死人達への手向けの花。
その花に触れてはならぬ。
その花はこの世ならざる花。
それは、彼岸の国の花。
魅入られ、触れてしまえば、お前も彼岸に行かねばならぬ。
「なー健太郎。しのぶ達は何をやっているんだ?」
「伊之助、訊いてなかったのか?しのぶさん達は、皆既日蝕の準備をしているんだよ」
「カイキ……ニッショク?なんだそりゃ。喰えんのか?」
「食べれないよ。お日様が月に隠れちゃうんだ」
「月に!?そんなことがあるのか!?」
「うん。俺も初めて見る。今回の皆既日蝕は、五百年に一度しか見れない現象らしいよ」
「ふーん……」
伊之助はそう言いながら、空に浮かぶ太陽を見上げた。釣られて同じように空を見上げると、一面に青い空が広がっていた。
「うん、今日もいい天気だな」
「よし!短八郎!今から走り込むぞ!俺に付いて来い!」
「うん!」
その日の蝶屋敷は大変慌ただしかった。蝶屋敷で働く看護師たちはもちろん、カナエさんやしのぶさんは朝からずっと机の上で何か薬を作っている。
とても細かい調整が必要な薬らしく、量や配分を間違えないよう、丁寧に計量をしながら調合している。俺たちは薬や薬草の知識はないから、手伝えることがほとんどない。ちょっと寂しい。
しのぶさんはそれを"蟲下し"と呼んでいた。ギンさんが創った薬だそうだ。
「この蝶屋敷が建てられた土地も、光脈筋なの。地中にある光脈が地上に生気を与えてくれるから、怪我の治りも早いのよ」と、カナエさんが言っていた。
「なんつーか、この屋敷、懐かしいんだよな」
「懐かしい?」
「俺がいた山と似ている」
「そうなのか?」
「裏にある山とか、獣や虫がすげー多い。ここにいるとすげー元気になれる」
伊之助は故郷の山を思っているのか、珍しく感傷的に、少し懐かしそうに言っていた。
蝶屋敷の匂いは、少し不思議だ。薬と、消毒液と、そして光酒の匂いが漂っている。
「アオイ、少し分量を間違えています。作り直してください。薬草の調合の比率は、7:3」
「はいっ」
「姉さんはお館様から鴉を何羽か借りてきて頂戴。蝶屋敷の鎹烏だけじゃ、隊士にお薬を届けるのが難しそうなの」
「分かったわ。炎屋敷の方にも、鴉を借りれるか訊いてみるわね」
「なほ、きよ、すみ。私達は薬を調合しているから、その間入院している隊士の人達のお世話をお願いします。何かあったら言ってください」
「「「はいっ」」」
「ふぅ……」
先週からずっと、蟲下しを調合し続けているしのぶは肩の力を抜きながらため息を吐く。ここしばらく、あまり寝れてない。
「大丈夫?しのぶ」
「うん。大丈夫よ、姉さん」
心配そうに問いかけるカナエに、しのぶは気丈に振舞った。
「まったくもう……弟子のしのぶにこーんなに働かせておいて、ギンくんはどこに行っちゃったのかしら?」
「所用があるって、さっき鴉から文をもらったわ。なんでも、この皆既日蝕中に起きる蟲がいるんですって」
「そうなの……でも不安だわ。お天道様が隠れる間、傍にいないだなんて……」
「大丈夫よ、姉さん。確かに先生はいないけど、ここにも蟲師がいるじゃない」
「……そうね。頼りにしてるわ、しのぶ」
ギン曰く。今回起きる日蝕は、五百年に一度起こる非常に珍しい現象らしい。
太陽の光は月によって遮られ、辺り一帯は薄暗くなる。太陽が隠れる為、その間鬼共が活性化する危険性があり、産屋敷の指令の下、隊士達は厳戒態勢を取っていた。
また、日蝕の間、蟲も急激に活性化する。日蝕の光は、普段微弱で眼に捉えられない蟲も力を増し、眼に捉えることができるようになる。蟲の数が増える為、蟲患いを起こす人も格段に増えると言う。
―――俺はしばらく留守にする。その間ここは任せたぞ。しのぶ。
「――はい。任せてください、先生」
産屋敷邸にて――
「うん。子供達への通達は済んだかな、あまね」
「はい。滞りなく」
「お父様……お天道様がいなくなっちゃうのですか?」
「いなくならないよ。少し隠れるだけ。太陽はいつも、私達を守ってくれる」
とある町の小さな診療所――
「珠世様。鹿神から文が届きました」
「愈史郎。ありがとう。文にはなんと?」
「青い彼岸花が咲く場所に向かっていると。一緒に、蟲下しの薬も同封されていました。日蝕が終わった後、もし患者に太陽を極端に恐れる者や、夜眠れぬ者がいたら処方してほしいと」
「そうですか。分かりました……あとはギンさんが上手く採取することを願いましょう」
「……これで良かったのでしょうか。俺はあの男に、まだ何も報いることができていない」
「それは私も同じですよ、愈史郎。鬼舞辻無惨を含め、我々鬼は"青い彼岸花"の手掛かりすら探し出すことができなかった。私達がギンさんに協力できたのは、失われた資料の捜索。あとは、彼が青い彼岸花を見つけられるよう祈るばかりです」
「……はい」
「さて。行くかね」
「……あ、おい見てみろ炭治郎」
「どうした、善逸……あっ」
「すげー!太陽が欠けていくぞっ!」
誰かが、『何かを見上げる姿は祈る姿に似ている』と言った。
蝶屋敷の住人達は、皆一様に庭に出て、空を見上げた。他の隊士達も、今頃空を見上げている所だろう。
少し雲が出ていたおかげで、太陽が徐々に欠けて行く姿ははっきりと見ることができた。
当たり前にある太陽が月に隠れていくその様は、あんなにも明るく暖かい太陽が消えていく姿は、心に不安の影を落とした。
辺りは薄い暗闇に包まれ、時刻は昼間なのに徐々に冷えていく。昼間なのに夜になってしまったかのように、外気に晒した皮膚は鳥肌を立てた。
「師範……寒いです」
「あらあら。カナヲったら、恐いの?」
「……」
こくりと頷くカナヲの表情は、どこか怯えが生まれていた。
「大丈夫よ、カナヲ。お天道様は少し隠れているだけだから。でも、忘れないで。私達はいつも、お天道様に守られ、生かされているということを」
「いつも、守ってくれる……?」
太陽が徐々に黒い影に呑みこまれ、やがて半分ほど太陽が月に覆われた頃だろうか。辺りに異変が起き始めたことに真っ先に気付いたのはカナエだった。
「……あら?……何かいるわ」
「え?ど、どこですか?」
カナエが宙に浮いている何かを指差した。
そこには、魚のような、クラゲのような、ひどく弱々しい小さな何かが空中を泳いでいる。
「ほら、そこにも……半透明の……光を帯びている……」
「本当だ……」
「綺麗」
「しのぶさん……これは何ですか?」
首を傾げる三人娘に、しのぶが答える。
「皆にも見えるようになったのね。そう、その生き物が私とギンさんが蟲と呼ぶモノよ」
「これが……ギンさんやしのぶさんが見えているモノなんですか?」
アオイがふと、導かれるようにその蟲に手を伸ばそうとするが、しのぶはそれを制した。
「迂闊に触れちゃダメよ、アオイ。微弱と言えど、蟲は蟲。影響を与えないとも限らない」
「は、はい。でも、本当に綺麗ですね……」
「これが……しのぶとギンくんが見えている世界?」
それはどこか幻想的で、儚い。闇の中を漂うモノ達。
自分達には見えなかった、本当の世界の姿。
こんなに小さくて、弱々しい。触れるとすぐに死んでしまいそうなのに、確かに息づいているように感じられる。
「これが……ギンさんが言っていた蟲……この中に俺に寄生していた招雷子はいるのかな……」
「……匂いも何もない。本当に……確かにここにいるのに、俺達には見えないんだな」
「くっそ!捕まえらんねー!どうなってんだこいつら!」
伊之助は虫取り網を持って捕まえようと振り回している。善逸と炭治郎は、蟲達に畏れを持ちながらも、その光景に目を奪われていた。
「日蝕の妖光は、本来蟲が見えぬ者にも見えるようになる……先生が言った通りだった」
日蝕で光を奪われていく太陽を眺めているうちに、月は完全に太陽と重なった。一筋の光も差さない暗闇で、カナエはしのぶの手をそっと握る。
「姉さん?」
「……しのぶは、いつもこんな風景を見ていたのね」
感覚を、自分が見た物を相手に伝えることは難しい。自分の価値観を。自分が見てきた物を。そのままに相手に伝えることはできない。
蟲が見える者の感覚を、見えない者と共有することはできない。
「しのぶが見えているモノを見れて、私はとても嬉しいわ」
「……あんまり見えても楽しいモノじゃないわよ」
困り顔で笑うしのぶに、カナエは首を振る。
「それでも嬉しいの」
ずっと妹のことが心配だった。
両親を鬼に殺され、その後すぐに見えないモノを見ることができるようになってしまった妹。
その見えない何かに苦しめられていたしのぶを、カナエはずっと助けたかった。異形の存在が常に視界にいる――異形の存在である鬼に強い憎しみを持つしのぶに心労が積み重なるのは、当然だった。
けれど、蟲を見ることができないカナエが、しのぶにできることは、何もなかった。
そんな時だった。
「紹介しよう、カナエ。君の教育係である"蟲柱"鹿神ギンだ。柱になった君をしばらくの間手伝ってくれるように頼んでおいた。彼は眼に見えない異形のモノ達を対処する術を持っている。もし何か困ったことがあれば、彼を頼るといい」
「おう。お前さんが新しい柱か。噂に違わず、随分な美人だな」
花柱に就任したカナエにお館様が紹介したのは、鹿神ギンという、異質な見た目の青年だった。
その風貌には見覚えがあった。鬼殺隊に入隊するための試験、自分が受けた最終選別の時、鬼を怒涛の勢いで狩っていた同期の少年だったのだ。自分より早く、柱になっていたのだ。
その年の最終選別は、たった一人を除いて全ての隊士が合格。藤襲山に閉じ込められていた鬼のほとんどを、ある3人の受験者が狩り尽くした異例の年だったと後に聞いた。
その3人の内の一人が、鹿神ギンだった。
「妹が何か見えている?そりゃ、ひょっとしたらミドリモノ……蟲かもしれねえな」
ギンくんには、とてつもない恩がある。
妹の悩みを解決してくれただけでなく、私の命も助けてくれた。
もしギンくんに会わなかったら……どうなっていたか、想像に難くない。
少なくとも、私はあの雪の日に鬼に殺されていただろうし、残されたしのぶは復讐に憑りつかれていたかもしれない。
あの日、両親が殺されてしまった時の恐怖や悲しみ、怒りを、またしのぶに味わわせてしまう所だった。
それになりより、蟲に苦しむしのぶに、彼らを祓う術を教えてくれた。
どんなに孤独だったのだろう?
見えないモノが見えてしまう。他の人には見えず、自分だけにしか見えない世界。
「今まで何もできなかったお姉ちゃんでごめんね、しのぶ」
独りにしてごめんね、しのぶ。
「……姉さん……いいの、いいの……姉さんが謝ることなんて……」
「あらあら。泣かないのしのぶ。お姉ちゃんはしのぶが笑った顔が好きだなぁ」
きよ達は伊之助たちと庭を楽しそうに駆け回っている。
空中を漂う本来見えないモノ達を追いかけて。
蝶と蟲が飛び交う庭はまるでここが蝶屋敷じゃないみたい。
でも、何故かしら。
しのぶしか、ギンくんにしか見えなかった世界が見えることが、こんなにも嬉しい。
あのおかしな生物を見れることが、姉さんたまらなく嬉しいな。
「あっ、太陽が出てきたっ」
「キャッホー、あったけー!」
「ふぅ。やっぱり太陽が出てないと怖ぇよ……」
しばらくすると、太陽が出始める。月の影からズレるように出ていく。
「あ……蟲達が……」
「消えていっちゃう……」
「捕まえることできなかったね……」
日蝕は終わり、やがて元の日常へ戻っていく。
太陽はあっと言う間に青い空の中心へと戻り、蟲達は闇へと戻っていく。
「しのぶ、大丈夫?」
「……うん。大丈夫。ありがとう、姉さん。私もう、一人でも大丈夫だから」
「……さすが、しのぶだわ」
けれど、闇の中でしか、見つけることができない物もある。
かけがえのない物を。
空は本来の青さを取り戻していく。
月が少しずつズレて行き、地上に光を与えていく。
――最初、鬼殺隊に入隊してやったのは、鬼舞辻無惨に"青い彼岸花"なる蟲を処方した、蟲師の記録を探すことだった。
蟲の対処法と言うのは、過去の積み重ね。研究日誌とでも言うべきか。
先人達が得体の知れない蟲に出会った時、記録を取り、検証し、対処する。それが蟲師の記録だ。
俺は原作の蟲師のおかげで蟲の知識はある程度知っていたし、シシガミの森で多くの蟲と触れ合ったおかげでほとんどの蟲についての情報は知っている――が、"青い彼岸花"なんて蟲はシシガミの森にはいなかった。
千年以上前の蟲師の記録なんて、世に出る物じゃないし残る物じゃない。けれど、残っている可能性は零ではない。産屋敷の全面的な協力もあって、かつてその蟲師が西――鬼舞辻無惨が京の都で暮らしていたこともあり、関西方面で活動していた蟲師だと言うことは突き止めた。
――その蟲師の活動範囲が分かったら、西日本の蟲の生態を研究すること。
地方ごとの民話や伝承。蟲らしき目撃情報。
片っ端から根こそぎ、探し回った。それこそ、草の根をかき分けるように。
小さな里や村を巡って、その土地にある言い伝えを。
調べていくと、分かったのは600年ほど前まで蟲師が何人もいたと言うこと。
だが、ある時期を境に蟲師が一気に途絶えているということが分かってしまった。
蟲師達が、先人たちが集めてきた、蟲に対処するための術を全て記録した"狩房文庫"も、蟲師達が各々につけていたはずの研究記録も。ほとんどが焼かれて消されていた。
だから俺は、
過去の蟲師の記録を見つけるのではなく、改めて自分で蟲を発見する。ちまちまあるかないかも分からない蟲師の記録を探すより、そっちの方が効率的だと考えたからだ。
幸い、千年前の蟲師が関西を中心に活動していたことは分かっている。
日本全国から蟲を探すより、半分に絞って蟲を探す方がまだ見つかる確率はあがる。
けれど、鬼狩りになって約九年。
九州、四国、中国、近畿をくまなく探し回っても青い彼岸花は見つからなかった。
ムグラを駆使しても、ヌシ達に訊いても、青い彼岸花は生えている場所が見つからなかった。
さすがの俺も悩んだ。青い彼岸花なんてないのでは……別の方法で鬼を人に戻す方法を探すべきなんじゃないかと考えた。
けれど――見えないモノこそ、惑わされてはいけない。
見つからない時は、視点を変えるべきなんだ。
普通の花のように、季節ごとに生え変わるような花じゃない。規則正しく、春夏秋冬に変わるような大人しい花ではない。かと言って、ただ遺伝子異常で突然変異を起こした花でもない。
特殊な条件下でしか生えない花。あるいは、特殊な条件を満たさないと現れない蟲。
千年前。
西日本で起きた特殊な事象。
地震、雷、異常気象、津波。
そして―――月蝕と、日蝕。
ここ千年間の災害史や天文史は、珠代さんが見つけて来てくれた。本当に正確な記録で、思わず涙が出てしまったほどだ。
そして、俺が最も欲しかった記録は見つかった。
そして、千年前と五百年前に、奇妙な記録が残っていた。
――日蝕が数日間、続く地方がアリ。
日蝕や月蝕は、何日も続く現象じゃない。何故なら太陽と月は常に動き続けているから。日蝕が続いても長くて五分程度だ。
そして日蝕を起こす蟲には、心当たりがあった。
空を見上げると、影のような何かが、煙のように上空に集まっていくのが見えた。
その煙のような何かは、蟲の群体だ。多種多様の何十種類もの蟲が、陽の光を覆っていく。
「出たな。"
九年間探し続けたよこのヤロー。
「さっさと見つけますか。青い彼岸花」