何十、何百万とこの世に蔓延る蟲。
人間や動物とは違った法則の中で生きる蟲達の生態は多種多様だ。生命に最も近い存在だからこそ、その存在は不安定であり、不定形の、曖昧な存在。
目に見えぬ場所に住むモノ。大地の奥底に潜むモノ。空より高い場所で流れるモノ。
その在り方は様々だ。
自然の中には、動物の中には、時に人に害を与える生物がいる。
一番分かりやすい例を言えば、熊だろうか。
元来臆病な性格な熊だが、時には自らの空腹を満たす為、時には外敵を追い払う為に人間を襲うことがある。
それらと同じように、蟲の中には害を与えるモノも存在する。
数えきれないほど存在する蟲達の中で、人間の命を直接奪うような蟲は多くはない。
蟲師としての知識を集め続け、鬼狩りとして戦いながら、各地を旅し続けたギンは様々な蟲を調べながら、蟲患いにかかった患者を治療し続けた。
だが、幼少の頃から森で蟲の知識を蓄え続け、様々な対処法を学んだギンが、もっとも遭いたくない蟲がいた。
その内の一匹が"綿吐"と呼ばれる蟲である。
「えっと……綿吐?という病名なのですか?」
明里は首を傾げながら心配そうに言った。
「……」
「鹿神様?」
何かを考え込むように俯くギンに、心配そうに明里は問いかける。
「ああ、いや」
……どうしたものか。
「明里さん、楼主さんか、女将さんはいますか?」
「ええ。女将はいらっしゃいますよ。旦那様は、今夜いるかは分かりませんが……」
「なら、呼んで来てもらえますか。その間、少々この女性を看させていただきますので」
「かしこまりました」
明里はそう言ってお辞儀をすると、女将を呼ぶために部屋から出て行った。
「さて……」
足音が遠ざかったことを確認し、ギンは頭を抱えながら立ち上がる。
この蟲の対処法自体は簡単だ。だが、簡単だが、そのやり方は他人から見れば問題とも捉えられかねない。
「…………」
恋綿の顔を覗きこみ、顔を触ったり、脈を測ってみるが、恋綿本人は何の反応も示さない。声も発しない。身じろぎひとつしない。まるで眠っているようだが、眼は開いている。
皮膚を触れば体温がある。脈がある。
形だけは人間だが、この恋綿と呼ばれる女性は、蟲だ。
人間の肉の皮を被った、蟲なのだ。
この遊女が"人茸"なら……
ギンは静かに天井の方に目を向ける。部屋の隅の天井が一部、蓋が外せるようになっていた。
置いてあった椅子を踏み台にして蓋を開け、中を覗き込む。
「―――いるな」
銀蟲の光で変えられた緑の眼は、蝋燭の灯がなくとも、夜闇を見通す。
首だけを入れるような形で仲を覗き込むと、天井の裏は苔のような何かがびっしりとこびり付いていた。綿吐の本体だ。
普通、綿吐は土に根を張るモンだが、今回の蟲は天井裏に根を張ったようだ。建物の壁も、元を辿れば原材料が土なのだから、綿吐にとっては格好の隠れ場所なのだろう。古ぼけたこの天井裏すべての空間を埋め尽くすように張られた苔のような綿吐の本体は、この階層だけでなく、建物全体に根を伸ばしているように見える。
一体何年、綿吐が繁殖し続けたか分からない。
この建物全体に根を張っているとしたら、相当でかく育っている。根が少ないのなら、一部を燃やせば済む話なのだが――。
「大変お待たせしました」
天井裏を一通り見終えたギンが部屋の床に降り立つと同時、扉が開かれた。
中に入ってきたのは少し年老いた女将と、先ほどの若女将の明里だった。仕事で忙しかっただろうに、明里はすぐに呼んで来てくれたようである。
「私がこの"蓮華"の女将でございます。恋綿の病を看てくれるお医者様と訊きまして……挨拶が遅れてしまい、大変申し訳ありません」
女将は丁寧にギンに頭を下げた。さすが、表向きは料亭、裏では人身売買に手を付けている遊女屋の女将だ。VIP達を相手するからだろう、その礼儀の良さは恐ろしいほど綺麗で整っている。
「いえ、おかまいなく。俺は鹿神ギン。医者をしている者です。突然押しかけてしまい、申し訳ない」
「いえいえ、とんでもない……恋綿は、この店で一番の売れっ娘。言葉は喋れませんが、その美しさはこの飛田遊郭で一番の遊女です。ですが、先月から寝たきりになり、身体中にこのように発疹が浮かぶという奇病にかかってしまった。医者には匙を投げられ、どうするべきか頭を悩ませていた所です。鹿神様、この病を治す術はあるのでしょうか?」
「…………残念ながら、この娘を救う手だてはありません」
「……そうですか」
ギンの厳しい言葉に、女将と明里はショックを隠し切れないように動揺する。
「そんなっ……ダメなんですか?鹿神様」
「ああ」
だが、恋綿が手遅れだと言うことを薄々感じ取っていたのだろう。明里はともかく、女将はほとんど狼狽えず、眉を歪める程度だった。
さすが、忘八と呼ばれる人非人の嫁を務めるだけはある。この程度は慣れっこか。
「それより、女将さん。一つお聞きしたいことがあります」
ギンはさっそくと言わんばかりに本題に入る。
「……なんでございましょう」
「見当違いだったら申し訳ない。ですが、失礼を承知でお尋ねします」
―――この娘、生まれた時、人の姿をしていましたか?
「―――――ッ」
その時、初めて女将は眼を見開き、顔を青ざめさせた。
先ほど恋綿は助からないと伝えた時よりも、動揺したように。それどころか、口元を抑えて気持ち悪そうに呻いている。
「女将?」
明里はどうしたのだろうと言わんばかりに首を傾げた。
「どうなんですか、女将さん」
「…………」
しばらく、ギンの問いに答えにくそうに身体を震わせる女将だが、やがて静かに口を開く。
「―――いいえ、ケモノの姿ですら、ありませんでした」
五年程前。
二つの山の中、かなり深い森の中を通って歩いてきた、田舎の出身とは思えないほど大層美しい女だった。二十歳程の女で、酒におぼれた旦那の借金のカタに売られてきたと。遊郭ではよくある悲劇のひとつだった。
その女はすぐに"蓮華"が買い取り、多くの客を取った。飛田遊郭ではすぐに有名になり、多くの男達を魅了し、当時もっとも稼いだ遊女だったと言われるほどだ。
しかし、三カ月ほど経った頃、恋歌は妊娠していたと発覚した。
前の旦那の子供を妊娠していたのである。
妊娠が発覚した後、女将と楼主は彼女に堕ろすよう命じた。しかし、前の旦那への義理立てか、それとも子供へ何かしら愛情を持っていたのか、恋歌はナイフを喉に突き立て、自殺した。
「その後でございます。恋歌の股から、緑色の泥状の何かが現れたのは……」
恋歌の死体から、緑色の泥が這うように出てきたかと思えば、目にも留まらぬような素早さで天井裏へと逃げ込んでしまったと。
「その恋歌が過ごしていた部屋が、この部屋でございます」
「自殺もここで?」
「はい……その緑色の物の怪も、ちょうどあそこから天井裏へ……」
女将が指を差した方向に顔を向けると、そこはギンが先ほど天井裏を覗いていた場所だった。
天井裏に逃げ込んだその奇妙な生物は、姿をばったり消したと言う。しばらくの間、気味が悪いと言われ、誰もこの部屋に近寄らなかった。
「ですが、その数ヶ月後、この部屋の天井から何かをひっかくような音が聞こえたのです」
不審に思った男衆が天井裏を覗くと、そこには赤子がいたそうだ。どこか恋歌の面影を残す、女の赤子が。
「私は内心恐ろしかった。その赤子は恋歌とあまりにも良く似た顔をしていたのです。私はすぐに気付きました。あの緑色のモノが、この赤子になったのだと。恋歌の生まれ変わりのようなその赤子を、私達は殺すことも余所に売ることもできませんでした。殺してしまえば何か祟りがあるのではないかと畏れた私達は、それを育てました。その赤子が、今あなた様の前にいる恋綿です」
「天井裏にいたのは、1人だけ?」
「…………いいえ。半年後、また同じように赤子が」
その娘……恋綿の成長は早かった。新鮮な小魚や木の実を好んで食べ、半年で五歳児ほどに、一年で十歳ほどに成長したと。
そして恋綿が発見された半年後、すぐにまた赤子が同じように天井裏に現れた。まるでどこからか湧くように、天井裏で増えていく恋綿。
一度天井裏をくまなく探してみたが、変わった所はひとつもなかった。
今では十人ほどの恋綿が、この蓮華で生活しているようだ。
「最初は赤子程の知識しかなかったのですが、簡単な知識は覚えていきました。見た目は恋歌と同じく大層美しかったので」
「遊女に仕立てたのか」
「はい」
「物言わぬ娘に客が着くのか?」
「その手の娘を好むお客様もいらっしゃいます」
「……恋綿に良く似た禿や遊女がいたが」
「はい。お察しの通りでございます」
「……」
「……そして、今月に入って、恋綿は寝込むようになったのです」
ギンは頭を抱えた。
なんてことだ。この店は、異形の蟲を遊女として売っていたのだ。遊女屋で生活すれば上等な馳走を食べることができる。そうやって、急激に栄養を蓄えていったのだろう。そう考えれば、異常な成長速度も納得できる。
十人。十人もの人茸がここに紛れている。想像していたよりも数が多すぎる。
身請けされて他所の土地や店に移されていないのが不幸中の幸いか。
「鹿神様。この娘の病は一体なんなのですか?」
「……身重の妊婦に寄生し、子を殺す、病でもあり、"蟲"と呼ばれる生命体です」
「蟲?」
「寄生虫、と言えば分かりやすいでしょうか」
"綿吐"と言う蟲は、簡単に言えば寄生虫である。
緑色の綿のような姿で空中を漂い、身重のヒトの胎内に入り、卵に寄生する。
産まれてくる時はヘドロ状だが、床下や天井裏に逃げ込み、そこに根を張る。
半年か一年が経った頃、赤子の姿の"人茸"を親元へ送り込む。
先ほど天井裏を見た時に張っていたあの緑色の苔のような物が根であり、綿吐の本体だ。
送り込まれた人茸は、人のように振る舞うが意志を持たない。だが、この蟲の本体と見えない糸のようなもので繋がっており、人茸が摂取した食物や養分を、糸を通して本体に養分を送る。
要は、胎児を寄生して殺す。水子の命を糧に現世に生まれ出る。
蟲は本来、人の目に見えない。何故なら、人間や動植物のように命としての力をあまり持たないからだ。
だが、幼子一人を喰ったこの蟲は、人と同じ……水子の身体を持つ。
「この娘や、他の恋綿は蟲そのものです」
「蟲そのもの?」
「はい。これは人であって人ではない。心を持たない、"人のようなモノ"です」
人茸が二人か三人程度だったら、ギンが身請けして殺すという手段もあった。だが、十人ともなれば事情を話さない訳にはいかない。
故に、ギンは女将に蟲のことを分かりやすく、病原菌に例えて話した。
女将達はまだ得心がいかないようだったが、伝染病の一種だと伝えると顔を青ざめた。
「この病気は"綿吐"と呼ばれる病気です。この娘は、本来恋歌が生むはずだった子供を殺したモノ。この娘はやがて壊死し、その際、周囲に大量の種を撒きます。菌のような物で、これがばら撒かれる前に殺さなければいけません」
「なっ……」
「殺さなきゃいけないって!?」
案の定、"殺す"という物騒な言葉に反応した女将が立ち上がる。
「この病気は、身重の人に寄生する。寄生されると、生まれてくるのは女将さん。あなたが見てきた緑のヘドロのような物の怪になるのです」
「……ッ」
「種を大量にばら撒かれれば、近くの街にも蔓延してしまいます。この娘や他の恋綿が身請けされ、もし別の街で種を撒かれれば手遅れになってしまう。そうなれば、もう手がつけられない」
「ば、ばかなこと言わないで!」
そこで女将は、今までの丁寧な口調はどこにいったのか、忌々しげに怒鳴り散らす。
「あの娘達には、一等なお客様たちが着いているのよ!それを殺すなんてしたら、大損するのは私達じゃない!」
「……」
ここでも金か。そんなことを言っている段階ではないと言うのに。本当なら根が張り巡らされているこの建物ごと焼き払うべきなのだ。
さすが、忘八と呼ばれる遊女屋の楼主を支える女将。こちらも負けず劣らずの欲塗れの女狐だ。金にがめつい。そりゃ、店一番の遊女を殺される、と言われれば黙ってはいられない。
この女将からすれば、恋綿を殺そうとする俺は医者ではなく、さしずめ強盗だ。
「もちろん、こちらからもある程度金銭は負担させていただきます。なので――」
「そういう問題じゃないのよ!ここで恋綿を殺されてしまったら、今までの蓮華の信用が落ちてしまう!」
「いい加減にしろ」
女将を少し睨みつけながらドス声で言う。
「ひっ」
すると、女将と若女将は怯えたように顔をゆがませた。こちらは毎日鬼と対峙しているのだ。殺気を出せば、一般の女性はすぐに黙ってくれる。
「言ったでしょう。この病気は、水子を――生まれてくるはずの命を殺すんです。このまま放置しておけば、取り返しがつかないことになる。これから生まれてくる子供が全て人の肉を被った綿吐など、多くの人が不幸になるだけだ」
「…………ッ」
「あなたは人殺しになりたいのですか。どうか、懸命なご判断を」
女将は悔しそうに顔を伏せる。確かに、この美貌なら例え物言わぬ異形の蟲だとしても、多くの客が着くだろう。だが、目先の利益に手を伸ばし続ければどうなるか。この女将も分からなくはないはずだ。
「明日の朝までに答えを出してください。楼主の方と相談して、答えが出るまで待ちます」
でなければ、俺はここにいる恋綿を全て殺さなければいけない。
女将は楼主と相談するために部屋から出て行った。
若女将の明里も仕事があると言って部屋から出ていき、残されたのはギンと恋綿だった。
「……ふぅ」
苛立ちを紛らわす為に蟲煙草を吸うが、気分は一向に晴れない。
鬼狩りとして働いている以上、頻繁にここに訪れることはできない。「他の娘は寿命が来るまで待ってほしい」と言われても俺は了承することは絶対にできない。
一度許してしまえば、その後は何度もなあなあで許されてしまう。遊郭一の美女と言う大金が回る宝石なのだから、尚更。ここで全ての人茸を始末しなければ、今後何度も繰り返される。
「あとは根か……」
燃やすのが一番なのだが、古い木造に火を点ければ全焼は免れない。更にここは料亭だ。建物を丸ごと燃やしてしまえば、どれだけの被害総額を請求されるか分かった物ではない。なんとか、根だけを枯らす薬を創るべきか……。
「失礼します」
「ん?」
扉が再び開かれる。中に入ってきたのは、明里だった。
「鹿神様。お食事をお持ちしました……私が簡単に作った夜食ですが、よければ」
時計を見ると、もうすぐ日付が変わる時刻だった。
「ああ、ありがとう。頂くよ」
明里が運んできてくれたのは簡単な塩結びだった。
口に含むと、ほのかにしょっぱい。今日は昼から何も食べていなかったから、ありがたかった。
「女将は何か言っていたか?」
「いえ、特には。今、楼主と相談している最中です」
「そうか」
綿吐の一部である人茸は、思考はしないがその身体は人間そのものだ。ひょっとすれば、鬼の餌としても機能するかもしれない。普通、いくら自殺した遊女と瓜二つと言えど、天井裏に現れた赤子を引き取り育てるなど、まともな感性を持った人間はしない。
だが、綿吐を生かしておいても百害あって一利はない。
家畜のように扱える、都合がいい人間。抵抗せず、物言わぬ人の身体を持った蟲。何かしら有効的に……それこそ薬学の実験などに使えるかもしれない。人間と同じ肉体、定期的に補充される蟲。
少し考えるだけでいくつもこの蟲の利用法が思いつく。
だが、蟲を人の利の為に使ってはいけない。
仮にもし、人間と同じ肉体を持つ人茸に鬼の血を入れればどうなるのか……人茸がもし鬼と同じく人間を喰う性質を持ってしまえば、それこそ取り返しがつかない。
「明里さん、アンタは俺を人殺しと思うか?」
「……少し」
綿吐がもし、鬼のように人を襲う性質を持つならばすぐに殺すことができるだろう。
だが、この綿吐は、この恋綿は、ただ生きているだけで、罪はない。
「アンタは正直者だな」
「申し訳ありません」
「謝らないでくれ。俺も自分がこれからすることは決して褒められたことじゃないことは自覚している」
もし、この蟲を殺さずに済む方法があるなら、とっくにそれをやっている。
だが放置しておけば、綿吐は国中に繁殖し、多くの子供を喰らう。
「……恨んでくれてもいいのにな」
恋綿は何も言わない。ただ静かに宙を見つめているだけだ。
……例え異形の者と言えど、生きた命。それを家畜や実験動物、物のように扱う権利は、俺にはない。
「すまないな、明里さん。だが、できる限りのことはさせてもらう。苦しませて死なせるようなことはしな――」
―――――そう言いながら振り返ると、顔を伏せた明里が、自分の方へ向かって倒れ掛かる姿が見えた。
なんだ?明里さんが、いきなり、俺の方に倒れ掛かってきて――
その時、何かが刺さる音が聞こえた。聞き覚えがある音。自分が鬼狩りをする時、鬼の身体に刀を突き立てた時の音。
何十、何百回も聞いた音だ。
最初、刺されたことに自分は気付かなかった。
何か違和感がある。そう思って下に視線を向けると、自分の血で濡れた包丁が突き刺さっていた。
腹が、熱い。なんだ、これ。なんで、包丁、が。
突然のことで頭が動かない。だが、鬼狩りとして訓練された身体は反射的に動いた。
自分の右拳が明里さんの頬を殴り飛ばす。咄嗟の事で加減はできず、明里はまるで風に吹かれた綿のように恋綿の方へ飛ばされた。
「ぐっ……なん、で……!」
まずい。
止血の呼吸で出血量を最低限に抑えながら、痛みを抑えながら明里の方へ目を向ける。
明里は恋綿を守るように覆いかぶさりながら、こっちを見ていた。右頬はさきほど殴り飛ばしたからだろう、赤紫色の痣を創っていた。彼女はまるで怪物を見るかのような、殺意に満ち溢れた目でこちらを睨みつけている。
「ふぅー……!ふぅー……!」
人を刺した高揚感か、荒い息を吐きながら自分の手についた血を拭う明里。
狂気を孕んだその眼は、どこか見覚えがあった。
「チッ……」
なんだよ、その眼。殺意と憎しみに満ちた目。我欲に満ちた目。
人間の癖に、それじゃ鬼と変わらねえじゃねえか。
明里は、二つ山を越えた村に生まれた少女だった。
貧しいが心優しい両親と、美人で器用な姉の下で生まれた少女。畑を耕しながら、生活は貧しいけれど、幸せで満ち足りた場所だった。
そんな幸せが崩されたのは、六年前。
両親は物言わぬ骸に成り果てていた。近くの盗賊が、村を襲い、両親を殺したのだ。
幸いなことに姉と明里は、近くの下町に物を買いに向かっていた為、夜盗に襲われることはなかった。
母を含め、村の娘は犯された後に殺され、父や他の男衆はまるで
生き残ったのは、明里と恋歌だけ。
幼かったこともあり、明里は親戚に保護されたが、姉はひどい男の所へ無理やり嫁がされた。
二年後、姉の下へ訪れると、姉は人買に売られた後だった。
明里は、酒の金の為に売ったとげらげらと哂った姉の元夫を殺した。
最愛の姉を、たった一人の肉親を殺された明里はあらん限りの憎しみを持って、包丁で何度も突き刺した。
その後、僅かな手掛かりを求めて姉が売られた場所を探し、そしてこの飛田遊郭を見つけた。
だが、姉は既に自殺をし帰らぬ人になり、ここにいたのは姉の忘れ形見である恋綿だけだった。
恋綿が異形の何かであることは、すぐに分かった。
けれど、たった一人の姉が残した肉親。忘れ形見。姉の娘と言うことは、私の姪にあたる。
「お姉ちゃんの分まで、幸せになれるよう、今度は私が守るからね」
そう誓っていたのに。
「殺さなければいけません」
白い髪に翠の眼をした死神が、やってきた。
何の躊躇もなく男は自分の姪を"物の怪"と呼び、たった一つの宝物を殺そうとする。
これ以上事態が悪くならないようにするために、恋綿を殺すって?どうして恋綿が殺されなきゃいけないのよ。
ふざけるな。ふざけるな。ふざけるな!
「忘八様……どうすればよいですか?」
「簡単だ、殺せばいい」
「殺す?」
大切な物を守るためには、自らの手を汚さなければいけないのだよ。
ああ、そうか。それだけでいいんだ。なんて簡単なことなんだ!
明里はあまりにも単純な解答に辿り着いて、思わず小躍りしてしまいそうになった。
「そうか、包丁で刺せば恋綿を守れるんだ」
今夜はなんて冴えているんだ。死体は
さっそく包丁を取りに行こう。あの男を殺せば誰も悲しまない。それで問題がないじゃないか。
あの男を殺せば、恋綿は助かる。
死なせはしない。絶対に守る。大丈夫だからね、恋綿。
――ギンの致命的なミスは、明里の内に潜む狂気を見抜くことができなかったこと。
十五と言う若さで、特権階級の男達が訪れるこの遊女屋で。鬼が楼主をするこの遊女屋で若女将を務める少女が、普通な訳がなかった。
姉を探す為に自らこの遊女屋に奉公しに売られに来たこと。
生きる為に、"恋綿の為に"と言い聞かせ男に身体を売り続けたこと。
そして――姉の元夫を殺した時か、それとも見知らぬ男に純潔を捧げた時か。本人も気づかないうちに、その心が壊れてしまったこと。
一月の間、遊女屋を薬師として歩き回っている間に、ギンの観察眼は鈍っていた。
ここに努める遊女のほとんどが訳有りで、何かしらの闇を抱えているのが当たり前。
木を隠すには、森の中。
闇を隠すには、闇の中。
ギンは、明里の中に潜む鬼を見抜くことができなかった。
「かっ……はっ……!」
息が、できない。喉の奥が蓋をされたように。手足の先が、痙攣する。
毒を、盛られた?くそ、一体いつ……いや、あの時しかない。
「そろそろ効いてきた?先生」
「……お陰様でな……」
呼吸ができなくなる。何の毒か……ある程度想定はつく。おそらくフグ毒か何かだ。金持ち御用達の料亭なら、フグ料理ぐらい扱うだろう。この場所で最も手に入り易い毒。そして、最も殺傷力がある毒だ。
手足が痺れる……呼吸がしにくい……。
「毒が効くまで……話で時間を稼いでいたのか……」
俺がそう訊くと、明里は楽しそうに口元を歪ませた。
部屋に入ってすぐに殺さなかったのは、握り飯に染みこませた毒が効くまで時間を稼ぐため……。
「忘八の……入れ知恵か……」
解毒薬は、ない。
残された時間は、少ない。いずれ呼吸が止まり、俺は動けなくなる。それまでに、忘八を殺し、恋綿を殺し、珠世さんの所へ行かねえと……!
刀を握り、立ち上がる。
「嘘……!?」
明里は信じられないように目を見開く。フグ毒を食らわせ、脇腹を刺した。
大の大人でも痛みと苦しさで立っていられないはずなのに。
ギンは顔をしかめながら包丁を抜き取り、明里の方へ近寄った。
「悪いな、軟な鍛え方はしていないんだよ」
「やめっ」
「……許せ」
ギンは手刀を明里の頸に当て、一瞬で意識を奪う。
そしてそのまま、呼吸を使って刀を振り下ろす。
―――ざしゅりと、果実が弾けたような音とともに、寝たきりだった恋綿の頸が落ちる。
「くそったれ」
包丁をその辺に放ると、からんからんと乾いた音が響いた。
部屋中に恋綿の血が飛び散り、ギンもその返り血を浴びたが、構っている暇はない。
薬箱を背負い直したギンは止血の呼吸を続けながら部屋を飛び出した。
「きゃあぁぁぁぁぁ!!」
「だ、誰か!刀を持った男が暴れてるぞぉぉぉぉぉ!」
廊下に飛び出ると、ギンを見た客が悲鳴を上げながら店から飛び出す。
今のギンは、刀を持ち、返り血を浴びた状態だ。白い髪は血に濡れ、事情を知らぬ人間が見れば殺人鬼が客に紛れたと思うのは必然だった。
パニックは恐怖を呼び、恐怖は伝染する。店はあっという間に悲鳴や怒号、大勢の人間の足音が雪崩のように響き始める。
人がいなくなるなら都合がいい。こっちはこっちの仕事をさせてもらうだけだ。
穏便に済ませるはずだったが、残された時間は少ない以上、単独で突っ込むしかない。
ギンは呼吸で毒が巡るのを遅らせながら、忘八を探す為に気配を探りながら走り回る。
どこだ、どこにいる。
客間、いない。
二階、いない。
三階、四階と走り回り、時折飛び掛かってくる恋綿を殺した。
恋綿はどうやら自分を敵と認識したようだ。心を持たぬ蟲でも、自らの命を奪おうと、大切な種を殺そうとする男だと言うことは理解できたようだった。
だが、例え異形のモノと言えど、相手は女の肉を被った蟲。
鬼を殺す為に鍛錬を重ねてきたギンの敵ではなく。
そしてその光景は、女子供を無慈悲に殺す虐殺者だった。
「はぁ――……!はぁ――……!」
息が、苦しい。何人、殺した。四人か、五人か?あと何人残っている。鬼は、どこにいる。
分からない。毒が回ってきた。視界がぼやける。
―――熱い。
火の手が回っている。鬼がつけたのか、人がつけたのか?
ちょうどいい。死体となった恋綿の身体も、この建物全体に根を張った綿吐の本体も燃やしてくれるはずだ。
意識が朦朧としながらも、ギンは正確に恋綿の頸を落とした。
鬼狩りとして戦い続けてきた習性。頭がまともに機能していなくても、身体が、細胞が覚えている。
人の形をしたモノの、頸の落とし方。
いや、覚えているだけじゃない。段々と研ぎ澄まされていく。
「よ……う、やく……見つ…け、た……」
「お前……化け物か……!?」
最上階の奥の部屋にいたのは、若い鬼だった。
18,19ほどの年の鬼だった。その右目には、"下弐"と言う文字が浮かび上がっている。
鬼と言うよりは、人間に近い体型だった。肌がやけに青白いだけの美丈夫だ。
なるほど。パッと見、人間そのものだ。
だが、その眼は――その眼は、鬼だ。
―――なんだ、人間も鬼も、大差ねえじゃねえか。
「――何を笑っていやがる……!俺の城を荒らしやがって!楽に死ねると思うなよ!」
――鬼が飛び掛かってくる。
下弦の鬼――けれど、何故だろう。すごく遅い。
槇寿郎さんや鱗滝さんの動きに比べれば、天と地ほどの差がある。これが十二鬼月か。
大したことねぇなぁ。
火に囲まれたこの場所で。毒に身を犯され、包丁によって傷つけられた急所。
死の淵に片足を入れた命の極限。生命の危機。
命の液体とも言える血液が、腹からこぼれ、体温が徐々に落ちていく。
あと一歩で死ぬと言う場所に、追い詰められている。
だからこそ、感覚が鋭く磨かれていく。
ぬたぁん
ぬたぁん
ぬたぁん
流れるように、逆らわず、刀を振るう。
もっと早く、もっと速く。
「貴様……!死に体のくせにどうしてそこまで動け……!」
もっと迅く。迅く。迅く。
相手の頸を、食い千切れ。
"森の呼吸"
「死にたくな―――」
"肆ノ型 山犬"
燃える炎の中から、人影が現れる。
現れたのは、腹に包丁を突き刺し、動かぬ手足を無理やり動かし、肩に逃げ遅れた大人を背負った、白髪の男。
「ギンさん!」
「ギン!」
館を包む大火事から現れたのがギンだと気付いた珠世と愈史郎は、慌てて駆け寄った。
―――ひどい。
ギンの状態は、半死半生だった。身体中の火傷、切傷、そして腹部に空いた傷口。
更に、鬼の血鬼術か、何かしらの毒を盛られたのか――ギンの顔色は死人のように青く、呼吸が荒い。
「よぉ……きっちり、殺してきたぜ……下弦の弐……」
「ギンさん、喋らないで!愈史郎、すぐに手術の準備を!」
「はいっ!」
ギンは愈史郎の肩を借りて横にされる。
「忘八から受けた傷じゃない……人間にやられたのですか?」
「……」
珠世は長年の経験から、切創と毒を盛られたのだとすぐに理解した。ギンは何も答えなかったが、黙秘がなによりの証拠だった。
「恋綿!恋綿ぁ!」
すると、ごうごうと燃える館に向かって涙を流しながら叫ぶ遊女がいた。
明里だ。
どうやら、一足先に脱出していたらしい。
明里はギンが生きていたことに気付くと、憎悪を隠さず睨みつけて叫ぶ。
「人殺し!人殺し!アンタが火をつけたんだ!アンタが殺したんだ!こいつが犯人だ!」
火事の煤で真っ黒になった手を拭おうともせず、ギンを指差し、叫んだ。
「化物!化物!私の大切な物を奪った!呪われてしまえ、死んでしまえ!私は絶対に、アンタを許さない!この外道!化物―――――!」
「なっ――」
珠世は眼を見開く。違う、ギンさんがそんなことをするわけない。
だが、ただならぬ様子で叫ぶ明里の言葉に、火事で集まっていた野次馬達がギンに疑いの目を向ける。
「やだ、あの子が下手人?」
「刀を持ってやがるぞ!」
「警察は何している!」
「あの女も仲間か?」
そして、疑いの眼は珠世達にも降りかかる。
「珠世様!ここで治療するのは危険です、一刻も早くここから離れなければ!」
愈史郎が慌てる。このままここにいれば、ギンは捕まり、自分達もどうなるか分からない。あの醜女め、一体何のつもりで……!
忌々しげに明里の方へ視線を向けると、愈史郎はとんでもない物を目にしてしまう。
明里は、おぼつかない足取りで、火事で燃え盛る"蓮華"の中へ向かって行くのだ。
周囲の人は濡れ衣の罪を着せられたギンに注目が集まり、誰も彼女の異常な行動に気付かない。
「まずい、止め――」
愈史郎が声を出す前に、女は燃え盛る炎に身を投げ、その姿は見えなくなった。
「愈史郎、血鬼術で眼を眩ませます、その間に――愈史郎?」
「……何でもありません、珠世様。行きましょう」
愈史郎はそっとギンと珠世を肩で抱えた。
「珠世様!お願いします!」
"血鬼術 惑血 視覚夢幻の香"
珠世が鋭い爪で自身の腕を引っ掻くと、甘い匂いが漂い始める。
「な、なんだこれは!?」
騒ぎを聞きつけた警察官達がギンを捕えようと野次馬を掻き分け走ってくるが、珠世の血の臭いを嗅いだ警官や野次馬達は、目の前が突如花の文様によって遮断される。
野次馬達の視覚を封じたことを認めた瞬間、二人を抱えた愈史郎は宙高くに跳び上がり、飛田遊郭から人知れず離れた。
花の文様が消える頃、そこに下手人と思われる白髪の男の姿はなく。
遠くから火事を聞きつけた火消しの者達の怒声が、こちらに近付いてくるばかりだった。
その夜。飛田遊郭で起きた火事は一晩中、火消しの懸命な消火活動にも関わらず、朝になるまで燃え続けたという。
「……感謝します、ギンさん。愈史郎に掛けられた血鬼術は、消えていました」
「……そうかい」
「どうしたギン。珠世様がこうしてお前に感謝しているんだ。感涙にむせべ!」
「愈史郎」
「ハイ!」
一月後。ギンは珠世達の拠点で目を覚ました。
珠世の手術と、道具を使用した人工呼吸でギンの命をぎりぎり繋ぎ止めることができたと言う。珠世様がいなければお前は死んでいたんだぞと愈史郎は憤慨していた。どうやら、丁寧に看病されていたギンに嫉妬していたらしい。その愈史郎は「ギンさんがいなければあなたと私は死んでいたのですよ」と珠世が言うと、しょんぼりしたように肩を落とした。
「しばらくは、ここで姿を隠すのが良いでしょう。ギンさんが今回の火事の犯人だと警察が血眼になって探している。ほとぼりが冷めるまで、ここで怪我を癒してください」
「……鬼舞辻は……」
「こちらに来てはいません。あの臆病者は、大火事で騒ぎになった飛田遊郭で人目がつくことを嫌ったんでしょう」
「……」
「大丈夫ですか?」
ベッドの上に横たわるギンは、どこか覇気がなかった。何かを思い悩むように、黙り込んでいる。珠世と愈史郎が声を掛けなければ、反応を返さない。食欲もないようだった。
「あの娘は」
「?」
「あの火事の場に、少女がいたはずだ。"蓮華"の遊女だ。その娘は、どうなった?耳に残っているんだ。俺を化物と罵る悲鳴が」
「死んだよ」
珠世がどう答えるべきか悩んでいると、愈史郎が間髪入れずに答えた。
「自殺だ。独りで勝手に炎に飛び込んだ」
「…………そうか」
ギンはそう言って、顔を伏せた。その姿は、罪悪感に押し潰されそうな小さな少年に見えた。
「ギンさん……」
そのあまりの痛々しさに、珠世は何も言えなかった。何と声を掛ければいいか分からなかった。
ギンがあの遊郭で何をしていたかは、大体知っていた。
生き残った女将と、ギンが助けた吉原の遊郭の楼主が、証言したのだ。
――あの男は化物よ、私達の店の遊女を、何人も斬り殺し、私の夫を殺したの
――彼は私を助けてくれた命の恩人だ。あの建物に巣食っていた悪鬼から、私を守ってくれた
警察がどちらを信用するかは、火を見るよりも明らかだった。
助けられた男の証言は消され、女将の証言を元にギンは指名手配されることになったのだ。
「……大丈夫だ、珠世さん。その辺りは耀哉がなんとかしてくれる」
ギンはそう言って笑った。だがその笑いは無理やり創られた笑顔だということはすぐに分かった。
「なあ、珠世さん」
「なんでしょうか」
「鬼とは、人とは、なんだろうなぁ」
どれだけ医学を身につけようとも、どれだけ剣術を磨こうとも、どれだけ命を賭けて助けようとも。
結局は無意味なのか?
「生命ってのは、なんだろうなぁ」
義勇や杏寿郎が血反吐を吐くような修行を乗り越えてきたのは。
錆兎や仲間達が鬼と戦い命を落としたのは。
こんな誰も彼も報われない結末の為だったのか?
「……それは、私には答えられないでしょう」
「……そうだな」
―――人とは、鬼とは、蟲とは、なんだ。
生物とは、なんだ?
俺達は何の為に、命を張って鬼の頸を獲り続ける。
人の中には鬼のような冷たい心を持った悪人がいると言うのに。
錆兎や他の仲間が死んだのは、そんなバカみたいな連中を鬼から守るためだったと言うのだろうか。
「生まれついて人より多くの才に恵まれた者は、その力を世の為、人の為に使わねばなりません。天から賜りし力で人を傷つけること、私腹を肥やすことは許されないのです」
瑠火さん、アンタの言葉を信じていいのか、今の俺にはもう分からない。
今まで信じていた、これは誰かの為になることだと頑張ってきたこれまでを、否定したくてたまらない。