この世にあの世があるのなら、吉原はこの世に産み落とされた数多ある地獄の内の一つだと、ギンは思っていた。
煌びやかな灯り、美しき遊女、彼女達を更に美しく見立てる着物と、化粧、琵琶の音と酒。
美しき遊女達を物にしようと多くの男の金が動く。
商人、貴族……金にものを言わせて美女を手に入れようとここに足を踏み入れる者。
美しい花魁を一目見ようとやってくる冷やかしの客。
真っ暗な夜闇の中、灯りに照らされたこの華やかな吉原を、"竜宮城のようだ"と言う人も少なくない。
けれどギンはこの吉原の、遊郭の雰囲気が苦手だった。
最初は今回の仕事も断ろうと考えていた。しかし、ときと屋の
しかも、今回の報酬金はかなり割がいい。"柱"として鬼殺隊からかなりの額の給金や予算をもらってはいるが、蝶屋敷を運営する以上、医療器具、消毒薬、新しい医学書など、金はいくらあっても足りないし、あるに越したことはない。
今後のことも踏まえある程度蓄えをしておくべきだと考え、今回の仕事を受けることにしたのだ。
「吉原に来たのは初めてですけど、想像と全く違いました。綺麗な人がたくさんいて、男の人達は花魁という人たちにたかる蛾のような物なんですね」
「……なんでいるんだ?」
げんなりしながら横に視線を向けると、そこには堂々と大門切手*2を持つ胡蝶しのぶの姿があった。
吉原の華やかさに目を奪われながら、それに群がる男達に軽蔑するような視線を送っている。
鬼殺隊の証明である隊服は着ておらず、町娘のような着物に身を包んだどこにでもいるような風体で、そしてさも当たり前のようにギンの横を歩いていた。
二人とも日輪刀を帯刀していない。廃刀令が出ている現在、刀を持って大手を振って歩くことはできず、さらに吉原に武器の持ち込みは禁じられているからである。
もしも刀を持って歩いていれば、すぐにでも警察に追われるハメになるだろう。
「私は先生の助手ですよ?薬師の仕事なら、私がいるべきじゃないかと」
「いや……ていうかお前の担当地区はどうした?」
鬼殺隊の柱には担当地区がそれぞれ割り振られている。決められた土地を巡回し、鬼がいないか定期的に回らなければいけないのだ。
"蟲柱"の鹿神ギンのみ、特例で担当する地区はないが、"花柱代理"のしのぶはギンと違って担当地区が割り振られているはずである。
「しばらくの間は非番です。後はカナヲに任せていますから、心配せずとも大丈夫ですよ、先生」
「……ていうかなぁ。ここは遊郭だぞ?女と同伴してくるような場所じゃないだろう」
胡蝶しのぶは美人である。それはもう、その辺の花魁には負けないぐらいには顔立ちが整っているのだ。
そんな少女が白髪隻眼の男に同伴して吉原に来れば、周りの客達から注目されるのは当たり前だった。
「まあまあ、先生。今の私達は薬師と、その助手です。確かに女の薬師は珍しいでしょうが、こちらに後ろめたいことは一切ありません。しっかりと切手もありますし」
「ていうかどうやって手に入れたんだそれ。普通は女に発行されるようなもんじゃないのに」
「もちろん、お館様にお願いしました。すぐにカラスを通して渡してくれましたよ?」
「耀哉ァ……」
今度会ったら一回殴ってやろうか。
「ですから、堂々としていればいいんですよ。多少奇異の目で見られようと――」
「お、なんだあのべっぴんさん。男と一緒に吉原に登楼とはいい度胸してんなぁ」
「堂々と……」
「馬鹿、男の方は
「だが随分仲睦まじそうだぞ」
「なら夫婦で観光か?」
「きっと毎晩毎晩やってるに違いねぇ!羨ましいったらありゃしねぇなぁ!」
「とんだすけこましだな夫婦そろって」
「堂々と、なんだ?顔を真っ赤にしてるしのぶ。言ってみろ」
「……すみません」
まあ、来ちまったものはしょうがない。
できればこんなところにしのぶを連れてきたくはなかったんだが、ここで追い返すのも悪いしな。
「俺の傍を離れるなよ、しのぶ」
早い所、ときと屋に行かねえと。ていうかこれ以上目立ちたくない。
そんな焦りの気持ちが生まれたからか、ギンは咄嗟にしのぶの手を握り、早歩きで向かい出す。
「あ……はい」
手……暖かい。
その様は、どこにでもいる青年と、町娘のようだったと、誰かが言った。
「しのぶ。もし、ギンが遊郭に行くことがあったら、気を付けてあげて欲しい」
「……はい?」
しのぶは呆気にとられたように、産屋敷耀哉に問い返す。
いつものように"花柱代理"の仕事の報告をし終わり、蝶屋敷に戻ろうとした時だった。突然、お館様がそんなことを言ったのだ。
ギンさんが、遊郭に行く?
聡明なお館様からまさか『遊郭』という言葉が飛び出してきたことにも驚いたし、何より自分の師であるギンが、遊郭に?
混乱していると、お館様は「ああ」と気付いたように言い直す。
「遊郭に行くと言ってもね、登楼することじゃないよ。ギンが鬼狩りの任務か、別の用件で遊郭に行った時は、君に付いていってもらいたいんだ」
「何故……私が?」
遊郭は、男が身体を売る女性を買いに行く場所だ。女性であるしのぶからすればまったく行く理由がないし、そもそもそういった不埒なことをする場所だと言う風に教わっていた故に、生きている間は絶対に行かない場所だろうとしのぶは信じていた。
そもそも、遊郭で働く多くの遊女は奉公という形で売られてきた女達である。
人身売買は禁止されているが、裏では多くの娘が攫われ売られ、逃げることが出来ないよう堀に囲まれた街に閉じ込められている。
また売られた娘達は莫大な利子付きの借金を付けられ、逃げることも許されない。
今は蝶屋敷で暮らしているカナヲも、もしかすればここで働いていた可能性だってある。
カナヲや、罪のない女たちが男達によって買われていく。
考えただけでふつふつと怒りが湧き出てくるのを感じてしまう。
「ギンはね、昔、任務の為に西の遊郭に一月ほど潜入していたんだ。その時に、十二鬼月の下弦の弐と戦い、討伐し――今の"蟲柱"の名を襲名した。けれど、その時に深い心の傷を負ってしまった。ひどく荒れていたんだ」
「荒れていた?」
「鬼を殺すことに執着し、強い憎しみや恨みを抱くようになった。義勇が止めるまで、森を荒らしてでも、一般の人々を傷つけてでも鬼を殺そうと無茶な鬼殺を繰り返していた」
「あのギンさんが?」
ギンがそんな遊郭に潜入していたと言うことも驚きだったが、森や山を守り、命を大切にすることを信条とするギンさんが、森を荒らす?
想像もできなかった。
一体、何があったんだろう。あの強い人が憎しみに怒り狂っている姿なんて、想像もできなかった。私の師は、その時何があったんだろう。その戦いの中で、何を見てしまったんだろう。
「一体何があったんですか?」
「……それは私にも分からない。ギンはあの時のことを語ろうとはしなくてね。私も知らないんだ。ただ――あの西の遊郭で、ギンは傷ついてしまったんだ。その傷は今もまだ、塞がり切れていない。だからしのぶ。もしもギンがまた遊郭に訪れることがあったら、手助けしてやってくれないかい」
これは、君にしかできないことだから。
お館様は、そう言って小さく、頭をぺこりと下げた。
しのぶはすぐに膝を突き、頭を下げて願いを聞き届けた。
「御意」
私に何ができるかは分からない。けれど、自分の師が何かに苦しんでいるなら、助けてあげたい。傍にいてあげたい。
胡蝶しのぶが"花柱代理"に就任して二カ月の時のことだった。
その時、しのぶは自分の心の中に芽生えていた暖かい物を自覚していた。
ギンさんへのこの気持ちは、家族への心配?同情?それとも違う思いやり?
ううん、きっと、この気持ちの事を"恋"と言うんだ。
「どうも、鹿神先生!わざわざ足を運んでいただき、感謝いたします!」
「ときと屋さん。お久しぶりです」
吉原のある店に訪れると、老人がギンを朗らかな笑顔で出迎えた。
遊郭の知識に疎いしのぶも、この老人が"ときと屋"の楼主であることは容易に想像がついた。
二人は楼主の案内で店の奥の客室に案内される。
廊下を進んでいく最中、自分より幼い少女たちがこちらをもの珍しそうに見ていた。
多分、
あんな幼い子も、ここで働いている。
同じ女性として、少し複雑な気分を持ちながら、しのぶはギンの後を付いていく。
「いやぁ、懐かしい。もう八年近く前になりましょうか。西の方で命を助けて頂いたあの若者が、ここまで立派に成長しているとは思ってもみませんでした。ところで、そちらのお嬢さんは……」
「こいつは自分の助手です」
「胡蝶しのぶと申します。先生の助手を務めさせていただいています」
しのぶが丁寧に頭を下げると、老人はほぉと感心したように唸った。
「今時の若い娘にしては礼儀正しく美しい。鹿神さんの許嫁でしょうか?」
「いやちがっ」
「いやー!それはめでたい!あの若者にも春が来ていたとは、なんとめでたいことか!」
「…………」
年頃の男女が二人。
確かに、そういう風に見られても不思議ではない。実際、これまでしのぶと共に何度も蟲師の仕事や鬼狩りの任務に赴いた。現地の人々にそう勘ぐられることも少なくはなかった。
「よければ、一晩ここに泊まっていきますか?最高級の部屋ともてなしをご用意させていただきますよ!鹿神先生でしたら、お代は一切頂きませんとも!」
「「結構です!!」」
まだ嫁入り前の自分の弟子を傷物にするわけにはいかない、と顔を赤くするギン。
ギンさんと一緒に……と想像してしまう、意外とむっつりなしのぶ。
「いやぁ、息がぴったりですなぁ」
そう感心するときと屋の楼主だった。
気を取り直したギンはさっそく仕事に取り掛かる。
まず、ギンが薬箱から出したのは避妊薬。そして滋養強壮の薬だった。
「とりあえず、注文された分は持ってきました。避妊薬は一月に一度、暖かい湯と一緒に飲めば十分効果はあります。滋養強壮の薬は即効性があるので、水なしで飲んでもすぐに効きますよ」
「こりゃありがたい!大陸の薬は眉唾物の薬がほとんどで、あまり効果がなくてですね。ですが鹿神先生の薬はよく効くと有名なんですよ」
「もっと数が必要なら、また文を頂ければ調合して届けさせてもらいます」
「感謝いたします。では、代金はこれで……」
ときと屋との商談は淡々と手慣れたように進んでいく。
「他に何か困ったこととか、必要な薬はありますか、ときと屋さん」
「ふむ……」
「もうじき寒くなりますし、風邪にも効く薬もお安くさせてもらいますよ」
「なら、それも貰いましょう。普通の医者の薬は効かん癖に金ばかり高い……だが、鹿神先生の薬だったら安心だ」
「あとは美容に効く薬もありますがいかがでしょうか?うちのしのぶも使っている効き目抜群の塗り薬」
「ちょっと、ギンさん……!」
「ほぉ、そのお嬢さんも使っているのかい。その肌のきめ細かさ、効果は立証済みときた」
「ま、元の素材がいいってのもありますが。ときと屋さんの花魁達に使ってあげれば、もっと客がつくはずです」
「口がうまいなぁ鹿神先生は!ならそれももらっておこう!」
「毎度~。しのぶ、調合頼めるか?」
「はい!」
自分の師が薬を処方したり、誰かに卸す所を見るのは何度かあったが、いつ見てもその手腕に思わず感嘆する。
蟲師として多くの人と接してきていたからか、それとも元々人と関わるのが得意なのか、ギンはこう言った商談が得意であった。もし、鬼殺隊に所属していなければ商人としても財を築けたかもしれない。
しのぶもギンの助手として、時折その場で薬を調合しながら、ギンの商談のやり方を学んでいた。
患者や客に適切な薬を売ること、客が何を求めているか考えるのも医者の仕事の一つだからだ。
ギンは薬の調合の仕方は教えても商談のやり方までは教えてくれない。
そこからは独学か、ギンから見て学ぶしかないだろう。
……もしギンさんと夫婦になったら、医者になるのかな。大きな診療所で、けが人や病人を看て、生活する。
それか蟲師として旅をするのかな。
それとも商人?
どれでもいい。きっと、ギンさんと一緒ならなんだってやれるだろう。
私はそれに付いていきたい。でも、付いていくためにも、力と知識をつけていかなきゃ。
そして一通り商談が終わったのか、ギンと桜主は雑談を始めていた。ときと屋さんは懐かしそうに、感慨深そうに語り始める。
「鹿神先生。改めて、あの時は本当に助けて頂き感謝していますよ。今こうして楼主として稼げているのも、先生のおかげです」
「いえ……大したことは」
二人の話を聞いていたしのぶは、思わず口を挟む。
「ときと屋さんは、先生と昔から顔なじみなんですか?」
「ええ。そうですよ。最初に出会ったのは飛田遊郭でしたなぁ」
飛田遊郭。確か、西の方にある遊郭だ。
お館様が言っていた、十二鬼月と戦った場所。
「鹿神先生は幼い子供でしたが、漢方屋顔負けの薬を調合していましてね。多くの楼主がその薬の効き目に舌を巻いたものです。私もその薬を使わせてもらいましたが効き目は段違いで!調合の仕方を聞こうとしましたが先生はちっとも教えてくれない。ある遊郭の桜主はその薬の調合書を強引に先生に迫ったんですが、大の大人が三人、あっと言う間に伸されてしまって!あの時は本当に驚きました」
懐かしむように頷くときと屋の言葉に、しのぶは嬉しい気持ちになった。
自分の尊敬する師が褒められ、心が温かくなっていくのを感じた。
「ですが、ある晩に火事が起きましてね。花街の半分が焼け落ちる酷い大火事でした。その時、私も火事に巻き込まれたんですが、その時に助けられたんですよ」
「火事?」
「信じられないことに、人ならざる鬼が、大暴れしていたのです。とても醜悪な鬼でした。鹿神先生は、大やけどを負いながら刀一本で勇敢にその鬼に挑んでいき!その鬼を討ち取ったんです!千軍万馬に匹敵する立ち振る舞いでした。今でも昨日の事のように思い出せます」
「…………ときと屋さん、その辺で」
しのぶはそれが十二鬼月とギンさんの戦いだとすぐに察した。
もう少し詳しく聞きたかった。ギンさんがその戦いで何を得たのか、知りたかったのだ。
だが、ギンはあまり思い出したく無さそうにときと屋の話を止めた。
「おっと、申し訳ない。つい昔の話に……歳を取るとどうしてか昔話に花を咲かせたくなるんですよ」
はっはっはっと愉快そうに笑う旦那さんに愛想笑いを浮かべるしのぶ。
……やっぱり、私に聞かれたくないのか。
「失礼します」
すると、客室の襖が突如開かれた。
そこに現れたのは、黒髪を結い上げ、高価な着物を来た花魁だった。優雅な雰囲気を纏ったその人は、しのぶも思わず息を呑んで見惚れてしまうほど美人だった。
「おお、鯉夏。よく来たね。紹介しよう、鹿神先生。この娘はときと屋の呼び出し*5"鯉夏"です」
「お初にお目にかかります、鹿神様、胡蝶様。私、このときと屋で花魁を務めさせていただいております鯉夏と申します」
膝を突いて丁寧にお辞儀する鯉夏。教養と礼儀を学んだ、品格がある言葉と仕草だった。
「どうも。鹿神ギンと申します。こっちが、助手のしのぶです」
「初めまして」
「まあ!とても可愛らしい助手さんですね」
屈託のない笑み。これが、花街にやってくる男達を魅了する花魁……。
鬼狩りばかりに精を出してきたしのぶにとって、まるで異世界の人間と話している気分になってしまう。
「鹿神先生は、薬学だけでなく医術も修めておられる。鯉夏、何か悩み事があれば言ってみなさい」
「いえ……旦那様のおかげで不自由は何一つしておりません」
「そう遠慮するな。もうすぐ身請けされるのだから、憂いを残さぬようにしておくのも仕事の内だぞ」
「ありがとうございます」
「身請け?」
訊きなれない言葉にしのぶが首を傾げる。
「嫁に行くってことだ。この人を嫁さんに迎えたい人がいるってことだよ」
「本当ですか!おめでとうございます!」
しのぶは手を叩いて喜んだ。
鬼殺隊に入ってからは、人が死ぬことが日常茶飯事だった。無辜の民や、仲間が、毎日のように鬼に殺されていく。だから、こうした喜ばしいことを聞くと、心が軽くなるのだ。
「ありがとうございます、胡蝶様」
「心から祝福させていただきます、鯉夏さん。よろしければ、何か相談事はありませんか?私はまだ浅学菲才の身ですが、私の師である先生でしたら、どんな難病も解決できますよ」
「おい」
「ふふ。ありがとうございます。そうですね……」
鯉夏はそう言ってしばらく考え込むと、思い出したようにこう訊いた。
「そういえば、京極屋のある花魁が、
鯉夏は、親切心から言ったつもりだった。
自分は特に困っていることはないから、自分よりも奇病にかかった同業者を治療してほしいと。
だが、その言葉を聞いた時――ギンとしのぶは鋭い目つきで顔を見合わせ、頷いた。
その患者は、おそらく蟲患いに犯された患者か――――
――――遊郭に潜む、鬼だ。