「架空の財閥を歴史に落とし込んでみる」外伝:大東京鉄道   作:あさかぜ

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2話 戦時の大東京鉄道

 国による指導の強化、各私鉄の協力により輸送力強化と定時性の向上に成功した。また、内紛状態だった社内も安定し、漸く健全な経営が行える状況になった。

 しかし、時代が安定を許してはくれなかった。何故なら、戦乱が近づいており、沿線にはそれに対応する為の軍需工場が多数存在する為である。

 

 日中の衝突は小競り合いの域こそ出なかったものの、解決の糸口は見えず長期戦の様相を見せていた。また、この頃にはワシントン・ロンドンの両海軍軍縮条約の期限が切れる頃であり、日本も海軍を中心に軍備拡張を行っていた。これは日本に限った事では無く、地球の反対側のイギリスや太平洋の向こう側のアメリカも同じ事を行っていた。

 1939年9月1日、ドイツのポーランド侵攻を切欠に二回目の世界大戦が始まった。日本はまだ参戦していなかったものの、アメリカが英仏に燃料や軍艦など各種物資を供与していた事から、近い内にアメリカが参戦すると見られた。そして、その後は史実と同じ様な歴史を歩み、日米の対立は解消不能になり、1941年12月8日に開戦する事となった。

 

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 開業後の時期が軍拡の時期と重なった為、沿線には多くの工場が建設された。浅野財閥や大室財閥、日鉄財閥との繋がりがある為、浅野財閥系の企業(浅野カーリット、沖電気など)や大室財閥系の企業(大室電機産業、大室化成産業など)の工場が複数誘致された。それ以外でも、東芝や日本無線系列の部品工場が誘致されるなどして、電機関係や金属加工の工場が多数設立された。

 一方で、宅地の開発は低調だった。物資不足が最大の原因である。一応、住宅営団による工場近辺の住宅開発の計画は立てられたが、物資不足から殆どが未完成に終わった。

 

 工場が多数誘致された事により、多くの専用線が建設された。また、大東京鉄道と国鉄各線や私鉄各線を結ぶ連絡線も建設された。その中で最重要なのが、下末吉から品鶴線の新鶴見操車場へ至る路線、荻窪で中央本線に繋がる線路、川口で東北本線に繋がる線路の3つである。

 これにより、国鉄の東京における重要幹線同士を結んだ事となり、国鉄の貨物も多数運行された。だが、国にとって貨物の運行や産業面における重要路線であったが、何故か戦時買収される事は無かった。一説には、鉄道省が内紛解決に介入した際に私鉄各社や財閥との間に「如何なる事があろうとも独立を維持する」という密約が結ばれたからと言われている。

 兎に角、大東京鉄道は他社に合併される事や国に買収される事は無く、独立して戦後を迎える事となる。

 

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 1941年12月8日の開戦以降、沿線の工場はフル稼働状態となった。それによって、原料の輸送や製品の輸送で多数の貨物列車が運行された。資金不足から自前の電機機関車の導入が少ない為、国鉄から電気機関車を借りるなどしたが、国鉄自身も輸送力強化の為に古い機関車を総動員していた為、借りる事そのものが難しく、借りれたとしても短期間だった。

 その為、国鉄の工場に放置されている機関車を改造して導入できないかと相談した。その結果、大宮工場のEC40形電気機関車6両(アプト式)とED54形電気機関車2両、DD10形ディーゼル機関車1両、鷹取工場のDC10形ディーゼル機関車1両が余剰という事が判明した。アプト式を除くこれらは全て、少数生産だったり特殊な機材を搭載している事から、信頼性の面から運用を外された。

 早速、それらの機関車を一般型の電気機関車と同等に改造して導入したいと交渉した。国鉄側としては旨味は薄かったが、現状の大型電気機関車を貸し出す事が減ると考え、1943年までに全車両の改造を完了して順次路線に投入させた。それ以外にも、各電機メーカーが保有している試作電気機関車を購入するなどして輸送力の強化に努めた(沿線に軍需工場が多かった為、蒸気機関車の導入は難しかった)。

 これらの大量導入で、貨物の輸送力強化は実現した。車輛が一定数揃うのも、戦況が日本有利で多少余裕のある1942年中頃というのも幸いだった。これ以降となると戦況が五分五分から日本不利になり、車輛の増備の余裕が完全に無くなる為である。

 

 工員の輸送で連日満員となり、工員専用列車や電車1両又は機関車に客車数両を繋げて輸送力を増やした編成で運行するなどしていたが、それでも不足していた。一時は貨車を連結して運行していたが、流石に安全性の問題や客からの批判(いかに戦時下であっても、客を貨物扱いされるのは勘弁だったらしい)から数ヵ月で運行を取りやめた。

 最終的に、運輸通信省(1943年11月1日に鉄道省と逓信省が合併)が63系の導入計画を早め(史実より1年早く導入)、それによって生じた17m級電車を一部譲渡する事で対応した。それだけでも不足の為、老朽化した木造客車を入れる、貨車を客車化する(前回と異なり、客車風に改造してある)などして対応した。

 

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 戦時中だが、大きな被害を受ける事は無かった。最大の理由は、マリアナ諸島が奪われなかった事である。詳しい事は本編の『番外編:この世界の太平洋戦争⑧』を見てほしいが、これによって空襲の規模が史実よりも遥かに小さいものとなった。一度だけ大規模な空襲を受けたが、場所が浅草区(現・台東区東部)や本所区(現・墨田区南部)、深川区(現・江東区西部)といった下町だった為、沿線の被害は小さいものだった。

 寧ろ、日本の太平洋沿岸に大量の機雷をばら撒かれた方が痛かった。これによって海上交通路が大打撃を受け、そのしわ寄せが鉄道に回ってきた。実際、今まで船舶で運んでいた食糧や燃料を搭載した貨物列車がこの頃に何本か通過している。

 空襲による沿線の被害は小さかったが、被害を受けなかった訳では無く、武蔵野に置かれていた大和航空工業(日本最大の航空機用エンジンメーカー。詳しくは本編の『32話 昭和戦前⑩ :大室財閥(20)』参照)に対する空襲の際に風で流されたり、目標を誤ったり、帰還時に残った爆弾を処理する際などして何発か落ちてきた事があった。偶然から、荻窪の車輛基地に落ちて電車4両、機関車1両、客車8両、貨車11両が被災した。他にも、線路上の1編成が全焼、一部区間の架線が焼失などの被害があった。幸いだったのは、変電所が焼失しなかった事である。

 

 多少の被害を受けたものの、重要路線であった事から復旧は早かった。架線が復旧するまでの間は蒸気機関車で急場をしのいだ。その後、残った車輛で何とか遣り繰りをしていたが、ただでさえギリギリだった車輛の運用が被災によって狂った為、再び輸送力不足となった。今回は他社も国鉄も余裕が無い為、貨車を増備してそれで急場をしのぐしか無かった。

 しかし、この状況も終わろうとしていた。1945年4月の第二次マリアナ沖海戦以降、日米共に戦争を続ける余裕が無くなり、同年6月5日に日米は停戦協定を結んだ。これにより戦争は終了となり、7月2日に正式に日本は全ての連合国との戦争状態が終了した。


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