UTXでのライブを決めてから2週間の間の妄想を、なるべく本編と矛盾なく書きました。
Little Courage
今、穂乃果の目の前に、一つの悩ましい問題がある。
ベッドに置いたスマホの前で腕を組み、もうかれこれ10分ほどうんうん唸っている。
ディスプレイに表示されているのは一通のメッセージ。内容はこう。
『こんばんは! 練習はどう? 2週間後がすごく楽しみo(^-^)o』
差出人欄には、穂乃果が登録した名称で「ツバサさん」と書かれている。
A-RISEのセンター、綺羅ツバサ。
2日前、UTXの屋上でライブをすると決めた際、何かあった時のためにと連絡先を交換したのだ。
あくまで有事の際の緊急用で、雲の上の存在であるツバサから、積極的にメールが来るとは考えていなかった。
果たして、これはどういう意味なのか。
『こんばんは。順調です。私も楽しみです』
最初、そう書いて消した。いくらなんでも堅すぎる。
『こんばんは! まあまあかな。ツバサさんは?』
次にこう書いて消した。天下の綺羅ツバサに、そっちの練習はどうなのかという質問は、失礼極まりない。
「うーん……」
めんどくさくなってきた。
いつもの穂乃果なら、難しいことは考えずに返事をするのだが、今回はそうもいかない。
先日UTXでのライブを即答したことで、μ'sのメンバーに怒られたのだ。
「A-RISEの後でライブをするなんて無謀です! 穂乃果はメインディッシュの後に前菜が出てきて喜びますか? どう考えたって罠です。どんなに頑張っても、A-RISEの後ではかすんでしまいます!」
海未にも随分な剣幕で言われたが、まあ過去のことはしょうがない。なんだか素敵そうだと思った自分の直感を信じたい。
ただ、μ's全員に関わることを、安易に一人で決めてはいけないと学んだ。
ツバサが自分に何気ない日常会話をしてくるとは思えない。だとすると、このメールにも何か意図があるはず。
『こんばんは! みんなで頑張ってます! ツバサさんにも楽しんでもらえるように頑張ります!』
まだ少し堅いけれど、「!」を3つも使ったから大丈夫だろう。
緊張しながら送信する。
「はぁ……」
大きく息を吐いてベッドに横になる。
あの日は気分が高揚して、言いたい放題言ってしまったが、日を置いて冷静になると、やはりみんなの憧れの綺羅ツバサと会話をするのは緊張する。
しばらくぼんやりしていると、スマホが震えた。ツバサからだ。
『高坂さんは、いつもどこで練習してるの?(*^-^)』
どうしてそんなことが気になるんですか?
思わずそんな言葉が頭をよぎり、意地悪くなっている自分に気が付いて首を振った。
偵察されている気がするが、A-RISEがμ'sごときを意識するのは、本来おかしい。負ける気はもちろんないけれど、それはこっちの意気込みの話であって、実力差は明白である。
『学校の屋上です。あと、神社でランニングしたりしています』
今度はすぐに送信する。
なんだろう。あの綺羅ツバサと個人的にメールをしているのに、嬉しいという気持ちが沸かない。内容のせいだろうか。嫌な緊張感だけが支配する。
『私も屋上って好き! 開放的でいいよね(≧▽≦)』
疑問形ではなかったので、今度のメッセージには返事をせずに、スマホを放り投げた。
UTXの屋上なら、さぞ開放的だろう。
穂乃果はそこでするライブに思いを馳せた。
A-RISEの後は確かに不利かもしれない。それでも、他のスクールアイドルたちと同じような場所で、同じようなライブをするよりはずっといい。
それに、良い経験にもなるし、間近でA-RISEのライブが見られるのも嬉しい。
すべてを全力で楽しみたい。
そんなことを考えていると、再びスマホが鳴った。誰だろうと思って手に取ると、やはりツバサからだった。
『高坂さん、練習で忙しいと思うけど、今度二人でカフェしない? すごく美味しいチーズケーキを見つけたの!v(*'-^*)』
「……意味がわかりません」
そうひとりごち、もう一度初めの体勢に戻る。
こっちが本題だった。考えすぎた最初のメッセージは、偵察でもなんでもなく、ただの前振りだったのだ。
ツバサと二人でカフェでケーキを食べる。それはすごく嬉しいことだ。
ツバサには憧れている。ラブライブや今度の直接対決がなければ、喜んで飛び付くだろう。
けれど、ラブライブや直接対決があるからこそのお誘いだ。自分には憧れの綺羅ツバサとケーキを食べることに意味があるが、ツバサにはμ'sの高坂穂乃果とカフェに行く価値はまるでない。
断るべきだ。
練習で忙しいのは事実だし、実際に時間がない。今なら自然に断れる。
けれど、UTXの屋上でライブをすることと同じように、こんな機会も二度とない。ライブが終わってしまえば、ツバサとの接点もなくなるだろう。
こっちが向こうに教える以上に、こっちも相手のことを聞けばいい。それでフィフティフィフティだ。
それはメンバーへの言い訳だった。
μ'sという枠を外れたら、穂乃果はただのA-RISEのファンの女の子である。にこや花陽ほどではないが、穂乃果もツバサに憧れている。二人でカフェに行く想像をすると、胸が高鳴るのもまた事実だった。
『洋菓子大好きです! 木曜日の夕方か、土曜日の夕方なら大丈夫です!』
後先はあまり考えずに送信する。
ツバサからの返事は、相変わらずすぐに届いた。
『洋菓子って、高坂さん、面白い表現をするのね(*□*) じゃあ少し先だけど、土曜日にしましょう!』
読んでいる最中に追加でもう一通。
『あっ、このことは他のメンバーには内緒でね! 私も二人には言わないから。A-RISEとかμ'sとか関係なくお話しましょう(*^-^*)』
よくわからない。
書いてあることがすべて本音とは思えない。けれど、客観的に見た時、ツバサのテンションは一貫して高い。裏表のない、純粋に楽しんでいる時の自分に似ている。
『はい、嬉しいです!』
無難なメッセージを投げて、もう一度寝転がった。
わからないことは考えない。
大丈夫。自分の選択が悪い結果に結びつくことは滅多にない。
どんな意図があったにしろ、あの綺羅ツバサと個人的にお出かけできるのだ。可能なら二人で写メでも撮って、雪穂に自慢してやろう。
決めてしまえば楽しみになる。
μ'sのメンバーには申し訳なく思いつつも、その日が来るのを心待ちにしながら、穂乃果は眠りについた。
土曜日当日、天気は上々。
待ち合わせ時間ぎりぎりまで練習をしていた上、急いで帰るのを訝しむ仲間たちをはぐらかしていたら、オシャレしている時間がなくなってしまった。
こんなことなら、前日に準備しておけば良かった。この辺りは反省点。
辛うじてシャワーだけ浴びて、普段着で待ち合わせ場所へ急ぐ。まあ、どうせ大した服は持っていないし、ツバサもたかが自分と会うのに、そんなに気合の入った格好はしてこないだろう。
少し遅刻をしてしまったこともあり、ツバサは先に着いていた。
肩に飾りのついた水色のワンピースに、特徴的な大きなベルトをしている。シンプルだが清楚なイメージ。
ボーイッシュな雰囲気のあるツバサだが、今日は淑やかな女の子に見える。
釣り合いは……元々取れていないから気にしないことにする。
「お、遅れてごめんなさい!」
開口一番、まず謝った。あの綺羅ツバサが誘ってくれたのに、待たせた上、遅刻までしてしまった。
機嫌を損ねて嫌われることまで覚悟したが、ツバサは嬉しそうに頬を緩めて笑った。
「気にしないで。私も今来たところ。練習、頑張ってるのね」
相手に気をつかわせない定番のセリフ。
ますます恥ずかしくなったが、せっかくツバサが気にするなと言ってくれたので、遅刻の件は流すことにした。
「はい。今回は期間も短い上、新曲だから大変です」
「人数も多いしね。合わせるの、大変でしょう」
「そうですね。得意なこともバラバラだし……でも、それがμ'sですから!」
言ってから、ハッとなる。
今日はスクールアイドルのことは抜きで会おうと言われていたのに、思わず語ってしまった。同時に、改めて自分はμ'sが好きなのだと感じた。
それがツバサにも伝わったのか、楽しそうに言った。
「いいわね。よかったら、歩きながら聞かせて。行きましょう」
「あ、はい!」
事前に考えていたことはすべて飛んでしまった。
ツバサと一緒にいる興奮に、自分の大好きなμ'sの話題が相まって、いつも以上に饒舌に喋った。
ツバサは時々相槌を打ちながら、面白そうに聞いている。自分からはほとんど喋らない。
結局自分は相手の術中に陥ったのか、もはやわからない。ただ、共通の話題はこれしかないし、自分が話すのをやめて沈黙してしまったら、間を繋げない。
「だから今度のライブは、衣装は3色用意して、変化を出してみようかなって思うんです!」
何かμ'sに潜入したスパイが、収集した情報を報告するみたいになってきたが、だんだんどうでもよくなってきた。
先攻の上、実力上位のA-RISEが、μ'sに合わせて何かを変えてくるとは思えない。逆は価値があるから、後から聞いてみようと思ったけれど、恐らく無理だろう。
落ち着くことなく話し続けていると、やがてツバサが足を止めて顔を上げた。穂乃果もつられて上を見る。
「ここの2階。美味しいけど、穴場だからあまり人はいないわ。洋菓子」
可笑しそうにツバサが言う。
雑居ビルと呼ぶほど雑然とはしていないが、小汚い印象がある。ツバサがUTXの白い制服を着て入る姿は想像できない。
「よく見つけましたね、こんなとこ」
「目立たずに三人で落ち着いて話せる場所が欲しいから。色々探しているの」
こんなところにUTXの生徒がいたら余計に目立つと思ったが、すぐに意味が違うことに気が付いた。
A-RISEを知っている層がいないということだ
μ'sもスクールアイドルの中では知られてきたが、その世界から一歩出ればまったく無名の存在。けれど、A-RISEは違う。
穂乃果は、改めて今一緒にいる女の子のすごさを思った。
店内は席数が少なく、隣の席との間隔が広くて、深い赤色を基調とした落ち着いた空間になっていた。緩やかなジャズが二人を出迎える。
ツバサはチーズケーキとアイスコーヒーを、穂乃果はチーズケーキとクリームソーダを頼んだ。
ツバサが小さく笑う。
「クリームソーダって、小学生の時好きだったけど、もう長いこと飲んだことがないわ」
バカにした様子はない。純粋に楽しそうだ。
有名人で、初対面でも少し怖いイメージがあったが、今日はずっと笑っている。
「甘いものが好きで……」
「太らないの?」
「最近は運動してるから、なんとか。でも、油断すると危ないです」
「私もそうね」
そう言ってツバサが微笑む。太いという言葉とはかけ離れた体型をしているが、アイドルとしてその辺りも努力しているのだろうか。
「ツバサさんたちは、今度はどんな曲をやるんですか?」
緊張を誤魔化すように水を飲みながら尋ねる。
上手に主導権を握りたかったが、ツバサはいたずらっぽく笑ってそれをかわした。
「秘密。当日を楽しみにしていて」
「そうですか……」
「安心して。曲調はかぶらないわ。西木野さんの作る曲じゃないから」
そう言われて、穂乃果は恥ずかしくなった。
自分が探ろうとしていることも、その理由も、ツバサは全部見通している。その上で、空気を悪くせず、穂乃果が満足できるぎりぎりの回答を与えてくれる。
個人戦では、この人に何一つ勝てやしない。
「ツバサさん、μ'sのこと詳しく知ってましたけど、誰が一番好きですか?」
話を変えるために、心に浮かんだことを聞いてみる。
何気ない振りのつもりだったが、ツバサは少し驚いた顔をして、わずかに視線を逸らせた。
それからもう一度真っ直ぐ穂乃果の目を見つめて口を開く。
「もちろんあなたよ、高坂穂乃果さん」
その答えは、特に穂乃果を驚かせなかった。聞いてから思ったが、この流れならたとえそうでなくてもそう答える。
「真ん中にいて目立ちますもんね。でも、特に取り柄はありません」
「そんなことないわ」
ツバサが少し語調を強くする。数センチ身を乗り出して続けた。
「まず何より歌が上手。それに笑顔が綺麗。頑張ってるのが伝わってくるし、見ている人たちが元気になれる。アイドルには大事なことよ」
「そ、そうですか?」
「そうよ」
そう断言したところで、チーズケーキが運ばれてきた。
見た目ふんわりとしていて、底はパイ生地になっている。
フォークを突き刺して口に入れると、なるほどしつこくない上品な甘さが口の中に広がった。
「美味しいでしょ」
「はい」
練習で疲れていたこともあり、あっと言う前に半分平らげた。
「甘いものは食べ飽きたけど、ケーキはまた別ですね」
「そんなに食べるの? 飽きるほど?」
「家が和菓子屋ですから」
クリームソーダをすすりながら答えると、ツバサが驚いたように眉を上げた。
それからわずかな沈黙があり、真顔でじっと穂乃果の目を見つめて低い声で言う。
「私、画面の中の、スクールアイドルのあなたのことしか知らない」
「それは私も同じです」
「穂乃果ちゃんって呼んでもいい?」
一瞬、何を言われたのかわからなかった。
わかってからも耳を疑った。
話の流れとまるで合っていない一言に聞こえたが、ツバサの中では整合性があったのだろうか。
混乱する穂乃果の無言を勘違いしたのか、ツバサが付け加えた。
「二人の時だけでいいわ。メールとか、こういう時だけ」
「えっと、構いませんけど」
「そう! よかった!」
ツバサが嬉しそうに顔を綻ばせる。
完全にツバサのペースだ。ふわふわと右へ左へ飛び回り、落ち着かないようでいて、決してぶれない芯がある。
穂乃果が何か目論んだところで、どうこうできる相手ではない。
日本一のスクールアイドル、A-RISEの綺羅ツバサ。魅力的なのは歌とダンスだけではない。
「ねえ、穂乃果ちゃんは兄弟はいるの? 一人っ子?」
「妹がいます。中3で、来年UTXに入るとか言い出したけど、今は音ノ木坂を目指しています」
「あら、残念。穂乃果ちゃんの妹さんなら、きっと可愛いんでしょうね」
「とても生意気で、手を焼いています」
何気ない会話。
名前のようにキラキラと、ツバサが笑顔で喋り続ける。
店に来るまでずっと静かに穂乃果の話を聞いていたから、聞くのが好きな人なのかと思ったが、全然違った。
つかみどころがない、綺羅ツバサの魅力──
喫茶店を後にして、ビルを出るとすでに周囲は薄暗かった。
もっとも、街灯やビルの灯りは眩しくて、街は明るい。
今日はこれで終わりだろう。ツバサのことをたくさん知ることができたし、とても楽しかった。
すでに回想モードに入った穂乃果に、ツバサがやはり笑顔でこう言った。
「ねえ、穂乃果ちゃん。今日はまだ時間大丈夫?」
「えっ……?」
驚いてツバサを見る。
背丈は同じくらい。同じ高さの目線で、ツバサがじっと穂乃果を見つめている。
恥ずかしくなって目を伏せた。
「だ、大丈夫ですけど」
「よかった。きっともうしばらく会えないし、もう少し一緒にいたいわ」
その台詞に、穂乃果は奇妙な違和感を覚えた。
けれど、その時は理由がわからなかった。
唐突にツバサが穂乃果の右手を握ったから、あらゆる考えが飛んでしまった。
「行きましょう」
何事もなかったように、穂乃果の手を握ったまま歩き出す。
頭の中が真っ白になった。
確かに人通りは多いし、女の子同士で手を繋いで歩くことはある。
けれど、ツバサとはまだ会って2回目だし、そんな仲ではない。そういう仲になりたいかと言われたら、ツバサは美人だし、可愛いし、明るいし、面白いし、カリスマだし、なりたくないわけではない。
いや、そもそも「そういう仲」とは何か。友達だろうか。しかし、友達が手を繋いで歩くだろうか。
先ほどの違和感がはっきりとわかった。
『もう少し一緒にいたい』
行きたい店があるとか、したいことがあるとか、話したいとかではない。ただ、一緒にいたい。
穂乃果は顔が火照るのを感じた。
いや、勘違いだ。全部自分の勘違いだ。
ツバサが自分に、そんなに執着する理由がない。
あるいはこれが罠なのか? これこそが今日穂乃果を誘った目的なのか? 何のために? これが何をもたらすのか……。
「面白い顔してる。どうしたの?」
からかうようなツバサの声。
「い、いえ……」
平静を装っても、動揺は隠しきれない。
人混みの中を手を繋いだまま歩く。好奇の目で見て行く人もあるが、それを気にする余裕はない。
少しずつ人がまばらになり、やがて大きな公園が見えてきた。
ツバサはずっと、他愛もないことを喋り続けている。
穂乃果がこんなにも鼓動を速くして緊張しているのに、ツバサはずっと平然としている。ずるい。
公園に入ると、人影もすっかり少なくなって、寂しい雰囲気に合わせるようにツバサも口を閉ざした。
微かに冷気を帯びた風の中、繋いだ手だけが異様に熱い。
穂乃果はじっとツバサの横顔を見つめる。その内、あることに気が付いた。
歩き始めてから一度も、ツバサは穂乃果の目を見ようとしない。あれだけずっと見つめていたのに、まるで目を合わせるのが怖いように。
手が熱い。
果たして緊張しているのは自分だけなのか。ツバサが喋り続けていたのは、余裕だったからか?
疑問が頭をもたげる。
「ねえ、ツバサさん」
公園の小さな池の前で足を止めて、手を離して正面からツバサを見る。
ツバサも真っ直ぐ見つめ返した。
「今日はどうして私を誘ってくれたんですか? すごく楽しかったけど、目的がわかりません」
単刀直入に切り出した。
元々考えるのは得意ではない。
この空間、聞くなら今しかないし、穂乃果にそれを言わせるために、ツバサはここに来たようにも思える。
「会ってお話がしたかっただけ。それが目的で、それ以上の何もないわ」
「どうしてですか? どうしてあの綺羅ツバサさんが、私なんかと」
初めて、ツバサが動揺を見せた。
瞳を伏せ、落ち着かないように指を動かした後、意を決したように大きく息を吐いて顔を上げた。
「それは、私がμ'sの高坂穂乃果のファンだからよ」
「なっ……!」
穂乃果がひるむ。
それは予想外の答えだった。
もしも本当なら、確かに初めてのメールから今日までの、ツバサのすべての言動に合点がいく。
「で、でも、ツバサさんは全国一位のトップアイドルで、すごくたくさんファンがいて、すごい人です。私なんて……」
「関係ないわ。たとえ10万人のファンが私を好きでも、私は穂乃果ちゃん、あなたのファンなの。初めて見た時からずっと」
結局ほんの一瞬だった。穂乃果がツバサから主導権を奪えたのは。
一歩近付いて、ツバサは再び穂乃果の手を取った。
「さっき言った通りよ。あなたは私にはない魅力をたくさん持っている。ずっと会いたいと思ってた。私も今日は楽しかった。穂乃果ちゃんのことをいっぱい知ることができて、すごく嬉しかった」
「わ、私もです……」
あまりの展開に混乱をきたす穂乃果に、ツバサがさらに歩み寄る。
吐息がかかりそうな距離。ツバサの甘い香りが鼻腔をくすぐる。
「あなたとお友達になりたい」
「はい……」
「今日のこと、誰にも言ってない? 誰にも言わない?」
「はい」
「よかった。ありがとう」
軽く手を引かれ、ひんやりとした柔らかな感触が唇に触れた。
目の前に、まぶたを閉じたツバサの顔があって、鼻息がくすぐったい。
頭がくらくらした。
信じ難いが、ファンであるのはわかった。ファンだから友達になりたいのもわかった。
それが、どうしてキスに繋がるのか、まるでわからない。
硬直する穂乃果を弄ぶように、10秒くらい口づけをして、ツバサは顔を離した。
「誰にも言わないでね、穂乃果ちゃん」
そう言って笑ったツバサの頬は、見てわかるほど紅潮していた。
「は、はい」
それから後のことはよく覚えていない。
軽くハグをされた気がしたが、長い時間だったようにも思う。
気が付いたら街の中に戻っていて、駅でツバサが手を振っていた。
ぼんやりとしたまま、自室のベッドで今日のことを思い返す。
穂乃果のことを「穂乃果ちゃん」と呼ぶのは、二人の時だけだと言っていた。
あれも布石だった。穂乃果のために言ったのではない。
あのやり手のトップアイドルは、恐らく次に会う時は、何事もなかったように、しれっと「お互いに頑張りましょう、高坂さん」などと言うのだろう。
本当にずるい。
スマホを手にした。
ツバサからのメールはない。
もうわかった。きっと今日精一杯の勇気を出して、考えに考えた経路を完璧に辿れたことに満足して、後から押し寄せてきた緊張にドキドキしているのだ。
手に取るようにわかる。今ならツバサのことが理解できる。
『ライブでは動揺しないでね』
一言だけ送ってみると、待っていたかのようにすぐに返信があった。
『こっちのセリフね。私は動揺なんてしてないわ』
『手が震えてた』
思わず意地悪な笑みを浮かべて送ると、今度は少し間があってからこう返ってきた。
『バカ』
それで穂乃果は満足した。
翻弄され続けた今日一日を、形勢逆転で締め括った満足感。
『おやすみ、ツバサちゃん。今日はありがとう』
『こちらこそ。おやすみ、穂乃果ちゃん』
ライブまで後1週間。
自分の熱狂的なファンのためにも、最高のパフォーマンスをしたいと思う。
─ 完 ─