え?蟲師の世界じゃないの?   作:ガオーさん

28 / 43

ギンくん。今、あなたの弟子が、最後のお別れを言いに行くわ。


IF「胡蝶の夢」

 

 

 

 

 

 

 

 祟が刀をしのぶに突き刺そうとした瞬間、突如、しのぶは跳ね上がるように持っていた刀を、祟の刀に乱暴にぶつけた。

 自分が相対していた敵はとっくに心が折れていたと、そう思い込んでいた祟は目を見開く。

 力任せに弾かれた刀を離すことはなかったが、その隙を"蟲柱"胡蝶しのぶは見逃さない。すぐに体をはね起こし、祟から距離をとった。

 

「……」

 

 手がびりびりと痺れる。

 なんだ、あの少女に何があった?

 いくら呼吸法を使えるといっても、あの体格で、ここまで力を出せるはずは――

 

 刀を構えなおして、改めて少女に目を向ける。

 

 

「――なんだ、その痣は」

 

 

 祟は驚きで目を見開く。

 少女の頬に、痣が浮き上がっていた。

 紫色の、花に舞う蝶を象ったような痣だった。

 

 さらに、少女が持つ刀も変化していた。

 

 日輪刀――別名、色変わりの刀。

 

 毒を鬼に注入するための、特別な形をした日輪刀。その少女の刀が、紫色に変色した。それはまるで、自分たちが苦手とする、藤の花のような色彩。

 

 

「―――スゥゥゥゥ」

 

 

 呼吸音が変わった。

 

 

 祟は警戒して刀を構える。雰囲気も、少女の射貫くような強い意志が灯った目も、何もかもが違う。

 先ほどまで戦っていた、今にも死にそうな、羽を折られた蝶はここにはいない。

 

 

 今目の前にいるのはひょっとすれば――自分を殺しうる、敵。

 

 祟の目が、体中の細胞が叫んでいる。この少女が危険だと。

 

 

「――……行きます、先生」

 

 

 少女がそう言った瞬間、その姿が掻き消えた。

 

 

「!」

 

 

 右、いや真後ろ!

 

 

"蝶の呼吸"

 

 

 刀を振る、いや間に合わない。

 祟は咄嗟に、身体を捩る。その瞬間、自身の脇腹に何かが刺さるような痛みが走った。

 

「ガッ……!」

 

 自分の腹に目を落とすと、そこには自分の体を貫通した少女の切っ先が飛び出ている。

 刺されたのか、あの一瞬で!

 自身の目ですら追い切れぬほどの速度。一体、あの少女に何が――

 

 ――ドクン

 

「ガハッ……!」

 

 刺された個所から、言葉に表せないような激痛が全身に走る。藤の花の毒、聞いてはいたがこれほどか……!

 祟は自身の背後から刀を突きたてる少女の胴を斬ろうと、痛みをこらえて右腕を振るう。

 

 だが、少女はそれを見越していたのか、すぐに祟から刀を引き抜き、祟にさらに毒を叩き込もうと技を繰り出す。

 

 

 

"蝶の呼吸 壱ノ型 黒死蝶"

 

 

 

 額、脇腹、喉。

 

 連続で放たれる、急所への三連撃。

 それ自体は、ただの刀の突き。上弦の鬼である祟が、本来避けられない技ではない。

 

 ――だが、斬撃が、見えなければ。避けられる刀がなければ。反応することがなければ。

 

 いくら上弦の鬼と言えど、その毒に濡れた刃を避けられる術はなし。

 

 

 ―――なんだ。何をされた。刀で刺された? 

 

 

 痣が浮き出た者は、例外なくその身体能力を向上させる。それ自体は知っている。

 だが、刀が見えないとはどういうことだ!?一体どれほどの速さで……!

 

「その速さは、お前さんが手にしていい力じゃないぞ……!」

 

 一撃ずつ刀を自身の肉に刺し込まれる度に、藤の花の毒が体を蝕む。一滴一滴が、上弦の鬼の身体を腐らせる猛毒。

 いくら回復力が高い鬼の身体と言えど、このままでは――!

 

「離れろぉ!!」

 

 祟が刀を振るう。それを胡蝶しのぶは、余裕を見せながら軽々と回避する。ひらりと宙を舞うその姿は、儚い蝶を思わせる。小柄な体格は、少女にとっては決して弱点などではなく。

 しなやかで柔らかい身体と、小柄な身体、そして呼吸によって練り上げられた歩法は、上弦の鬼を追い詰める立派な武器へと昇華しつつある。

 

「ふぅー……!ふぅー……ごぶっ」

 

 胃の奥底から溢れる、大量の血。身体中の細胞が、今叩き込まれた毒を解毒しようともがいている。

 その拒絶反応のせいか、身体の内臓がぼろぼろに腐り、再生し、腐って、再生してを繰り返している。上弦の鬼でなければ、おそらくすぐにでも命を落としていたであろう猛毒と激痛をこらえながら、祟は今しがた自分を殺そうとしてきた少女を睨みつけた。

 

「……」

 

 そして、毒でもがいている祟を、胡蝶しのぶは冷ややかな目で見ていた。

 一切迷いがない。先ほどまで、刀を振るうことに、敵を倒すことに躊躇していた女はもうどこにもなく。

 そこにいたのは、鬼殺に命をささげた柱の剣士だ。

 

「人間がぁ……!」

 

 祟は、必要以上に人間や生き物を殺すことをよしとはしない。

 いつも食うのは、森を不必要に荒らす人間ばかり。土地を拓き、工場を建てようとする欲張りや、不必要に狩りに興じる異常者共。

 猗窩座や黒死牟のように、自らの剣技や力を誇示しようと戦うことが嫌いだった。

 

 だが、もうこの少女を殺さない理由は、もうどこにもない。

 

 俺は死ねない。

 この世の人間すべてを。森を壊す、自然を殺す醜い人間どもをすべて滅するまで。

 

 

 俺は、死ねない。

 

 

()()()―――」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ギンさんに刀を突き立てる度に、手の平に生々しく残酷な感触が残る。

 気持ち悪くて、痛くて、一刺しする度に自分の胸に冷たい刀が切り刻んでくる。吐き気がするほどの、不愉快な感触。

 

 それでも、やらなくちゃ。

 

 私は柱だから。鬼殺隊だから。自分の師匠が鬼に堕ちてしまったのなら。弟子である私が、ギンさんを殺さなければいけない。

 それが、私がギンさんにできるたったひとつの手向け。

 

 鬼を人に戻す薬は、二人分しか創ることができなかった。時間があればもっと創れたはずだけれど、時間があまりにも足りなかった。

 

 

 ――ごめんなさい、ギンさん。

 

 

 もっと時間があれば、あなたを人に戻す薬も作れたのかもしれないのに。

 

 こんな風にしかあなたを助けられない私を、許してください。

 

 

 罪悪感で胸を締め付けられるような感覚を覚えながら、自分で編み出した蝶の呼吸でギンさんの身体に毒の刀を突き刺していく。

 ギンさんが消えてしまって、蟲柱になった私は、新しい呼吸の型を編み出した。

 

 上弦の鬼――炭治郎君が教えてくれた、黒死牟と呼ばれる上弦の壱を倒すために編み出した新しい剣技。

 

 私は、鬼の頸を断つ腕力はない。けれど、突き刺す力と、足の速さだけは、誰にも負けなかった。

 

 

 

 

 

 ――なんだよ、蟲の呼吸って。もっといい名前なかったのか?蟲師の名にあやかるのはいいが、もっといい名があっただろうに。

 

 ――いいじゃない、ギンくん。私は好きだなぁ、しのぶの蟲の呼吸。

 

 ――だって、森の中には蟲が生きている。花の傍には蝶がいつもいる。私とギンくんの呼吸が、しのぶを強く、守ってくれるんだもの。

 

 ――……そう考えりゃ、悪くないか。姉の花と、俺の森が、しのぶを強くしてくれるなら。

 

 

 "森"と"蟲"と"花"は、互いを支え合い、共に生きている。

 森羅万象の、たくさんある山や森の中で。

 

 

 

 森が無き場所に花は咲かず、花が咲かない場所に蟲は生まれず、蟲がいない森に豊穣はあり得ない。

 

 

 

 

 森と花は蟲を育て。

 

 蛹はやがて、羽化を迎える。

 

 姉さん、ギンさん。

 

 

 二人の呼吸を混ぜて、編み出したこの"蝶の呼吸"で。

 

 

 ギンさん、あなたを倒します。

 

 

「血鬼術――」

 

 

 祟がこちらを睨みつけながら、血を吐きながら怨嗟を込めて叫ぶ。

 

 

 ―――来る。

 

 

 

 

 

"血鬼術 鎮守の森"

 

 

 

 

 祟が自身の刀を地面に突き刺した途端、部屋が、空気が、地面が、癇癪を起したように揺れる。

 そして、二人を取り囲んでいた大樹が、揺れだし、まるで意思を持っているかのように動き出す。半分は、祟の周りを守るように。そしてもう半分はしのぶに向かって鋭い木々の枝を生やしてくる。

 

「木々を操る血鬼術――!」

 

 しのぶの胴体を貫こうと、数えきれないほどの鋭い枝木が蠢き、向かってくる。

 それを紙一重で避けながら、しのぶは再び祟に毒を叩き込もうと肉薄する。

 

 

「迫ってくる枝、舞い落ちる木の葉一枚一枚が、すべてが鋭い刃だ!これを避け切れるか!?」

 

 

 祟の周りを分厚く太い大樹が盾のように取り囲む。しのぶの推察通り、祟の血鬼術は植物を意のままに操る能力。木々も、雑草も、全てが祟の手足と等しく操ることを可能とする。

 この異空間"無限城"に生えた大樹の森も、全て祟が生み出した植物たちだ。

 枝や木の幹は鋼鉄よりも硬く鋭く。

 木の葉はすべて鬼の身体さえバラバラに切り刻む刃。

 命を容易く奪う森の木々と、祟が生前ーー鬼狩りとして鍛え上げた剣術で、十二鬼月の、上弦の弐へと上り詰めた。

 

 森の中なら、祟は無敵だ。

 

 体術を極限にまで鍛え上げた猗窩座でさえ、この血鬼術には敵わなかった。

 

 もしこの血鬼術の中に生身の人間が飛び込めば、全身は木々に貫かれ、無数の木の葉が肉片になるまで敵を切り刻む。

 

 この茂みの中に飛び込めば、出血は免れない。

 

 人間は痛みに弱い。

 

 自分から死ぬこと、自分から痛みに飛び込むことはできない。できたとしても、必ず躊躇う。その躊躇いの時間が数秒あれば、俺の森の盾は完成する。

 仮に飛び込んでこようとも、木の葉や木々が、少女の体を刻んでいく。先ほど傷つけた出血、もしここに飛び込めば、すぐに動けなくなる

 この大樹が俺の身体を纏えば、例え鬼舞辻無惨でも、この盾を剥がして、俺を殺すことはできない。それほどに強固なのだ。その硬さは、上弦の壱の黒死牟のお墨付きだ。半分ほど切られかけたが。

 

 祟は確信していた。自分が勝つことを。

 

 仮に彼が、鹿神ギンとしての観察能力が、推察能力があれば。

 

 絶対に慢心などしなかっただろうに。人間を侮ることなど、しなかっただろうに。

 

 かつて人だった時、人間の醜さと、恐ろしさを知り、それを憎んだ。

 

 だがそれと同時に、人には優しさも、愛情も、願いも、執念も。そこから生まれる強さがあると、知っていたはずなのに。

 

 

 

"蝶の呼吸 弐ノ舞 飛蝗(ひこう)孤独相(こどくそう)"

 

 

 

 

「――――な!?」

 

 

 しのぶは呼吸で足に力を入れて、茂みの中に飛び込んだ。命を刈り取る森の中に。

 

 

 馬鹿かこいつは、死ぬ気か!?

 

 この少女は体格が小さい。それに、さっき自分が斬った左腕の傷だってある。出血だって少なくはない。

 刃の海に飛び込むようなものだ、あっという間に失血で死ぬ!

 

 

 

 

 

 

 

 ―――死なない。ギンさんの修業を思い出して。

 

 

 動く動作は最小に。身体を操れ。身体の中心から、指先まで。すべてを細心に。

 

 自分の身体がどう動くのか。どこまでが限界で、どこまでなら無茶ができるか。

 

 みっともなくてもいい。生きていれば勝ちなんだ。

 

 

 

 しのぶが茂みの中に飛び込む。

 瞬間、あたりに大量の血がばらまかれた。

 

 しかし、しのぶは生きていた。

 

「何!?」

 

 身体中を刻まれながら、痛みをものともせず祟の方へ飛び込んでくる。ものすごい勢いで。

 わずかに体を捩って、致命傷を回避している。静脈や動脈、太い血管や目を斬られないように避け続けている!

 祟は驚きで目を見開く。蝶のように軽やかに、しかし力強くこちらに走ってくる少女は、恐怖を飲み込みこちらを殺そうとしている。必要最低限、身体が斬られることを厭わず、致命傷以外の傷を負うことを覚悟してこちらを殺そうと走ってくる。

 

 ――なんでだ、どうしてそこまで――

 

 いや、今の自分には関係ない。

 迎撃だ。大樹の守りは間に合わない。

 

 なら、こちらの最大の攻撃で相手を迎え撃つ。

 

 

 

 

"森の呼吸 漆ノ型 大太法師"

 

 

 

 

 少女が自分の眼前に迫る。紫色に光る、毒に濡れた刀を自分に突こうと自分の方に飛び掛かってくる。

 

 飛蝗・孤独相の速さは分かっている。痣が浮き上がり、速度が上がろうとも、一度見た技に攻撃を合わせるのは簡単だ。

 

 これで終わりだ。多少驚かされたが、これが最後だ。

 この少女に何があったかは知らないが、このままでは俺が死ぬ。

 体に叩き込まれた毒が、まだ解毒しきれない。もう一撃攻撃を受ければ、毒を分解できずに死ぬ。

 だが、その前にこの少女を殺す。そしてじっくり回復する時間をかければいい。

 

 祟はそう思いながら、自身が使える最高の攻撃を、しのぶに向けて放った。

 

 

 

 

 

「しのぶ、お前は身体が小さい」

「なんですか、いきなり。知ってますよ、そんなこと」

「身体が小さいということは、軽いということだ。その身軽さを消すのではなく、生かすことを考えろ」

「身軽さを――生かす?」

「そうさ。力に拘るな。お前のその体格は、必ずしも欠点にはならない。使い方次第では武器になりうる」

 

 

 躱すことに特化した舞。

 相手の動きを読み切り、躱す。防御する、受けるのではなく、回り込む。

 

 

"蝶の呼吸 参ノ舞 月星浮蝶"

 

 

 祟が振り下ろした刀は、空を切った。

 

 

 なっ、また消え――!?

 

 

 しのぶの眼前に、祟の刀が振り下ろされる瞬間。

 祟の目からは、またしても目の前の少女が消えたように感じた。

 

 無論、物理的に人間が消えるわけではない。

 極限までに無駄を削った、効率的な体捌き。

 

 何百、何千と打ち合ってきた、鹿神ギンの"森の呼吸"。太刀筋はすべて知っている。

 

 祟には、まるで、宙を舞う蝶が、自分の身体をすり抜けて消えたように感じていた。

 

 気づいた時には、しのぶは祟の懐に潜り込んでいた。

 

 

 

 肋骨の隙間。骨と骨の間を通して、心臓に毒を叩き込むんだ。

 刺すんじゃない、刃を滑らせろ。

 心臓は身体中に血液を巡らせる。それは鬼も同じこと。

 

 一度に大量の毒を心臓に叩き込めば、全身に毒が回る。

 

 

「ギンさん――」

 

 

 

 あなたが教えてくれた。

 

 いろんな悲しいこと。

 

 苦しみを。

 

 優しさを。

 

 強さを。

 

 愛情を。

 

 友愛を。

 

 自然を尊ぶ心を。

 

 鬼に対して憎しみの心しか持てない私に、人を癒す手と知恵を、与えてくれた。

 

 

 

 

「先生――私は、あなたの弟子で……」

 

 

 

 

 

 

 本当に、幸せでした。

 

 

 

 

 

 

 

"蝶の呼吸 肆ノ型 蟲毒"

 

 

 

 

 

 決着は静かについた。

 

 

 

 

 しのぶが調合した毒の中でも特別に強力な毒。

 青い彼岸花。上弦の壱から採取した血液。光酒。太陽を克服した禰豆子の血。そして今まで創り上げた、藤の花の毒。

 鬼殺隊で戦ってきた、学んできたすべての集大成とも言える猛毒。

 気づいた時には、祟の背中からはしのぶの切っ先が飛び出していた。

 

 祟はそれ以上動かなくなり、刀が地面に落ちる。周りの木々は、生きるための活力が失われたように朽ち果てていく。血鬼術で生まれた森は、術者である祟が死ぬことを示していた。

 

「はぁ……!はぁ……!」

 

 荒い息を吐きながら、しのぶは息を整える。

 殺した、ついに。ギンさんに、勝って、殺してしまった。

 

「ぐっ……!」

 

 ダメ。泣いちゃダメ。私が殺したんだから。

 

 そう自分の涙をこらえていると、支えを失ったように、体中の力が抜けてしまったかのように祟がしのぶの身体にもたれかかる。

 

「……ごぶっ」

 

 まずい、まだ息がある!

 祟の皮膚は藤の花の毒の効果でただれ始めている。すぐに命を落とす。だが、鬼の腕力があれば、一瞬でしのぶの頸をへし折ることだってできてしまう。

 しのぶはすぐさま、祟から距離を取ろうとした。その瞬間だった。

 

 

 

 ―――ポン

 

 

「――――え?」

 

 

 

 頭の上に、柔らかい感触。

 

 懐かしい感覚。

 

 撫でられている?私が、祟に――

 

 

 しのぶが恐る恐る顔を上げると、口から血を吐きながら――今しがた自分を殺そうとしていた鬼が、静かに、優し気に微笑んでいた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「―――よく、頑張った、な」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 さすが、俺の弟子だ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「ギンさん……?」

 

 

 

 

 

 

 

 しのぶが、かつての師の名を。鬼に堕とされた、自分が好いていた男の名を呼ぶが、返事が返ってくることはなかった。

 

 

 やがて、しのぶの頭の上に置かれた優しい手は、糸が切れたようにだらりと落ちた。

 

 

 

 

 

「―――ギンさん」

 

 

 しのぶが名を呼ぶ。

 

 返事はない。

 

 

「ギンさん」

 

 しのぶが名を呼ぶ。

 

 返事はない。

 

 

「ギンさ、ん、ギンさ、ギンさ」

 

 

 しのぶが名を呼ぶ。

 

 涙と嗚咽が混じり、言葉の形が徐々に崩れ、最後は涙の声になった。

 

 

「……あぁ」

 

 

 しのぶが今しがた自分が殺した男の身体を抱きしめる。

 

 

「あぁあ……」

 

 

 強く強く、抱きしめる。

 どんどん冷たくなっていく身体を、持っていかれないように。もう二度と離したくないと心が叫んでいる。

 

 

「うわぁぁぁぁ!!ギンさん、ギンさん、ギンさぁん!!」

 

 

 あなたを殺したくなかった。

 あなたに憧れていた。いつかあなたみたいに強くなれたらって、願っていたのに。

 こんな形で別れるなんて嫌だ。こんな風にあなたと戦いたくなかった。

 

 どうして、どうして、どうして。

 

 胸に際限なく湧き上がる痛み、悲しみ、罪悪感。

 いつか鬼がいなくなった世界で、一緒に旅をしようって。姉さんと一緒に病院を開こうって。

 私達の前にはたくさんの未来があったはずだったのに。

 こんな終わり方なんてあんまりよ。

 

 胸の中にある大事な何かが、切り刻まれたかのような痛みに、しのぶは泣きじゃくる。

 

 

 

「うわぁぁぁぁぁぁ……!!」

 

 

 

 ほんの数分。

 

 しのぶは、枯果てた森の中で、ギンを抱きしめて泣いていた。

 

 涙が枯れるほど、喉が痛くなるほど泣き叫んだ。

 涙が出なくなった後、しばらく茫然と、動かなくなったギンから自身の刀を抜き取り、しばし茫然とその死体を眺めた。

 

 

 

 ここは、終わりじゃない。まだ鬼舞辻無惨が残っている。

 

 ほかの隊士達も、上弦の鬼共と戦っている。

 

 

 ―――そうだ、鬼。

 

 

 ギンさんを鬼に堕とした奴らを、殺さなきゃ。

 

 私の命に代えても。絶対に、奴らを滅ぼしてやる。

 

 この世に生まれたことを死ぬほど後悔させてやる。私から大切な人を奪った痛みを、必ず味合わせてやる。

 

 

「――行ってきます、ギンさん」

 

 

 躯は持っていけない。しのぶは、ギンが愛用していたパイプ煙草をお守り代わりに拝借し。

 

 横たわるギンに振り返ることなく、その場を後にした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「カァ――!!上弦ノ弐、撃破!鬼ト化シタ鹿神ぎんヲ、胡蝶シノブガ撃破ァ!!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




IF「ギンさん鬼化ルート」はこれにて終了です。もう少し丁寧に書きたかったんだけど本編進まなくなっちゃうから。

こういうIFエンドや小話は、またお気に入り数や評価の数が一定数超えたら記念してやりたいと思います。書き始めると本編そっちのけで書きたくなっちゃうので。

皆さん、良い年末を。
  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。