しのぶ。お前は知っているか?
人の心には鬼が住んでいる。お前の中にもかつていた。
そして、俺の心の中にも。
俺がお前を継子に、弟子にしたのはお前がただ蟲が見えるからという理由だけじゃない。
あの時、お前の眼の中に"鬼"を見たからだ。
誰といても、何をしていても鬼への怒りを収められない。心の奥底をずっと蠢いている憎しみの炎。
その怒りはお前自身を焼き尽くす。灰になるまで、命が尽きるまで。放っておけばそうなってしまうと俺にはなぜか確信に近い予感があった。
憎しみは人の心を苗床に成長する。際限なく、どこまでも伸び辺りを呑みこむと言うことを俺は知っていたから。
お前を放っておけば、お前はやがて自らの命すら顧みず、鬼を殺す為だけに使うだろう。どんな手を使ってでも、鬼を滅殺するべく動いただろう。
それこそ、鬼のように。
頸を斬れない、戦えないはずのお前は、日常へ帰る選択もあったはずだった。だが諦めず、鬼を殺そうと言う執念をお前の眼の中に俺は見た。
鬼殺隊としてはそれは正しいことなのかもしれない。
悪鬼滅殺。
例え自身の命や魂を犠牲にしようとも、鬼を、鬼舞辻無惨を殺し、民を守る。
それは恐らく、正しい行いだ。
だが、唯一の肉親のカナエと過ごしているお前は、幸せそうだった。
――この娘を、かつての俺と同じ道に歩ませてはいけない。
しのぶが頭がよく、賢い娘だということはすぐに分かった。
あの日、初めてしのぶに会った時。しのぶが集めていた医学書や薬学書を見て、すぐにしのぶが鬼を弱らす薬か毒を創り出そうとしていることが分かった。
医学を学ぶのは鬼の身体の構造をよく理解し、薬学を学ぶのは猛毒を持つ植物や藤の花から鬼に効く毒を調合するためだ。
常人は毒なんて発想に至らない。不死身で再生能力がある鬼に毒は意味が無いと考えるのが普通だからだ。俺も毒や鬼を弱らす薬は創ったことはあるが、しのぶは鬼を完全に死に至らしめる猛毒を創ろうとしている。想像はしても、それを創るために行動に移すことができる人間は少ない。想像はしても「夢物語だ」「空想だ」と言い訳をつけて諦めてしまうのが人間だからだ。
俺も「鬼を人に戻す薬」を創ろうと青い彼岸花を探していたが、それまで他の隊士にどれだけ嘲笑わられていたか。
この娘は俺と同類だ。蟲が見え、鬼を憎み、戦うことに命を懸けられてしまう少女だ。
憎しみと怒りに囚われ、簡単に鬼になってしまう。
俺は一度道を踏み外してしまった。
お前には俺と同じような目に遭わせたくない。
最終選別から、一年。
鬼を狩りながら、蟲を調べながら、青い彼岸花を探しながら、俺は各地を旅していた。
耀哉から「鬼を狩ることよりも蟲や青い彼岸花を探すことに注力してほしい」と頼まれていた俺は、週に2,3匹程度の鬼を退治しながら、各地をゆっくりと旅をしていた。
親友が死んでも、世界はいつも通り平常運転だ。
義勇はあれから随分無茶をしながら狩りをしているそうだ。錆兎を死なせた罪悪感からだろう。錆兎は義勇にとって唯一無二の親友だった。俺はたった一年しか共に過ごしていなかったが、一日たりとも忘れたことはない。義勇は俺よりずっと長く錆兎と共に鱗滝さんの下で修業をしていた。俺よりずっとずっと、錆兎を喪った悲しみは深いのだろう。あいつの言葉や真っ直ぐな心は、俺や義勇を惹きつけていたから。
心から尊敬できる友だった。
きっと、カリスマと呼ばれる力を持った、多くの人間から尊敬される資質を持っていたのだろう。死なずに大人になれば、きっとずっと強い剣士になれていたはずだ。毎日のように任務に赴いていると、鱗滝さんの手紙や耀哉から聞いていた。
「どうしたもんかね」
俺もまだ、錆兎の死を乗り越えられた訳じゃなかった。
時々、ふと兄弟子のことを思い出す。それほど、俺達の中で錆兎は大切な存在だった。
でも、進まなきゃいけない。
それが俺達の仕事で、自分自身で選んだ道なのだから。
立ち止まっていたら、錆兎の死や、他の仲間の死が無意味と言うことになってしまう。志半ばで死んでしまった者の為にも、自分自身の為にも、歩みを止めてはいけないのだ。
「カァー!カァー!」
すると、俺の鎹烏がどこからか飛んできた。
「指令か?ヨキ」
「カァー!ソウダヨォォーーー!」
ちょうど蟲師としての仕事も一区切りが着いた頃だ。ちょうどいい、久しぶりに鬼退治と行くか。
「了解。それで、どこに向うんだ?」
「西ィーー!西ニ向カッテチョォォォダイ!飛田新地ニテェェェェ、遊女ガ消エテイルゥゥゥゥ!遊女ガ消エテイルゥゥゥゥ!ソコニ潜ム鬼ヲ見ツケルンダァァァ!」
え、マジで遊郭?
カラスからの情報によれば、飛田遊郭で何人もの遊女や客が姿を消している。人が消えること自体は遊郭ではそこまで珍しくない話だが、念のため調査しようと潜入した鬼殺の剣士二名が消息を絶った為、一連の失踪事件を鬼の仕業と断定し、指令が下ったそうだ。
俺の仕事は、その鬼の正体を掴み、場合によってはその鬼を討伐すること。
俺は怪しまれないよう、わざわざ髪の毛を黒く染めて医者の見習いとして飛田遊郭に医者の助手として潜入した。
通常、遊郭にはそれぞれお抱えの医者がいる。江戸時代じゃ「御典医」なんて呼ばれ方をされていた医者がお抱えとして駐留していたらしい。女を商品として売る以上、生理や梅毒、妊娠の関係でいつでも遊女たちの体調を管理することができる医者は必須だった。
医学を学んでおり、かつ前世の記憶がまだ残っていた俺は梅毒や性病の恐ろしさを知っていたため、客として潜入する気は起きなかった。だが、医者として潜入するにも、俺はまだ十五にも満たないガキだった為、門前払いされるのは目に見えていた。
遊女屋のお抱えの医者や薬師の助手として雇ってもらうことも難しかった。身元が分からないガキを助手として雇うと言う酔狂な医者はいなかったのだ。
だが、遊郭に唯一、頻繁に出入りする医者がいた。
中条流と呼ばれる、堕胎専門の医者だ。大正時代に入ってから医学はもちろん、産婦人科の技術も発達していたが、江戸時代から存在する堕胎専門の医者が、まだ残っていたのだ。
江戸時代からは合法的に胎児を堕ろすことは許されておらず、明治時代からは『堕胎罪』として禁止されていたのだが、やむを得ない事情で子供を産むことができない女は多く、堕胎専門の医者はいつの時代も繁盛していた。そして、闇が蠢く遊郭ではもっと盛んだった。遊女が子供を妊娠してしまえば商品として売ることができなくなる。赤ん坊を産んだとしても、その赤ん坊を育てる金は無駄とされていた。赤ん坊を一から育てるよりも、余所の貧村から子供を買った方が圧倒的に効率が良いからだ。
だから、犯罪とされても堕胎専門の医者は数多くいた。
俺はその医者に土下座をし、助手として遊郭に潜入。
妊娠してしまった遊女の堕胎を手伝う傍ら、鬼を探していた。
……だが、想像以上にやり方が汚かった。
薬を嫌がる遊女に無理やり投与し、時には身重の女の腹に強い衝撃を与え無理やり流すといった荒々しいやり方。母体である母親も、その身に宿った命も無視した非人道的なやり方。
本来、生まれてくるはずだった命を殺すことを生業として堕胎専門の医者は暮らしている。それも、かなりの額を楼主からもらって。水子の命を啜り、仕事を終えた帰りに得た金で酒を呑み、女を買いに行くクソ野郎みたいな医者が、俺は気に喰わなかった。
多分、この頃から俺は遊郭の存在自体に嫌気が差したのだと思う。
この世に地獄があるのなら、ここは地獄そのものだ。
男は何も知らず女を買う。遊女の血肉を喰らってのうのうと暮らす楼主や医者、そして快楽を貪る男共。自分の命を軽視し、男を誘う女ども。
まるで、俺達が仇としている鬼そのものじゃないか。
一体、こいつらは俺が殺している鬼とどう違うのか、俺は分からなかった。
錆兎や俺の仲間は、こんな連中を守るために命を懸けて戦っているのかと思うと吐き気がした。
だから俺は、ここを変えてやろうとした。
漢方で学んだ避妊薬を、タダ同然で遊女たちに配りまわった。
蟲師としてシシガミの森で学んできた俺の薬師の腕前は、そんじょそこらの馬鹿医者が創る薬より利きが違う。耀哉の援助のおかげで薬草や道具も最高級の物を揃えることができたことにより、ずっと質がいい薬を創ることができた。
また、遊女屋のお抱えの医者には自分が調合している薬のレシピを渡しておいた。もちろん、これもタダ同然で。
鬼の捜索をする傍ら、俺は遊女達に避妊薬を始めとした様々な薬を流通させた。風邪薬や解熱剤。さすがに梅毒を治す薬は創ることはできないが、つい最近開発することに成功した痛みを和らげる木霊の薬を投与した。
「こんなことしかできないが、俺は医者だ。まだまだガキだが、命を救う為にこうして医学を学んでるんだ。アンタの痛みを和らげることしかできないが、力を尽くさせてくれ」
「ああ……ありがとう……」
自己満足だと言うことは分かっていた。
ここで遊女達に薬を渡しても、根本的な解決にはならない。一時的に病や妊娠のリスクを減らしても、この遊郭で働く限りいずれ同じことが起きる。俺も鬼狩りとして仕事をしている以上、ずっとここで働くこともできない。
「それでも……仏様のようなあなたの優しさに、救われることもあるのですよ」
梅毒にかかったある遊女を治療した後、そんなことを太夫の遊女に言われた。
それがほんの少しだけ、慰めになった。
だが、そんなことをして黙っていない連中がいた。
中条流、そして遊女屋のお抱えの医者達だ。
「テメェが避妊薬なんてモンを出したおかげで、こっちの商売に影響が出たらどう責任を取りやがる!」
――堕胎専門の医者は、妊婦がいなければ仕事ができない。俺がしていることは、野菜の種を撒いた畑に害虫を撒く行為と同じだった。
「赤子の命を啜って手に入れた金に、何の価値がある。アンタらがやっていることは、ただの人殺しだ」
「なんだとぉ……!?助手として路頭に迷っていた所を拾ってやったのに、恩を仇で返す気か!」
中条流の医者は怒髪天を突く勢いでそんなことを言ったが、関係ない。
「お前らは鬼畜だ。女達の血肉を、赤子の命を喰う鬼畜。自分の利益の為に命を踏み潰す。俺は遊女全員を救おうだなんて傲慢な考えは持ち合わせちゃいない。だが、俺は自分が正しいと思うことをやっただけだ。文句があるなら、もっと医学を勉強してこいバーカ」
――そこからは、ひどいもんだった。自分より年下のガキに煽られて怒りを堪え切れなかった医者達は荒くれ者達をどこからか雇い、俺を襲わせた。
もちろん、炎柱、そして鱗滝さんの下で修業していた俺の敵ではなかったが。ていうか人間よりずっと強い鬼と戦っている俺が負ける道理はないのだけれど。
俺は鬼を探す任務のことも忘れて、往来のど真ん中で大ゲンカを立ちまわった。野次馬が大勢集まり、大歓声の中俺は次々と男達を殴り、投げ飛ばし、結果的に十人以上もの男共を気絶させた。
向こうから見れば俺は十五の子供。
だが、自分よりずっと大柄な大人達を殴り飛ばした俺を見て、医者達は腰を抜かして逃げ帰った。
「ば、バケモノォ!!」
その言葉を聞いて、俺はハッとする。
やべ。鬼を探す任務もまだ終わっていないのに、すっかり忘れていた。
ここの鬼は巧妙に姿を隠している。人間に擬態しているのか、それとも別の方法で隠れているのか。まだ手掛かりがまったく掴めていないのに……!
「やっちまった……」
最近、無駄に頭に血が昇り易くなってしまっている。怒りに振り回されすぎている。昔はこんなに感情に振り回されることはなかったんだが……。
この騒動じゃ、俺を助手として雇ってくれる医者はもういないだろう。最悪の場合、出入り禁止と言うこともあり得る。
どうしようか頭を抱えていると――。
「もし」
声を掛けられ、後ろを振り返ると、そこには美女が立っていた。
見た目だけならそこらの遊女に敗けていない。知的で、物静かで憂いを帯びた顔。
恐らく高級な布でできているであろう、清潔で綺麗な着物を見事に着こなし、思わず見惚れてしまうほどの色香を漂わせた女性だった。
だが――この気配は?
「あなたの薬学の腕前に、興味があります。よろしければ、少しお話はできないでしょうか?」
「……アンタは?」
「私は、珠世と申します。そして――」
鬼舞辻無惨を、抹殺したいと考えております。鬼狩りの隊士様。
それが、鬼でありながら医者であり、長く付き合うことになる珠世との出会いだった。