え?蟲師の世界じゃないの?   作:ガオーさん

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 あの日以来、鹿神ギンは日記を書かなくなった。

 

 小さい頃、それこそシシガミの森に転生し、修行を始めた頃からずっと続けていた習慣。その頃の日記はシシガミの森に置いてきてしまったものの、あの森から出た後も地味に続けていた。

 蟲の観察日記も兼ねていたついでに、何を食べたとか、誰とどんな話をしたかとか書いていた。

 鬼狩りという任務をしているため、歯抜けになることも多々あったが、八年ぐらい続けていたからかなりの量の日記になった。

 

 自分が転生者だと忘れない為の、一つの儀式だった。今思えば好き勝手書いていたため、他人に見られでもしたら切腹不可避なのだが。

 

 でも、あの日の任務を終えた後、柱を襲名してまず最初にやったことは、自分で書いた日記を焼くことだった。

 

 その時の俺は、鬼とか蟲とか、考える余裕すらなかった。ただ鬼を殺さねばという復讐心に心を潰させていた。

 

 どんな手を使ってでも。

 

 虚を使って鬼を虚穴に閉じ込めた。何度も何度も。密室に誘い込み、虚を部屋に放っただけだから、大した手間はかからない。時には四肢をもぎとり、虚を放った密室に監禁したこともあった。逃げようとした瞬間、虚穴に取り込まれるように。人を食らった鬼をあの空間に閉じ込めれば、精神を壊して永遠に彷徨う。

 

 少しでも苦しめ。簡単に殺しはしない。

 

 あの世でもこの世でもない場所で、お前さんは永遠に彷徨うんだ。

 

「許してくれ!許してくれ!」

 

 それ、お前さんが殺した連中も同じことを言っただろう。

 お前さんはそいつらの言葉を聞いたのか?

 聞かなかっただろう。お前はその願いを嘲り、哂いながら、そいつの命を喰ったんだ。

 だから当然、俺もお前の願いを聞きはしない。

 永遠に闇の中を彷徨い、苦しくなったら自害すればいい。

 何、簡単だろう?お前さん達の頭領の名前を言えば済む話なのだから。

 

 

 

 ―――人とは、鬼とは、蟲とは、なんだ。

 

 生物とは、なんだ?

 

 俺達は何の為に、命を張って鬼の頸を獲り続ける。

 人の中には鬼のような冷たい心を持った悪人がいると言うのに。

 錆兎や他の仲間が死んだのは、そんなバカみたいな連中を鬼から守るためだったと言うのだろうか。

 

「生まれついて人より多くの才に恵まれた者は、その力を世の為、人の為に使わねばなりません。天から賜りし力で人を傷つけること、私腹を肥やすことは許されないのです」

 

 瑠火さん、アンタの言葉を信じていいのか、分からなくなることが時々あった。

 自分がやっていることは果たして意味があるのかどうか、そう考えてしまう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「足抜けって言うのは、遊女が遊郭から脱走しようとすることだ。遊女って言うのは商品だからな。人として扱われない。故に、女が廓からは簡単に逃げられないように塀で囲い、万が一抜け出そうとすれば追手がかかる。監視の目も厳しい。借金抱えた女が自殺や心中したり、脱走されると大損こくのは楼主だからだ。だが、逆に言えば鬼にとっては好都合でもある。遊女が消えても"足抜け"や"病で里に帰った"ってことにすりゃ、遊郭からただ逃げ出しただけ、と言う風にしか思われない。飛田新地にいた鬼も、似た様な手口を使っていた」

 

 藤の花の香を焚いた、ときと屋の客室でギンはしのぶに説明する。

 鬼がどこから聞いているか分からない。警戒したギンとしのぶは、ときと屋の主人に藤の花の香を渡し、屋敷中に香を焚かせておいた。

 とりあえず、これで鬼が中に侵入してくることはなくなる。

 お香の香り自体も、そこまで悪くはない物だ。遊女屋の香ということにすれば、そこまで違和感はない。

 

「どうしたもんかね」

「その人が蟲患いによる患者だという可能性は?」

 

 しのぶが覚えている知識によれば、陽に当たることができなくする蟲も何種類かいたはずだった。

 

「ある。そもそも、遊女はあまり医者にかからないからな。今まで見過ごされていた……と言う風にも考えられる」

「それは……困りましたね。直接会わない限りはっきりと判別できない」

 

 遊女は楼主から借金をつけさせられた身だ。

 食費や着替え、化粧などの生活費は全て遊女の自己経費になる。楼主が負担してくれることもあるようだが、そのような気前のいい楼主は多くない。

 当然、病にかかった時にかかる治療費や薬代も、全て遊女の自己負担となる。払えない場合は楼主へのツケとなり、借金が膨らむ。それを危惧し、病にかかりながらそれをひた隠しにして働く遊女もいるし、無理がたたって命を落とす遊女も何人もいる。

 要は、人が定期的に死のうがいなくなろうが、不思議ではないのが、この吉原という場所なのだ。

 

「だが、万が一のことを考えて俺達はその遊女を鬼と仮定して動くべきだろう。鬼も俺達の存在に気付いていると想定して動く」

「珍しく強めに警戒するんですね」

「吉原は狭い。誰がどう死んだとか、どんな奴がここに訪れたかすぐに情報は周るんだ。向こうが俺達のことに気付いていると考えて動いた方がいい」

 

 建前上は薬師として動いている二人は、かなり見た目が目立つ。方や白髪の大男に、もう一人は花魁にも引けを取らない美しい少女。

 ときと屋に来るまでの間に、かなりの注目を集めてしまった。

 この日は鬼を殺す任務で来るつもりがなかったから、二人とも刀もない。

 急いで刀だけでも持ってこさせようと隠に文を持たせたが、ここからすぐには動けない。

 

 幸い、ときと屋の楼主は鬼に理解がある。藤の家紋を掲げてはいないが、協力は惜しまないと約束してくれた。

 聞けば、ときと屋でも数年前から遊女が消えることが多々あったそうだ。それも、一等美しい娘ばかりが狙われたかのように姿を消す。つい最近も、須磨と呼ばれる花魁が姿を消したらしい。「足抜けする」と言う日記だけを遺して。 何故か派手柱の嫁と同じ名前だが、偶然の一致だろうと考えておく。もし須磨が消えたのなら、あの筋肉男がここにいないわけがないのだから。

 花魁達が消える原因がなくなれば、楼主としても願ったりかなったりだ。しばらくここで寝泊まりしてもいいということで、ギンはありがたくその厚意を受けることにしたのだ。

 

「とりあえず俺達は情報収集だ。幸い日が暮れるまでまだ時間はある。この時間帯なら鬼も出てこない。だが、万が一も考えても二人で行動する。まずは須磨花魁の行方と、京極屋の奇病にかかった遊女の調査だ。薬師として各店を回りながら情報を集める。何か質問はあるか?」

「大丈夫です。刀も夜には隠の方が届けてくれるはずですから、万が一こちらの動きに気付かれても、すぐに戦闘に入れます」

「……あまり気を張るな、しのぶ」

「いえ……」

 

 しのぶとしては、気が気ではなかった。

 まさか、遊郭で鬼が出るなんて。よりにもよって、ギンさんが来ている時に限って。

 

 しのぶの目から見たギンは、普段通りの冷静な師匠に見えた。

 

 けれど、長い間弟子として師事を受けていたしのぶから見ると、少しぴりぴりしているように見えた。苦虫を口の中で噛みつぶしているような。警戒心がいつもより高いのがその証拠だ。

 どうしてそんな顔をしているのか、しのぶには分からない。

 ……理由が分かれば、少しは力になれるかもしれないのに。

 

 

「よし行こう。まずは荻本屋からだ」

「はい」

 

 

 今は、考えている暇はない。私は、"蟲柱"のたった一人の弟子なのだから。

 いつまでも、守ってもらってばかりじゃいられない。

 

 姉さんを、私を助けてもらった恩を返すんだ。

 

 強い決意を胸に、しのぶはギンの跡をついていく。

 

 もう弱い自分じゃない。ギンさんと共に戦うと決めたのだから。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ギンとしのぶは、それぞれの店で様々な薬を売りながら情報を集めた。

 避妊薬、風邪薬、解熱剤、喉の薬。手や足の荒れや、冷え症に効く塗り薬などを格安で売りまわりながら、楼主や遊女に消えた遊女たちの情報を聞いて回った。

 ギンが説明した通り、吉原内でギンやしのぶについての情報は驚くほど早く回っていた。ときと屋に、腕利きの薬師夫婦が訪れていると。

 その事を聞いてまた顔を赤くしていたしのぶだったが、すぐにその余裕もなくなった。

 

 病に伏せていた遊女を診察していく中で、梅毒*1で苦しんでいる遊女がいたからだ。

 

 

「苦しむことに飽きんした……先生……どうか、どうか楽にしておくんなんし……」

 

 

 痛みのあまり涙を流しながら懇願する患者に、しのぶはどうしたらいいか分からなかった。

 鼻が欠け、身体中に浮かび上がる発疹。元々は大層美しかったであろう遊女をここまで醜く、灯りの下では見られないような醜悪な姿にさせてしまう病に、手が震えた。知識として梅毒について知っていたが、想像以上に悲惨な有様だったからだ

 ギンとしのぶは薬師として、医者としてこの時代では高い技術を持っている。しかし、この時代には性病を治す特効薬はまだない。

 皮膚が腐り、骨や内臓、脳にまで毒が回るその病は、苦しみのあまりギンに「楽にして欲しい」と懇願するほどだった。

 

「先生……どうにか、できないのですか……?」

「……痛み止めを用意しろ」

「先生!」

「ああ……ありがとう……」

 

 "木霊"と呼ばれる蟲がいる。薄紅色の、泡状の液体をした蟲がいる。

 その蟲は樹に宿り、木霊が住み着いた樹は群を抜いて長生きをし、美しい花を咲かせる。樹に長寿を与える、まさしく木の精霊とも言うべき蟲だ。

 時折、木霊が宿った樹は泡状の樹液を出すことがある。

 その樹液は生きた木霊で、それを動物や人間が呑むと長寿を与え、代わりに五識のいずれかを奪う毒となる。

 

「注射器の用意ができました……」

 

 悔しそうに歯噛みしながら、しのぶは注射器を用意する。

 木霊の薬を入れた液体を入れた注射器だ。

 

 ギンは木霊を研究し、五識の内、痛覚だけを麻痺させる特別な薬を創りだした。

 木霊の液と、様々な薬草を混ぜ合わせて作った特別な麻酔薬だ。

 とても強力な薬で、量を間違えれば永遠に意識が目覚めないこともある。

 だが、少量であるならば効果的な痛み止めとして使うことができる為、怪我人の手当や手術を頻繁に行う蝶屋敷では、"光酒"の次に重宝する薬だ。

 そして、重症、重病人の患者……もう助からないと判断された者の痛みを取り除く薬でもあった。

 

「しのぶ、お前は出ていろ」

「……はい」

 

 しのぶは部屋の外へ追い出される。

 

 木霊の痛み止めは、患者を安らかに眠らせる。つまり、不治の病や重傷の者を苦痛なく殺す行為でもあった。

 

 ギンの弟子に入ってから五年。

 しのぶは、安らかに眠らせる目的で、木霊を患者に打つことは、許されていなかった。

 

「ありがとうございます先生……」

「いえ。自分は何もしてません。ただ痛みを取り除き、眠らせただけです」

「ですが先生、見てください。あんなに痛みで苦しんでいたのに……今はもう、眠るように穏やかな笑みを……」

 

 違う。眠っているだけだ。痛みを取り除いただけで、この遊女は根本的に救われていない。

 鼻が欠け、遊女としての価値はなく。

 そしてその身に巣食う病魔を治療したわけでもない。ゆるりと死に向かっている。

 何も助かっては、いないのだ。

 

「平気か?しのぶ」

「はい。先生こそ……大丈夫ですか?」

「俺はもう慣れたもんだよ」

 

 今にも泣きだしそうなしのぶの頭を、ぽんぽんと撫でるギン。

 同じ女として、遊郭で苦しむ遊女にいろいろ想うことがあったのだろう。その表情は息が詰まったように重く苦しい。

 蝶屋敷や、鬼との戦いで死にゆく人を看取ったことは何度もあった。

 けれど、何度やっても慣れないし、慣れたくもなかった。何もできず、ただ無力さに打ちひしがれるのは、何度も味わいたくはない。

 

「行くぞ」

「はい」

 

 けれど、自分達の仕事は鬼殺隊。

 今は治療ではなく、情報収集が仕事だ。

 自分に万人を救う力はないことは、ずっと前から知っている。

 けれど、鬼を倒せばもっと多くの人を助けられる。

 

 そう信じて動くしかない。

 救えない命もあったが、おかげで多くの情報を得ることはできた。

 

「荻本屋も一見ただの遊女屋だな。だが……」

「ええ。嫌な気配がします。鬼か、血鬼術か……」

 

 一通り荻本屋での治療を終えた二人は、楼主の願いである遊女の部屋へ向かっていた。

 その遊女は昨夜から体調不良を訴えて部屋に閉じこもっているらしい。他の禿(かぶろ)の看病も受けたがらず、誰とも会わないようにしているとか。

 そしてその花魁の名は、ギンとしのぶは聞き覚えがあった。

 

「"まきを"って、宇髄さんの奥さんですよね?」

「ああ。ときと屋から姿を消したらしい須磨ってのも、おそらく宇髄の嫁さんだ。ここに潜入していたんだ……」

 

 宇髄天元は愛妻家だ。しかも嫁が三人いる。

 まきを、雛鶴、須磨の三人のくのいちだ。

 

 鬼殺隊としても優秀で、音柱として戦う宇髄をサポートする形で鬼殺の任務を行っている。

 宇髄と酒を呑むときは必ずと言っていいほどのろけ話を聞かされていたし、しのぶが開発した藤の花の毒を求めて蝶屋敷に訪れたことも何度もあった。鬼殺隊に女性隊士は少ない為、しのぶにとって良き友人であったし、柱と結婚している三人に恋愛の秘訣などをカナエと一緒に聴いたりしていた。

 しのぶにとって気のいい姉のような友人だった。

 

「ここ最近ずっと顔を合わせていませんでしたが、ここに潜入していたんですね」

「となると、宇髄の奴はどこに行ってんだ……」

 

 ギンはそう言いながら、手元にメスを用意した。刀に比べるとどうしても見劣りするが、日輪刀と同じ材料で作った特別なメスだ。やろうと思えば鬼の頸も斬れるが……。

 

 鬼が出るか、蛇が出るか。

 

 そう思いながら、そっと「まきを」が閉じこもっている部屋の襖を開いた。

 

「!」

 

 中はひどい有様だった。

 着物は辺りに散乱し、化粧台や壺などの調度品が壊されてしまっている。

 そして壁や天井には、獣……いや、刀で切り裂いたような傷跡が幾重にも刻まれていた。

 

「ギンさん!」

「ああ、ドンピシャだ!」

 

 どこに逃げた?

 襖は閉め切られていた。窓も開いていた様子はない。この部屋にはついさっきまで人がいたように感じる。微かにだが血の匂いがする。

 

 でも鬼の姿も、ここにおそらくいたであろうまきをの姿もない。

 

 なら――

 

「天井裏!」

 

 ギンは呼吸を使ってメスを天井に向かって投擲した。

 日輪刀と同じ材質でできているメスは切れ味も鋭く、刀に引けを取らない。

 真っ直ぐに向かって飛んでいくメスは、天井を貫通した。

 

「ギャアアアアアア!!!」

 

 すると、野太い女のような声が響き、天井裏から何かがのた打ち回るような、何かが暴れ回るような音が響く。

 

「しのぶ!」

 

 ギンが声をかけるより早く、しのぶは天井の板を外し、天井裏に潜り込む。

 小柄なしのぶは足が速く、身軽だ。軽々と天井裏に身体を忍び込ませたしのぶは薄暗い天井の中で辺りを見渡す。

 

 鬼の気配はない。

 外はまだ陽が昇っているから、外に出ることはできない。おそらく壁や天井裏を通ることができる鬼なんだ。

 天井裏は狭く、身体を低くしないと通ることもできない。

 

「はぁ……!はぁ……!」

 

 暗闇の中、いつ、どの瞬間に鬼が現れるか分からない。相手は暗闇を自由に動き、こんな狭い場所を自在に動ける鬼だ。ここで戦うのは圧倒的に不利。

 今この瞬間にだって、鬼が飛び出してきてもおかしくない。

 鬼と戦った回数は何回もある。けれど、いやに自分の心音と、荒い息遣いが耳に残る。

 しのぶは屈みながら素早く、天井裏を索敵する。

 

「くそっ……!しのぶ!深追いするな!」

 

 体格が大きいギンでは天井裏に入ることもできない。無茶をすれば天井を破壊することもできなくはないが、仮に鬼が出てきた場合、今の装備では戦うことができない。

 

 この遊郭にはかなりの数の人がいる。その中で戦えば、どれだけ被害が出るか分からない。

 

 ――――ドタン、バタン!

 

 天井裏から、更に大きな音が響く。天井裏をしのぶが走り回っている音だ。

 

「!」

 

 そして――

 

 天井に亀裂が入り、木でできた板が抜けた。

 大きな音を立てて廊下の天井に穴が開いたのだ。

 

「しのぶ!」

「ギンさん!まきをさんを保護しました!」

 

 天井裏の埃と、木材の破片だらけになったしのぶが抱えていたのは、気を失ったまきをの姿だった。

 体中に浅く切り傷があり、出血しているが致命傷ではない。

 

「鬼の姿は?」

「見当たりませんでした!おそらく、さっきのメスが当たって逃げたみたいです!」

 

 

「きゃー!」

「何、今の音?」

「なんでぇ!うるせえぞ!」

 

 建物中に響いた騒音を聞き付けた人達が階段を上がってくる音がする。

 

「ちっ、面倒だな」

 

 天井をぶっ壊し、そして傷ついた花魁。肝心の鬼も、姿を消している。疑われるのは明白だ。

 ここで足止めを喰らっている間に、鬼がまた戻ってこないとも限らない。一刻も早くここから出なければ。

 

「しのぶ、逃げるぞ。先導する!」

「はい!」

 

 しのぶがまきをを負ぶさるのと同時に、ギンは木戸を蹴破り、そこから飛び出した。

 となりの建物の屋根に上ったギンとしのぶは、そのままときと屋まで走っていく。

 

 

 ―――これではっきりした。この吉原のどこかに、鬼がいる。

 

 それもかなり巧妙で、賢い鬼だ。

 

 鬼がいる。この吉原に。

 

 水子の命を。女の命を。人の命をゴミ屑のように喰らう悪鬼が、どこかにいる。

 

 

「ギンさ―――」

 

 

 まきをを背負いながら走るしのぶは、自分の前を走るギンの顔を見た。

 

 

 その表情は、憤怒だった。

 

 

 哀しくて辛そうで――怒りに染まった顔だった。

 恐ろしいほどに。

 

 本当にこの人は、私が知る鹿神ギンだったのだろうか。

 

 どうして、そんな顔をしているんですか。

 

 しのぶはそう訊くことができなかった。

 

 もし聞いてしまえば、今度こそこの人はどこか遠くへ行ってしまいそうな――あの時、常闇の中に姿を消した時のように、二度と会えなくなってしまうような気がして、しのぶはそれ以上何も言わず、ときと屋に向かった。

 

 

 

*1
性病のこと

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