「お菓子ないならいたずらしてもよし!限度?当事者に一任しようじゃないか!」
万能の天才はお酒片手にそう言った。
フランスの王妃「ハロウィンイベないなら自分たちでやればいいじゃないの!」
カルデアに激震走る──!
眼鏡を拭いていた後輩はその手を止め。
マスターのマイルームへの秘密の道を掘っていた龍娘は取り敢えず開通させ。
冬に備えて編み物をしていた自称母は編み物を放り投げ。
リネン室でマスターのベッドのシーツをくんかくんかしていた毒娘はこうしちゃいられないと飛び出した。
カルデア中のサーヴァントたちが一斉に動き出したのだ!
彼女たち──あるいは彼らを掻き立てるのはダ・ヴィンチちゃんの放送。
『ハロウインイベントの開催』という放送に他ならない。
ハロウィンともなれば誰もが一度は耳にする『トリックオアトリート』という言葉。
これは日本語にすれば『いたずらされたくなければお菓子を頂戴』という意味になる。
そう……いたずらだ。
ハロウィンの日は、お菓子を持っていない人にはいたずらしても許されるのだ!
勿論、常識的に考えればいたずらには限度というものがある。
一般的な道徳や倫理に照らし合わせて、やって良い事と悪い事が当然あって然るべきだろう。
しかし! しかしである!
この『ハロウィンイベント』に限っては!
【どんないたずらでも】許されるのだ!!!
一部のサーヴァントたちの策略により酔っ払って脳味噌が緩んだダ・ヴィンチちゃんの許可付き。
この日に限り、マスターにはどんな事をしても許される。
そこにはマスターと契約したサーヴァントたちは一線を弁えているという熱い信頼があったから。
だからダ・ヴィンチちゃんはこのイベントを開催した──というわけでもなく、酒の勢いと面白そうだったからである。
というか、一線を弁えるどころか一線を越えようとしているサーヴァントまでいる。普通にマスターの貞操の危機だった。
マスターを手籠にせんと邁進する一部サーヴァントと、マスターを守ろうとするサーヴァントの小競り合いまで発生しているが、そこはカルデアの技術力の見せ所。
カルデア全体に魔術と科学を融合、昇華させた特殊な術式を起動。今のカルデアは騎士王の聖剣ぶっぱすら数発なら耐える。
お陰で各地の争いが激化したりしてるが、そんな事は梅雨知らずマスターはカルデアを走っていた。
「どうしてこうなったぁ!!!」
「ああ! ああ! 安珍様! 待ってくださいまし!!」
「嫌だよ!? 今の清姫の目すごく怖いから!? 俺、蛇に睨まられたカエルの気持ちが分かった気がする!!!」
「まあ! そんな……動けなくなりそうなほど私に見惚れただなんて……!」
「何がどうしたらその理解に!?」
叫んでも状況は変わらない。
令呪はすでに使い切っているし、そもそも、マスターとサーヴァントである清姫では脚力に差があり過ぎる。カルデア礼装服の力で身体能力を上げているとはいえ、追い付かれるのは時間の問題だった。
「というか清姫どうやって俺の部屋入ってきたの!?」
放送終了直後、マスターは籠城を決め込むつもりだった。
マスターの部屋のカードキーを持っているのはマスターの他にはマシュだけ。なら、部屋から出なければ襲われる事もないだろうという狙い。
が。
『安珍様! とりっくあおとりぃとです! いたずらですか!? いたずらですね!!』
『うわぁ!? なんか床突き破って清姫がでてきたぁ!?』
床からいきなり清姫が生えてきて、動転したマスターが咄嗟に逃げ出して今に至る。
「私と安珍様の愛のために直通路を作っていまして。本当は安珍様が眠ったところを……きゃっ」
「寝たところをなに!? え、俺寝てる間に何されるところだったの!?」
「そんな……それを私の口から言うなんてはしたなくてできません……!」
「言えないような事を!?」
「あっ、裾から安珍様との愛の拘束具がっ」
「本当に何するつもりだったのぉっ!!?」
落とした拘束具(ゴツい手錠と猿轡)を清姫が拾っている隙に全力で逃げに掛かるマスター。
体が恐怖で震えたが、仲間の協力ありきとはいえあの大英雄ヘラクラスから逃げ切ったのは伊達ではない。
(やばい! 捕まったら何か大切なものを失う気がする! 男の尊厳とか!!)
もしかしたらあの時よりも必死だったかもしれない。
「マスター! こっちだ!」
「っ! その声はロビン!」
自分を呼ぶ声に顔を向ければT字路で手招きしているロビンフッドの姿が。
頼もしいアーチャーのもとへ直ぐ様駆け寄る。
「ありがとう助かった! ……なんでタキシード?」
「ハロウィンだからですよ! それよか早く逃げますよっと! こっちだ!」
先導するロビンフッド(タキシード)に追従するマスター。
後ろで爆発音と清姫の悲鳴が聞こえた。恐らくはロビンフッドの仕掛けたトラップだろう。
美しさすら覚える手際の良さだ。
走り続け、カルデアの特に必要ではないけど捨てるにはちょっと……っといったゴミのようでゴミではないものが一時保管されている場所でマスターとロビンフッドは物陰に身を潜めた。
「っと、ここはまだ他のサーヴァントが来てないからひとまず安全だ。……で、マスターはどこまで知ってるんで?」
「いや何も……放送でダ・ヴィンチちゃんが『マスターにどんないたずらしてもいいぞーう!』って言った事しか」
「やっぱりかあ。じゃあ、俺から簡単にこのイベントの趣旨を説明しますかね」
小声でこそこそと話すロビンフッド。
「まず第一に、この『ハロウィンイベント』の間はマスターにどんないたずらをしても良いことになってる。これは大丈夫か?」
「大丈夫じゃないけど大丈夫だよ」
「OK。でも、これにはルールがある。『トリックオアトリート』と言って、『お菓子を貰わなかった場合のみ』って縛りが存在するわけ」
「ということは、お菓子を持ってれば……」
「いたずらはできない。今カルデアにはこのルール……儀式と言い換えてもいい。とにかく、手順を踏まずにいたずらをしたらペナルティが入る魔術が展開されてるって話ですよ」
「よく分からないけど凄いことになってる……」
「あとは、仮装をしていない場合はステータスも下がる。ほら、マスターも龍娘から逃げ切れただろ? あれはそうゆうカラクリ」
「なるほどね」
はいこれお菓子、と渡されたものを受け取ってマスターは思案。
自分にいたずらをする為にすっ飛んできたのは現時点で清姫だけだが、溶岩水泳部の一人が動いたのなら他の二人も必ず動く確信がある。
他にも、嬉々としていたずらをしそうなサーヴァントに若干名心当たりがあった。
「ロビン、飴三つで足りると思う?」
「無理でしょうねえ……一回食堂でお菓子を補充するしかないです」
「だよね」
実際には子どもサーヴァントのためにお菓子を集めていたのでマスターの部屋に取りにいってもいいのだが、この状況だとマスターの部屋には荒ぶったサーヴァントたちが続々と集まっているだろう。
そんな中ひょいひょいと自室に向かってしまえば、まさにネギを背負った鴨。
選択肢から除外するのは当然のことだった。
「ずっとここに隠れてるのは……」
「奴さんたちが見つけられない方がおかしい」
「ですよねー」
篭城も不可。
異様に索敵能力が高いアーチャー勢に、マスターの事となると常識外れの勘の良さを見せるサーヴァントもいる。
動かなければ見つかるのは時間の問題。故に、マスターに残された選択肢はひとつだった。
「イベント終了まで逃げ続けていざとなればお菓子で対応する……!」
知らない間にイベントの主軸に組み込まれている理不尽さだったが、良くも悪くもそこに疑問を抱かないぐらいには慣れきっていた。
困難なときほど前向きに。そうやってマスターは人理の旅をしてきたのだ。
「まずはお菓子を補充する。ロビン、付いてきて欲しい」
「はいはい、了解ですよっと。もともと、俺もそのつもりで来たんだ」
決意を固め、二人で頷きあい、周囲を油断なく見渡し、飛び出す。
目指すは食堂。まずはお菓子の量を確保して安全性を高める。
そうしてマスターたちが走り始めたそのとき。
「見つけたわよ仔犬ぅ!!!」
「ぐえーっ!」
「ろ、ロビーンっ!!」
ぶち抜かれる壁!
飛び込んでくるエリザベート!
吹っ飛んだロビンフッド!
着地したエリザベートはくるくると槍を回し、床に突き刺して胸を張る。
発せられる雰囲気に怒気が混じっている気がした。
「どうゆうことよ仔犬……!!」
「え? え?」
訂正、確実に怒っている。
「かつてないほどに……! かつてないほどに私は怒っているわ……!」
「待って、身に覚えがない! けどごめんね!」
「ごめんで済むもんですかー!」
「耳がああああああああああっ!」
取り敢えず謝ったマスターを襲うのはエリザベートの美声(自称)。
怒りのあまり魔力が乗っているのもあってマスターの鼓膜にダメージ判定が入った。
「あ、頭がキーンってする……!」
「私が納得のいく説明を当然してくれるんでしょうね……!!」
「ごめん、エリちゃんがなんで怒ってるのか分からないんだけど!?」
「そんなの決まってるでしょう!? 今年のハロウィンイベントはどこに行ったのよ!? なによSW2って! ふざけないで!!」
「知るか! 運営に言え!!!」
憤りのあまり拳を握るエリザベート。米神に青筋が浮かんでいた。
「去年は護法少女とかいう鬼に乗っ取られて新規絵一枚……! それだけでもドラゴンおこなのに今年の夏はベガスで散々あの女に水着で煽られ……! それでもハロウィンになれば、今年のハロウィンはまた私のオンステージだと耐えたのにこの仕打ちはあんまりじゃないのぉ!」
「既に配布二枚に毎年新規絵が出てるのにこれ以上を望むのか……!?」
「返して! 私のハロウィンを返してよぉ!!」
「出番の少ないサーヴァントたちだっているんだから我慢してエリちゃん!!!」
実際エリザベートは圧倒的出現率である。伊達に何処にでもいるとは言われていない。
しかし、余程腹に据えかねているのかエリザベートの怒りは収まる気配がない。というか、元から我慢してと言われて我慢できる性格でもなかった。
ふ、ふふふ、と風船から空気が抜けるように笑ったエリザベートが槍を握り込む。
嫌な予感にマスターの背中を冷や汗が伝った。
「こうなったら、仔犬を拐って特異点を作ってやるわ……! そしたらカルデアは動かざるを得ない! 今年のハロウィンは私が返り咲くのよ! 配布はバーサーカーの私!」
「来年あたり実際にありそうで怖い!」
「今年にやるのよ! お誂え向きに今日はどんないたずらも許されるもの! 『トリックオアトリート』!! さあ、お菓子をよこしなさい仔犬! ないなら、拐っちゃうんだから!」
マスターがお菓子を持っているとは微塵も思ってない顔と声と態度で手を突き出すエリザベート。
その手に、マスターはポケットから取り出したロビンから貰った飴を一つ置いた。
「はい、どうぞ」
「なんで持ってるのよおおおおおおおぉ!?」
「タイミングが悪かったなエリちゃん! ロビン! 伸びてないで行くよ!!」
カルデア全体に行使されている魔術の影響か、エリザベートはマスターたちを追いたくても追おうとすれば体が動かなくなる様子。
それを尻目に、気絶していたロビンフッドを叩き起こしたマスターは再び食堂への道を走り出した。
「すまねえマスター、油断してた……!」
「気にしないで。ロビンから貰ったお菓子のおかげでなんとかなったから。……そういえば、エリちゃんは仮装してなかったのにいつもと変わらないパワフルさだったのなんで?」
「存在自体が仮装みたいなもんでしょアイツは」
血の伯爵夫人の過去の姿でアイドルで魔女で勇者でJAPANなドラゴニックガール。属性盛りすぎ案件である。
なお、さらにバーサーカー要素が加わる可能性もある模様。
「よし! 食堂は誰もいないっ!」
幸運にもエリザベート以外誰にも遭遇する事なく食堂まで辿り着くことができた。
爆発音のようなものが遠くから断続的に聞こえることを意識的に無視して、棚を開く。
ハロウィン用に集められていたお菓子が詰め込まれていた。
それを見て、ふと思う。
「ここで籠城したらお菓子配るだけで終わらないかな?」
「腹ぺこ系の連中きたら食い尽くされる未来が見える」
「あー」
アルトリア・メシドラゴンたちが襲来すれば陥落は免れない。
後ろ髪を惹かれつつ、マスターは走るのに支障のない量だけお菓子を持って移動を開始した。
お菓子を渡せる回数を残弾数とするならば、ロビンから貰った飴が残り二つ、食堂から補充したお菓子が五つで残弾七つだ。
食堂の出入り口を慎重に警戒し、安全だと判断したロビンフッドに続き飛び出す。
直後。
「探したわよマスター!」
「ぐえーっ!」
「ろ、ロビーン!」
ぶっ壊れる壁!
アマンナでロビンフッドを轢いたイシュタル!
錐揉み回転しながら吹っ飛んだロビンフッド!
二度あることは三度ある。ということは一度あったことは二度目もあるのだ。
壁を突き抜けてきたイシュタルはアマンナを急旋回させマスターの目の前で停止した。
「ようやく見つけた! あっちこっち逃げ回ってくれちゃって……! ほら、行くわよマスター!」
「轢き逃げに巻き込まれようとしている!」
「失礼ね!? ちょっとぶつかっただけじゃない!」
「ちょっとぶつかったぐらいじゃ人は吹っ飛ばないから!!」
遥か後方で伸びているロビンを指差し吠えるマスター。そこでふと気づく。
「……なんかよく見たらイシュタルの姿が違う?」
「ふふん、気づいた様ね!」
仮装というには本人の印象が強すぎる。言ってしまえば服を着替えただけ。しかし、どうやら一応仮装判定は出ているらしい。
普段がそれ水着ですか? と突っ込まれるメソポタミアファッションなら、今のイシュタルはヒロインXの戦闘服に似た服装。
鼻を鳴らしたイシュタルが誇らしげに語る。
「美しく強い私は民の心を掴んで離さない女神! 熱い要望に応えてコスモユニバース! 今の私は期間限定最高レアのスペース・イシュタルよ!」
「元から期間限定なのにさらに期間限定を重ねていくのか……!?」
「女神が通常排出される安い存在だとは思わないことね。望んでも手の届かない存在にまみえる機会が与えられた事を感謝なさい」
「横暴すぎる! そんなんだから調子に乗って失敗する両津イシュタルなんて言われてるんだ!」
「今はそれ関係ないでしょう!?」
グラガンナに始まり各イベントや幕間etc……。
調子に乗ったイシュタルは必ず最後に失敗して爆発オチの様式美。ついたあだ名が両津イシュタル。
遠坂の血の系譜は女神と混じっても打ち消せなかったらしい。
どうせ今回も失敗するんでしょう? (千里眼C -)
「ああ、もうっ! 今はそんな事いいのよ! とにかく宇宙に行くわよマスター!」
「何故っ!?」
「そこに宇宙があるからよ! マスターが私につけば失敗はしないわ! 今、かつてないほどに私に風が吹いている! 『トリックオアトリート』!!」
「そうは行くか! お菓子を持って行け──!」
「させるか! アマンナっ!!」
「ああっ!? お菓子がワープホールに飲み込まれた!?」
宣言された『トリックオアトリート』にすかさずお菓子を差し出したが、一瞬でワープホールの中へと消える。
今頃遠い金星付近で宇宙遊泳でもしているだろう。
食堂で補給したお菓子は一瞬で無くなってしまった。
勝利を確信したイシュタルが余裕たっぷりに話し始める。
「ふふっ、これでもう抵抗もできないわね。大人しく着いてきなさいな。悪いようにはしないわ」
「……いや、イシュタルの自爆に付き合うのはちょっと」
「だからしないわよ! っとに、まあいいわ、どうせマスターの返事なんてどっちでもいいもの──!」
だって無理やり連れて行くから。
言外にそう言ったイシュタルがマスターの手を掴んだ──と、思った瞬間。
一瞬触れた手と手。離れる頃には、全てが終わっていた。
「──な、これは飴玉!?」
イシュタルの手に握られていたのはマスターの手ではなく一つの飴。
イシュタルが手を取ろうとした瞬間、雀士が杯と杯を高速で入れ替えるイカサマをするように、その手に飴を握らせていたのだ。
「まだお菓子を持っていたなんて──くぅ!?」
「俺はイシュタルにお菓子を渡した。これでイシュタルはもう追って来られないっ!」
「やるわねマスター……! でも、女神舐めんじないわよ!!!」
「うっそだろ!?」
止まったのは一瞬。魔術の影響で動けないはずのイシュタルは、その身に備えた対魔力でもってそれを突破してきた。
マスターの喉から悲鳴と驚愕が入り混じった声が絞り出される。
始まるのは女神と人間の鬼ごっこ。
礼装服で強化した脚力、イシュタルに降りかかるペナルティと有利な条件はあれど、女神の地力はそれを補って余りある。
追いつかれるのは時間の問題だった。
さらにまずいことに。
(やばい! 食堂から離されてる! それにこっちは騒ぎの音が大きいっ!!)
鳴り止まない爆発音の音がどんどん鮮明に聞こえて来る。
エリザベード然りイシュタル然り、平然と壁をぶっ壊してきたのだから、カルデア中でその規模の破壊が起こっている事をマスターは確信した。大正解です。
逃げ切れば死。ライオンの群れの中に飛び込むようなものだ。
逃げきれなければ死。イシュタルの盛大な自爆に巻き込まれる。
まさしくデッドオアデッド。どうやってこの状況を切り抜けるか高速で頭を回すマスターだが、打開策が出るまで待ってくれるほどイシュタルは優しくない。
「追いかけっこもおしまいよ! 他の連中が追いついてきたら面倒くさいからっ!」
振り絞るように加速したイシュタルが距離を喰い殺しマスターへ迫る。
サーヴァントと人間の力の差は埋めがたい。再び肉薄するイシュタルの手に捕まれ、哀れマスターはふわっふわしたコスモユニバース時空に拉致られることになる──前に。
「させませんっ!」
飛び込んでくる白い影。
それはマスターとイシュタルの間に立ち塞がった。
「なぁっ!?」
「じゃ、ジャンヌっ!?」
「マスター! 助太刀に参りました!」
鍔迫り合いをするイシュタルのアマンナとジャンヌの聖旗。
しかし、ペナルティを受けているとはいえ女神であるイシュタルのスペックは伊達ではない。数秒と持たず弾かれたジャンヌは床を滑るように後退。マスターの隣に並ぶ。
「くっ、やはり仮装をしないとステータス低下が著しいですね……!」
「ありがとうジャンヌ、助かった!」
「礼には及びません。しかし、私ではかの女神の足止めも難しいようです」
歯噛みするジャンヌ。その姿を見てイシュタルは眉間にシワを寄せた。
「……んん? あんたフランスの聖女?」
「神代の女神にまで覚えて頂いているのは光栄ですね」
「……まあ、いっか。邪魔するなら蹴散らすわよ」
臨戦態勢に入るイシュタルからマスターを庇うようにジャンヌは旗を構える。
信頼を宿した瞳で己を見つめるマスターに、ジャンヌは小声で。
(マスター、私が合図をしたら彼女に飴を投げてください)
(ジャンヌ、もうイシュタルにはお菓子を渡した後なんだ)
(大丈夫です。お菓子は渡したら渡しただけ強制力が強くなります。二つ分のペナルティともなれば逃げ切れるでしょう。──行きますっ!)
強烈な踏み込みに床が爆ぜる。その力を推進力に変換したジャンヌが猛然と突っ込んだ。
ぶつかり合う聖旗とアマンナ。ぶつかり合う獲物が火花を散らし、交差する視線に敵意が爆ぜる。
拮抗はしない。いかにジャンヌが強力な英霊の一騎といえど、神霊であるイシュタルは並大抵ではない。
加速度的にジャンヌは追い詰められて行く。
「ジャンヌ!」
「心配には及びません! それよりタイミングをっ!」
「何を企んでるのか知らないけど、その企み事粉砕してあげるわ!」
何かを狙っている。直感的にそれに気がついたイシュタルは一粒の宝石を取り出し──それが、ジャンヌの狙いだった。
「灰塵と化せっ!」
高速戦闘の最中、右手を拳銃に見立て指先から撃ち込まれる炎の弾丸。
正確無比な一発がイシュタルの指の間の宝石を打ち抜く。
イシュタルの目が見開かれた。
「私の宝石がぁ!? アンタ、やっぱり──!」
「マスター! 今ですっ!!」
「唸れ闘魂! 燃えろ魔球! 俺の全力は130キロだっ!!」
勿論質量の軽い飴玉ではそんなスピードは出ない。
が、投げ込まれた飴玉は無事アマンナに引っかかり。
瞬間、イシュタルが膝をついた。
「ぐ、ぐぅ!? こまっしゃくれた真似を……!」
「今のうちに逃げますよマスター!」
「なんのおおお! 逃すかあっ!」
二倍ペナルティなんのその。
そんな事では止まらない。止まらないからイシュタルなのだ。
イシュタルは背を向けて走り出した二人を追う。
が、ここでまた新たな乱入者が一人。
「通常ガチャから出る女神の方が愛されるネー!」
「普段から回さない層にとってはどっちも変わんないわよ勘違いクリスマス仮面女神!!」
女神と女神。通常排出と期間限定。冬の配布と夏の配布。
相容れないものがそこにあった。
南米の女神ケツァル・コアトル。
彼女のムーチョ(物理)によりイシュタルが筋肉バスターされるまであと五分──。
✳︎
「はぁ、はぁ、なんとか逃げきった……! 改めてありがとう、ジャンヌ」
無事イシュタルから逃げ切ったマスターとジャンヌはある部屋に避難していた。
全体的に黒が目につく部屋だ。
ベッドシーツやインテリアに至るまで、殆ど黒色で統一されている。
ベッドの横にある大きな机の周りには、漫画のラフが書かれた紙が何十枚も散らばっていた。
ジャンヌ・ダルク・オルタにあてがわれた私室である。
「避難したはいいけど……ここ、オルタの部屋か。勝手に入って悪いことしちゃったな……」
何せ完全なプライベート空間だ。真っ当な感性があれば当人の了承なしに踏み込む場所ではない。
そう、真っ当な感性があれば。
(……あれ)
何かがおかしい。
予感に突き動かされて振り返ったマスターは、未だ部屋の入り口から一歩たりとも動かないジャンヌの背中を見た。
真っ当な感性を持っているはずのジャンヌの背中を。
「──ふ、ふふっ」
それは愉しげな笑みだった。
並々ならぬ執着を感じさせるような喜悦だった。
その顔は見えない。
「ジャンヌ……?」
「まだ、気付かないのですか? マスター」
振り返ったジャンヌ。その相貌には──普段の彼女には似つかわしくない嗜虐的な笑みが刻まれていた。
一歩、また一歩と。まるでマスターの反応を確かめるようにゆっくりと近づくジャンヌに、何故かマスターは獲物を狙い定めた獣の姿を幻視した。
ジャンヌが自分の頭を掴む。金髪のウィッグが外れて銀の髪が溢れた。
ジャンヌが目の辺りを摘む。空色のカラコンが外れて金色の瞳がマスターを見つめた。
ジャンヌが羽織っていたマントを脱ぎ捨てる。黒い女性用の騎士服の布地が現れた。
その全てが、マスターに真実を告げている。
つまり。
マスターを助けたのはジャンヌ・ダルクではなく。
「オル、タ……」
「ええ、そうよ。マスターを助けたのは私。……もう二度とあの女の真似なんてしたくないけど」
ジャンヌ・ダルク・オルタ。
堕ちた聖女が目の前にいた。
「鈍い男ね。それとも、よっぽどあの女を信頼してたってことかしら。気分が悪いわね」
「──っ!?」
とん、と軽く胸を押される。それだけでマスターの体は呆気なく倒れてしまう。
ぽすん、とベッドが間抜けな音を立て、追従するようにスプリングが軋んだ。
思い返せば、おかしい事はあった。
例えば、ロビンとマスターしか知らないはずの飴玉のお菓子のことを知っていたり。
例えば、ジャンヌには使えないはずの黒い炎の弾丸を撃っていたり。
例えば、マスターと清姫で逃走が成立するほどのスペックの低下があるはずなのにイシュタルと戦えていたり。
「どうして……」
だから、これは何故知っていたのかではなく。
何故これらの一連の行動をしたのかという問い。
その問いに対して、ジャンヌ・ダルク・オルタは一言を持ってして答えとした。
「『トリックオアトリート』」
それは儀式の言葉。
お菓子を持っていないにマスターに対いし、『今からお前にいたずらをするぞ』という宣言。
マスターに覆い被さり、間近に迫った金色の瞳がマスターの碧眼を離さない。
「マスター、貴方は言ったわ。共に炎で焼かれても構わないと。私は言ったわ。一緒に地獄に来てもらうと」
それは過去に交わした言葉。
彼女と絆を深めたマスターが確かに言った誓いの言葉。
「貴方の中の一番が私じゃないのが許せない。私と地獄に堕ちてくれる貴方が他の女と一緒にいるのが許せない。私だけのマスターにならないのが許せない」
だから。
自分の望む貴方でいて欲しい。
その願いが、この馬鹿げたハロウィンイベントを作り上げた。
「邪魔者は来ないわよ。今頃潰しあっているころかしら。この部屋は、あの女も、鬱陶しい過去の私も、盾女も入れない」
「オルタ……!」
「さあ、甘く溶け合いましょう。ルルハワの時も言ったけど……私は我儘ですから。自分のものにならないものは自分の色に染め上げて手に入れる」
マスターが暴れても、サーヴァントには敵わない。
令呪の回復にはまだ数十時間かかる。
歪んだ、歪んだ、想いの形。
地獄に堕ちた聖女が、唯一地獄に連れて行くと執着した一人の男。
自分のものにならないなら染め上げろ。
その醜い独占欲は──恋と、言うこともできるだろう。
その日、その部屋の扉が開かれる事はなかった。