「架空の財閥を歴史に落とし込んでみる」外伝:大東京鉄道   作:あさかぜ

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3話 戦後復興期の大東京鉄道

 太平洋戦争が終わった事で、軍需最優先の輸送体系は終わる事となった。何故なら、講和条約で日本軍の大幅な軍縮が決まった為である。その為、沿線にある多くの軍需工場の閉鎖又は大幅に生産力を下げた。後に、これらの工場は宅地に転換されるか、別産業への転換が決まった。

 

 軍需優先から解放された事で工員輸送は無くなったが、混雑は戦時中と変わらなかった。寧ろ、戦後の方が混雑が酷かった。車輛不足と食糧不足、電力不足、都市部の人口の急増が主な理由だった。

 空襲による車輛損失もあるが、戦時中からの酷使によって、戦後に利用可能な車輛が大幅に減少していた。実際、電車の7割、客車の8割が修理をしなければ利用出来ない程に損耗していたものの、車輛に余裕が無かった事から修理も応急的なものしか行えず、慢性的な故障が相次いだ。そして、資材不足からその修理すらままならなかった。

 

 一方で、国内の天候不良、外地(朝鮮と台湾)や満州、東南アジアからの食糧の輸入が減少した事で(※1)、食糧不足が深刻化すると見られていた。アメリカが食糧危機が統治に悪影響を与える事を懸念して、本国から緊急輸入で対応しているがそれでも不足は避けられないと見られ、東京や横浜などの大都市部から郊外や甲信越へ食糧を買い出しに出かける人が鉄道を利用した。

 大東京鉄道沿線もまだ農村地帯が残っており、東京や横浜から近い事もあり、多くの買い出し客が来た。また、東京の中心部を通らない抜け道として活用された事も利用者を多くした要因となった。

 尚、食糧不足については、前述の緊急輸入やガリオア資金(※2)やララ物資(※3)によって1947年頃に緩和された。

 

 また、送電線の損耗や一部の寸断で電気が送られなくなったり、発電用の石炭の不足で発電量の減少などもあり、電力が不足していた。その為、停電が何度も発生し、その度に電車が止まったり、送電されても電圧が下がっている事から速度が出ないなどに見舞われた。

 

 更に、終戦によって戦地からの復員だけでなく、講和会議によって外地を手放す事となった。これによって、外地だけでなく租界や各地の日本人街の在留邦人の本国への引き揚げ命令が出された。約350万人の復員者と約300万人と見積もられた在留邦人の帰還が行われ、国内人口が急増した(同時に、朝鮮人、台湾人、中国人の帰還も実施)。復員者は故郷に戻ったが、引揚者は国内開拓地に移住するか都市部に移り住む事となった。

 戦時中に空襲による被害拡大を防ぐ為に、疎開が行われた。史実よりも数は少ないが、それでも約20万人の学童疎開(史実では約40万人)が行われた。それ以外にも、工場疎開や縁故疎開が行われ、一時的に都市部の減少が減少したが、それが戦後になって大多数が戻ってきた。

 

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 これらの要因から、大東京鉄道が保有する車輛の多くが「緊急に全面修理を行わなければ大事故は避けられない」という評価を下される事となった。車輛だけでなく、線路や架線、橋梁などの老朽化も著しく、早急に抜本的な改修をするべきという事になった。

 改修計画そのものは戦後直ぐに建てられたが、戦後の混乱や資材不足、殺人的な混雑に対処する必要があった事から、行動に移せなかった。漸く計画を実行する事が出来たのは、多少情勢が落ち着いた翌年の6月頃からであった。

 

 車輛については、被災車輛を修理したり運輸省規格の車輛を導入するなどして対応した(終戦直後に運輸通信省は運輸省と逓信省に分離)。それ以外にも、東急や東武、西武、京成が保有する小型電車を譲り受けたり、車輛メーカーにある注文流れを導入するなどした。その後、情勢の安定や配給量の増加で買い出し客が減少した事で、漸く輸送力不足は解消された。

 設備の方については、自前で全国から使えそうな廃材を掻き集めるか、資材の割り当てを優先してもらえる様に運輸省に願い出る他無かった。尤も、運輸省にしても余裕がある状況ではなく、国鉄も同様に状況が悪かった為、大手私鉄並みに割り当ててくれるぐらいが限界だった。結局、設備更新が本格化するのは資材不足がある程度緩和してきた1948年以降の事となった。

 

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 終戦から数年が経過し、漸く社会に安定が戻ってきた。物資の不足はまだ見られたが、戦時下の緊張感から解放された事で、人々の顔に笑顔が戻ってきた。また、戦地からの復員も進み、元職員の職場復帰も進みつつあった。

 その一方で、職場における人員過剰の問題も発生した。戦時中、徴兵によって男子が出征したが、その穴埋めは学生や女性によって行われた。それが戦後の復員で職場復帰した事で、大量の余剰人員が発生した。

 尤も、この問題は早期に解決した。学生や女性職員はあくまで一時雇用の様なもので、本来の職員が戻ってくれば元の状態に戻すだけだからである。

 寧ろ、余剰人員の問題は国鉄の方が酷かった。軍や外地・占領地の鉄道職員の受け皿として国鉄が利用され、大量の人員を抱え込んでいた。その後、再軍備や警察の重武装化(※4)によって軍に在籍していた者の多くがそちらに流れた事で概ね解消されたが、それでも約3万人という大規模な人員整理を行う事となった。

 

 国内の人口が増加すると、宅地不足が深刻化した。戦前から宅地不足は慢性化していたが、人口急増によって深刻化した。その為、宅地整備が急務となったが、当時は資材不足で簡単に整備出来る状況では無かった。この状況が解消されるのは1960年代になってからであった。

 それでも、廃材でバラックが建設されたり、アメリカから供与されたクォンセット・ハット(※5)を仮設住宅にするなどして一時的な対処が行われた。兎に角、雨風を凌げる建物が何とか整備された。

 

 国内の状況は落ち着いていたが、経済は混乱が続いていた。終戦によって今までの軍需主導から民需に転換する必要があったが、機材の戦時中の酷使や各種原料の不足、経済政策の混乱が原因で上手く行っていなかった。一時は傾斜生産方式(※6)によって高成長を見せていたが、直ぐに経済政策の変更で下火となった。それ処か、経済政策の変更で中小企業を中心に倒産が相次ぎ、大企業でも競争力が低い所はたちまち苦境に陥った。その為、一時は復興による成長が軌道に乗りかけていたが、一転して不況になった。

 一方で、復興によって戦時中から進んでいたインフレが悪化しており、傾斜生産方式によって加速していた事から、インフレを抑制する必要があった。不況にはなったが物価は安定した。また、不況によって企業の合理化が進められ、輸出産業を中心に競争力を付ける事に繋がった。

 この不況が終わるのは、1950年6月25日に朝鮮戦争が始まるまで待たなければならなかった。




※1:朝鮮と満州はソ連の侵攻、東南アジアは現地独立勢力による武力蜂起が原因で1945年8月頃には輸入が途絶えた。台湾からは何とか残っていたが、アメリカと中華民国が占領統治に入った事で一時的に止まった。
※2:ガリオアは「占領地域救済政府資金」の略。陸軍予算から出されている。これを占領地の政府に供与して、アメリカから食糧や燃料、医薬品などを購入させた。この資金はあくまで貸与の為、復興した暁には返済する事となる
※3:ララは「アジア救済公認団体」の略。民間から寄付を集め、それで物資を購入して日本に送った。主な物資は食糧で、それ以外には衣類や医薬品が含まれていた。学校給食が本格的に始まったのもこれに由来する。
※4:終戦直後の混乱期に共産党関係の事件が多発し、中には軍から横流しされた武器を使用した事件もあった。それに対処する為、警察内に銃器対策部隊(後に機動隊及び特殊部隊に改編)が設立された。軍を使用しなかった理由は、終戦直後で軍に対するアレルギーが強かった為。
※5:カマボコ型の建物。トタン製で軽量な事から製造が容易。日本に供与されたのは、駐留部隊が当初予定より減少した事から余剰分の処理をしたいアメリカ側と、住宅不足が深刻な日本側の思惑が一致した為。実用性が高い事、日本でも生産出来る技術や材料で出来ている事もあり、後に日本でも生産される事となり、住宅不足の一時的解消や災害時の仮設住宅として使用される。
※6:重要産業に資金・物資を集中的に投入して、産業全体の復興を目的とした。この場合の「重要産業」は石炭とそれを活用する鉄鋼、電力、化学(化学肥料)を指していた。

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