え?蟲師の世界じゃないの?   作:ガオーさん

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常の闇

 ここは……無限城か。私は、鳴女と……無惨様によって、ここに連れ戻されたのか。

 首を斬られかけ、死に瀕し、逃げ帰ってきた。

 

「無様だな、黒死牟よ。たかだか柱二人相手に、その有様か」

 

 腕が、再生せぬ。

 あの蟲師に斬られた左腕が、再生しない。血が流れ続ける。止血の呼吸をするなど、一体何百年ぶりだろうか。

 少しずつ傷口が塞がりつつあるが、完全に私の腕が再生することはもうないだろうと分かった。私の身体に入れられた、"日蝕みの核"とやらが、私の鬼としての力を弱め続けている。

 剣士の命である腕を、奪われた。あの蟲師に。あの炎柱に。

 

「鳴女を使って大量の鬼を送り込んだにも関わらず、青い彼岸花も回収できず、おめおめと生き残った貴様は一体なんだ?」

 

 蟲師……鹿神ギン、そして煉獄杏寿郎……。

 恐らく炎柱は死んでいるはずだが……。

 

「私はお前を買い被りすぎていたようだ。あの忌々しい蟲師から"青い彼岸花"を奪ってくるという簡単なことすらできぬ。ようやく、ようやく青い彼岸花を手に入れられると期待したのに、貴様が失敗したせいで私は今不快の絶頂にいる」

 

 あの時、鬼にされた後、興味本位で指先だけを陽の光に当てたことがある。

 

「童磨が殺され、上弦の月は欠けたままだ。これ以上の戦力の低下は好ましくない……が、貴様はどうやらあの蟲師によって私の力を封じられたようだな」

 

 あの時の痛みが……今もなお私の身体の中で暴れている。臓腑をじりじりと焼かれるような痛みが、治まらぬ。

 

「片腕を失い、鬼の力を失った貴様を生かす価値など、最早私にはないように思える」

 

 ――ああ、この感覚には覚えがある。

 

「最期に言い残すことはあるのか?」

 

 全身を焼き尽くす音。身体の奥から湧き出る憎悪。

 

 鹿神、鹿神、鹿神、鹿神、鹿神!

 

「最早……興味はない……」

「何?」

()()……あの男を……必ず……殺す……」

 

 片腕を失おうとも。再生能力を失おうとも。

 俺はまだ戦える。戦う。

 日の呼吸の使い手も。蟲師も。鬼狩り共も。今度こそ皆殺しにしてやる。

 憎い。憎い。憎い!!

 

 ――人が行き着く先は、いつも同じだ

 

 あの男の言葉は、在り方は、縁壱を想起させる。

 俺の双子の弟。日の呼吸の使い手。俺の半身。

 

 ――道を極めた者が辿り着く場所は、いつも同じだ

 

 吐き気がする。

 何故そのような眼ができる?姿形は弟と似ても似つかないのに、何故一番忘れたい弟の顔を、声を、言葉を思い出させる?

 何故縁壱と同じ眼ができるんだ。忌々しい、忌々しい、忌々しい!

 

 己の身を斬り付けたあの男を許さぬ。断じて許さぬ。

 あの男を殺したい。あの男に勝ちたい。完膚なきまでに徹底的に殺したい。

 

 剣の腕は俺の方が圧倒的に上だった。俺の方が強い、それは事実だ。

 だが鹿神と煉獄は人の身でありながら、己より圧倒的に剣の腕は劣るのに、己の頸を落としかけた。あれほど痛めつけ、立てないほど切り刻んだはずなのに、かつての縁壱のように己の頸を斬りかけた。何百年もの間、どんなに強い柱もなし得なかったことを。

 

 あの男に勝てば――縁壱。お前と同じ世界が、俺にも見えるのか?

 

「……気に入った。その憤怒、その憎しみ」

 

 子供の姿をした無惨様が、懐から小さな瓶を取り出した。

 瓶の底には赤黒い泥状の液体が入っているのが見える。確かあれは――

 

「これは、"腐酒"と言う。昔、私の配下の蟲師に採ってこさせた極上の美酒だ。千年以上生きていると食い物を旨いと言う感覚は薄れていくが……これだけは美味だ。私はこれを飲み、()()()()()()()()()()()()を手に入れた」

 

 からんころん。

 

 倒れ伏している俺の前に、その瓶が転がされる。ガラス瓶に嵌められたコルクの蓋からかすかに匂う、甘い果実酒のような匂い。

 

「だが、お前達ではその"腐酒"の力に耐え切れず、精神を溶かしてしまうかもしれぬ。だがそれに順応すれば――更なる強さを手に入れよう。黒死牟。そして私の役に立て。今度こそ青い彼岸花を奪うのだ。その蟲師を殺して」

 

 

 

 ―――ああ、ありがたい

 

 

 

 俺は飛びつくように瓶を手に取った。

 

 

 

 ――更なる強さを。圧倒的な強さを。

 

 

 何かを掴めそうだったんだ。あの男と戦っている最中に。

 

 森を体現したかのようなあの男を殺せば、何か答えを得ることができる。

 己が欲してやまなかったモノを、手に入れることができる。

 

 身体の内を焼き付ける太陽の痛みが、己を復讐に突き動かす。

 

 俺はその酒を、口の中に流し込んだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「ギンさん!ギンさん!」

 

 血がどんどん零れ落ちていく。全身の切り傷がヒドイ。あんなに強かった先生が、ここまでやられてしまうだなんて想像もしていなかった。

 上弦の弐と戦って姉さんを助けたときだって、ここまでひどくなかった。

 だから、これからもギンさんはどんな鬼が来たってきっと勝ってしまうんだろうと信じていた。信じてしまっていた。

 ああ、どうして忘れてしまっていたんだろう。好きな人や大切な人は明日も生きていると、漠然とそう信じてしまう。そんな保証、この世のどこにもないと言うのに。

 

「しのぶ……」

 

 持ってきた止血薬や包帯で必死に手当をしていると、ギンさんは痛みに喘ぐように私の名前を呼んだ。

 

「ギンさん、喋らないで!止血の呼吸を続けて!今、"光酒"を投与しますっ、だからもう少し堪えて……!」

「手を動かしながらでいい……聞いてくれ」

 

 なんで、そんな眼をするの。まるで最期を覚悟したようなことを言わないで。

 ふざけないで、ふざけないで。私はあなたを見殺しにするために、医術を学んだんじゃない。あなたの力になりたいから今まで頑張ってきたの。

 私はギンさんの傷を手早く縫合していく。

 絶対助ける。絶対死なせない。

 煉獄さんに頼まれたんだ。『ギンを頼む』って。分かってる。私も絶対に死なせない。

 

「"青い彼岸花"を見つけた……上弦の壱の襲撃は……それが目的だった」

 

 その言葉を聞いた時、私の手が一瞬、時を停められたようにぴたりと止まってしまう。

 

「"青い彼岸花"の正体は……"日蝕み"という蟲の妖光を浴びて突然変異した花だ……俺はそれを見つけ……隠した……ガホッ、ゲホッ」

「ギンさん、喋らないでっ……!」

 

 "青い彼岸花"。鬼舞辻を鬼にした元凶。鬼殺隊の悲願は『鬼舞辻の抹殺』。その為に青い彼岸花を探し求めた。

 それを、見つけた?千年間、誰も見つけられなかったその花を。確かに前回の柱合会議で生える場所を見つけたと言っていたけど、まさか本当に?

 

 

 あまりにも衝撃的な事実に思わず手を止めてしまいそうになる。けれど、今はそれどころではない。すぐに頭を切り替え、ギンさんの手当を続ける。

 

「その花は蟲の気を帯びているが常人にも見える……だが、陽の光に当てると枯れてしまう……だから俺は……"あの場所"に隠した。あとは、お前に、託す」

「あの場所?託す?何を言っているんですかギンさん!縁起でもない!まるで最期の別れみたいに……!そんなこと言わないで!私が絶対助けるから!先生から習った医術で!私が!」

 

 

 

 

「"花柱代理"胡蝶しのぶ」

 

 

 

 

「―――――ッ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「お前が、次の"蟲柱"だ」

 

 

 

 

 

 

 ギンさんはそう、嬉しそうに微笑みながら言った。

 途端、脳裏に過るのは、数年前の、私とギンさんの会話だった。

 

 

 

 

 

 

 

 ―――いずれ柱の名を襲名するのなら……先生の、"蟲柱"の名を、頂戴したいと思います。

 

 ―――こんな名、お前に合わねえよ。"蟲"だなんて。"花"でいいじゃねえか。そう思わねえか?耀哉。

 

 ―――なんでですか!私は確かに未熟ですが、蟲師なんですよ!先生の"蟲柱"の方がいいと思うのは当然じゃないですか!それとも私に"蟲柱"は荷が重いとでも言うんですか!

 

 ―――そうじゃない。蟲より花の方がお前に合うと思っているからだよ。美人だからな。それなのに"蟲"なんて名前、似合わねえよ。

 

 ―――なっ、なっ!もう!先生はいつもいつも私を馬鹿にして!

 

 ―――ま、こんな名で良ければくれてやるよ。お前が一人前になったらな。

 

 

 

 

 ぽたりと、涙が落ちた。

 あの時の約束を、覚えてくれていたの?

 私は忘れていた。私はずっとギンさんの継子で居続けるつもりだったから。

 だって、確かに"蟲柱"の名前がいいと言ったけど、先生よりその名前が相応しい人を、私は知らなかったから。

 口数が少なくて、天然で、時々頭が悪いことを言って、誰よりも森や生物を大切にする人。

 国中を回り、多くの人を助けてきた人。

 私が一番尊敬する――

 

 

 

「あそこに……上弦の壱の鬼の腕」

 

 ギンさんは震える手で指を差すと、そこには見慣れぬ誰かの腕が落ちていた。おそらく、ギンさんが斬り落とした鬼の腕なのだろう。

 

「禰豆子の血……そして青い彼岸花……これだけあれば、鬼を人に戻す薬も創れるはずだ。例え創れなくても……お前の毒を強くすることもできるだろう……何かあったら、珠世と言う医者を訪ねろ……場所は、炭治郎が教えてくれるはずだ……」

「私に……それを、創れと?」

 

 無理、無理ですよ先生。私、先生にまだまだ習いたいことがたくさんあるんです。独りじゃできないです。先生に助けてもらわないと、私は。

 

 

「自信を持て……しのぶ……お前は、俺のたった一人の弟子なのだから」

 

 

 ギンさんがそう言った瞬間、突如ギンさんの右目から、"闇"としか形容できない何かが溢れだした。

 その闇はギンさんの全身を覆うように広がっていき、呑みこんでいく。

 

 

「先生!!」

 

 

 ――取り込まれる。

 

 

 私は咄嗟に、ギンさんの手を掴もうとした。連れて行かないで。私の大切な人を、連れて行かないで!

 

 だが、私が手を掴むより早く、"闇"がギンさんの身体を包み込んだ。

 

 

 

 ―――え?

 

 

 

 次の瞬間には、ギンさんはもう、どこにもいなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「―――以上が、"蟲柱"鹿神ギンが行方不明になった経緯です」

 

 産屋敷邸は、重苦しい空気に包まれていた。

 

 下弦の壱を討伐、無限列車に乗り込んでいた乗客二百人は一人も死ななかった。

 

 しかし、下弦の壱を討伐後、間髪入れずに上弦の壱が来襲。更に百体近い鬼が出現し、総攻撃を仕掛けられたのだ。上弦の壱――"黒死牟"と呼ばれる、恐らく始まりの呼吸の剣士の一人であろう鬼に、"蟲柱"鹿神ギンと"炎柱"煉獄杏寿郎が応戦。

 そして残りの鬼を、竈門炭治郎、我妻善逸、嘴平伊之助、竈門禰豆子以上四名が乗客を守護。"水柱"冨岡義勇、"水柱継子"鱗滝真菰、"花柱継子"栗花落カナヲが到着するまで、何十体もの鬼をたった四人で奮戦し、乗客を二百人も守り切ると言う快挙を成し遂げた。

 

 我妻善逸は両足の骨折、嘴平伊之助は切傷が多数負わされた程度の怪我で、命に係わる怪我を負うことはなかった。

 

 しかし、上弦の壱と応戦した"炎柱"煉獄杏寿郎は死に、そして"蟲柱"鹿神ギンは行方不明となった。更にあと一歩まで追い詰めた上弦の壱は、敵の血鬼術で逃亡するという最悪の事態に。結果的に、二人の柱を喪うという痛手を負ってしまう。

 戦いから一夜明けたが、駆け付けた"隠"の部隊の懸命な捜索に関わらず、鹿神ギンの手掛かりは見つけることすらできなかった。彼が持っていた刀も、どこかに消えてしまった。

 

「ご苦労だったね、しのぶ。大丈夫かい」

「いえ……」

 

 しのぶの表情は暗い。眠れていないのか、目の下の隈がくっきりと残っているのが耀哉の目にも見えた。

 "炎柱"の訃報、そして"蟲柱"の消失は、直ちにカラス達によって柱達へ伝えられた。

 死を嘆く者、動揺を隠しきれない者、己の使命をただ淡々とこなす者、上弦の鬼への警戒を強める者、二人の死を信じぬ者、その反応は三者三様であった。

 

「――死んでない。絶対に生きている」

 

 "水柱"の冨岡義勇は、今もいなくなった弟弟子を探して回っている。継子の真菰や炭治郎と一緒に。

 

 

 

 

「――しのぶは、ギンが姿を消したことについてどう見る?」

「……分かりません。ですが、こうではないかと推測が」

「聞かせてくれるかい」

「おそらく……先生は"常闇"に囚われてしまったのではないかと」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「――先生は、どうして片目がないんですか?」

 

 先生の継子として本格的に修行を始めたしのぶは、ある日、ずっと気になっていたことをギンに尋ねた。

 ギンは隻眼だ。鬼と戦って怪我を負ったとかではなく、気付いた時にはそうなっていたとギンはしのぶに語った。

 

「銀蟲と言う蟲がいる。俺は昔、そいつに遭ったらしい。そいつが放つ光を浴びると、目を失うんだ」

「――らしい?」

 

 珍しくはっきりとしない口調に、しのぶが首を傾げる。

 

「はっきり言うとな、覚えてないんだ。その蟲に遭った時のことを。その蟲は"常闇"と呼ばれる空間に棲んでいる。陽の光もない、真の暗闇。お前に教えた"瞼の裏"と同じような空間だ。そこに長い間いると、記憶を失ってしまうと言われている。自分がどうして常闇の中にいるのか、自分の名前や過去の記憶、全てを」

 

 記憶を失う……それは、どんな感覚なのだろう。思い出を、親のことや、家族のこと、友人のこと、全てを忘れてしまうと言うのは、どんな気持ちなのだろう。

 

「しのぶは、夜の山を歩いたことはあるか?」

「はい。任務で何度か。山の中に潜む鬼を狩る為に」

「……暗い山の中を歩いていると、さっきまで道を照らしていた月が急に見えなくなったり、星が消えたりして方向が分からなくなる時がある。それは普通にもあることだが、さらに自分の名前や過去の事も思い出せなくなってるようなら、それは常闇が傍に来ているからだと言われている」

 

 常闇は、暗闇の奥底にじっと潜む、闇の姿をした蟲らしい。陽が差さない夜の中や物陰を蠢き、小さな蟲を喰らう。

 その蟲はどんな大きさをしているか分からない。闇はどこにでもある身近なモノだからだ。光に当てれば小さくもなるし、山一つを覆うほどに大きく膨らむこともあると言う。

 

「時折、自分の記憶を失った人間が山から下りてくることがある。そういう輩は、常闇に記憶を奪われてしまっている場合がほとんどだ。記憶を失うのは辛いことだが、大抵の場合は常闇から永遠に抜け出すことができず、常闇と同化しちまう。記憶を失っても、あちら側にいかない分だけ、まだ幸せかもしれん」

 

 常闇の中は無の世界。そこは人間や生物が暮らす現世とは、また別の法則が流れている異空間だと、ギンさんは言った。確かめたことはないが、生と死の狭間、黄泉の国に近い場所なのかもしれないと。

 

「俺は何故かその常闇の中にいて銀蟲に遭っちまったらしい。で、こうなった。おかげで生まれも何も覚えていない。覚えていたのは蟲のことだけだった」

 

 ひょっとしたら、銀蟲に遭う前は蟲師だったのかもな、と先生は笑った。

 つまり先生の今の姿は、銀蟲と言う蟲に出会ったせいであり、その銀蟲が暮らす常闇の中を彷徨った結果、過去の記憶を失ったそうだ。

 

「太古の人々は神々の威光を直接目にすると、目を潰されると信じていた。おそらく、銀蟲はそういう類の蟲だったんだろう。俺の眼は片方なくなり、残った眼や髪はこんな色に変わっちまった」

「先生は、辛くないんですか?」

「まさか。記憶があろうとなかろうと、今の俺は充実している。昔の鍛練は地獄だったからな……片目だからって目隠し修行ってなんだ……」

 

 ギンさんはぶつくさと文句ありげにそう言って、蟲煙草を吸い出した。

 

「この眼についてもいろいろと折り合いはついた。右目の"闇"は蟲を呼び寄せる厄介なモンだが、付き合い方を間違えなければ悪くはない」

「先生……煙草臭いです」

「蟲の対処法だから。だから大目に見てくれ」

「もう……」

 

 呆れながら私は笑ってしまう。昔は煙草を吸っている男の人には、近寄りたくもなかったなぁ。煙の臭いを漂わせた人を見ると嫌で仕方なかったのに。先生の蟲煙草に慣れてしまっていた。

 その時、私はふと気になったことを尋ねた。

 

「そうだ、先生」

「ん?」

「"常闇"から出るには、どうすればいいんですか?」

 

 自分の名前や過去の記憶を思い出せなくなってしまってしまったら、どうすればいいのだろう。

 目的地も分からない暗闇の中を、永遠に歩かなければいけないのだろうか。

 姉さんや、死んだ両親のことを忘れて、ただ歩かなければいけないのだろうか。

 

「……どうにか、自分のことを思い出せば抜けられると言う話だ」

「どうしても思い出せない時は?」

「なんでもいい。すぐ思いつく名を自分につければいいそうだ」

「そんな簡単な方法でいいんですか?」

「言うだけなら簡単だが、それが一番難しいんだ。それに、新しい名を付けると、前の名だった頃の事は思い出せなくなるそうだ」

 

 ギンさんは――昔、どんな人だったのだろう。その常闇に囚われる前の姿や、どんな所で暮らしていたのか。常闇に出会わなければ、ギンさんは鬼狩りとして、蟲師として、今私の目の前にいなかったのかもしれない。

 

「……なんだよ、嬉しそうにしやがって」

「いーえ、なんでもないですよ先生。そうだ、せっかくですし新しい義眼を作りませんか?翠もいいですけど、違う色の眼にして。髪の色も染めて、オシャレをしてみましょうよ。カナエ姉さんもきっと協力してくれるはずです」

「楽しそうだなお前。やんねーよバカ」

 

 過去のたらればを考えても、意味はない。けれど、先生が今、自分の前にいることが嬉しかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「"銀蟲"と"常闇"については、先生からそう聞かされていました。あの日、先生が消えた時、右目の常闇があふれ出たように私には見えました」

「――ギンを見つける手立ては、ないと?」

「……今の私では……」

「そうかい」

 

 しのぶは普段通り変わらない様子のお館様の言葉に疑問を覚えた。ギンはお館様のことを親友だと、一番古い友人だと自慢げに話していた。お館様も柱合会議のあと、ギンの旅の話を聞くのをいつも楽しみにしていた。

 二人は仲が良かった。けれど、お館様はギンが消えても何も変わらない。私は自分の師が消えてこんなにも胸が痛いのに、この人は何も感じていないのだろうか。

 

「お館様は、どうしてそんなに落ち着いていらっしゃるのですか?」

 

 少し、嫌味の感情が滲み出ていたかもしれない。親友が消えたのに、なんでそんなに落ち着いていられるんだと。八つ当たりに近い感情だったかもしれない。

 

「……本当は、辛いんだ。とても」

 

 すると、耀哉はいつもの微笑みを崩し、影のある表情を浮かべた。しのぶには、その表情は今にも泣き出しそうな子供の顔に見えた。涙を必死にこらえている少年の顔だった。いつも大人びた荘厳なお館様からは想像ができない。この人はこんな顔もするんだと、しのぶは驚き、すぐに自分がしたことを恥じた。

 

「失礼しました、お館様」

「……しのぶの言いたいことも分かるよ。本当は私もギンを探しに行きたい。もう二度と彼と会って話すことができないと考えると、自分の心を半分に斬られたような痛みが湧き出てくる。けれど、当主として、子供達を導く者として、耐え忍ばなきゃいけないんだ」

「……はい」

「私はここから動けない。だからしのぶ。ギンと、"青い彼岸花"を探して欲しい。ギンの一番弟子の君なら、きっとギンを見つけることができると信じている」

「――御意」

「頼んだよ、しのぶ」

 

 しのぶは頭を下げ、耀哉の言葉を胸に産屋敷邸を後にしようとした。

 中庭から去ろうとした時、耀哉はしのぶの背中に問いかける。

 

「しのぶ。ギンはこう言っていた。『もし自分の身に何かあれば、しのぶに"蟲柱"の名をあげてやれ』と。君は、この名を受け取るかい?」

「――必要ありません、お館様。まだ先生が死んだと、私は信じていないので」

「よかったよ。私もまったく、同じことを考えていたからね」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「―――しのぶ!」

「カナエ姉さん」

 

 蝶屋敷に戻ると、姉のカナエがすぐにしのぶを出迎えた。

 

「お館様は、なんておっしゃってたの?」

「しばらく、私はギンさんの捜索に専念させていただくことになったわ。炭治郎君達は?」

「……やっぱり、相当堪えてるみたい。さっき煉獄さんの最期の言葉を伝えるために、炭治郎君が炎柱邸に行ったらしいけど……病室でまだ泣いてるみたい」

「そう……」

「でも、昨日よりずっとすっきりした顔になってたわ。きっとあの子なら、立ち直ってくれると私は信じてる」

 

 煉獄の最期の言葉は、しのぶはあまりはっきりと聞いていない。ギンの話と手当に集中し、炎柱は炭治郎に言葉を遺していた。自分が聞き出すのも憚られていた。

 

「ギンくん、どこに行っちゃったのかしら」

 

 ギンが消えたと言う報せが届いてから、蝶屋敷の雰囲気はどことなく重く、暗い。

 いつもはきはきとしている神崎アオイもミスが多かった。なほ、きよ、すみの三人も、どことなくしょんぼりしている。

 蝶屋敷は珍しく、蟲避けの為の蟲煙草の匂いがしない。

 あの人がここにいないことなんてよくあることだったのに。もう二度と帰ってこないかもしれないと考えるだけで、こうまで変わるのかと胸の中に孔が空いたような気分になってしまう。

 

「……分からない。"常闇"なんて、簡単に見つけられるような蟲じゃないし、もし見つけたとしてもどうなるか分からないから……」

 

 常闇の発生場所は、夜の山の中ということしか分からない。ギンもこの蟲について深く研究していたそうだが、この蟲の目撃情報を掴むことがほとんどできなかったらしい。というのも、この蟲に遭遇したほとんどの者が記憶を失ってしまうからだ。この蟲については分からないことの方が多い。どんな危険を孕んでいるのか分からないこの蟲には、ギンは近付かないようにしろとしのぶに厳重に注意をするほどだった。

 

「でも、絶対に見つける。絶対に探し出してみせる」

「しのぶ……」

 

 心配そうな表情をするカナエだったが、その瞼は赤く腫れあがっている。柱として鬼殺隊で働いていた時、ギン、そして杏寿郎と何度も合同で任務に向かった。引退した後も、蝶屋敷に時折帰ってくるギン、そしてギンの顔を見に来る杏寿郎と何度も言葉を交わした。時には杏寿郎の継子であった甘露寺蜜璃と共に茶店に何度も足を運んでいた。

 

 旧友である杏寿郎の死、そして想い人であるギンが姿をくらませた。

 その心労は計り知れない。

 大切な姉さんの為にも、ギンさんを早く見つけないといけない。

 

「大丈夫、安心して姉さん。私が絶対連れ戻すから。だから、いつもみたいに姉さんは笑って待ってて。いつでもギンさんが帰ってきてもいいように」

「……そうね」

 

 頼むわね、しのぶ。

 

 カナエはそう言って、しのぶの頭をそっと撫でた。蟲を見ることができないカナエには、できることは何もない。ただ待つことしかできない。

 なら彼が帰って来るまで、信じなければ。妹を。あの人の弟子を。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 上弦の壱との戦闘から二か月。

 "隠"の懸命な捜索にも関わらず、鹿神ギンは見つからなかった。

 水の呼吸一門も心当たりがある場所や、山の中を必死に走り回ったが、ついに見つけることはできず、産屋敷当主である産屋敷耀哉から、正式にギンの捜索を打ち切られた。

 

 例え柱が消えようとも、鬼達はのうのうと人を喰い、力をつけ、生き永らえている。

 

 時間は有限。鬼は人を喰うのを待ってくれることはない。死んでしまった煉獄杏寿郎の為にも、戦い続けなければいけない。

 "水柱"冨岡義勇はそれでもギンはまだ生きている、探すべきだと必死に主張していたが、他の柱や耀哉の反対により、ギンの捜索を打ち切られることとなった。

 鹿神ギンの捜索は弟子の胡蝶しのぶに一任し、他の柱は任務に集中するべきだと。

 

「……俺に蟲は見えない。だから胡蝶、頼む」

 

 柱合会議の時、無口で無表情な義勇からは想像もできないほど悔しそうな言葉で、義勇はしのぶに頼み込んだ。

 

 お前にしかギンは見つけられない。俺の兄弟を頼むと。

 

「……普段からそれぐらい喋ればいいのに。だから嫌われるんですよ、義勇さん」

「俺は嫌われてないっ……」

「はいはい……任せてください、義勇さん」

 

 歯を食い縛りながら懇願する義勇の言葉を、了承する。

 頼まれずとも探し出すつもりだが、ますます見つけなければいけない理由が増えてしまった。

 

 

 竈門炭治郎、我妻善逸、嘴平伊之助の三人は、あれから元"炎柱"の煉獄槇寿郎の下で稽古をつけてもらっている。

 あの夜、無限列車の中で「三人を継子にする」と杏寿郎が宣言していたことを知った槇寿郎は、息子の代わりに三人を鍛えている。

 引退した身とはいえ、元"炎柱"。

 息子が一度でも口にしたことは、父親である自分が責任を果たす。そして杏寿郎とギンが命を懸けて守った竈門炭治郎を、一人前の剣士にすると。

 

 鴉から送られてくる任務をこなしながら、三人は蝶屋敷、そして炎屋敷で鍛練をし、めきめきと実力をつけていった。

 あの夜、三十体以上の鬼を斬った三人は、もうすぐ柱の条件である"討伐数五十体"を達成する。実力が柱に匹敵するようになれば、すぐさま柱に就任することになるだろう。

 

 ちなみに、三人の中で一番柱に近いのは意外なことに我妻善逸だ。

 

 伝統と由緒ある雷の呼吸で、新しく漆ノ型を生み出したその実力は、十二鬼月とも前線で戦える。前回の最終選別戦を合格した新人の隊士の中で最も柱に近いと、槇寿郎はそう見立てていた。当の本人は「柱なんてムリムリィィィィ!柱になったら毎日鬼と戦わなきゃなんないじゃん!俺はすっごく弱いんだぜ!!十二鬼月なんて戦った日にはイチコロだぞ!」などと自信満々に泣き喚きながら言っているが、そこは厳しい元"炎柱"。拳骨ですぐに黙らせたと言う。

 そんな善逸に負けないと言わんばかりに、伊之助と炭治郎も毎日任務と修行に励んでいる。

 時折怪我を負って蝶屋敷にやってくるが、それでも徐々に顔つきが、覚悟ある剣士の目をするようになってきたと、カナエが嬉しそうに微笑んでいた。

 

 

 

 けれど、あれから二カ月。

 

 

 ギンが隠したと言う"青い彼岸花"を見つけることは、未だできていなかった。

 

「どこにあるの……どこに行っちゃったの、ギンさん……」

 

 蝶屋敷の縁側で、しのぶは溜息を吐いていた。

 空には綺麗な月が浮かんでいる。物思いに耽っている間に、いつの間にか日が沈んでしまったらしい。

 あれから、心当たりがある場所をくまなく探した。

 日蝕みが出現したと思われる場所から、ギンが向かったと思われる場所をくまなく探したが、それでも見つからなかった。先生は"青い彼岸花"は陽の光に弱いと言っていた。だから暗い場所に隠しているはずなのに……。

 青い彼岸花は、強力な鬼と対峙した時の切り札になる。炭治郎君の話だと、ギンさんは上弦の壱と戦った時に、鬼を弱体化させる何かを使ったらしい。それは青い彼岸花を使った薬かは分からないけど……。

 

 鬼を人に戻すことができるようになれば、多くの人の希望になる。家族を鬼にされてしまって苦しんでいる人を助けることができる。そして鬼舞辻無惨を人に戻せずとも弱らせ、殺すことだって……。

 

「……可能性がある場所は全て探した。それでも見つからないと言うことは、見落としがあったということ……目に見えない物に、惑わされちゃいけない……先生が言ったことを思い出して……」

 

 呼吸をして、心を落ち着かせる。焦ってはいけない。

 先生は私なら見つけられると言っていた。なら、今まで教わったことから、青い彼岸花の隠し場所が分かるはず……。

 上弦の壱……煉獄さんを殺し、先生を傷つけた鬼。柱二人掛かりでも敵わなかった鬼。考えるだけで憎しみが湧き出てくる。よくも先生を、煉獄さんを。

 ……ダメ。ふとするとすぐに憎しみが湧き出てくる。心を落ち着かせて。

 

 ――俺の分は、仕返ししなくていい。

 

 その鬼の事は、絶対に許さない。けど、私の役目は、先生に託された役目はその鬼を殺すことではなく、青い彼岸花で鬼を人に戻す薬を創ること。炭治郎君の妹の禰豆子さんの為にも、絶対に……。

 

「しのぶ」

「わっ……なんだ、姉さんか……びっくりしたじゃない、もう」

 

 後ろを振り向くと、カナエがくすくすといたずらを成功させた子供みたいに笑っていた。

 さすが元"花柱"と言うべきか。呼吸は使えなくても、その足運びは物音ひとつしていなかった。

 

「ごめんね、しのぶ。最近随分肩が張っているように見えたから、心配しちゃって」

「だからって驚かせないでよ……それで、どうしたの?」

「さっき産屋敷家から連絡があったの。いつもの薬をお願いしたいそうよ」

「あぁ、そうね。そういえば、御息女様の薬を処方しなければいけない時期ね」

 

ギンがいなくなってから、産屋敷家の薬を処方するのはしのぶの役目になっていた。産屋敷一族は御内儀である産屋敷あまね以外の御子息、御息女は、鬼舞辻無惨の呪いによって妖質が変質してしまっているため、定期的に光酒と薬を飲まないと動けなくなるほど体調を崩してしまうのだ。

 

「そろそろ光酒も調達しないと……」

「大丈夫?しのぶ。あんまり眠れていないんじゃ……」

 

 蟲柱の仕事は、想像以上にキツかった。薬の調合、薬草の調達、蝶屋敷の入院患者の治療、鍛練、医術の勉強、アオイ達看護師に手当の指導、蟲患いを起こした人の出張治療、蟲の研究、そして鬼狩りの任務。

 

 ギンさんは、私に修行をつけながらこんな激務を……。

 

 加えて、ギンはこの激務の中、青い彼岸花を探すために各地を旅していた。他の柱と違い担当地区を持たない蟲柱だが、それでも激務には違いない。

 改めて、自分の師の背中の遠さを実感する。医者としても、鬼狩りとしても、蟲師としても、自分ではまだまだ追いつけない。

 

「焦っちゃ駄目よ、しのぶ。それで身体を壊したら、元も子もないんだから」

「……ありがとう、姉さん」

 

 カナエの優しい言葉に、しのぶは暖かい気持ちが湧き出ることを感じながら、縁側を立った。

 

「ここ最近、ずっと働き詰めだったもの。明日は久しぶりに気分転換しに行きましょう!」

「そうね、たまには息抜きでも……どこに行くの?」

 

「近くの山にね、綺麗な風景が見える茶屋ができたの。()()()()()()()()()()だって、蜜璃ちゃんが――」

 

 しのぶの足が止まる。

 

「―――待って、姉さん。今なんて言ったの?」

「え?綺麗な風景が見えるって――」

「その後!」

「……川が見える綺麗な場所。それがどうしたの?」

 

 

「"青い彼岸花"の場所、分かった」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「瞼の裏に行く?」

「ああ。光脈を探す為に必要なんだ。俺は光酒を採取する時、"光脈の臍"を探す。光脈筋は意思を持たないが、常に動いている。その時、地表から比較的浅い場所に移動することがある。それが"光脈の臍"だ。他の場所でも光酒は採れんこともないが、そこが一番効率がいい」

 

 深い山の、森の奥。少し開けた場所で、ギンはしのぶに光酒の採り方を説明した。"光酒"は蟲師の仕事をする際になくてはならない必要不可欠な液体だ。耀哉の治療のためにも定期的に採取する必要があり、その為に瞼の裏に行けるようにしなければいけないとギンは言う。

 

「光脈筋は常に移動しているから、同じ場所で光酒を採取するのは難しいんだ」

「……光脈を探すのは分かるんですけど、どうして瞼の裏を閉じる必要があるんですか?」

 

 二つ目の瞼を閉じることができないしのぶにとって、ギンの話はもどかしい物だった。「考えるな、感じるんだ」と言われても閉じることができないものはできない。

 

「地下深くに流れる光脈筋は、ただ穴を掘って見つける……ということはできない。太陽の光に慣れている俺達は、光脈筋が放つ光を目で捉えることができないんだ。遥か昔、太古の人々は生まれた時から二つ目の瞼の閉じ方を知っていたと聞く。元々人間に備わった力なんだ。ただ閉じ方を忘れてしまっただけで」

 

 お館様――産屋敷耀哉、そしてギンは生まれながら二つ目の瞼の閉じ方を知っていたと言う。

 

「お前は元々、蟲を見ることができる体質だ。コツさえ掴めば、すぐに見ることができるようになる」

 

 ギンはそう言うと、懐から小さな盃を取り出し、そこに瓢箪を傾けて光酒を注いだ。

 

「さ、これを飲め」 

「……あの、光酒は、ちょっと」

 

 思い出すのは、先日、試しに光酒を呑ませてもらった時の事。光酒を一気に飲んでしまったせいで思考が溶けてしまい、ギンに絡み酒をしてしまった時の事。

 

「にゃんでギィンさんはねぇさんにでれでれしないんですかふつうのおとこのひとはいつもねえさんとはなすとでれでれするのにもしかしてぎんさんはねぇしゃんがきらいなんですかそれともねぇさんはかわいくないとでもいうんですかゆるしぇませんわたしがぴっちりねえさんのみりょくをつたえて」

 

 顔が熱く、真っ赤になる。しのぶは酒を呑んでも記憶を失わないタイプだった。

 

「……あまり思い出したくないんですけど」

「あれはお前が酒弱い癖に一気に飲んだからだ。一口ぐらいだったら大丈夫だから」

 

 しのぶはしぶしぶと恥ずかしそうに盃を受け取る。

 

「目を閉じながら、一口だけ飲んでみろ。目は開くなよ」

 

 ギンに言われるがままに、しのぶは光酒を一口だけ喉に通す。

 

 ……本当に、美味しい。ほぅ、と思わず息が熱くなる。

 

「光酒は人間の身体の細胞を活性化させる活力剤だが、濃い濃度の光酒を呑むと、身体が少し蟲に寄る」

 

 ……本当だ。手足の先が軽い。感覚が鋭くなっていく。血管の一本一本、隅々に至るまで、熱が回っていく感覚……。

 

「その状態のまま、目をそっと、開いてみろ。そっとだぞ」

 

 目をそっと……開いて……。

 

「あ……」

 

 辺りを見渡すと、暗闇に包まれていた。さっきまで明るい森の中にいたのに。

 

「よう。お前も閉じれたな、二つ目の瞼」

 

 前には、ギンさんがいる。でも辺りは暗闇だった。樹も蟲も土もない、陽の光が照らさない空間に、自分達は立っていた。

 

「ここが、瞼の裏?」

「今、お前は光酒のおかげで感覚が蟲寄りになっている。普段使ってる光酒より、ずっと濃度が濃い光酒だからな。今のお前なら、よく見えるだろう」

 

 ギンが地面を指差した。釣られるようにそちらに視線を向けると、そこには自分の足と、足の下を抜けてずっと下に、光る川が流れているのが見えた。

 さっき飲んだ光酒と同じ輝きを持った川が――

 

「なんて……美しい……」

 

 生命の原生体の群れ。ずっと見ていたくなるような、綺麗な川。

 

「俺は、この場所が好きだ」

「え?」

「暗闇に浮かぶ命の川。長く見すぎると目に毒だが、あれが多くの人や動物、森に命を分け与えているんだと思うと、まだまだやっていけるような気にさせてくれる。鬼狩りの仕事は心を摩耗させる。だから俺は偶にこうやって、光る川を眺めてる」

「先生……」

「復讐心や怒りは、行動する原動力になる。誰かを守るための力になる。だが呑まれないようにしろよ、しのぶ」

「……はい」

 

 ギンはそう言って、しばらく川を眺め続けた。

 しのぶはなんとなく、その時の川の光と、自分の師匠の言葉を、覚えておくことにした。

 

 

 

 

 

 

 

 しのぶは息を整え、目を閉じた。

 

 ――二つ目の瞼は、闇への通路

 

 瞼を閉じても、月の光が瞼を透してまだ見えてくる。

 

 もうひとつ、もうひとつ。

 

 もう一つの瞼を閉じるんだ――

 

 

 そっと目を開くと、そこには見慣れた光脈の姿があった。

 蝶屋敷の下を泳ぐ無数の蟲の群体。光る川。

 

 しのぶは光の川をずっと見ていたい感覚に囚われかけたが、すぐに意識を切り替え、辺りを見渡した。

 

 

 ――そして、それはすぐに見つかった。光る川のすぐ傍に、そっと置かれていた。

 

 

 彼岸花。

 それも普通の赤い彼岸花ではなく、花弁は空や海よりも濃い青色に染まった彼岸花だった。

  

 異質だった。

 

 蟲が見えるしのぶにとって、それがただの花ではないということは一目で分かった。

 

 彼岸の国に生えると言われている赤い花。ならば、青い彼岸花は一体どこに生えるのか。黄泉の国か、地獄か――ああ、でもやはり、この暗闇の中で生えると言われた方がしっくりくる。

 

「強い力がある……」

 

 通常の彼岸花にも、少量の毒性がある。だが、蟲の力を帯びているせいか、この花には普通と違う毒性が含まれていることが分かる。

 藤の花の毒で、毎日のように鬼を狩る毒使いだからこそ分かること。

 これが、鬼舞辻無惨と言う一人の人間を、異形の鬼へと変えたモノ。

 

 ――ギンに、託されたモノ……

 

「―――ギンさん、聞こえてる?」

 

 暗闇の中に、問いかける。青い彼岸花からは、この世のモノとは思えないような香りが漂ってくる。

 それは悪くない匂いだった。現世に生えていれば、多くの蟲を引き寄せる花になっていただろう。

 だが、しのぶは気に入らなかった。この二か月間、ギンを探し、この花を探し続け、ようやく見つけた青い彼岸花。

 

 こんな花のせいで――私の両親は――

 

 鬼舞辻無惨を鬼に変えた花。

 分かっている。この花に罪はない。けれど、それでも、怒らずにはいられなかった。

 

 こんな花のせいで、最愛の師が消えてしまった。多くの人が、こんな花のせいで不幸になった。

 考えただけで悲しくなる、怒りが湧いてくる。私の両親はこんな花のせいで死んで、姉さんは肺を潰されるほどの大怪我を負わされた。なんで、どうして。

 

「あなたは本当は気づいていたんでしょう?私やカナエ姉さんが、あなたのことを想っていることを……なのに、あなたを傷つけた鬼や蟲を……憎むなと言うの?」

 

 できればこんな花、すぐに踏み躙りたかった。ぐしゃぐしゃに潰してやりたかった。こんな花なんてなければ、私や蝶屋敷で暮らすあの子達は、今も幸せに暮らしていたはずなのに。

 

「早く帰ってきてくださいよ!勝手に託して、勝手に消えて!私とカナエ姉さんの気持ちはどうなるのよ!何が全てを託せるよ!」

 

 暗闇の中に叫ぶ。

 常闇に囚われ、行方知れずとなった師。

 泣かないように我慢してた。

 

 

 

 ――お前が、次の"蟲柱"だ

 

 

 あんなことを言われたら、背負わないわけにはいかない。託された物を。

 でも、嫌だった。

 あなたがいなくなるなら、そんな名前いらない。あなたさえいてくれればいい。

 

「一人で勝手に、こんな別れ方!決めないでよ!」

 

 帰ってきてよ。またいろいろなことを教えてよ。

 

 また鍛練をつけてよ。蝶屋敷に帰ってきてよ。

 

 一緒にいてよ。

 

 

 

 

 

 

 

「――――ギンさんっ……」

 

 

 

 

 

 

 こらえようとしてもこらえられない涙の声。

 暗闇の中に、しのぶの泣き声が響く。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――もう、何日暗闇の中を歩いたのだろうか。

 

 

 歩いても歩いても、土の匂いがしない。自分はまだ、暗闇の中にいる……。

 

 

 ……また分からなくなった……俺の名前……

 なんだっけ……こういう時……どうすれば……

 

 

 ――早く帰ってきてくださいよ!

 

 

 声?

 

 

 ――勝手に託して、勝手に消えて!私とカナエ姉さんの気持ちはどうなるのよ!

 

 

 聞いたことがあるような……懐かしい、大切な人の声……

 

 

 ――何が全てを託せるよ!

 

 

 どうしてそんなに怒っているんだろう。どうしてそんなに悲しそうな声を出すんだろう。

 どうして、自分の心が、こんなに締め付けられる?

 誰かも分からない人の声で――

 

 

 

 

 

「――――ギンさんっ……」

 

 

 

 

 あ……

 

 

 そうだ……

 

 

 俺の名前……

 

 

 

「しのぶ……」

 

 

 

 目の前にいる少女は、ああ、そうだ。俺の愛弟子だ。

 どうして忘れてしまっていたんだろう。あんなに大切だったのに。

 

 

「ギン……さん……?」

「よぉ……」

 

 

 なんでそんなに泣いてるんだ……ああ、懐かしい。ここは……蝶屋敷……か……

 

 

 意識が途切れる。身体が重い。

 

 

 

 

 

「ギンさん!!」

 

 

 

 

 

 


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