「架空の財閥を歴史に落とし込んでみる」外伝:大東京鉄道   作:あさかぜ

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6話 戦後の大東京鉄道③

 1960年代以降、沿線の開発は進んだ。それに伴い、輸送力の強化は急務となった。1960年に鶴見駅の拡張工事が行われる前から各駅の拡張工事は行われており、車輛の増備も1950年代から行われていた。

 しかし、沿線人口の増大は車輛増備のペース以上であり、1957年には混雑率が200%を超えていた。今後も沿線人口は増加し続けると見られている為、更なる増備が急務となった。

 

 車輛増備だが、今までの様に電動車と付随車を別々にする方式から、最初から編成を組む方式に変更となった。これは、もう1両や2両を増結して対処する方法では追い付かないと判断された事、MT比の違いから来る速度の違いによるダイヤの乱れが深刻化した事を解消する目的があった。現在使用している約80両も車体更新と合わせて編成化する予定だが、それは新編成を一定数導入してから行う事となった。

 編成案だが、6両案と8両案に分かれた。6両案側は、「初期導入費用が安い事」、「駅や車輛基地の拡張工事も6両分でいい事」と言った費用面での利点を挙げた。一方の8両案側は、「現状の輸送量と将来の人口増加から6両でも直ぐに輸送力不足と見込まれる事」、「そうなった場合、結局駅や車輛基地を拡張する必要があるが、沿線の開発が進むと拡張が難しくなる事」、「それならば、まだ拡張が比較的容易で拡張費用も抑えられる今に行うべき事」と言った中長期的な視点から主張した。

 現状の費用と中長期的な費用のどちらかを取るかで分かれたが、最終的に折衷案となった。つまり、将来の輸送量増大を見越して駅などの設備の8両化をする一方で、新車導入は取り敢えず6両で行うというものだった。

 この時の選択は慧眼だった。もし設備拡張も前者の案を採用していたら、1970年代にもう一度拡張工事を行う必要があったが、その後のインフレの進行や沿線の宅地化によって、当初予定の倍近くの出費になると見られた。また、当時の輸送量だと8両だと過剰であり6両で充分だった。6両で限界に達するのは1970年代後半になってからの為、維持費用などの面からもこれが最良だった。

 

 編成は決まったが、車輛のデザインを決める余裕が無かった。その為、既存車輛のデザインを基に新車輛の発注を行う事となったが、この時に日本車輛製造(日車)からアプローチがあった。曰く、「日車標準車体を用いればコストを抑えられるから、うちの車輛を使ってくれ」と(※1)。

 だが、日車標準車体は2ドア車の為、3ドアに設計を変更する必要があったが時間が無かった為、東急の3800形を基にする事となった。また、導入予定数が大量(6両編成を70編成以上導入予定)の為、日車1社では供給に追い付かない為、東急系の東急車輛製造と西武系の西武建設(※2)でも製造が行われる事となった。その為、各社でデザインが異なっており、東急車輛製は3800形を、西武建設製は351系をモデルにしたデザインとなった。性能こそ同じだが前面のデザインがそれぞれ異なる為、日車製を100系、東急車輛製を200系、西武建設製を300系と別形式にした。

 兎に角、車輛のデザインが決まった事で、1962年から先ず10編成導入し(内訳は日車4編成、東急車輛3編成、西武建設3編成)、最終的に1974年までに計72編成が導入された(内訳は日車28編成、東急車輛24編成、西武建設20編成)。

 

 1966年頃には一定数揃った事で、既存車輛の編成化も行われた。82両在籍していたが、新編成導入と老朽化が進んだ車輛の淘汰もあった為、72両が編成化に活用され、残り10両は部品取りとして廃車が決定した。1968年から日本鉄道興業(日鉄)による車体更新と編成化が行われ、1972年までに12編成が作成された。車体のイメージは小田急の2220形だが、前面は営団の2000形電車風になっている。

 先述の増備と合わせて、計84編成が入る事となった。これだけ多数の編成を入れるのは既存の車輛基地では不足の為、1966年から末吉基地と舎人基地の拡張工事が行われた。共に沿線の宅地化が進んでいなかった地域の為、拡張は比較的容易だった。1970年までに40編成分を留置出来る設備が整えられ、合わせて整備能力の強化も行われた。

 今までの車輛基地の整備能力だと、重要部検査や全般検査などの大掛かりな検査を行えず、東急の元住吉検車区と東武の西新井電車区(現・東京メトロ千住検車区竹ノ塚分室)に委託していた。それがこの強化工事によって自前で行える様になり、以降他社への依存は減少していく事となる。

 

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 1960年代には新線計画も浮上した。前々から保有していた田端~越谷の免許線の建設計画が浮上したのである。以前からこの区間の鉄道は沿線住民から要望があったが、1962年6月の都市交通審議会答申(※3)第6号で「田端~舎人~越谷」が組み込まれた事(※4)で、建設が行い易い環境となった。

 しかし、沿線の開発が進んだ事とインフレが進んだ事によって建設費が高騰し、単独での建設は非常に難しくなった。また、並行線となる東武は計画に猛反発し、これを機に元の計画にあった野田市まで延伸される可能性を考えた京成もいい顔をしなかった。

 それ処か東武は、この計画を潰す為に1965年に鳩ケ谷~越谷~野田市の計画を打ち立てた。東武側の意見では「混雑が激しい越谷付近のバイパス」、「東西の交通が乏しい鳩ケ谷市・川口市・越谷市の改善」を挙げていたが、大東京鉄道の計画潰しである事は明らかだった。

 

 しかし、沿線や運輸省は東武案の方に関心があった。越谷の混雑が酷いのは事実であり、それが原因で伊勢崎線の輸送量は限界に近付きつつあった。日比谷線との直通で東京都心部へのアクセスが出来た事が理由だった。この為、比較的余裕のある赤羽線へ逃がす鳩越線(仮称)案は悪い意見では無かった。

 一方で、このルートは計画中の東京8号線(※5)が開業する事が前提だった。計画当時、8号線は用地買収に取り掛かったばかりであり、開業は暫く先だった(※6)。その為、鳩越線が開業しても8号線が開業しなければバイパスとはなり得ないのである。また、鳩ケ谷~越谷はいいとして、既に京成によって東京都心部と野田市を結ぶルートを形成しており、越谷~野田市は必要なのかという疑問もあった。

 東武としてはこれらの疑問に対して、答えを濁すしか無かった。8号線の建設は営団の管轄であり、東武に出来る事は「建設を優先してくれ」と願う事だけであった。京成との並行線問題も、東武が後発なのでどうする事も出来なかった。

 

 結局、当初の大東京鉄道の新線である田端~舎人~越谷の建設が決定された。しかし、現状では地価や建設費の高騰、増備や基地拡張などで資金面に余裕が無い為、大東京鉄道が中心となって別会社の設立などが検討される事となった。その為、建設は暫く先の事となったが、免許は引き続き保有する事となり、延長も認められた。




※1:史実では新潟交通や岳南鉄道、松本電気鉄道で使用されたが、この世界の岳南鉄道は小田急や西武から中古車を多数譲り受けた為導入していない。詳しくは本編の『番外編:戦後の日本の鉄道(東海②)』を参照。
※2:「復興社所沢車輛工場」が源流。元は戦時中に酷使した車輛の補修を目的として1946年11月に設立されたが、後に戦災車輛の復旧や新車製造も行われる様になった。
※3:大都市における陸上交通事業(この場合の「陸上交通」は鉄道を指す)の促進を目的に、1955年7月に運輸省内に設置された。1956年8月の答申第1号を皮切りに、1972年3月の第15号まで提出された。同年4月に運輸政策審議会に改編され、現在は交通政策審議会となっている。
※4:史実では、ほぼ同じ区間の日暮里~舎人が1985年の運輸政策審議会答申第7号で盛り込まれている。
※5:南北線の事。史実では東京7号線だが、この世界では答申第6号で7号線が白金線(品川~広尾~千駄ヶ谷~新宿~中井~池袋)になった事でそれ以降の番号が1つずれる事となった。白金線については本編の『番外編:戦後の日本の鉄道(関東)』を参照。
※6:この世界の南北線は1978年に赤羽岩淵~駒込が開業、1985年までに溜池山王まで開業する。全線開業は1992年だが、東急側の工事が進んでいなかった為、直通開始は1998年になってからとなった。

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