「そ、そんなことで愈史郎さんと仲良くなれたんですか?」
「あいつは意外といい奴だぞ。炭治郎、いいことを教えてやろう」
「え?」
「男ってのは、性的な趣味を暴露すると、友情が深まるんだ」
「えぇ……」
年上黒髪美人はいいぞ、とどこか満足げに語るギン。
どう返せばいいのか目を点にする炭治郎。
「……年齢だなんてどうすればいいのよっ……!これじゃあカナエ姉さんに負けちゃうじゃない……!」
部屋の外の廊下で膝を着いて悔しそうにシュッシュと拳を宙に繰り出すしのぶ。
「…………」
さっきからしのぶの匂いが襖の隙間から入ってくることに炭治郎は気付いていた。悔しそうな匂いが混じっているが、先ほど音柱の宇髄天元がしのぶのビンタで吹っ飛ばされた場面が脳裏に過り、触れればどんな火の粉が飛んでくるか分からない炭治郎は気付かないふりをした。
「とにかくそう言うわけで、下弦の弐が飛田新地に潜んでいると言うことを珠世さんから教えてもらったんだ。その時、愈史郎は下弦の弐の血鬼術で捕まっていた。鬼舞辻の呪いを外していた珠世さんが、"逃れ者"として鬼達に追われているのは知っているな?」
「はい。俺が最初に珠世さんと愈史郎さんに会った時、二人を逃れ者と呼ぶ鬼達が現れて……」
思い出すのは、毬を使って攻撃してくる女の鬼と、矢印の血鬼術で物を自由自在に動かす力を持った鬼だった。
「珠世さんは十二鬼月から常に命を狙われる立場だった。愈史郎は血鬼術で人質として囚われ、珠世さんは下弦の弐から逃げることができなかった」
「人質?」
「ああ。もし逃げれば、愈史郎を殺す血鬼術を使うと脅されていたらしい。珠世さん本人じゃなく愈史郎に血鬼術を仕込むのは……まあ、あの鬼がゲスだった、というのが一番の理由だが」
下弦の弐は、珠世が苦しむ所を観たいが故に、珠世本人ではなく愈史郎に血鬼術を仕込んだ。
珠世は、良識と理性を兼ね備えた鬼だった。自分が鬼にし、長年共に鬼舞辻を倒す為に珠世に尽力していた愈史郎を、見殺しにすることができなかった。
「でも一体、何のために……」
鬼は基本、群れないし互いに殺し合ったりはしない。互いが不死身なので、いくら殺し合おうとも死なない。戦うこと自体が不毛で無意味なのだ。中には共食いをする鬼も少数いるらしいが、珠世さんをその場で殺さずに、人質を取って捕まえる理由が炭治郎には皆目見当がつかなかった。
「下弦の弐は鬼舞辻に差し出そうとしていたんだ。こっちは俺の推測だが、おそらく下弦の弐は、鬼舞辻に珠世さんの身柄を差し出すことで、鬼舞辻から血を分けてもらおうと画策していたんじゃねえかな。どうも鬼達は、十二鬼月になることに躍起になっていたようだし、褒美をもらおうとか考えていたんだろ。だが下弦の弐から報告を受けた鬼舞辻が飛田新地に来る前に、俺が先に飛田新地で薬師の真似事をしていたのを珠世さんが気付いた。渡りに船という奴だ。珠世さんは鬼狩りである俺に下弦の弐を倒してもらおうと画策したんだ」
今考えると、珠世と言う女は強かな鬼だとギンは思う。
だが、鬼狩りであるギンが飛田新地で戦えば、状況は変わる。
下弦の弐を討伐できれば、愈史郎にかかった血鬼術は消え、自分達は晴れて自由の身になる。仮にギンが下弦の弐に殺されても、鬼狩りが死ねば補充されるように他の隊士や柱が送られる。そうなれば下弦の弐は遠からず鬼殺隊によって殺されるか別の場所へ逃げ、鬼舞辻は鬼狩りを警戒して飛田新地に来ることはないだろうと踏んでいたのだ。
下弦の弐が殺されればよし、仮にギンが殺されようとも、騒ぎを聞きつけた鬼殺隊によって下弦の弐は死ぬ。どっちに転んでもいいように動いていた。
「画策していたと言っても、珠世さんは正直に話してくれたが」
――あなたが下弦の弐を倒せず、殺されたとしても、私達の方に利があります。それでも、この願いを聞いてくれますか?
申し訳なさそうに言う珠世の顔が印象的だった。敵であるはずの鬼狩りに真摯に頭を下げる珠世と、不甲斐なさ故かしかめっ面をする愈史郎の顔に、この二人なら信頼してもいいと思えたのだ。
「それでも、下弦の弐と戦おうと?」
「……この世界にいるとな、炭治郎。本当に信頼できる奴を見つけることは難しいんだ」
そういえば、炭治郎とこうしてしっかり向かい合って話すのは初めてかもしれない、とギンは思い出す。 四、五カ月ほど前、炭治郎達に全集中の呼吸・常中の稽古をつけてはいたが、それでも面と向かって自分の胸を吐露するようなことはしなかった。
思えば、杏寿郎を死なせてしまったから、なんとなく気まずくて炭治郎を避けていた気もする。杏寿郎を看取ったのは、炭治郎だったとしのぶから聞かされていたから。敵地であるこの吉原でのんびりと話すべきじゃないが、これが最後かもしれない。自分達はいつ死んでも不思議ではない身だから。
後悔のないよう話せる時に話しておかないと、死んでも死にきれない。
「人の心の中にこそ、鬼がいる。鬼舞辻無惨の血などなくとも、人は鬼になれる」
俺はあの飛田新地で、人が鬼になるのを見たんだ。
ギンがそう言った時、炭治郎の鼻はギンの心を正確に嗅ぎ取った。
泣きたくなるほどの、悲しみと怒りと、涙の匂い。
「珠世さんや愈史郎のように、人間のような鬼がいる。人間のくせに鬼のような心を持った悪人だっている。俺の心の中にもかつていたし、今もいる。そして炭治郎、お前の中にも鬼がいる」
「俺の中に?」
炭治郎は無意識に、自分の心臓……左胸の上に手をやる。手の平には小さく、自分の鼓動を伝える心臓の脈動があった。己が生きている証。けれどこの中に、鬼がいる?炭治郎は自分が聖人君子のつもりはない。それでも、できるだけ人に優しくあろうとこれまで生きてきたし、善人であろうと努力し続けた。
「そいつらは、己の憎しみや欲望、恐れや怒りを餌に膨れ上がる」
ギンが口癖のように唱える言葉。蝶屋敷で鍛錬をつけてもらった時から、口が酸っぱくなるほど言い聞かせられた言葉。
炭治郎は思わず、その言葉を口にする。廊下でギンの言葉を聞いていた少女も。
「人は鬼にもなれるし、そして仏にもなれる。知恵や心を持つ故に。だから脆い。誰だって鬼になりうる。一歩間違えば、俺が鬼舞辻によって鬼にされたかもしれない」
その境遇はいつだって、ひとつ違えばいつか自分自身がそうなっていたかもしれない状況。
あの時。鬼にされた禰豆子を巡って柱合裁判に連れてこられたお前は、悲しみの連鎖を断ち切る刃を振るうと耀哉や他の柱達に堂々と謳った。
「俺は鬼となった人間を、"森"と"命"と"理"との境目に流れる、"約束"に還す為に鬼を斬る」
「約束……」
炭治郎は、蟲や光酒、ましてや理が何を表すのか知らない。けれどそれが、とても大切な物だということは朧だが分かる。
「理との約束……」
廊下で壁に寄りかかるように膝を抱えるしのぶは、静かにギンの言葉を繰り返した。
上弦の壱と戦い、杏寿郎を殺され、己の無力さを思い知らされただろう。
だが、俺はそれじゃ止まらないぞ。
俺はお前ほど鼻は利かないが、眼には自信がある。お前が何かに悩んでいることは分かる。
「炭治郎。お前は何の為に鬼を斬る?」
「―――……俺は」
"忘八"とは、遊女屋の経営者である楼主の蔑称である。
仁・義・礼・智・信・忠・孝・悌の八徳を失った者。女を人買から買い付け、男共に商品として売る故に、いくら金持ちになろうとも人でありながら、人の道にはずれた行いをする
人非ざる人という意味だ。
楼主にとって女は商品。人として見ない。金を儲ける為の商売道具でしかなかった。だからこそ、道徳心を失った者と非難したのだろう。
ある意味、人間も鬼だと言わんばかりのこの醜悪な名を、人間に当て付けるようにその鬼は自らそう名乗っているようだとギンは感じた。
「元々、私もギンさんと同じく、この遊郭の環境をなんとかするために雇われた町医者に過ぎませんでした。
珠世はそうとは知らず、その女性を看る為に、愈史郎と共に屋敷に上がり込んだそうだ。どうもその忘八は擬態が上手く、鬼独特の臭いや気配を惑わせる血鬼術を使うらしい。
「その遊女は、私が見たことがない病気にかかっており、手に負えないと判断しました」
「……見たことがない病気?」
「はい。私では治療ができない、そう楼主に伝えようとした所、愈史郎は血鬼術を掛けられてしまったのです」
あのお方が来るまで、大人しくここにいろ、逃げようとすればすぐにその鬼を殺す。
「そう伝えて、私達を追い出しました。途方に暮れ、鬼舞辻がこちらに来るのを待つ時に……あなたが薬を売っている所を見ました。同じ医者として、あなたの薬にはただ驚かされるばかりでした。欲や不純な動機は感じず、そこにあるのはただただ人を救いたいと言う純粋な想い。その想いが結晶になったかのような完璧な薬。それを、タダ同然で売り回るあなたに、私は心を打たれました。だからこそ、私はあなたにお願いしたいと考えたのです」
飛田遊郭の大通りを歩く。
黒く染めた髪染めは落とし、白髪と翠の目は人の気を引く。だが、この夜の花街はあらゆる者を受け入れる。
浮浪者、家族に売られた娘、ならず者や借金から逃げてきた者、醜女と言われ店から追い出された者。そして、鬼と人。
多種多様の人種が訪れるこの場所で、たかが白髪の男が混じろうと誰も気にはしない。つい先刻、中条流の医者や用心棒たちと大立ち回りをしてしまったが、そんなことまるでなかったかのように遊郭には夜が回り続ける。
「それで、その忘八の場所は?」
「『蓮華』と言う料亭です」
「料亭?」
「はい。表向きは料亭ですが、その店は引手茶屋*2を介さない娼館です。貴族の方や官僚、国外からやってきた大商人など、特権階級の方々の遊び場なのです。中には、その店から女達が選ばれ、外の国に売られていくこともあると黒い噂が後を絶ちません」
――なるほど、忘八と呼ばれる鬼が潜む場所にはふさわしい。
その料亭の存在自体は、一月近くここで過ごしたギンも知っていた。絶世の美女達が給仕をする高級料亭だと。
なるほど、表向きは料亭か。てっきり、遊女屋の看板を出した店のどこかに潜んでいるかと思いきや、あんな馬鹿でかい建物に潜んでいたとはな。灯台下暗しとはまさにこのことを言うのだろう。
達筆の文字が彫られた看板を掲げたその建物は、山育ちのギンでも分かるほど風情と高級感を漂わせていた。
「シシガミの森の次は千と千尋かよ」
おぼろげになりつつある前世の記憶――神隠しに遭った少女が迷い込んだ湯屋の建物のようだった。
何階建てかも分からない、ぱっと見た感じだと五、六階建てかそれ以上に高い和風の建物――いや、ここまで来ると城と言うべきなのだろうか?
窓から漏れ出すのは灯りと笑い声。そして微かに交じる情事の声。
ここに――鬼がいる。
「忘八は、擬態がうまくとても用心深い鬼です。私が遭った時は老婆の姿ですが、今はどんな姿をしているかも分かりません。あなたが鬼狩りだと忘八が悟れば、すぐにでもあなたを殺そうと動くでしょう。すぐに悟られないよう、あなたの刀を愈史郎の血鬼術で他人には見えないように細工をしておきました。あなたは奇病を患った遊女を看に来た医者を装い、忘八を探し、倒してください。戦闘が始まったら、私達もすぐに援護に回れるよう近くに潜んでおります」
「頼んだぞ、ギン。珠世様と俺の期待を裏切るなよ」
――簡単に言ってくれる。
鬼の巣に飛び込めって、結構無茶苦茶なことを言うもんだ。
だが、潜入しないと何も始まらない。
意を決して、ギンは入口に足を踏み入れる。
中に入ると、まず目に入ったのは豪華な調度品。陶器や絵画、そしてシャンデリアだった。
まだ蝋燭が主流のこの時代ではあまりお目にかかれない、電球を使用した明かりだった。さらにはどこからか音楽も聞こえる。まさか蓄音機の音だろうか。
「ようこそ、いらっしゃいませ」
大正時代には珍しい品々の数々に目を奪われていると、豪華な着物を着こなした女性がギンを出迎え、気品良く頭を下げた。
「私、若女将の明里と申します」
「女将……?いや失礼、随分若い女将さんだな」
頭を下げていた女性が顔を上げると、そこにはまだどこか幼さが抜けてない少女がいた。
顔立ちが整った大層美しい少女だった。
歳はギンと同じ頃だろう。だが、顔立ちこそはまだ幼いが、その立ち振る舞いは熟練の女将と遜色ない。遊女屋に中条流の医者の助手として働いていた時、何人もの楼主の奥さんや
だが、この年端もいかぬ若女将からは、その遣手達と同じか、それ以上の何かを感じさせる。
……珠世さん曰く、忘八は擬態が得意な鬼で人と鬼の区別がほとんど着かないと言っていたが。もしや?
「いえ、よく言われますのでお気になさらず。私とてまだまだ浅学菲才の身。これからも精進していく所存であります。それでお客様、本日はどのようなご用件ですか?お食事ですか?それとも……」
「ああ、いや。俺は医者でしてね。ギンと申します」
「まあ、お医者様?」
――だが、ちょうどいい。若女将と言うことは、この『蓮華』でそれなりの地位を持っているはず。ここの主である忘八と、何かしら関わりがあるはずだ。
「ええ。この店で奇病を患った女性がいると訊きまして。何かお役にたてればと」
あくまで、自分はここをただの料亭だと思い込んでやって来た医者。
自分が鬼狩りであることを向こうに悟らせてはいけない。少なくとも、忘八がどこにいるか正体を突き止めるまでは。
「……大変ありがたく思いますが、おそらく徒労に終わるかと。西の名医達を大勢呼びましたが、どのお医者様も匙を投げてしまうほどの難病でして……」
「でしたら尚更。代金は頂かないので」
「ですが、それではお医者様の利益にはならないのでは?」
「俺は金の為に医者になったわけじゃないんですよ」
というより、蟲師だし鬼狩りだし。医者はついでの副業だからな。
「まあ」
だが、自分の言葉は若女将を納得させたらしい。ぺこりと深く頭を下げ、「では、ご案内いたします」と言ってくれた。
「どうも」
明里の後ろを着いていくように、館の中へと入っていく。
部屋のあちこちからは男共の笑い声と女性の歓声が響いてくる。随分風紀が乱れた料亭だ。
俺は内心鼻で笑いながら明里の後ろを着いていくと、小さな女の子とすれ違った。この遊女屋で働く
「こちらです」
階段を昇っていき、また長い廊下を歩いていくと――
「ん?」
また一人、遊女らしき女性とすれ違った。
それもまた花魁と言えるほど美しい女性だったが――どうしてだろうか。さっき見た禿とどこか顔立ちが似ていたような。
姉妹か?それにしちゃ、偉く似てたな。
そう考えていると。
「この部屋です」
若女将の足が、ある部屋の前で止まった。
どうやらこの扉の先に、件の遊女が眠っているらしい。
「
明里はそう言いながら扉をそっと開いた。
中は薄暗く、窓は閉め切られ薄暗い。
布団の上で静かに横になっている恋綿と呼ばれた女性は、身じろぎひとつしなかった。
仮にも自分の上の立場の明里の言葉を無視するほど、意識が混濁しているのか?一体どんな奇病なのだろう。
そう考えながら、ギンもそっとその女性の顔を覗きこんでいる。
「!」
その顔は、さっき廊下ですれ違った女性と瓜二つだった。
いや、瓜二つじゃない。まったく同じだ。同一の存在だ。
日本人形のように美しく整えられた眼、鼻、唇、髪型、頬の骨格――何から何まで、すべてがあの遊女――そしてあの禿と、同じだ。
「姉妹?」
いや、この眠っている遊女の方が少し歳を喰っているのか。年齢は二十五か六か。
だがそれよりも――
「驚かれましたでしょう。お医者様。数日前から、身体に濃い緑色の発疹が浮かび上がり、増え続け、一日の大半を眠ってしまう。どの医者もこんな病は見たことも聞いたこともないと、匙を投げられてしまいました」
若女将がそう言った。
恋綿の顔――布団の隙間から出ている白く細い腕には、いくつもの緑の発疹があった。
まるで、苔のような、カビのような色をした発疹。
その時、ギンの頭の中で、本来何も関係ないはずの要素が結びつく。
よく似た禿と遊女。そして、その二人とまたよく似たこの遊女。
「――お医者様、この病が何かお分かりですか?」
不安そうに尋ねる明里に、ギンは顔を向けずに答えた。
「ええ。これは普通の医者には治せません。そしてもう、この娘を治す術は、ありません」
「……何故でしょうか?」
「これは――"綿吐"と呼ばれる蟲だからです」