放課後。
私はいつもの足取りで化学準備室に向かう。アオイや炭治郎君曰く『足取りが普段の1.5倍は軽い』『おもちゃ屋に連れてこられてわくわくの子供のスキップ』とか、散々な評価をされてはいるらしいが、私はそれを否定しない。
準備室の扉の前で、私は息を整える。
心臓の鼓動を少し落ち着かせて、私は扉に手を掛けた。
「先生」
「ん?なんだ、しのぶか。もうHRは終わったのか?」
準備室の扉を開けると、喫煙禁止のはずの校舎内で煙草独特のヤニの匂いが鼻を突いた。慣れ親しんだ準備室には、たくさんの化学薬品が並んでいて薬品の匂いが少しする。けれど、この部屋の主がいつも煙草をここで吸うせいで、どこか煙臭い。窓際の机に向かって煙草を吸いながら作業をする、白衣の先生が気だるげにこちらを振り向いた。
白い髪、緑の眼。
黒髪黒目が普通な日本人では、かなり特殊な見た目だろう。
化学教諭、鹿神ギン。
このキメツ学園のOBであり、薬学研究部の顧問でもある。
元々生物教諭になりたがっていたその先生は、ヘビースモーカーで大の酒好き。学校が終わると必ずビールや日本酒を買う為に、近場の酒屋に必ず寄っているというのは学校の生徒には周知の事実である。
「また煙草吸ってますね。冨岡先生にまた怒られても知りませんよ?」
「ガキの相手をするのは疲れるんだ。煙草の息抜きは、先生の特権だ」
「ふふ、なんですかそれ」
ギンさんはそう言いながら灰皿に煙草を押し付けて火を消した。
私や姉さんがこの準備室に来ると、いつもこの人は気遣って煙草の火を消してくれた。宇髄先生や富岡先生が来ても、煙草の火は消したりしないけど、私達がいるといつもこの人は煙草の火を消してくれる。優しい人だった。
「お前も受験生だろう。フェンシング部の練習もあるしわざわざ俺の研究に、毎日放課後に手伝いに来なくていいんだぞ?」
「いいんですよ。私が好きでやっていることですから。それに、フェンシング部の練習が始まるまで、少し時間がありますので」
「物好きな奴だ。こんなヤニ臭い部屋にわざわざ来るのは、お前かカナエぐらいだよ」
鹿神先生はそう苦笑しながら、椅子から立ち上がった。
「なら、今日も手伝ってもらおうかね」
「はい」
これが私の日常。学校の授業が終わったら、放課後に30分だけ、鹿神先生の研究を手伝う。
受験勉強よりも、フェンシング部の練習よりも、一番大切な、私と先生との時間。
そう!私こと胡蝶しのぶは、化学教諭の鹿神先生に恋している。
そもそも私が薬学研究部に入った目的は、化学教師の鹿神ギン先生にある。理系の大学に進みたいからとか、薬学や化学は昔から得意だからとか、いろいろな建前はあるけれど、実際はかなり不純な動機だ。
私は、鹿神ギンのことを慕っている。
しかし、困ったことに私こと胡蝶しのぶはキメツ学園の生徒で、鹿神ギンはキメツ学園の教諭。一昔前の少女漫画や安っぽいドラマで使い古された、教師と生徒の禁断の恋、という物だ。昔は姉さんや姉さんの友人である蜜璃さんから押し付けられるように読まされた時は、『教師と生徒の恋愛なんて実際にあるわけないじゃない』と笑っていたけど、今考えるともっとよく読んでおけばよかったと後悔している。まさかそのフィクションが、自分に起こるとは想像もしていなかった。あの漫画のヒロインが叶わない恋に苦悩する様は、まさに今の私のようだった。
この気持ちが許されない、声には出せない恋慕だということは、誰にだって分かることだろう。
頭がいい大人は、一時の気の迷いだというかもしれないけれど、この想いは本物だ。というより、自分でも引くレベルで先生を慕ってしまっているのだから、手に負えない。できることなら先生を自分の物にしたい、いっそのこと監禁して誰の眼にも触れられないようにすればいいのかしら、なんて本気で思案してしまうのだから、重病である。
恋は盲目とは、よく言った物だ。
私だけを見てほしい。私だけの物であって欲しい。
この先生を、私だけの物にしたい。
そんなほの暗い感情を隠しながら、私はこの人の下へ通い詰めている。
いずれは、告白する為に。
お淑やかな、優等生。先生の手伝いをする模範的な生徒。先生の目を引こうと、テストは常に上位。フェンシングの大会で優勝するほど運動神経も抜群。
自分でも言うのもなんだけれども、学園三大美女だなんて呼ばれるぐらいには身嗜みには気を付けている。
文武両道、才色兼備。昔からなんでもやるなら誰にも負けたくないから頑張っていたから、女の子としての魅力は誰にも負けるつもりはない。あの頃の負けず嫌いな私、本当にグッジョブ。
本音を言うなら私から告白するより、先生から告白されたいのだ。私だって乙女だし、そういうシチュエーションは女の子として憧れる。……とは言っても、先生は私のことをたくさんいる生徒の内の一人としてしか見ていない。悔しいことに。
私に魅力がないからとかではなく、単純に鹿神先生は人をあまり好いていないのだ。人間嫌いと言い換えてもいいかもしれない。社交的で、学年や性別問わず様々な生徒からは『授業が面白い』とか『話しかけやすい』って言われて親しまれている先生だけど、それは表向きの姿でこの人の本性はもっと繊細で臆病なのである。
「先生はいつもこんな所に引きこもってばかりでいいんですか?もっと他の人とコミュニケーションを取らないと、冨岡先生みたいなコミュ障になってしまいますよ~」
「ならねえよ。あの暴力鉄仮面と一緒にするな。非常に不本意だ」
じとっとした眼で睨まれた。どうやら本当にあの先生と一緒にされるのは嫌らしい。ちらりと窓の外を見ると、校門の前でタンポポ頭の男子生徒を右ストレートでど突く冨岡先生が見えた。あの光景も慣れたものだが、どうしてあの人が教師になれたのか今も不思議だ。
「別に、人間と関わるのは嫌いじゃねえよ。独りの方が気楽だからこうして引きこもって研究に没頭しているだけだ」
「『独りの方が気楽だから』って、コミュ障の人の言い訳の定型文ですよ」
「やかましい。元々ここの教師になるつもりじゃなかったのに、学園長が無理を言うからここで非常勤として働かせてもらってるだけなんだ」
「生物の教科は、姉さんに取られちゃいましたしね」
「教職なんて残業だらけの仕事、やってられん。早いとこ研究を完成させて転職してやる」
くっくっくっと悪い笑顔を浮かべるが、果たしてあの学園長がこの人をそう簡単に手放すだろうか。外堀を埋められ、結局はこの学園で骨を埋める気がする。
「ふふ。できるといいですね」
この人は、身内とそうじゃない人をしっかりと区別する。
先生は否定するけど、"人"じゃなくて"人間"と言うのだから、言葉の裏から人に対する嫌悪感が漏れ出ているのは確かだ。先生自身、それを自覚しているのかは分からないけれど。
人間嫌いと言っても富岡先生や煉獄先生とはよく一緒に飲みに行っているらしいから、人は嫌いでも友人を排するような人ではないのだろう。
「っと、しのぶ。そこの棚から試験管とビーカーを持ってきてくれ」
「はい」
でも、親しい生徒にはしっかりと名前で呼んでくれる。
だからこうやって地道にこつこつ会話を重ねて、先生を手伝いして。少しずつ距離を縮めてきた。
そして卒業式の日になったら、先生に告白する!
もう卒業したから、先生に恋をしてもいいんですよって、言いきってやるんだ。
我ながら完璧な計画。
あと一年しかないけれど、まだ一年もある。それまでに先生を私に惚れさせれば万事問題なし。この二年間で先生の好みはばっちり把握している。―――年上黒髪美人とか、どうしようもない問題もあるけれど、先生の好物とか、趣味とかは既に完璧に予習済みだ。これを活かして、先生を卒業の日までに私に――。
……そう、強く決心しているのだけれど。
私にはとんでもない邪魔者――もとい恋敵がいる。それもとんでもなく強敵だ。
――ガララ
「しのぶ~!」
ほら来た。
「姉さん」
「ギン君もこんな所にいた!やっぱり、しのぶがいる所にギンくんありね」
この人が、私の今の最大のライバル。私の唯一の姉にして、恋敵。
キメツ学園で最も男子生徒から人気がある、生物教科担当の胡蝶カナエ。身内である妹の私から見ても、控えめに言って美人で、お淑やかで、可愛くて。えげつない人気を誇る人である。
「何言ってるんだお前。ていうかノックしろよ。こっちは実験中だぞ」
「あ、また煙草吸ったでしょ!身体に悪いって、前にも言ったじゃない」
「お前は俺のオカンか……。いいだろ別に。誰に迷惑をかけてるわけでもないんだから」
「まったくもう。あなたはいつもそうなんだから。悲鳴嶋さんに言いつけちゃうわよ?」
「やめてくれ。殺される」
姉さんはぷんぷんと頬を膨らませ―――いや違う。あれは怒ってると見せかけて、鹿神先生と話せて実はすごい嬉しい顔!
「姉さん、私に用があったんでしょ?」
私は口早に、姉さんの肩を掴んで鹿神先生との会話を止めさせた。
「ああ、そうだったわ。しのぶ、カナヲがあなたのことを探していたわ」
「カナヲが?」
「ええ」
だから早くどこかに行ってくれないかしら、しのぶ。
あらあら姉さん、姉さんこそ早く仕事に戻ったらどうかしら。
「……なんでギスっとしてるんだお前ら」
「………………」
「………………」
呆れる鹿神先生の言葉に、私と姉さんは思わず顔を見合わせる。
「「先生(ギンくん)のせいです(よ)」」
「なんでさ」
評価投票者数500人越え、感想700件越え記念。
この小説をたくさんの人に読んでくださり、本当に感謝しています。UAが100万突破間近でうれしいです。
前回がSANを削るギンさん鬼化ルートだったので、今回は現代パロのキメツ学園編を書いてみました。また伸びたら続き書くかも。
感想評価、たくさんお待ちしています。