚手の毛布のような声が返る。いつだか、こういうことを言われたような気がする。黒田が誇る二名宝、その呼び名が付くよりもずっと前、あるいはそれよりも遠い未来に。あの時はただ、お前はよき槍でよき刀だと、好悪の好だと、それだけで終いにした。それでもその日に崩れたなにかは、まだ元には戻らなかった。
「人が愛を謳うように、俺はお前が好きだよ、日本号」
その言葉に答えを返したくなくて、ひとつ
「へし切」
そういえばこれを「長谷部」と銘で呼んだこともない。三位の槍にとって彼は、槍自身に号がつくより前から変わらず号で定まる物だった。その頃よりもずっと、この刀が遠くなったように思える。愛。それは幸福からは一番遠い感情だろうと、三位の槍は思うのだ。いつか来る決壊を、いずれ訪れる崩落を、一層の痛みに変えるだけの、かなしいものが愛だった。
人を愛するのは痛いだけだ。人でない物に恋をするのも、苦しいだけだった。東の大槍は西の想いに応えなかった。それでも、そこにそれが在りさえすればそれだけで、よかった。よかったのに結局のところ、恋も痛いだけだった。
「お前の東を忘れろとは言わん。だが」
全てはとうに終わった話で。始まりもしなかった話だった。
そのはずだった。
愛も、恋も、鋼のものでないのなら。これに刀も槍もあるものかと。長谷部国重の刀は思う。身を起こして向き直り、こちらを見ない黒髪の、側頭部に手を当てて角度を変える。藤の瞳が灰色がかった紫を射抜いて、そうやってなあなあにするのも今夜で終わりだと。
「俺は、ここにいる」
此処に在る物から目を逸らすなと、その刃のような鋭い音が静まり返った夜の展示室を裂く。
「……へし切」
黒色のベルベットのような、琥珀色の蜂蜜のような、重くて甘い声が聞こえる。どうかやめてくれと祈るような、願うような、その声がいつでも長谷部を縛って離さない。
「俺は、貴様のそういうところが嫌いだ」
今年もまだ残っていて、来年も再来年もそのまた次の年も、彼らの感情など知らない人間が隣に並ばせるのだとしても、なにかが終わる方が、なにも始まらないよりはましだった。
「甘えられるとわかっていて、俺が貴様に弱いと知っていて、それをいいことにはぐらかそうとする貴様が一等嫌いだ」
二度離れて戻った長谷部と日本号との関係は永遠にも思えた。しかし永遠が終わることを、日本号は知っているはずだった。天災で失われることも、展示から外されることも、何処かに買い取られることも、ひょっとしたら盗み出されることもあるかもしれない。絶えぬと思った泰平は、事実三百年も経たずに尽きてしまった。
「……情は、ある」
恋は、そういう名を付けるとするなら、自分のそれは同じ種類のものにしか向きようがないのだと、日本号はとうに知っていた。どんなに美しい刀も、幾百の血を知る薙刀も。茶入や着物や蒔絵の硯箱と同じく、彼には物にすぎない。槍。それも大身の槍。人にとって刀がそう成り得ないように、ただそれだけが彼の同類に成り得た。
「それは日光にも、だろう」
情深い
「こればっかりはな。わかるだろ、どうにもならねえよ」
一丈の高さから地を眺める物の愛が、打刀の語るそれと同じであるはずがない。日本号のそれは人が犬猫を愛するような、神が人を慈しむような、遥かな高みから降るものだ。
「日本号」
この槍が、好きだとか大切だとか言っても、愛しているとは一度も、誰にも、例えば人に対してさえ、言うのを聞いたことはない。その言葉が充分に強いのを知っているからだろうか。
「応」
「俺はあと二週もすれば寝てしまう」
そして今年は、次の冬まで起きない。お前と藤が見たいと言ったら、これは笑うだろうか。展示期間以外に起きていられるほど、付喪はもう強くない。それをさみしいと思うことすら、あと百年も飾られれば忘れてしまいそうだった。
「そうだな」
けれど長谷部が夢も見ずに眠っている間も、この槍はずっと起きていると聞いた。いつ展示に回っても、金印と日本号だけは起きていると。長谷部の一年より、この槍のそれはずっと長い。その断絶は何かが変わるにも充分だろう。
「その間にお前が、その、例えば」
最後までは口にできなかった長谷部の言を、低い声が引き継いだ。
「長吉のあたりに転んだら、ってか?」
「生々しい名を出すな」
一尺四寸二分の、それは槍だ。大身の、槍なのだ。ありえない、という風に軽く笑う槍が、しかし揃って展示に出ていても一番話すのは確かに一国長吉だった。ぞっと背筋の凍った長谷部の、煤色の頭に大きな手が乗る。ゆるゆると撫でながら、何処か遠くを向いたままの日本号が口を開いた。
「無えよ。……そうやってあからさまに好かれて、答えもせずに他の奴と恋仲に成れるほど、薄情じゃあないつもりだがね」
薄情でも不義理でもないのは知っている。拡散した愛と、捨てられない恋を抱えて、それでも馴染の想いを無視するような性質ではない。間合いの内に入れたものにはいつでも槍は優しすぎるくらいに優しい。儘ならぬ心なるものの及ぶ限り、家屋に収まらぬ彼らの知らない、あらゆる柔らかなもので他を満たす。それはそれだけで、例えば鋭すぎるくらいの刀からすれば、ありもしない類いの愛を感じるに充分だった。
「別に、何をしろとも言わん」
言う権利などない。鋼の恋は、人のそれよりずっと長い。百年も経たずに消えてしまうほど、例えば長谷部自身の思いも軽くはない。
藤の瞳がゆっくりと瞬くのが見える。夜の影はとうに刀を覆って、ただほのかにうち光る互いの霊気だけが槍の目に映る灯りだった。
「いっそ、ずっと寝ていれば楽なのだろうとは、思うよ」
同情でくれてやれるほど、安い体ではないが。震えるまいと律する刀の声が哀しげで、この冬の
「それでも毎年、お前の声が聞きたくて起きてしまう。馬鹿だと笑うか?」
「いいや」
恋も、刀が語るような愛も、この刀へは持ち合わせていない。けれどその、なにか、積もったままの新雪のような、さみしさと呼べるものを笑う権利は日本号にない。
「俺たちは、夢を見ないだろう。それならお前がいる方がよほどいい」
人のように夢を見られたなら、人を愛するのも痛くなかったろうか。恋も、こんなにかなしいものではなかっただろうか。この刀ももう少し、幸せそうに笑えただろうか。
「そうかい」
その、一言しか日本号は返せなかった。隣のものが寝ている時、このショウケースの中にはただ、ぬるま湯のような孤独だけがある。凍えることさえできない、何事もないという無力感に似たものだけが。
「貴様一体、何を恐れている」
つい、と顔を上げた刀の藤の目には言葉通りの疑念と、優しさと、ほんの少し不安も滲んで、日本号の心の覆いの内側を見据えようとしていた。
「はァ?別に何も、」
槍が僅かに眉を顰めれば、刀は藤の目を細めて宥めるように言う。
「まあまあ、意地を張っても仕方なかろう?教えてくれよ、龍の槍」
俺の方がずっと歳上なのだから甘えればいい、などと長谷部は言う。誰がガキだ、と溜息をついて日本号は、紫紺の瞳を閉じて微かに、本当に微かに声を上げた。
「……あんたが、」
水を含んで凍りついた土のような硬い声が、火事の煙で覆われた空の星のような掠れて消えそうな声が、それは三位の槍でなく、日ノ本一の槍でもない、無銘の二尺六寸の言葉なのだと。
「ああ」
手を伸ばして、纏められた黒髪を撫でる。まだ号を持たぬ正三位にそうしてやったように。あの時は乱雑に振り払われた手は、今度は払われなかった。
「燃えて、しまうのが」
なぜって、あの日からほんの百年前には、江戸の只中にあんな風に火が降るだなんて誰も思っていなかった。
「お前、
その自分たちが最早関わりようのない戦火を、どんな刀も槍も知っている。きっとまた五百年が過ぎても、覚えている。人に守られたが故に、あるいはただ幸運のために、残った自分を知っている。もし次があれば今度は何がどれほど残るかなどは誰も知らない、想像もつかないということも。
「守られたものが残るとは限らん。……対など、もう懲り懲りだ」
東は燃えてしまった。己とこの世にただ一つ、等しく在れたものが。その夜は身を切られた時よりもずっと深く、日本号の芯のところを痛めつけた。
その痛みを、長谷部は知っているような気がした。極められた際刻まれた銘のその人が、消えてしまった夏の痛みと、きっとそれは似ている。だとすればそれを埋めるものなど何百年あっても見つかるはずがないのを、長谷部はとうに知っていた。
「ならお前の好きに名を付けろ。
人が互いを慈しむような情愛ではない。燃える炎のような恋慕でもない。ただこの皆焼の刀には、幸福でいてほしいと。それを、或いは。神なら、愛と呼んだのかもしれない。
夢を見ることさえできたらのならと、叶わぬそれを、人であれば祈りと言う。
「夢でもいいと、言ったよな。……なら、騙されてくれよ」
日本号に、長谷部自身に。この太刀ならぬ身の愛を、そう呼んで囁くことをどうか許せよと。器なく肉持たぬ付喪の
「なァ。愛してるぜ、へし切長谷部」
それが、自分に向くものなら、きっと遍く降るものだと。長谷部が気づかなかったと言えば嘘になる。
「何を、今更」
「ああ。そうだな。もう遅いのかも知れねえ」
だが今更気付いたんだ、言うだけ言わせてくれや。そう耳元で囁けば、日本号からは見えないところで長谷部の柔らかな睫毛が震えて、藤色は瞼の向こうへ消える。
「おまえの、そういうところがきらいだ……」
震える声が粉砂糖に似て甘さを帯びて、けれど嫌いと言うのも本心だった。異種なる愛の差異を知って告げない狡さが、それをきっと長谷部ならわかるだろうという甘えが、それでもきっとこれは離れまいと知っているのも、長谷部は嫌いだ。
「そうだな」
けれどそれも含めて、へし切長谷部は日本号を愛しているのだった。人が愛を謳うように、叶うならば死の、ありもしないその先までもと思うほど。