ラブライブ!第2期3話を見た後、4話を見る前に書いたツバほの小説です。
UTXでのライブを決めてから2週間の間の妄想を、なるべく本編と矛盾なく書きました。

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Little Courage
Little Courage


 

 今、穂乃果の目の前に、一つの悩ましい問題がある。

 ベッドに置いたスマホの前で腕を組み、もうかれこれ10分ほどうんうん唸っている。

 ディスプレイに表示されているのは一通のメッセージ。内容はこう。

『こんばんは! 練習はどう? 2週間後がすごく楽しみo(^-^)o』

 差出人欄には、穂乃果が登録した名称で「ツバサさん」と書かれている。

 A-RISEのセンター、綺羅ツバサ。

 2日前、UTXの屋上でライブをすると決めた際、何かあった時のためにと連絡先を交換したのだ。

 あくまで有事の際の緊急用で、雲の上の存在であるツバサから、積極的にメールが来るとは考えていなかった。

 果たして、これはどういう意味なのか。

『こんばんは。順調です。私も楽しみです』

 最初、そう書いて消した。いくらなんでも堅すぎる。

『こんばんは! まあまあかな。ツバサさんは?』

 次にこう書いて消した。天下の綺羅ツバサに、そっちの練習はどうなのかという質問は、失礼極まりない。

「うーん……」

 めんどくさくなってきた。

 いつもの穂乃果なら、難しいことは考えずに返事をするのだが、今回はそうもいかない。

 先日UTXでのライブを即答したことで、μ'sのメンバーに怒られたのだ。

「A-RISEの後でライブをするなんて無謀です! 穂乃果はメインディッシュの後に前菜が出てきて喜びますか? どう考えたって罠です。どんなに頑張っても、A-RISEの後ではかすんでしまいます!」

 海未にも随分な剣幕で言われたが、まあ過去のことはしょうがない。なんだか素敵そうだと思った自分の直感を信じたい。

 ただ、μ's全員に関わることを、安易に一人で決めてはいけないと学んだ。

 ツバサが自分に何気ない日常会話をしてくるとは思えない。だとすると、このメールにも何か意図があるはず。

『こんばんは! みんなで頑張ってます! ツバサさんにも楽しんでもらえるように頑張ります!』

 まだ少し堅いけれど、「!」を3つも使ったから大丈夫だろう。

 緊張しながら送信する。

「はぁ……」

 大きく息を吐いてベッドに横になる。

 あの日は気分が高揚して、言いたい放題言ってしまったが、日を置いて冷静になると、やはりみんなの憧れの綺羅ツバサと会話をするのは緊張する。

 しばらくぼんやりしていると、スマホが震えた。ツバサからだ。

『高坂さんは、いつもどこで練習してるの?(*^-^)』

 どうしてそんなことが気になるんですか?

 思わずそんな言葉が頭をよぎり、意地悪くなっている自分に気が付いて首を振った。

 偵察されている気がするが、A-RISEがμ'sごときを意識するのは、本来おかしい。負ける気はもちろんないけれど、それはこっちの意気込みの話であって、実力差は明白である。

『学校の屋上です。あと、神社でランニングしたりしています』

 今度はすぐに送信する。

 なんだろう。あの綺羅ツバサと個人的にメールをしているのに、嬉しいという気持ちが沸かない。内容のせいだろうか。嫌な緊張感だけが支配する。

『私も屋上って好き! 開放的でいいよね(≧▽≦)』

 疑問形ではなかったので、今度のメッセージには返事をせずに、スマホを放り投げた。

 UTXの屋上なら、さぞ開放的だろう。

 穂乃果はそこでするライブに思いを馳せた。

 A-RISEの後は確かに不利かもしれない。それでも、他のスクールアイドルたちと同じような場所で、同じようなライブをするよりはずっといい。

 それに、良い経験にもなるし、間近でA-RISEのライブが見られるのも嬉しい。

 すべてを全力で楽しみたい。

 そんなことを考えていると、再びスマホが鳴った。誰だろうと思って手に取ると、やはりツバサからだった。

『高坂さん、練習で忙しいと思うけど、今度二人でカフェしない? すごく美味しいチーズケーキを見つけたの!v(*'-^*)』

「……意味がわかりません」

 そうひとりごち、もう一度初めの体勢に戻る。

 こっちが本題だった。考えすぎた最初のメッセージは、偵察でもなんでもなく、ただの前振りだったのだ。

 ツバサと二人でカフェでケーキを食べる。それはすごく嬉しいことだ。

 ツバサには憧れている。ラブライブや今度の直接対決がなければ、喜んで飛び付くだろう。

 けれど、ラブライブや直接対決があるからこそのお誘いだ。自分には憧れの綺羅ツバサとケーキを食べることに意味があるが、ツバサにはμ'sの高坂穂乃果とカフェに行く価値はまるでない。

 断るべきだ。

 練習で忙しいのは事実だし、実際に時間がない。今なら自然に断れる。

 けれど、UTXの屋上でライブをすることと同じように、こんな機会も二度とない。ライブが終わってしまえば、ツバサとの接点もなくなるだろう。

 こっちが向こうに教える以上に、こっちも相手のことを聞けばいい。それでフィフティフィフティだ。

 それはメンバーへの言い訳だった。

 μ'sという枠を外れたら、穂乃果はただのA-RISEのファンの女の子である。にこや花陽ほどではないが、穂乃果もツバサに憧れている。二人でカフェに行く想像をすると、胸が高鳴るのもまた事実だった。

『洋菓子大好きです! 木曜日の夕方か、土曜日の夕方なら大丈夫です!』

 後先はあまり考えずに送信する。

 ツバサからの返事は、相変わらずすぐに届いた。

『洋菓子って、高坂さん、面白い表現をするのね(*□*) じゃあ少し先だけど、土曜日にしましょう!』

 読んでいる最中に追加でもう一通。

『あっ、このことは他のメンバーには内緒でね! 私も二人には言わないから。A-RISEとかμ'sとか関係なくお話しましょう(*^-^*)』

 よくわからない。

 書いてあることがすべて本音とは思えない。けれど、客観的に見た時、ツバサのテンションは一貫して高い。裏表のない、純粋に楽しんでいる時の自分に似ている。

『はい、嬉しいです!』

 無難なメッセージを投げて、もう一度寝転がった。

 わからないことは考えない。

 大丈夫。自分の選択が悪い結果に結びつくことは滅多にない。

 どんな意図があったにしろ、あの綺羅ツバサと個人的にお出かけできるのだ。可能なら二人で写メでも撮って、雪穂に自慢してやろう。

 決めてしまえば楽しみになる。

 μ'sのメンバーには申し訳なく思いつつも、その日が来るのを心待ちにしながら、穂乃果は眠りについた。

 

 土曜日当日、天気は上々。

 待ち合わせ時間ぎりぎりまで練習をしていた上、急いで帰るのを訝しむ仲間たちをはぐらかしていたら、オシャレしている時間がなくなってしまった。

 こんなことなら、前日に準備しておけば良かった。この辺りは反省点。

 辛うじてシャワーだけ浴びて、普段着で待ち合わせ場所へ急ぐ。まあ、どうせ大した服は持っていないし、ツバサもたかが自分と会うのに、そんなに気合の入った格好はしてこないだろう。

 少し遅刻をしてしまったこともあり、ツバサは先に着いていた。

 肩に飾りのついた水色のワンピースに、特徴的な大きなベルトをしている。シンプルだが清楚なイメージ。

 ボーイッシュな雰囲気のあるツバサだが、今日は淑やかな女の子に見える。

 釣り合いは……元々取れていないから気にしないことにする。

「お、遅れてごめんなさい!」

 開口一番、まず謝った。あの綺羅ツバサが誘ってくれたのに、待たせた上、遅刻までしてしまった。

 機嫌を損ねて嫌われることまで覚悟したが、ツバサは嬉しそうに頬を緩めて笑った。

「気にしないで。私も今来たところ。練習、頑張ってるのね」

 相手に気をつかわせない定番のセリフ。

 ますます恥ずかしくなったが、せっかくツバサが気にするなと言ってくれたので、遅刻の件は流すことにした。

「はい。今回は期間も短い上、新曲だから大変です」

「人数も多いしね。合わせるの、大変でしょう」

「そうですね。得意なこともバラバラだし……でも、それがμ'sですから!」

 言ってから、ハッとなる。

 今日はスクールアイドルのことは抜きで会おうと言われていたのに、思わず語ってしまった。同時に、改めて自分はμ'sが好きなのだと感じた。

 それがツバサにも伝わったのか、楽しそうに言った。

「いいわね。よかったら、歩きながら聞かせて。行きましょう」

「あ、はい!」

 事前に考えていたことはすべて飛んでしまった。

 ツバサと一緒にいる興奮に、自分の大好きなμ'sの話題が相まって、いつも以上に饒舌に喋った。

 ツバサは時々相槌を打ちながら、面白そうに聞いている。自分からはほとんど喋らない。

 結局自分は相手の術中に陥ったのか、もはやわからない。ただ、共通の話題はこれしかないし、自分が話すのをやめて沈黙してしまったら、間を繋げない。

「だから今度のライブは、衣装は3色用意して、変化を出してみようかなって思うんです!」

 何かμ'sに潜入したスパイが、収集した情報を報告するみたいになってきたが、だんだんどうでもよくなってきた。

 先攻の上、実力上位のA-RISEが、μ'sに合わせて何かを変えてくるとは思えない。逆は価値があるから、後から聞いてみようと思ったけれど、恐らく無理だろう。

 落ち着くことなく話し続けていると、やがてツバサが足を止めて顔を上げた。穂乃果もつられて上を見る。

「ここの2階。美味しいけど、穴場だからあまり人はいないわ。洋菓子」

 可笑しそうにツバサが言う。

 雑居ビルと呼ぶほど雑然とはしていないが、小汚い印象がある。ツバサがUTXの白い制服を着て入る姿は想像できない。

「よく見つけましたね、こんなとこ」

「目立たずに三人で落ち着いて話せる場所が欲しいから。色々探しているの」

 こんなところにUTXの生徒がいたら余計に目立つと思ったが、すぐに意味が違うことに気が付いた。

 A-RISEを知っている層がいないということだ

 μ'sもスクールアイドルの中では知られてきたが、その世界から一歩出ればまったく無名の存在。けれど、A-RISEは違う。

 穂乃果は、改めて今一緒にいる女の子のすごさを思った。

 店内は席数が少なく、隣の席との間隔が広くて、深い赤色を基調とした落ち着いた空間になっていた。緩やかなジャズが二人を出迎える。

 ツバサはチーズケーキとアイスコーヒーを、穂乃果はチーズケーキとクリームソーダを頼んだ。

 ツバサが小さく笑う。

「クリームソーダって、小学生の時好きだったけど、もう長いこと飲んだことがないわ」

 バカにした様子はない。純粋に楽しそうだ。

 有名人で、初対面でも少し怖いイメージがあったが、今日はずっと笑っている。

「甘いものが好きで……」

「太らないの?」

「最近は運動してるから、なんとか。でも、油断すると危ないです」

「私もそうね」

 そう言ってツバサが微笑む。太いという言葉とはかけ離れた体型をしているが、アイドルとしてその辺りも努力しているのだろうか。

「ツバサさんたちは、今度はどんな曲をやるんですか?」

 緊張を誤魔化すように水を飲みながら尋ねる。

 上手に主導権を握りたかったが、ツバサはいたずらっぽく笑ってそれをかわした。

「秘密。当日を楽しみにしていて」

「そうですか……」

「安心して。曲調はかぶらないわ。西木野さんの作る曲じゃないから」

 そう言われて、穂乃果は恥ずかしくなった。

 自分が探ろうとしていることも、その理由も、ツバサは全部見通している。その上で、空気を悪くせず、穂乃果が満足できるぎりぎりの回答を与えてくれる。

 個人戦では、この人に何一つ勝てやしない。

「ツバサさん、μ'sのこと詳しく知ってましたけど、誰が一番好きですか?」

 話を変えるために、心に浮かんだことを聞いてみる。

 何気ない振りのつもりだったが、ツバサは少し驚いた顔をして、わずかに視線を逸らせた。

 それからもう一度真っ直ぐ穂乃果の目を見つめて口を開く。

「もちろんあなたよ、高坂穂乃果さん」

 その答えは、特に穂乃果を驚かせなかった。聞いてから思ったが、この流れならたとえそうでなくてもそう答える。

「真ん中にいて目立ちますもんね。でも、特に取り柄はありません」

「そんなことないわ」

 ツバサが少し語調を強くする。数センチ身を乗り出して続けた。

「まず何より歌が上手。それに笑顔が綺麗。頑張ってるのが伝わってくるし、見ている人たちが元気になれる。アイドルには大事なことよ」

「そ、そうですか?」

「そうよ」

 そう断言したところで、チーズケーキが運ばれてきた。

 見た目ふんわりとしていて、底はパイ生地になっている。

 フォークを突き刺して口に入れると、なるほどしつこくない上品な甘さが口の中に広がった。

「美味しいでしょ」

「はい」

 練習で疲れていたこともあり、あっと言う前に半分平らげた。

「甘いものは食べ飽きたけど、ケーキはまた別ですね」

「そんなに食べるの? 飽きるほど?」

「家が和菓子屋ですから」

 クリームソーダをすすりながら答えると、ツバサが驚いたように眉を上げた。

 それからわずかな沈黙があり、真顔でじっと穂乃果の目を見つめて低い声で言う。

「私、画面の中の、スクールアイドルのあなたのことしか知らない」

「それは私も同じです」

「穂乃果ちゃんって呼んでもいい?」

 一瞬、何を言われたのかわからなかった。

 わかってからも耳を疑った。

 話の流れとまるで合っていない一言に聞こえたが、ツバサの中では整合性があったのだろうか。

 混乱する穂乃果の無言を勘違いしたのか、ツバサが付け加えた。

「二人の時だけでいいわ。メールとか、こういう時だけ」

「えっと、構いませんけど」

「そう! よかった!」

 ツバサが嬉しそうに顔を綻ばせる。

 完全にツバサのペースだ。ふわふわと右へ左へ飛び回り、落ち着かないようでいて、決してぶれない芯がある。

 穂乃果が何か目論んだところで、どうこうできる相手ではない。

 日本一のスクールアイドル、A-RISEの綺羅ツバサ。魅力的なのは歌とダンスだけではない。

「ねえ、穂乃果ちゃんは兄弟はいるの? 一人っ子?」

「妹がいます。中3で、来年UTXに入るとか言い出したけど、今は音ノ木坂を目指しています」

「あら、残念。穂乃果ちゃんの妹さんなら、きっと可愛いんでしょうね」

「とても生意気で、手を焼いています」

 何気ない会話。

 名前のようにキラキラと、ツバサが笑顔で喋り続ける。

 店に来るまでずっと静かに穂乃果の話を聞いていたから、聞くのが好きな人なのかと思ったが、全然違った。

 つかみどころがない、綺羅ツバサの魅力──

 

 喫茶店を後にして、ビルを出るとすでに周囲は薄暗かった。

 もっとも、街灯やビルの灯りは眩しくて、街は明るい。

 今日はこれで終わりだろう。ツバサのことをたくさん知ることができたし、とても楽しかった。

 すでに回想モードに入った穂乃果に、ツバサがやはり笑顔でこう言った。

「ねえ、穂乃果ちゃん。今日はまだ時間大丈夫?」

「えっ……?」

 驚いてツバサを見る。

 背丈は同じくらい。同じ高さの目線で、ツバサがじっと穂乃果を見つめている。

 恥ずかしくなって目を伏せた。

「だ、大丈夫ですけど」

「よかった。きっともうしばらく会えないし、もう少し一緒にいたいわ」

 その台詞に、穂乃果は奇妙な違和感を覚えた。

 けれど、その時は理由がわからなかった。

 唐突にツバサが穂乃果の右手を握ったから、あらゆる考えが飛んでしまった。

「行きましょう」

 何事もなかったように、穂乃果の手を握ったまま歩き出す。

 頭の中が真っ白になった。

 確かに人通りは多いし、女の子同士で手を繋いで歩くことはある。

 けれど、ツバサとはまだ会って2回目だし、そんな仲ではない。そういう仲になりたいかと言われたら、ツバサは美人だし、可愛いし、明るいし、面白いし、カリスマだし、なりたくないわけではない。

 いや、そもそも「そういう仲」とは何か。友達だろうか。しかし、友達が手を繋いで歩くだろうか。

 先ほどの違和感がはっきりとわかった。

『もう少し一緒にいたい』

 行きたい店があるとか、したいことがあるとか、話したいとかではない。ただ、一緒にいたい。

 穂乃果は顔が火照るのを感じた。

 いや、勘違いだ。全部自分の勘違いだ。

 ツバサが自分に、そんなに執着する理由がない。

 あるいはこれが罠なのか? これこそが今日穂乃果を誘った目的なのか? 何のために? これが何をもたらすのか……。

「面白い顔してる。どうしたの?」

 からかうようなツバサの声。

「い、いえ……」

 平静を装っても、動揺は隠しきれない。

 人混みの中を手を繋いだまま歩く。好奇の目で見て行く人もあるが、それを気にする余裕はない。

 少しずつ人がまばらになり、やがて大きな公園が見えてきた。

 ツバサはずっと、他愛もないことを喋り続けている。

 穂乃果がこんなにも鼓動を速くして緊張しているのに、ツバサはずっと平然としている。ずるい。

 公園に入ると、人影もすっかり少なくなって、寂しい雰囲気に合わせるようにツバサも口を閉ざした。

 微かに冷気を帯びた風の中、繋いだ手だけが異様に熱い。

 穂乃果はじっとツバサの横顔を見つめる。その内、あることに気が付いた。

 歩き始めてから一度も、ツバサは穂乃果の目を見ようとしない。あれだけずっと見つめていたのに、まるで目を合わせるのが怖いように。

 手が熱い。

 果たして緊張しているのは自分だけなのか。ツバサが喋り続けていたのは、余裕だったからか?

 疑問が頭をもたげる。

「ねえ、ツバサさん」

 公園の小さな池の前で足を止めて、手を離して正面からツバサを見る。

 ツバサも真っ直ぐ見つめ返した。

「今日はどうして私を誘ってくれたんですか? すごく楽しかったけど、目的がわかりません」

 単刀直入に切り出した。

 元々考えるのは得意ではない。

 この空間、聞くなら今しかないし、穂乃果にそれを言わせるために、ツバサはここに来たようにも思える。

「会ってお話がしたかっただけ。それが目的で、それ以上の何もないわ」

「どうしてですか? どうしてあの綺羅ツバサさんが、私なんかと」

 初めて、ツバサが動揺を見せた。

 瞳を伏せ、落ち着かないように指を動かした後、意を決したように大きく息を吐いて顔を上げた。

「それは、私がμ'sの高坂穂乃果のファンだからよ」

「なっ……!」

 穂乃果がひるむ。

 それは予想外の答えだった。

 もしも本当なら、確かに初めてのメールから今日までの、ツバサのすべての言動に合点がいく。

「で、でも、ツバサさんは全国一位のトップアイドルで、すごくたくさんファンがいて、すごい人です。私なんて……」

「関係ないわ。たとえ10万人のファンが私を好きでも、私は穂乃果ちゃん、あなたのファンなの。初めて見た時からずっと」

 結局ほんの一瞬だった。穂乃果がツバサから主導権を奪えたのは。

 一歩近付いて、ツバサは再び穂乃果の手を取った。

「さっき言った通りよ。あなたは私にはない魅力をたくさん持っている。ずっと会いたいと思ってた。私も今日は楽しかった。穂乃果ちゃんのことをいっぱい知ることができて、すごく嬉しかった」

「わ、私もです……」

 あまりの展開に混乱をきたす穂乃果に、ツバサがさらに歩み寄る。

 吐息がかかりそうな距離。ツバサの甘い香りが鼻腔をくすぐる。

「あなたとお友達になりたい」

「はい……」

「今日のこと、誰にも言ってない? 誰にも言わない?」

「はい」

「よかった。ありがとう」

 軽く手を引かれ、ひんやりとした柔らかな感触が唇に触れた。

 目の前に、まぶたを閉じたツバサの顔があって、鼻息がくすぐったい。

 頭がくらくらした。

 信じ難いが、ファンであるのはわかった。ファンだから友達になりたいのもわかった。

 それが、どうしてキスに繋がるのか、まるでわからない。

 硬直する穂乃果を弄ぶように、10秒くらい口づけをして、ツバサは顔を離した。

「誰にも言わないでね、穂乃果ちゃん」

 そう言って笑ったツバサの頬は、見てわかるほど紅潮していた。

「は、はい」

 それから後のことはよく覚えていない。

 軽くハグをされた気がしたが、長い時間だったようにも思う。

 気が付いたら街の中に戻っていて、駅でツバサが手を振っていた。

 ぼんやりとしたまま、自室のベッドで今日のことを思い返す。

 穂乃果のことを「穂乃果ちゃん」と呼ぶのは、二人の時だけだと言っていた。

 あれも布石だった。穂乃果のために言ったのではない。

 あのやり手のトップアイドルは、恐らく次に会う時は、何事もなかったように、しれっと「お互いに頑張りましょう、高坂さん」などと言うのだろう。

 本当にずるい。

 スマホを手にした。

 ツバサからのメールはない。

 もうわかった。きっと今日精一杯の勇気を出して、考えに考えた経路を完璧に辿れたことに満足して、後から押し寄せてきた緊張にドキドキしているのだ。

 手に取るようにわかる。今ならツバサのことが理解できる。

『ライブでは動揺しないでね』

 一言だけ送ってみると、待っていたかのようにすぐに返信があった。

『こっちのセリフね。私は動揺なんてしてないわ』

『手が震えてた』

 思わず意地悪な笑みを浮かべて送ると、今度は少し間があってからこう返ってきた。

『バカ』

 それで穂乃果は満足した。

 翻弄され続けた今日一日を、形勢逆転で締め括った満足感。

『おやすみ、ツバサちゃん。今日はありがとう』

『こちらこそ。おやすみ、穂乃果ちゃん』

 ライブまで後1週間。

 自分の熱狂的なファンのためにも、最高のパフォーマンスをしたいと思う。

 

 ─ 完 ─

 



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