「架空の財閥を歴史に落とし込んでみる」外伝:大東京鉄道   作:あさかぜ

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7話 ここまでの大東京鉄道①

 ここで時間を開業前まで巻き戻す。

 

 大東京鉄道の免許が認可されたのは1928年だが、法人としての大東京鉄道が設立されたのは1929年だった。昭和恐慌の真っ只中だったが、どういう訳か資本金予定額の3600万円・120万株が集まってしまった。これについては社史でも『昭和恐慌の中ではあったが、我が社は幸運に恵まれていた。市井の資本家からの出資によって資本金が集まったのである』と書かれた程であり、偶然と幸運が幾重にも重なった結果だった。

 この資本金3600万円というのは、同時期に計画していた東京山手急行電鉄(※1)が3400万円、小田原急行鉄道(後の小田急電鉄)が開業する前で3000万円だった事から、筆者が勝手に考えた数字である。約60㎞の全線複線電化の環状線だが、東京山手よりは規格が低いのであれば、多少上回る程度ではと考えた。また、120万株も同様で、東京山手が80万株発行した事、細かくする事で少しでも購入し易くする事(1株当たり、東京山手は42.5円、大東京は30円)からこの数字とした。

 

 資本金が集まった事で1930年から建設が始まったが、昭和恐慌の影響は大きく、直ぐに株を手放す資本家が多かった。その株式だが、この時は金融機関に売却した。私鉄に売却すると建設が覚束無くなると見られた為であった。主な売却先として、生命保険会社だと第一生命、明治生命(三菱財閥)、安田生命、東亜生命(大室財閥)、三井生命、帝国生命(現・朝日生命、古河財閥)、損害保険会社だと東京海上火災(三菱財閥)、大正火災海上(三井財閥)、日本動産火災(安田財閥)、大室火災海上、証券会社は野村證券、山一證券、日鉄證券、銀行だと日本勧業銀行、第百銀行(東京川崎財閥)などそうそうたる顔ぶれであった。金融会社以外にも、東京川崎財閥や浅野財閥など財閥自体が保有する事もあった。これらだけで過半数である8割を保有していた。

 金融会社としては利益が出るか不透明な鉄道への投資は控えたかったが、他に有望な投資先が無い事から(当時はまだ満州事変前)、止むを得ず引き受けた感じだった。実際、満州国建国後は資本がそちらに移り、金融各社が保有する株式も多くが売却された。だが、この時は金融各社が株式を引き受けてくれた御陰で建設が進んだ。

 

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 開業は1936年だが、この頃になると満州で大規模な開発が行われる様になり、資本もそちらに移っていった。また、軍拡も進みつつあり、軍需産業を中心に資本や資源が投下された。

 大東京鉄道の株主である各種金融会社もそちらへの投資に注力する様になり、その資金を捻出する為に保有する株式を売却した。大東京鉄道もその中に含まれており、各社が保有する株式の殆どが市場に放出された。その株式を手に入れたのが、沿線の私鉄各社だった。各社は大東京鉄道を自社の影響下に置こうと株を買い占めた。

 その結果、開業直後で京浜電気鉄道(京浜)、東京横浜電鉄(東横)、目黒蒲田電鉄(目蒲)、小田原急行鉄道(小田急)、京王電気軌道(京王)、帝都電鉄(帝都)、西武鉄道(西武)、武蔵野鉄道(武蔵野)、東武鉄道(東武)、筑波高速度電気鉄道(筑波)、京成電気軌道(京成)の各社(※2)に株を握られる事となったが、保有状況は各社で異なっていた。

 

 京浜と京成は、沿線から僅かに離れており影響も少ないと判断された事から、それぞれ1.8万株(全体の1.5%)を保有したのみだった。

 帝都、西武、武蔵野、筑波の各社は、開業したばかりや経営危機である事から、会社名義では無くオーナー名義で保有していた。それでも、帝都は0.6万株(全体の0.5%)、それ以外の3社が3万株(全体の2.5%)をそれぞれ保有していた。

 小田急と京王は、バックに電力会社(小田急は鬼怒川水力電気、京王は大日本電気)が付いている事から資金的な余裕があった。その為、共に9万株(全体の7.5%)を保有する事となった。

 東横、目蒲、東武は、豊富な資金力にモノを言わせ、東横と目蒲がそれぞれ12万株(全体の10%)、東武が18万株(全体の15%)を保有した。しかも、東横と目蒲は兄弟会社であり、保有直後に合併して新たな東京横浜電鉄となった。その為、新東横が保有数で単独トップとなった。

 最終的に、11社に計61%の株を握られる事となった。実際は、各社のオーナーや繋がりが深い企業が保有する事もあった為、私鉄関係だけで約70%も保有されていた。

 

 尚、私鉄関係以外だと、以前の金融会社と財閥の幾つかが申し訳程度(0.1%程度)に保有し続けたぐらいだが、浅野財閥と大室財閥、日鉄財閥が傘下企業を含めて合計10%程度とある程度の株を保有している。

 

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 発行株式の約70%をライバル会社に握られた為、役員人事もその影響を受ける事となった。会社設立時の役員は金融会社が株の過半数を獲得した時に全員追い出され、社長は第一生命、副社長は山一證券、それ以外の取締役も各社からの出向者となった。

 こうして、新しい役員になって開業したが、前述の資本の流れの変化と新役員が軒並み鉄道経営の素人である事が災いした。ダイヤ作成すら覚束無く、開業当初は満足な運行が出来なかった。出向者の殆どが社内の権力闘争で敗れた人達の為、出向元からの支援は期待出来なかったが、繋がりがある他の私鉄から関係者を呼び寄せる事は出来た。

 これによってダイヤ作成や車輛管理などが整ったが、私鉄からの出向者は大東京鉄道を自社の影響下に置こうとして派遣されてきた為、1936年末に社内クーデターを起こして経営権を握った。金融各社は大東京鉄道の株を手放しており、出向者の厄介払いも済んでいた為、彼らは表面的な批判を行ったのみで実質的にクーデターを容認した。

 

 こうして、大東京鉄道は私鉄各社によって経営を握られた。しかし、合同でクーデターを起こしたものの呉越同舟であり、クーデター後は主導権争いに明け暮れた。クーデター派の金融各社からの出向者の努力によって財務状況こそ安定させたものの、運行については以前と変わらない処か、経費削減の一環で保線や修繕など安全対策の費用も削減してしまった為、事故が多発した。幸いだったのは大事故が発生しなかった事だが、小規模の事故や故障は多発しており、後に「大事故が発生しなかったのは奇跡」と言われる程酷い状況だった。

 この様な状況の為、運行管理など出来ている訳が無かった。内紛が1年以上続いていた訳だから、外部が呆れるのも当然であった。

 

 時代は戦乱に向かっており、沿線には軍需工場が進出する様になったが、会社がこの状況では満足に操業する事は不可能だった。その為、軍部が大東京鉄道の状況に憤慨し、軍政・軍令両部(※2)が鉄道省と内務省と共に内情を安定させるように圧力を掛けた。当時、軍部の影響力は絶大であり、そこに鉄道行政を担う鉄道省と警察行政を担う内務省も加われば抵抗する事は不可能だった。しかも、当時の上層部全員が出向元や金融会社からの賄賂、収入や借入金の着服、不正文書による偽装発注や借入などを行っていた為、介入する口実は幾らでもあった。

 1938年、遂に警察による一斉捜査が行われ、不正を行っていた者と全役員を逮捕した。合わせて、賄賂を贈った者及び貰った者も芋づる式に逮捕された。最終的に、鉄道各社と金融各社から約100人の逮捕者を出す大事件となった。

 

 その後、鉄道省と内務省から役員が1人ずつ派遣されて再建を任された。また、鉄道各社と金融各社も誠意を見せる意味から、優秀かつ信頼出来るものを派遣する事を迫られた。これにより、漸く大東京鉄道の経営状況が安定した。

 尚、株式についてはそのままとなった為、依然として私鉄各社の影響力は強かった。だが、1940年に設備強化を目的に増資を行っており、資本金は4000万円となった。増加した400万円は、200万円が従来の株主に保有比率に応じて割り当て、残る200万円は国(鉄道省、内務省、陸軍省、海軍省、大蔵省)に割り当てられた。




※1:大井町と洲崎(東陽町付近)を自由が丘、明大前、中野、駒込、北千住経由で結ぼうとした環状線。全線複線電化・掘割による立体交差(後に高架に変更)となる予定だった。小田急や帝都電鉄(後の京王井の頭線)とは資本関係にあり、明大前には工事の痕跡が残っている。
※2:軍政部は陸軍省と海軍省、軍令部は参謀本部(陸軍)と軍令部(海軍)。軍政部は軍の維持・管理・計画など軍関係の行政を担い、軍令部は作戦の立案や兵站などを行う。

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