ねえ、ギンさん。
ギンさんは私の事、姉さんの事、どんなふうに思ってたの?
ただの弟子?仕事の同僚?それとも、家族?
私があなたの弟子になって、ずっとずっと、あなたの背中を追いかけてきた。
けれどあなたの歩幅はとても大きくて。
私がようやく一歩を歩けても、あなたは三歩先に走ってしまう。
私の願いは、姉さんの願いは、あなたの隣に立つことだけなのに。
神様、私達はどれだけ奪われ続ければいいのですか?
"森の呼吸 壱ノ型 森羅万象"
ギンは、鬼になりながらも生前の"森の呼吸"を使うことができていた。その切れ味は、まともに喰らえば一瞬で胴体と首が泣き別れする一撃だった。
蟲師、そして医者として活動していたギンだが、その剣術の腕前は柱の中でも上位に君臨する。本来なら、しのぶの実力では互角に戦うことすらできない。
しかし、しのぶは蟲柱である鹿神ギンの弟子。例え鬼となり、どれほど人間から掛け離れた身体能力を得て威力が上がったとしても、しのぶはその剣筋を1日たりとも忘れたことはなかった。
"蟲の呼吸
呼吸によって脚に力を溜めこみ、しのぶはギン――いや、"上弦の弐"祟の斬撃を回避した。
「ふむ。凄まじい脚力だな」
感心するように言う祟に、しのぶはまた心がずきりと痛む。
――この技は、あなたが教えてくれたんですよ、先生。
無限城。
しのぶが上弦の弐と遭遇したその場所は、異空間と言えど屋内。だが、その場所は深い森のようだった。
土の臭いはしない。けれど床は雑草や苔で覆われ、今まで見たことがないほどの大樹が所狭しと立ち並んでいた。
大樹の間を縫うように走り抜け、剣を交える。
"蟲の呼吸 蝶ノ舞 戯れ"
"森の呼吸 弐ノ型 剣戟森々"
空中を飛び交い、高速の突きを互いに交える。お互いの剣先が触れ合うたびに激しい音が響き、火花が飛び交った。
この少女……俺の技を知っている?
祟は首を傾げながら、少女に向けて刀を振るう。しかし、どの攻撃も紙一重で回避される。自分の剣筋を熟知しているかのような動きだった。
少女はまるで天狗のように、大樹の枝から枝へと飛び渡り、自分の死角へ回り込もうと動いている。
鬼舞辻の情報によると、この"蟲柱"は毒を使うんだったか。
頭の中にある情報を整理する。上弦の鬼には鬼舞辻から血を通して、鬼殺隊の柱の情報を一通り渡されていた。
それによるとこの少女は、刀を使って藤の花の毒を鬼に叩き込む。突きを主体にした戦い方を特徴だったが、聞いていたよりずっと早く鋭い。自分の攻撃も尽く避けられる。
――もっと速度を上げるか。
祟は樹の幹に足をかけ、大樹が揺れるほど蹴りつけてしのぶに肉薄する。
「――速っ」
"森の呼吸 肆ノ型 山犬"
一撃さえ当たればいい。この少女は小柄だ。少しでも出血させれば、すぐにそれが決定打になる。この足場が不安定になる深い森を駆け回れる身軽さ、俊敏さは賞賛に値するが、少しでも傷を負った状態で走り回ればやがてすぐに失血で動けなくなる。
祟は鬼の脚力を最大限に活かし、少女に弐連続の斬撃を叩き込む。
「くっ、蟲の呼吸――」
想像以上の速さにしのぶは咄嗟に技を繰り出そうとするが――
「遅い」
祟の方が、速い。
しのぶの長い髪をまとめていた、蝶の髪飾りが、粉々に砕けて散った。
「がほっ、げほっ」
しのぶは祟の攻撃を避けきることができず、左腕に大きな切創が刻まれた。ギンの"森の呼吸"肆ノ型は高速の弐連撃。威力よりも速度を重視した攻撃は、容易くしのぶの左腕の腱を切り裂いた。
そしてそのまましのぶは空中に身を投げ出され、受け身も取れずに地面に叩き付けられる。
―――あ、髪が……
落下していく最中、しのぶが願掛けで伸ばしていた長い黒髪がばっさりと斬られたのが見えた。姉とおそろいの蝶の羽を模した髪飾りが、粉々に砕け散った。
「――ギンさ……」
私は不運なだけなのだろうか。それともギンさんが不運なのだろうか?それとも、単に私達二人とも運がなかっただけなのだろうか。
わからない。
わからない。
わからない。
地面が苔で覆われていたせいか、かなり高い位置から落ちたというのに、骨は折れていなかったようだ。
仰向けに墜落したしのぶは、大樹の木の葉で覆われた天井を、ぼんやりと眺めた。
左腕――腱を斬られた。もう、左腕は使えない。
でも、まだ足は動く。なのに……動きたくなかった。
「……なんだ、これでもう終わりか?」
祟は地面に降り立ち、地に倒れた少女の傍にそっと歩み寄る。
自分の目には、少女の戦意が完全に消失しているように見えた。戦うことを諦めた目。絶望に染まった目。諦観で動かなくなった人形のような目。
これでもう決着なのだろうか。鬼狩りと戦うのは初めてだが、こんなに楽に終わるとは思わなかった。
「思ったより呆気なかったな。鬼狩りの柱がこの程度なら、後の連中も大分楽に――」
祟の足が止まる。
倒れ伏した少女は、自分を観ていた。まるで愛しい男を見つけたかのような、慈愛の色が見て取れた。
「……どうしてそんな眼で俺を見る?鬼狩り」
「……」
祟の問い掛けに、しのぶは答えない。
「……お前はなんだ?」
先ほど、自分が少女の髪を斬った。絹のように整った美しく長い髪を、斬った。だがどうしてか、髪が先ほどより短くなった少女は――どこか既視感があった。
ギン―――祟の目には、自分と戦っているこの鬼狩りが、どうも実力を発揮できていないように思えた。
祟は、自分が鬼になる前の記憶がない。
別にそれ自体問題ない。忘れてしまっているのなら、大した記憶でもないのだろうと祟は考えていた。
だが、目の前にいるこの少女を見ていると、無性に心がざわつく。
最初に相対した時はこの少女に何の感情も抱かなかったのに。髪が短くなった途端、胸が痛い。年端もいかないこの少女を見ていると、何故だろうか。今まで鬼になってから、凪いでいた水面に重く大きな石を投げいれられたように、心が波立つ。
鬼舞辻無惨からは、鬼狩りは自分をずっと追いかけ続ける異常者の集まりだと聞かされていた。
だが、この少女は――
―――先生
「ッ」
今何か、大切なことを思い出しそうな……俺の、かけがえのない、大切なことだったような。
どうも記憶があやふやではっきりしない。
少女の目尻は、涙が溜まっている。それを見ていると、なぜか心のどこかがざわめく。心のどこかが揺れ動く。
曖昧な記憶の海で、何かが波立つ気がした。
「俺を哀れんでいるのか、お前」
心の中に生まれた迷い。どうしてそんな物が生まれてしまったのか、分からなくて、どうしてか目の前の少女がその答えを持っているような気がした俺は、しのぶに問いかけた。
……しのぶ?一体誰の事だ?この少女の名前か?
――初めて会ったはずなのに。俺はこの少女を知っている?
「何を同情しているのか知らんが、そのままだと死ぬぞ」
少女は何も答えない。ただ小さく浅い呼吸を繰り返して、刀を握ったまま動こうとしなかった。
……まさか?
「……お前、死ぬ気か?」
沈黙。
けれど、少女は静かに笑った。
それが何よりの答えだった。
「―――え?」
目が熱い。
何かが俺の頬を濡らしている。
祟はそっと、自分の頬に手を当てて、それが自分の涙だと初めて気が付いた。
感じたこともない感情に、祟は戸惑った。どうしてこんなに胸が苦しい。どうしてこんなに不愉快な気分になる?
俺は上弦の弐、祟。
人間は敵だ。森を拓き、土地を荒らし、獣を殺す。
鬼になってからずっと聞こえる。
人間どもに食い荒らされる森の悲鳴が。生物の声が。
そうだ、俺がここに生まれたのは森を守る為だ。それが俺の根幹だった。原初の記憶。自分の使命。
その為に人間を殺す。その内鬼舞辻も殺す。その為に人を喰って力を着けた。
なのにこの女は――俺より圧倒的に弱い、猗窩座の言い方を借りるなら弱者だ。その弱者を見ていると――こんなにも胸が、痛くなる。
「もういい。俺の前から消えてくれ」
この女を殺せば、この不愉快な感情も消える。涙も止まる。
祟は刀の先を地面に向け、突き刺すようにしのぶに振り下ろした。
ギンさん、ごめんなさい。
あなたは私に生きろと言ったけど。私は、あなたがいない世界で生きたいと思えなかった。ギンさんが消えてから、何度その後を追おうと考えたか分からない。
「俺の願いは、お前が生きて幸せになることだ」
けれど、死のうか生きようか悩むたびに、ギンさんの言葉が私の脳裏にチラつかせて、決意を鈍らせた。呪いのように私の手足を縛りつけて、自分に「生きるんだ」と言い聞かせた。
でも、もう疲れた。
どうせ死ぬなら――ギンさん、あなたに殺されたい。
――立て
ギンさん――いや、違う。これは、幻影。私が勝手に見ている幻。
だってギンさんは鬼になってしまって、今私の目の前にいる。今聞こえている声も、きっと幻聴だ。
――立て、しのぶ
無理です、先生。私、先生が大好きだった。愛していた。ずっと一緒にいたかった。
私にあなたは殺せない。私はあなたを殺したくない。
あなたを殺す為に、私はあなたの弟子として、毒を創ったんじゃない。
あなたを殺さなきゃいけない。頭では分かっている。師とはいえ、鬼に堕ちた物は鬼殺隊の敵、人類の敵。
でも、頭で分かっていても心が嫌だと叫ぶの。
今だって、手が震えて涙が溢れてしまいそうになる。
あなたを殺したくない。
もう、たくさんだ。
どうしてこんなに辛いことをさせるの。
どうしてこんなに苦しいの。
世界はどこまでも残酷で――もし地獄があるのなら、この世はきっと地獄そのものなのだろう。
だったらもう、私は――
「それでも立つんだ、しのぶ。お前の役目は、死ぬことじゃない」
――ドクン
「例え鬼の頸を斬れなくとも、鬼を滅すると誓ったんだろう。勝つと決めたんだろう」
――ドクン
「立て、"蟲柱"胡蝶しのぶ」
――ドクン
「お前ならやれる。生きろ、しのぶ。諦めるな。俺はお前に軟な鍛え方をしていない。大丈夫。お前なら勝てる。俺の分まで前を見て、生きろ」
お前は、俺のたった一人の弟子なのだから。
ああ、そうだった。ギンさんはいつもそう言って笑って、私に生きろって無責任に言う人だったね。
私はそんなあなたのことが
少女の頬に、紫色の痣が浮き上がる。
それはまるで、蝶の羽のような、美しい模様だった。