博物館の常設槍といつか大人になる少年。それはもしかしたら本物のかみさまで、もしかしたらあやかしとか悪魔とか呼ばれた血濡れの化生で、もしかしたら全部が全部ただ少年の見た幻だったのかもしれない。女性体日本号(びじゅつひんのすがた)あります趣味ですめちゃめちゃ夢見てます趣味です。黒漆の龍は実際いましたほんとだって!!

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いつか淡くなる

 姓を斎藤、名を宗弥と言う少年がその不思議な男に会ったのは、まだ彼が五つにもならない秋のことだ。

「おじさん、だれ?かみさま?」

「そうだな、かみさまだ。名前は日本号。そこに説明書きがあるだろう?」

 それが、日本号が殆ど三十年ぶりに人間と交わした会話だった。

 

 壁面いっぱいの大きなガラス板の向こう側に人の姿をしたものがいると誰かに話すのは“おかしい”のだと、幼い少年が気付く頃には彼はランドセルを選ぶような歳になっていた。

「かみさまの国に連れてって!」

 それが宗弥の口癖だった。どうして他の人には日本号が見えていないのかと聞くと、“自分はかみさまの国にいて、それは宗弥のいる場所との間には壁があるのだが、宗弥はその壁をすり抜けて日本号を見ることができるのだ”と、そういう説明を受けた。

「駄目だ」

 実際宗弥と日本号の間にはどうしても越えられない透明な板があったので、宗弥は一度それをすっかり信じた。だから宗弥は、かみさまに触るためにガラスの向こうのかみさまの国に生きたがった。

 

 “かみさま”はいつも、本名とは掠りもしない渾名で宗弥を呼んだ。下の名前まで名乗る前に大慌てで止められたのを不思議に思えば、かみさまが人間の名前を呼ぶのはいけないことなのだと彼が言うから、宗弥はさみしいのをなんとか堪えてにへい、にへいとその耳慣れない呼名に応え続けた。

 

 宗弥が中学に上がる直前の二月だった。その日展示ケースの向こう側にいたのはいつもの男ではなく、宗弥の知る中で一番の美女だった。

「誰だよお前!?日本号は?」

 大声を出しそうになって慌てて囁く宗弥に、美しい女はくつくつと笑って応える。

「なんだ、この格好は嫌いか?」

 声の高さこそ違えどその調子があの髭の大男と全く同じなものだから、少年は思わずぽかんと口を開けた。

「日本号……?マジで……?」

「応。なんなら今から男体に成ろうか」

「なんたい」

 言葉の意味がわからず聞き返すと、男の体と書くと補足される。目の紫色の中に、金や青のきらきらしたものが輝くのを見つけて、それにぼんやりと目を奪われたまま返事をした。

「そっちの方がきれいだからそれがいい」

「へいへい。一丁前に男だねえ」

 なんとも可笑しそうに笑うその表情は男の姿と変わりないはずなのに、ぞっとするほど美しくて、宗弥はこの先自分が彼女を作る日が来ないような気がして怖くなった。こんなものを見てしまって、この先自分がわずかにでも他の女を綺麗だと思える日が来るのか不安になる、そのくらいその女は美しくて、ああこれはかみさまだったなあと、宗弥は漸く実感した。

 

 流石にもうタダでは展示室に入らせてもらえなくなって、宗弥が毎週のように入り浸るのをやめたかと言えば、そうでもない。西新の駅は定期の範囲内で、日本号に会うのはむしろ電車賃が要った去年までの方が高くついた。

「ああ、そういう」

「なんだよ」

 濃紫に金で刺繍がされた着物──宗弥にはそれ以上の判別がつかなかった──に今日は身を包んだ日本号が、唐突に声を上げたのに宗弥が反射的に応える。

「いや、お前に似たやつが百年ばかり前にいたなあと思ってな」

 ぐる、と腹の底でなにか形のないものが蠢くのを感じた。それが緑の目をしていることに、気がつかないほど宗弥は自分に鈍感ではなかった。

「そいつ、名前は?」

 かみさまが自分を呼ぶ声、その呼名に何か意味があるのだと、とうに幼子でなくなった青年は思いたかった。

「仁平」

 それがかつて日ノ本一の槍の主人であったことを、宗弥は知らない。

 幼子のきらきらとした羨望と信仰とが、女体の日本号には一等輝いて見える感情である。叶うことならこれが欲しい、と至上の槍を見るその目が似ていたのだと、槍は言わなかった。もう大野が生きた時代とは違って、世は侠客に生き辛く、槍自身ももう個人に買われ贈られるような時代はとうに終わっていた。それがほんの少しのさみしさを女の声に産んで、もう青年と言っていい歳の彼にはそれが、元カレに未練たらたらのクラスメートに似て聞こえた。

「ああ。やっぱりあんた、俺のことなんて見てなかったんだな」

 その言葉が、断絶だった。

「他の何も見えるはずないんだよ、俺たちは(たましい)どころか思いだけのものだからな」

 すべては人が見る幻影に過ぎないと、氷の──否、鋼のような、冷えて鋭い表情の女が言葉ならずして言う。この世のあらゆるオカルティズムがそうであるように、いつでも人が神をつくった。それを、人の世の位階持つ鋼の神が知らぬはずもない。けれどそんな言葉も、最早青年の耳には言い訳にしか聞こえなかった。

 

 いつかの漠然とした恐怖は現実になっていた。

「俺、東京の大学行くから。帰省してもたぶんここには来ない」

 どうしようもなく、それは恋だった。一方通行の、それは恋だった。不幸は、その恋が鋼の龍でも青貝の螺鈿細工でもなく、黒髪の女に向いていたことだろう。

「そうか。寂しくなるな」

 そんな言葉も表面だけで、本気でないとわかっている。けれどそれでも、まだランドセルも背負わないくらいのあの日から宗弥の目にはずっと、着物のかみさまだけがいた。

「それだけ?」

 縋るような青年の言葉も、齢五百に届こうとする人外の女には大して意味のないようだった。

「五十年かそこら別れが早まっただけだろうが。何つって欲しかったんだよ」

「『かみさまの国』」

 もう彼は子供騙しのおばけに怯える幼子ではない。神隠しが山野に迷い込んで獣に食われ、あるいは人に攫われた子らの末路と知らないわけでもない。それでも、日ノ本一と謡われるこのかみさまが、自分をどこか遠くへ連れて行ってくれるのだと、宗弥は今でも、くらがりの幽霊を恐れる幼子のように信じていた。

「十年遅え。もう無理だ」

 

 とうに見えなくなって然るべきだった。いつまでも夢を見るなと、言ってやればよかったのかもしれない。自分がこの人間に道を踏み外させたのだと、日本号にはわかっていた。

 いつでも人が神をつくる。見えなくなればいつか夢になり綺麗なだけの記憶になれる。だから早いこと別れてやるべきだったなあと、笑んだその紅い唇が、宗弥の目にはテレビや雑誌のどんなモデルよりきれいに映った。

「じゃあな、」

 ふる、と頭を振っただけで日本号はいつかの男の姿へ変じる。この姿が武器としての姿で、この青年が好んだ女体は飾られる物としての姿だと、そう言ったこともなかったような気がする。槍とは戦うもので、血と戦場を知ればもう戻ることなどできなかったが、人がそれを知らなければそんなこともないのと同じだ。

「待てよ」

 焦りを孕んだ制止の声も、槍には届かない。三位の位が何か、この人間は知っていたろうか。それさえ知らないことに日本号は今更気がついたが、たかが人間ひとりの知識を、だからと言って特段気にすることもない。

()()()()。できれば長生きしろよ」

 それが告げたこともない名前を呼ばれた最初で最後のことで、夢の終わりだった。

 

 一つ瞬けばそれだけで、もうそこにあるのはただ、一条の槍だけだった。二つ、瞬く。ガラスの向こうにはやはり槍とパネルしかなかった。涙で視界が濡れないように、念入りに目を瞑って、顔を上げる。

 あの神を名乗る何かの姿に邪魔されず、槍の全景を見るのもたぶん始めてだった。煌めくその螺鈿の中に、男は龍を見た。黒く細い、殆ど紐のような龍を。けれど瞬き一つでそれも、ただ剥離した螺鈿の跡地が黒茶の漆色をしているというだけだとわかってしまう。

 それが斎藤の最後に見た槍の姿で、最後の、まぼろしだった。



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