え?蟲師の世界じゃないの?   作:ガオーさん

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 三年ほど前、無限城に百十三年ぶりに上弦の鬼が集められた。

 

 無惨様の側近である琵琶女によって、上弦の鬼が全員、集められた。そこに呼ばれる時は、十二鬼月の、上弦の鬼の内の誰かが鬼狩りにやられた時だけだ。

 

 "上弦の壱"黒死牟。

 "上弦の弐"童磨。

 "上弦の参"猗窩座。

 "上弦の肆"半天狗。

 "上弦の伍"玉壺。

 

 そして、アタシ"上弦の陸"の堕姫。

 

 集められたアタシ達に無惨様が告げたのは、十二鬼月の一人である"上弦の弐"童磨が鬼狩りに殺されたという報せだった。その言葉の節々には、無惨様の苛立ちが滲み出ているように感じた。

 白い髪に翠の目をした隻眼の男と、黒髪の無表情の男が殺したらしい。

 

 蟲師、と呼ばれる、怪しげな薬を使う薬師の鬼狩りだと、無惨様は仰った。

 

 無惨様は大変お怒りだった。上弦の、しかも上から弐番目の童磨を殺されたのだから、不愉快なのは当然だ。無惨様はアタシ達に強くあれ、人間を喰い続けろと望んでいる。鬼狩りを滅ぼせと。青い彼岸花を探せと。

 それなのに童磨は、無惨様から弐番目の数字を頂いていたのに、情けない奴。

 アタシは内心、童磨を心の中で哂っていた。

 

 童磨は、アタシ達が死にかけていた時に無惨様の血を分けてくれた鬼。云わば命の恩人でもある。

 

 でもアタシはあの空っぽの表情が気に喰わなかった。へらへらとアタシ達に「助かってよかったね」と、善人のように笑う薄っぺらさが大嫌いだった。

 お兄ちゃんも童磨のことは気に喰わなかったみたい。というより無惨様含めて全員が童磨の事を疎ましく思っていた。元々、鬼同士馴れ合うこともほとんどないと言うのもあるのだけれど。それでも強かったから、上弦の弐の立場を手に入れた。

 感謝はしても好きにはならない。

 だから、死んでしまって正直清々した。食い物でしかない人間を、救わなきゃいけないだとか微塵も想ってもない癖に、教祖の使命だとか言って女を貪り喰らっていた。心底吐き気がする奴で、死んでざまあみろとしか思わなかった。

 

 唯一、猗窩座と黒死牟だけはその童磨を殺した鬼狩りに興味があったみたい。武芸者の矜持だとか血がうずくとか言ってたけど、馬鹿みたい。

 

 アタシ達に仲間意識なんて必要ない。無惨様のお役に立つという役目だけ、全うできればいい。童磨は強い鬼だった。けれど、油断していた。慢心していた。

 アタシはそんなヘマはしない。アタシは、お兄ちゃんは、そいつを絶対殺す。

 

 無惨様を不愉快にさせた。それだけで万死に値する。

 

 吉原で人を喰っていれば、いずれ噂を聞きつけた鬼狩りがやってくる。 

 柱が来るなら更に都合がいい。アタシとお兄ちゃんは無敵なんだから。いずれその蟲師とやらも殺してやろう。

 

 もっともっと人を喰って、美しく、強く、残酷になる。

 

 いずれ上弦の、もっともっと上になって無惨様のお役に立つ。 

 

 童磨が死んでしまったのならちょうどいい。

 

 アタシ達がその後釜になってやる。

 

 永遠にアタシは美しく強くあり続けるのだ。

 

 

 

 そして―――思ったより、その機会は早く訪れた。

 

 

 

 "上弦の壱"黒死牟が、その鬼狩りと戦い、深手を負った。

 

 上弦の壱、黒死牟の強さはアタシ達の中で別格だった。三百年も昔に鬼になり、上弦の壱に上り詰めてからは一度たりとも敗北しなかった鬼。十二鬼月の中の古株。そして最強だった。

 その鬼の強さは、あの無惨様でさえ一目置いておくほどで、アタシやお兄ちゃんでも太刀打ちできないほどに強かった。

 

 けれど、再び無限城に呼び出された時、あの黒死牟の姿は見るも惨めに成り果てていた。

 鳴女に呼び出され、最初にその姿を見てしまった時は、アタシも思わず息を呑んでしまった程だ。

 左腕を喪い、顔の左半分は火傷をしてしまったように黒く爛れている。着物に隠れて見えないが、おそらく左半身も似た様な状態だろう。肉が焼けたような匂いが漂っているから。

 六つあった鋭い眼は、左の眼三つが火傷で覆いかぶさるように潰れている。恐らく、左の眼はもう機能していない。

 鬼の回復力はどうしたの?どうしてその傷、治ってないのよ、治さないのよ?

 

 黒死牟と向かい合うように――上弦の伍の玉壺が、汚らしく醜い笑みを浮かべながら、黒死牟を見ていた。

 まるで今から決闘をするかのように、空間の中央で睨み合っている。

 

 私はそれを見て察した。

 

 ―――入れ替わりの血戦だ。

 

 玉壺の奴が、黒死牟が弱まったと言う情報をどこからか掴んだのか、入れ替わりの血戦を申し込んだのだ。

 その立会人の一人として、アタシや他の上弦の鬼が呼ばれた。

 二人を囲むように、戦いを見届ける役目を負わされたのだ。

 

「見ての通り、上弦の壱である黒死牟は鬼狩り――蟲師に深手を負わされた。私が分けた血を封じる何かを仕込まれたのだ」

 

 十二鬼月にどよめきが走る。

 鬼の力を封じる?鬼狩りは、その蟲師は、そんな手段を持ち合わせているのか?

 

 半天狗の(ジジイ)は怯えを隠さず地面に蹲って震えているし、猗窩座は口惜しそうに黒死牟を見つめていた。

 

「そして、玉壺が入れ替わりの血戦を申し込んだのだ。黒死牟に」

 

 無惨様が簡単に今の状況を説明してくださった。どちらが勝つのか分かりきっているのか、無惨様は心底愉快そうに向かい合う二人を見つめている。

 

 ……確かに、上弦の壱は今まで見たことがないほど疲弊している。

 不死身とも言える回復力を失った鬼など、上弦の鬼(アタシ達)からすれば脅威でもなんでもない。

 基本的に鬼同士の戦いは不毛だ。互いが不死身であるが故に、戦い続けても決着がつかないことがほとんど。だから共食いをするか、陽の光に焼くまで弱らせるのが、鬼同士の戦い方。けれどその肝心の再生能力を失われれば、あっさりと決着が着く。

 

 けれど、何故だろうか。

 隻腕の剣士。鬼本来の回復力が封じられてしまって、恐れるに足りぬ、弱々しい存在に見える。

 けどどうしてだろうか。

 

 今の黒死牟の立ち振る舞いは、以前より鋭く、美しい刀を連想させる。地獄のような炎で鍛え上げられたような、真っ黒な刀を思い浮かばせた。

 

「ヒョッ!いやはや、あの黒死牟殿も地に堕ちましたなぁ。貴方が鬼狩りにそこまで深手を負わされるなど!ヒョヒョッ」

「……」

 

 壺から半身を出し、挑発するように笑う玉壺の言葉に、黒死牟は何も言い返さない。

 

「私、心が躍りましたとも!ついに私が十二鬼月の頂点に立てると!剣士の命である片腕を失い、そして傷を再生することもできない上弦の壱など、恐れるに足らず。貴方はもはや上弦の壱の器ではない。上弦の壱にふさわしくない。ついに私が、この玉壺が貴方の席を奪う時が来たのです!」

 

 ご機嫌そうに語る玉壺は、自分の勝利を確信しているようだった。

 もうすぐ自分が上弦の壱になる。そう信じて疑わない笑み。

 

 あんな奴がアタシより上だなんて、本当に吐き気がする。いつかアタシ達が殺してやろうと思っていたのに。

 本当に不愉快。醜い見た目も、その汚い声も。

 

 だが、黒死牟の反応は冷ややかだった。

 

「御託は……いい……」

「ヒョ?」

 

 黒死牟は、器用に片手だけで刀を抜いた。

 ……以前まで、その刀は鬼の細胞で強化された刃だったはずだった。

 しかし、今あの男が握っているのは、どこからどう見ても、普通の刀で。

 

 この世の闇を写した様な()()()()だった。

 

「……傷が疼くのだ……」

 

 黒死牟は語りかける。

 だが、アタシには玉壺に語りかけているように聞こえなかった。

 まるで別の誰かを、ここにいない誰かと話しているように見えた。

 

「お前を殺せと、傷が疼くのだ」

 

 

 

「……舐めるなよ、老害」

 

 

 

 

 そして上弦の壱と上弦の伍の"入れ替わりの血戦"が始まり―――

 

 

 

 

 

 

 その決着は、一瞬で着いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「月の呼吸改め」

 

 

 

 

 

 

 

 

"月蝕(つきはみ)の呼吸 壱ノ型 悪月(あくづき)"

 

 

 

 

 

 一応言って置くけど、アタシはその瞬間、決して瞬きなどはしていなかった。

 

 

 

「ヒョ?」

 

 

 

 気付いた時には、玉壺の身体は四分五裂の肉塊と化した。ぶつ切りにされた肉が辺りに散乱し、それと同時に玉壺の後ろにあった無限城の空間の一部は、玉壺の身体と同じようにバラバラにされて崩壊した。

 

 玉壺の血液が破裂したように床を濡らし――私達はそれを見て驚き、そして無惨様は恍惚と言わんばかりの笑みを浮かべた。

 

 そしてそれを見た黒死牟は――

 

 

「まだだ……。まだ足りぬ……」

 

 

 今の自分が繰り出した技が、まるで不出来で不完全だったかのように不機嫌そうに顔をしかめ、刀を鞘に納めた。

 自分の技に納得していない。上弦の鬼のアタシ達の目にすら映らなかった、仮にも上弦の伍である実力者の玉壺を一瞬で仕留めたと言うのに。

 

 嘘でしょ。あの領域に至っても、まだ満足しないの?

 

 

 それより何よ、今の技。血鬼術でもなんでもない。

 それは、()()()()()()()()じゃない。

 剣に詳しくないアタシでも、黒死牟の腕前が凄まじいことだけは分かった。

 今までアタシは七人の柱を、お兄ちゃんは十五人の柱と戦って、喰った。

 けれど今の技は、そのどれよりも迅く、どんな技よりも鋭かった。

 

 鬼の回復力は封じられ―――けれど、どうしてか以前より力が増している。鬼の怪力が、速さが、アタシ達の比にならないほどに。

 

 その瞬間、アタシは、アタシ達は分かった。理解してしまった。

 

 例え腕を失おうとも、鬼の回復力を失おうとも、上弦の壱は、最強の名は健在であると。

 

「何故だ!どうして私の身体がぁぁぁぁぁぁ!!」

 

 痛みにもだえ苦しむように、納得がいかないように玉壺が耳障りな声で叫ぶ。

 

「何をしたのだ黒死牟!お前は弱くなったはずだ!片腕を使えなくなった貴様がどうして!!血鬼術も使えなくなった貴様が何故!!鬼の私を遥かに凌駕する!?私は以前より更に強くなった!いずれは上弦の壱になろうと人を喰らい続けた!それなのに何故貴様は―――!」

「黙れ」

「ケプッ」

 

 肉塊となりながら喚いていた玉壺は、無惨様によって口の部分を潰された。

 

「…………」

 

 身体を切り刻まれ、無惨様によって力を押さえつけられたのか――玉壺はそれ以上動かなくなった。

 死んではいないが、おそらくあれはもうダメだ。

 入れ替わりの血戦を挑み、敗北した者に待つのは死よりも惨めな最期だ。今まで何度も見てきた。もう、玉壺は、上弦の伍の存在価値は失われた。

 

「さすがだ、黒死牟。腐酒に適合しただけはある。その力があれば、鬼狩り共の命、全て斬り伏せよう」

「……」

 

 無惨様の賞賛に、黒死牟はただ静かに頷いた。

 

「玉壺。お前にはほとほと失望した。自分の身も弁えず入れ替わりの血戦を挑み、その有様か」

「わ"だ……じは……」

 

 地面に転がる口の部分を震わせるように、玉壺は何かを懇願する。

 

「上弦の鬼に、弱い者はいらぬ」

 

 無惨様はそう言って、玉壺の肉を踏みつけた。

 

 ぐちゃりと肉が潰れる音がし、上弦の伍は、この世から姿を消した。

 

「十二鬼月は再編する。猗窩座、半天狗、そして堕姫と妓夫太郎よ。お前達に私の血をふんだんに分けてやる。そして殺すのだ、花札のような耳飾りをつけた剣士を。白髪に翠の眼をした蟲師を。そして忌わしい産屋敷が率いる鬼狩り共を。そうすれば、更に私の血を分けてやろう。青い彼岸花を、奪い返すのだ」

 

 あれは、私が完璧な存在になるための花なのだから。

 

 

 

 

 

 

"上弦の壱" 黒死牟

 

「我が剣技……未だ劣らず、いずれ空に浮かぶ太陽さえ斬り伏せるのみ。猗窩座よ……お前も俺に挑んでみるか?」

 

 

"上弦の弐" 猗窩座

 

「……いつか貴様は俺が殺す。それまで頸を洗って待っておけ」

 

 

"上弦の参" 半天狗

 

「恐ろしい恐ろしい……黒死牟殿の強さが以前より増しておる……それもあの恐ろしい酒の力……ああ、恐ろしや……」

 

 

"上弦の肆" 堕姫

 

「感謝いたします無惨様……!もっと強く……もっと美しくなりますわ……!」

 

 

"上弦の伍" 鳴女

 

「…………」

 

 

 

 

 

 

 

 玉壺は死に、欠けた十二鬼月の座は、繰り上がる形で埋められた。

 そして、アタシ達は無惨様から多くの血を分けて頂いた。

 

「頃合いだ。そろそろ私も、あの産屋敷一族……鬼狩り共との因縁に決着を着けねばならぬと考えていた。お前達に更なる血を与えよう。もっと大勢の人間を喰い、更に力をつけ、そして産屋敷一族諸共、忌々しい鬼狩り共を滅ぼすのだ」

 

 ああ、力を感じる。今なら誰にも負ける気がしない。

 

 これで、鬼狩りを殺す。

 

 無惨様の血と共に、頭の中に流れ込んでくる映像。

 

 緑の眼をした白髪の男。黒死牟に傷を負わせた、油断できない鬼狩の柱。

 

 確か名前は、鹿神ギン。

 

 鹿の神だなんて弱そうで笑っちゃう。でも、なかなかの男前。アタシ好みだ。綺麗な翠の眼をしている。眼だけほじくり出して食べてあげよう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 そして、とうとうその鹿神ギンと言う鬼狩りが吉原にやってきた。

 

 美しい少女を連れていた。どうやらその蟲柱の弟子らしい。可愛らしい少女で、その男を随分と慕っているようだった。

 アタシの存在に気付いているみたいだけど、関係ない。柱が何人来ようとも、アタシ達に敵う訳がない。

 

 

「ふふっ」

 

 

 あの女、本当に綺麗。しっかり喰ってやろう。アタシの更なる美貌の為に。

 

 あの男は、もし弟子が目の前で喰われたら、一体どんな顔をするのかしら。どんな顔で泣き喚くかしら?

 それとも――あの女の前で蟲師を殺せば、どんな叫び声をあげてくれるのかしら?

 

 自分が慕う師が、目の前で食い殺される。想像しただけでワクワクしちゃう。

 

 ああ―――今から本当に楽しみだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ときと屋に到着したのは、夕暮れ頃だった。

 遊郭は夜、眠りから目が覚めたかのように店から灯りが漏れ始める。

 

 仕事を終えた男達が、今宵も女を買おうと通りは人で溢れ返る。

 

 この廓に鬼が潜み、それと戦う剣士がいることも知らずに、女達は男を誘惑し続ける。白粉を肌に塗り、唇に紅を塗り、男共の心を蠱惑する。

 灯りに集められた蟲達は、陽に集められた蛾のように、銭をばら撒く。

 

 一日に何百万と金貨が動くこの吉原で目覚めるのは、そんな人を呑みこむような欲だけではない。

 

 

 夜は、月が空に浮かぶ時間は、鬼達が起きる時間だ。

 

 

 ギンとしのぶは客達に気付かれないよう、声を潜め、足音を立てないように静かに薄暗い屋根の上を駆け抜ける。

 

 気を失ったまきをを背負ったまま、屋根伝いにときと屋の二階に窓から侵入すると――

 

「……炭治郎?何してんだ?」

 

 女装した弟弟子が鯉夏の世話をしていた。

 

「ギンさん!?しのぶさん!?どうしてここに!?」

「控えめに言って、ひどすぎる化粧ですね……」

 

 しのぶが呆れたように眉をしかめた。炭治郎は顔中を白粉で無理やり塗りたくられ、紅で唇を塗られ、ぽつんと眉を描かれている。俗に言う麻呂眉だった。

 どぎつい化粧の上になんでこんなところにいるかは謎だが、顔見知りがいるのはちょうどいい。一瞬「女装癖に目覚めて遊郭に働きに来たのか」と頭が混乱してしまったが、この弟弟子に限ってそんなことはない。と、思いたい。

 洞察力に優れているギンも、さすがに困惑するばかりだ。少し自信は持てない。だが今は弟弟子の女装についてあれやこれや突っ込んでいる暇はない。

 

「し、鹿神様、胡蝶様!?その背負っている方は……!?」

 

 驚いたのか、口元を抑えながら鯉夏は慌てふためく。楼主の客人が突然窓から、しかも傷を負い気を失った花魁を背負って現れたのだから、驚くのは無理もない。

 

「説明はあとでする。鯉夏さん、清潔な布と暖かい湯を持ってきてくれ。この人を今から手当する」

「は、はい!」

 

 さすがときと屋一の花魁か、ギンの言葉を聞くとすぐに気を持ち直し慌てて下の階へ向かっていった。

 

「炭治郎は俺に着いて来い。いろいろ話さなきゃいけねえからな」

「はい!」

 

 

 

 

 

 まきをの手当は滞ることなく完了した。

 

「打撲に浅い切創、出血も少なく、脈も正常です」

「とりあえず、目が覚めるのを待つべきか」

 

 薄暗い部屋。外はもう日が暮れ、室内を照らすのは蝋燭の揺れる火だけだ。まきをは包帯や布でしっかりと止血を施され、静かに寝息を立てている。もうしばらくすればすぐに目を覚ますだろう。

 

「あの……ギンさんとしのぶさんは何故ここに?」

 

 普段の格好に着替えた炭治郎は、困惑が解けないような表情で手当てを終えた二人に問うた。同じ鬼殺隊に所属し、自分の上司でもある二人に対していつまでも女装する必要はないと考えたからだ。

 というより、「その格好は眼に毒だからはやく着替えろ」とギンにジト目で言われたからと言うのが一番の理由だった。ちょっと自信あったのに。

 

「俺達は薬師の仕事でここに来ただけだ。このときと屋の楼主は俺が昔、鬼殺の任務で助けた一般人でな、その縁でここを拠点にさせてもらっていた」

 

 藤の花の香は、今この部屋では焚かれていない。箱の中に眠っている禰豆子にも毒だからだ。

 

「薬を売っている最中に、ここに鬼がいると言う情報を掴んだんだ。まきをを見つけられたのはほとんど偶然だな」

「そうだったんですか……」

「で、炭治郎。お前を女装させてここに潜入させたのは宇髄の指示か?」

「はい。俺は宇髄さんに、店に潜入した須磨という花魁を探せと言われて……」

 

 炭治郎はここに潜入した顛末を簡単に話した。

 宇髄さんの嫁達が吉原に潜入し、姿を消したため蝶屋敷のアオイさんを連れてここに来ようとしていたこと。

 自分と善逸、そして伊之助の三人がアオイさんの代わりに宇髄さんに着いてきたこと。

 いなくなってしまった宇髄さんに命じられ、女装してときと屋、荻本屋、京極屋に潜入していたこと。

 

「宇髄さんには後でキツイお仕置きが必要みたいですね」

 

 話を聞いたしのぶは額に青筋を浮かべながらしゅっしゅっと拳を振るっていた。

 蝶屋敷の看護師、つまりしのぶとギンの部下であるアオイを、鬼によって心に傷を負ってしまっているアオイを、無理やり吉原の任務に連れて来させようとした宇髄に激怒するのは当然だった。

 普段はしかめっ面で眉に皺を寄せているしのぶが笑うことは多くはない。今のしのぶは表面上は笑顔だが、ギンと炭治郎は、しのぶがピキピキ状態だということをすぐに理解した。

 

「ギンさん達はもう鬼が何処にいるのか突き止めているんですか?」

「あぁ。すぐに目星は付けられた。京極屋の蕨姫という花魁だ。数年前から陽の下に出られない奇病を患っているらしい」

「善逸が潜入した店……」

「本当ならすぐに俺達もその蕨姫の所に行きたかったんだがな。生憎、俺もしのぶも刀を持ってきていない。届くまでもう少しかかる。だからとっとと伊之助と善逸をここに呼び寄せて―――」

 

 

「善逸は来ない」

 

 

 客間に聞き覚えのある男の声が響く。窓の方へ振り向くと、月を背に笑う"音柱"宇髄天元が窓枠に音もなく座っていた。

 さすが、元忍か。足音や気配を一切させず現れたことに多少驚きつつも、ギンは「ようやく来たか」と笑う。

 

「おう、ギン、まきをを助けてくれて派手に感謝するぜ」

「宇髄さん!善逸が来ないって――」

 

 炭治郎がそう訊き返そうとした瞬間だった。

 

「宇髄さん」

 

 ――周知の事実だが、胡蝶しのぶは頸を斬ることができない剣士だ。生まれつき小さな体格、細い腕のしのぶは、鬼の頸を斬る為に必要な筋力を得ることができない。故に、毒と突き技を組み合わせた独特の剣術で鬼を屠る。

 

 だが、だからと言って弱いかと訊かれると――答えは否である。

 

 確かに筋力は他の隊士に比べると見劣るが、敏捷性や身体の柔軟さは人一倍。更に自分の師である鹿神ギンによって鍛えられ、身体のしなやかさを最大限に生かし、全集中の呼吸で底上げした瞬発力は他の柱にも劣らない。

 

「歯、食い縛ってくださいね」

 

 アオイを無理やり連れて行こうとした音柱に対して大変ご立腹だったしのぶのビンタは、物の見事に宇髄天元の左頬を直撃した。

 

 女の怒りをありったけ注ぎ込んだしのぶの平手打ちは、『パァン』とまるで火薬が炸裂したかのような大きな音を響かせ、宇髄はそのまま勢いよく壁にぶっ飛ばされた。回避すらさせてもらえず、宇髄は自分がどうして吹っ飛ばされたか気付いていないだろう。

 

「うわぁ……」

 

 柱の中でも一等体格が良い宇髄を軽々と派手に吹っ飛ばしたしのぶに、思わずドン引きするギンと炭治郎。

 

「おい、しのぶ。手加減しろよ。白目剥いてるじゃねーか。これから作戦会議しなきゃいけねぇのに」

「ふんっ、アオイを無理やり連れて行こうとしたんですから、これぐらい当然の報いです!」

 

 やんわりとギンは注意するが、しのぶはそんなこと知るかと言わんばかりに満足げに鼻を鳴らす。

 怒りを文字通り宇髄に叩き付けたおかげか、その表情はどこか晴々としているように見えた。

 よほどいい場所に当たったのか、肝心の"音柱"宇髄天元は自分より二回りは小柄のしのぶの平手打ちで失神していた。彼の左頬にはくっきりと真っ赤な紅葉が刻まれてしまっている。あれはしばらくの間引かないだろう。

 

「見事に伸びてるな……。修行の成果が出てるようで俺は涙と冷や汗が止まらんよ」

「俺、これからしのぶさんの言うことには逆らわないようにします……ヤバイから」

 

 仮にも相手は男で、柱で、そしてしのぶが見上げるほどの大男だ。それに臆さず、あまつさえぶっ飛ばしてしまうとは。自らの弟子の成長っぷりに思わず震えが止まらないギンと、これから蝶屋敷でお世話になる時はしっかりしのぶさんの言うことを聞こうと心に誓う炭治郎だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「で、善逸が来ないってのはどういうことだ?」

 

 改めて、眼を覚ました天元を加えて話し合いを再開する。頬に刻まれた紅葉の跡は依然引かないまま、どこか格好がつかない状態だが気にせず話を進めることにした。

 

「俺が善逸に付かせた"忍獣(にんじゅう)"から連絡が入った。京極屋に潜入してから二刻で姿を消した。おそらく、京極屋にいる花魁が、この吉原に潜む鬼だ」

 

 忍獣――元忍びの宇随が特別な訓練をさせたムキムキねずみ達のことだろう。刀を持ち運べるほどの力を持ち、知能が高く、偵察の任務などでも重宝していると宇髄から聞いていた。

 

「その根拠は?」

「善逸には刀を持たせていない。だが、手練れの鬼はその人間が鬼狩りかどうか簡単に判別する。善逸や俺の嫁達も見破られてしまったんだ」

 

 宇髄の嫁達は、柱の宇随ほどでないにせよ、腕利きの忍びだ。援護や潜入の技術はもちろん、戦闘力もそこらの鬼に引けをとらない。なのに、姿を消してしまった。

 

「俺の方も当たりをつけておいた。どうやら、京極屋には"蕨姫"という陽の下に出られない奇病を患っている花魁がいるらしい」

「流石だな。最初からお前に頼めばよかったぜ」

「ですが宇髄さん。これからどうするのですか。善逸君も行方不明になってしまった以上、早く行動に移すべきなのでは……」

 

鬼に食われたか、それとも捕らわれたのか。いずれにせよ、鬼にとって鬼殺隊の隊士を生かしておく理由などひとつもない。行動に移さねば間に合わなくなる可能性がある。

 

「俺はまず雛鶴を助けに行く。話によると切見屋に移されたらしい」

「その後は?」

「今晩中にその蕨姫にド派手に奇襲をかける。運が良ければ善逸達も助けることが出来るだろ」

「おいおい、随分性急じゃないか?」

「先生の言う通りですよ、宇髄さん。確かに行動に移すべきと言いましたが、まだまきをさんも目を覚ましていません。相手は十二鬼月の可能性が高いんです。奇襲を掛けるのは早計ですよ。もっと慎重になるべきじゃないですか?」

 

 炭治郎の鼻は、宇髄天元から焦りと後悔の匂いが漂っているのを正確に嗅ぎとった。

 ギンの言う通り、まだ炭治郎達が潜入してから一晩も経っていない。鬼の居所は分かったがまだどんな能力を持っているのかも分からない。相手が異形の鬼である限り、もっと慎重になるべきだ。

 

「時間は十分かけた。これ以上地味に待っても被害を増やすだけだ。もっと早く仕掛けるべきだったんだ。俺は嫁を助けたいが為に、いくつもの判断を間違えた。蝶屋敷の地味娘を無理やりここに連れてこようとしたのも、俺が焦っていたからだ。済まない、胡蝶」

 

 静かに寝息を立てているまきをの頬を、愛おしげに撫でながら宇髄はしのぶに謝った。

 

「いえ……気持ちは分かります」

 

 宇髄には、三人の嫁がいる。その三人がどれほどお互いを大切に想い合っているか、しのぶは知っていた。

 その身内の誰かが消えてしまった。鬼の調査の為に潜入している最中に。

 

「……大切な人が消えてしまうのは、恐いですよね」

 

 ギンが常闇に囚われる瞬間を、しのぶは直に見ていた。

 そして二か月間、音沙汰もないギンをずっと捜していた。

 

 宇髄天元の苦しみや痛みは、よく知っていた。

 

「……」

 

 しのぶのその感情を知ってか、ギンは何も言わなかった。ただ静かに蟲煙草を吸って、目を逸らした。

 

「炭治郎。お前は伊之助と共に街を出ろ」

「な、なんで!?」

 

 戸惑う炭治郎に、宇髄は事もなげな顔で返した。

 

「お前が一番階級が低いからだ」

「ッ!」

 

 炭治郎の階級は、(ひのと)だ。柱を抜いた鬼殺隊の十段階の階級の内、上から四番目に当たる。

 入隊してから一年未満でそこまで階級を上げられたのは眼を瞠る快挙だが、炭治郎より上の階級である善逸が姿を消した。

 

「善逸は馬鹿だが実力はある。あの列車事件で三十体近くの鬼を斬り捨てた実績がある。だが、その善逸が姿を消した。ここにいる鬼は、上弦の鬼である可能性が高い」

「上弦の鬼……!」

 

 思い返すのは、四か月前。無限列車に襲撃した、黒死牟と名乗る"上弦の壱"。

 その圧倒的な強さで、ギンさんと煉獄さんを追い詰め――そして煉獄さんは命を落とした。

 異次元とも言えるその強さは、まだ記憶に新しい。あの時感じた無力感も、恐怖も、まだ胸に残ったままだった。

 

「消息を絶った者は死んだと見做す。後は俺とギン、そして胡蝶とで派手に動く」

「……そうですね。上弦の鬼が相手となれば、今回は私達の担当でしょう」

「ま、そういうことになるな。上弦の鬼に柱が三人。過剰戦力とも言える数だ。炭治郎達が出る幕でもねぇだろう」

「しのぶさん、ギンさんまで……!」

 

 炭治郎の中で焦りに似た感情が湧き出てくる。

 この中で、一番弱いのが自分だと言うことをはっきりと理解しているからだ。遠まわしに炭治郎は足手まといだ、戦力外だと言われているようで辛かった。

 違う、俺は戦える。その為にずっと鍛練を続けてきた。俺だって戦える!

 

「恥じるな。生きてる奴が勝ちなんだ。機会を見誤るんじゃない。今晩中にここを出ろ。伊之助も後でここに向かわせる」

 

「宇髄さ―――」

 

 

 炭治郎がその名前を呼び終える前に、宇髄天元は姿を消した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

宇髄天元が出ていった後、入れ替わるような形で隠がときと屋に到着する。ギンとしのぶの日輪刀を届けに来たのだ。

 

「ご苦労さん。俺達はこれから鬼との戦闘に入る。隠は念の為にこの事をお館様に報告し、何時でも事後処理に動けるように待機していてくれ」

「御意」

 

 刀を届けた隠はそう言って出ていった。これで吉原で何が起きても、隠の部隊が上手くやってくれる。

 

「では、私はときと屋のご主人と鯉夏さんに話をしてきます。まきをさんの事も説明しなければいけませんし……」

 

 しのぶは腰に刀を佩いて、客室から出て行った。ときと屋の主人に部屋を貸してくれた礼や、これから戦いが始まることを伝えるのだろう。十二鬼月との戦いとなれば、戦いに巻き込まれる可能性は十分ある。

 

「さて、炭治郎はどうする?」

 

 ギンは改めて炭治郎に向き直る。宇髄に「足手まといだから帰れ」と言われて、果たしてくそ真面目な炭治郎はそう素直に従うのか。

 

「俺は……善逸も宇髄さんの奥さんたちも皆生きてると思います。だから、そのつもりで行動します。必ず助け出す」

「命令違反するってことか?」

「はい」

 

 迷いのない眼。ここでギンが炭治郎にいくら強く命令したとしても頷くとは思えない。そう思わされる力強い眼だった。

 

「言って置きますけどギンさんが止めようとも俺は絶対に――」

「ま、いんじゃねえの」

「帰らな――え?」

 

 絶対に止められる、もしくは怒られると思っていた炭治郎の目が点になる。

 

「お前、宇髄の命令でここに連れてこられたんだろ」

「は、はい」

「で、今宇髄から帰れと言われた。実質、お前は宇髄の指揮下から離れたってことだ」

「そ、そういうことになるんですかね……?」

「じゃ、今からお前は俺の指揮下に入れ」

「えっ」

「命令だ炭治郎。お前は単独で行動して、鬼に捕えられたと思われる一般人や善逸の救助に向かえ。俺達が十二鬼月の相手をしている間に、全員を救い出せ」

 

 ギンはずっと考えていた。宇髄の嫁達や、消えた遊女達はどこへ姿を消したのか?

 ここ、吉原は狭い。人が消えても不自然ではないが、鬼が遊女として人間に紛れて生活する以上、むやみやたらに人を殺すことは難しいのだ。死体が出れば疑いがかかるし、血の痕はすぐには消せない。

 先のまきをの件も、鬼はあの部屋でまきをを殺さずに天井裏からどこかに運ぼうとしたのが何よりの証拠だ。

 おそらくその鬼は、狩りの対象に選んだ人間を別の場所に連れて行っているのだとギンは推測していた。

 

「おそらく、鬼の食糧庫がこの吉原のどこかにある。簡単に人じゃ寄りつけないような場所だ。鼻が利く炭治郎が捜索するべきだろう」

 

 もしここが山の中ならギンがムグラノリで捜索するのだが、街の中にムグラは住まない為細かく探知することができない。

 

「え、あの、いいんですか?」

「俺も柱だ。ある程度命令権がある。どうせお前は俺が言っても聞かねえだろうし、それならある程度制限を掛けた方がこっちも動きやすい」

 

 炭治郎の頑固さは、ここ数か月でよく知っていた。さすが、あの義勇が見つけてきた逸材と言うべきか、それとも鱗滝が鍛えたからか……いや、元来持つ気質だろう。

 なにせ、柱合会議で自分より立場が上の"風柱"に頭突きを喰らわす型破りだ。上司に頭突きなんて時代が時代ならその場で首を斬られても文句は言えない。

 

「……よくよく考えるとお前今までよく生きて来れたな?」

「なんですかいきなり!」

 

 我が弟弟子ながら心配になる。

 

「ま、そんなわけでお前に暴走されるよりは目が届く範囲で働いてくれた方がずっといい。で、どうする?蝶屋敷に尻尾巻いて逃げ帰ってもいいが」

「やります」

 

 炭治郎は間を置かずに即答した。

 あの時、上弦の壱との戦いで自分は何もできなかった。

 その時の後ろめたさ、罪悪感、無力感は今も自分の心の奥底で沈んでいる。鉛のような重さで、今も時々思い出してしまう。

 

「俺はこの日の為に鍛えてきたんですから」

「よく言った」

 

 杏寿郎。お前が命を賭けて守った男は、もう一人前だぞ。

 俺も身を挺して守った甲斐があるってもんだ。

 

「――あの」

 

 話が一息ついた所で、炭治郎はずっと思っていた疑問を口にする。

 

「ギンさん、あの……」

「ん?なんだ」

 

 

 

「怒ってますか?」

 

 

 その言葉に、ギンは言葉を失った。

 

 ギンと合流してから、ずっと匂いがしていた。

 それは、怒りと、後悔と、憎しみの匂い。

 最初は、しのぶさんの匂いかと思っていた。しのぶさんは蝶屋敷で「鬼が憎い」と言っていたから。実際、それと似た匂いがしていたから、最初はしのぶさんが怒っているのかと思っていた。

 

 けれど、ギンさんがまきをさんを手当している間も、宇髄さんと作戦会議をしている間も、そしてしのぶさんがここから出て行った後も、匂いがずっとしていた。

 

 しのぶさんの時よりもずっと濃くて、重い匂い。

 

 普段優しく、『怒り』や『憎しみ』から無縁な、飄々としたギンさんから、そんな匂いがするだなんて信じられなかった。

 

 でも、どうしても訊きたかった。自分に何ができるかは分からないが、何かできることはあるんじゃないかと。

 

「―――そう言えば、お前は鱗滝さん並に鼻が利くんだよな」

「はい。それで、ずっと……」

「分かってる。心配してくれてるんだろ」

 

 ギンは困ったように笑う。

 どうしてこう、自分の周りの人間はここまでお節介焼きばかりなのだろうか。

 

「どんな匂いがする?」

「……恨みと、憎しみと、怒りの匂いがします」

「そうか……そんなに臭うのか?」

「……はい」

 

 言い難そうに、炭治郎は頷いた。

 

「まいったな」

 

 ボリボリと頭を掻く。自分の根っこを嗅ぎ分けられると言うのは、やはり居た堪れない。

 

 ――あんま話したくない。だが、いつまでも隠しておくべきことでもない。

 自分のケジメの為にも、いつか話すべきことなのだろう。

 ちょうど、今この部屋にはしのぶもいない。

 

 ――いつか話してもらいますよ

 

 しのぶにも、いつか話すべきことだ。けれどあの時のことを話して、軽蔑され、今の関係が崩れてしまうと考えると、声が震えそうになる。

 心優しいカナエやしのぶに、人として見限られてしまうかと考えると、あの居心地がいい蝶屋敷で積み上げた時間がなくなるかもしれないと考えると、恐ろしくてたまらない。

 

「……大丈夫ですか?」

「ああ。昔のことを思い出してな」

 

 だが、気がかりなことが一つあった。

 ちょうど、鼻が利く炭治郎がいる。戦いに赴く前に、確認しておきたい。

 

「炭治郎、俺は普段どんな匂いがする?」

「え?」

 

 突然の質問に、炭治郎は面を喰らうが、ギンは「頼む」と頭を下げる。

 特に断る理由もないので、炭治郎は素直に答えた。

 

「えっと……優しくて、いい匂いです。森や山……木の匂いがします。あと、煙草の匂いがします」

(かばね)の匂いはしないか?」

「屍?」

「頼む、炭治郎。教えてくれ。俺の身体から死臭はするか?腐った肉の臭いや、死人の臭いはするか?」

 

 祈るような気持ちで炭治郎に尋ねる。

 

 

 

 

「いえ、しませんけど……」

 

 

 

 

 

「――――よかった」 

 

 

 胸のつかえが取れたように、ギンはほっと息を吐いた。

 よかった。俺はもう、屍の臭いなんてしない。なら俺は、蟲師で居続けられる。

 

 

「あの、それがどうしたんですか?」

 

 

 心底ほっとしたように、目じりを抑えるギンに炭治郎は心配する。何か気に障ることを言ってしまったのか、不安になる炭治郎だが。

 

 

「いや、大丈夫だ。話すよ。だが、他言無用な」

「は、はい」

 

 

 この弟弟子ならいいだろう。

 心が真っ直ぐで、口も堅い。俺が犯した罪を、言い散らすような真似はしないだろう。

 

 俺の心残りを一つ消してくれた礼だ。

 

 

「俺は柱に就任する前、こことは別の遊郭に潜入していた時期があった。あれはたしか、俺が最終選別を突破してから、一年ぐらい後だったな。ちょうどお前と同じ年の頃だよ」

 

 そういえば、現"岩柱"と同じ日に"蟲柱"に就任したんだっけな。

 鬼殺隊に入って一年で柱に、そして八年間柱として戦ってきた。柱の面子の中で、悲鳴嶋さんと同じ最古参になっちまった。今思えば、ずいぶん遠くまで来たもんだ。

 当時は"最速で柱になった"だのなんだの言われたが、結局その記録は時透の奴に追い越されちまったし。

 

 

「西の方の遊郭に潜む下弦の弐を討伐するために、俺は医者の助手として潜入した。珠世さんと知り合ったのも、その頃だ」

「珠世さんと?」

「ああ。遊郭にいると、どうしてもその時のことを思い出す。あまり思い出したくない記憶だ。思い出すと、腹の底が煮えくり返るような気分になる」

「……それで、そこで何があったんですか?」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「そこで俺は、蟲と、鬼と、人を殺した」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 その時、客室の襖の前で聞き耳を立てていた人間がいたことに、二人は気付かなかった。

 

 

 

「―――ギンさん……」

 

 

 

 

 

 

 


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