これにて1年生編終了です。
3月24日、卒業式の日を迎えた。
3年間在籍し、生き残った3年生を送る大事な行事──なのだが、下級生からすれば退屈な時間になりがちだ。
特に特別試験という特殊なイベントがあるこの学校では、上級生との関わりは少なかった。
愛からすれば、せいぜい堀北学と部活の先輩くらいなものだ。
とはいえ会話のチャンスはごくわずか。謝恩会の後だ。
謝恩会とは生徒とその保護者が教師を労い感謝を伝える場らしい。
おいおい正気かよトップ(偽)が不正してんぞ、と言ってやりたい気分だが3年生には関係ない話だ。
部活などでお世話になった後輩は謝恩会終わりの3年生をパパラッチの如く待ち伏せするのが慣習らしいので愛もそれに従う。
この卒業式という特別な場で一言も話をしないほど愛の心は腐っていないので、機会を伺うべく遠くから様子を見守っていた。
すでに部活の先輩への挨拶は終えていたものの、目的は果たせていなかった。
学は現在、南雲や桐山ら生徒会の面々との会話を楽しんでいる。
部外者である愛が割り込むわけにはいかなかった。
「あなたも来ていたのね」
「まあね。部活の先輩とか、なんだかんだでお世話になった人も多いし」
やはりというべきか、そこには堀北の姿もあった。
目的は再びの別れが迫った兄に違いない。
「結構人気者なんだね。次から次へと人が集まってくる」
「……昔から兄さんはそうよ。決して口数は多い方ではないけれど、いつも兄さんの周りには誰かがいた」
「堀北ちゃんはどうなの?」
「今更言うまでもないでしょう。1人だったわ」
だからDクラスだったのでしょうね、と堀北は付け足す。
「ところで、堀北ちゃんは一人で来たの?」
「いいえ、綾小路くんも一緒よ」
「どこにいるの?」
「あなたの真後ろよ」
「わっ、気づかなかった」
気を張れば気配に気づくこともできたかもしれないが、卒業式くらい勘弁してほしい。
「んー、キリがないね。よし、堀北ちゃん!」
「な、何をするつもり?」
困惑気味の堀北ちゃんはお構いなしに、愛は堀北を連れて人混みの中へ突撃する。
「学せんぱーい!」
「……来てくれたのか」
「もっちろん! 妹ちゃんも連れてきましたよ!」
「お前が八遠か」
「私の名前、知ってるんですか? 南雲先輩」
「不自然にポイントを貯め込んでいる生徒がいるって言われたら気になるだろ?」
本当は一之瀬を自分の女にする計画を阻止されたことを根に持っているのだろうが、そんなことは公の場では口には出せない。
「鈴音、お前の話は八遠から聞いている」
「は、はい」
「八遠、ちょっとこっち来い」
堀北兄妹がいい感じなのを察してか、南雲は愛を少し離れたところへ誘導する。
「お前から見て、堀北先輩はどんな人物だった?」
「私は学先輩のことをよく知りませんが、一度もAクラスを譲らなかったと言う点ではすごい人だったのでしょうね」
「ああ、堀北先輩はすごい人だったよ」
そう言いながら、南雲は話をする堀北兄妹の方を見る。
「妹の方はどうなんだ?」
「現時点では、まだ注目すべき存在ではないと思います。ですが──伸び代はかなりありますよ」
「それは堀北先輩に匹敵する存在になる可能性があると?」
「いえ、もしかするとそれ以上になるかもしれない、かつてそう学先輩はそう話していました」
例えるなら、今の堀北は幼虫から蛹になったようなもの。
その能力が完全に開花するのはもう少し先にはなるだろう。だが、それだけの可能性が堀北には秘められている──らしい。
「……そうか。それは楽しみだな」
学年末試験を終えて、堀北率いるBクラスはCクラスに再び落ちることになった。
だが、Aクラス昇格を賭けた戦いもそう遠くはない。
その時、堀北はどんな存在になっているだろうか。
「だが、今の俺に敵がいないのは事実。今のおれがやることといえば、この学校の仕組みを変えることだけだ」
「仕組みを?」
「ああ。今まで以上に個人の実力を重要視するように変えていくつもりだ」
「そういえば、学先輩が言ってましたね。そんなこと」
「お前は反対か?」
南雲が試すように愛の瞳を射抜く。
「いえ、私は別に反対はしませんよ。与えられた環境でできる限りを尽くすだけですからね。ただ……」
「ただ、なんだ?」
「一部の優秀な人間の功績のみで上に上がる無能が大嫌いなので、どちらかといえば賛成ですかね」
愛がそういうと、南雲は目を丸くして、それから大きな声で笑い出した。
「ははははっ! いいなお前、気に入ったぞ。今から生徒会に入らないか?」
「今はまだ部活に入っているのでやめておきます」
「退部の手続きをしておこうか?」
「結構です。今はもう少し部活にも力を入れたいので」
「気が変わったらいつでも歓迎するぞ?」
「気が変わったらそうすることにします」
愛は南雲のことがあまり好きではないので、南雲が生徒会長であるうちは生徒会に入るつもりはない。
気が変わるのは堀北が生徒会長になる頃だろう。
「八遠さん、兄さんが呼んでいるわ」
「わかった、すぐ行く! ……では、失礼します」
南雲に一礼して、愛は小走りで学の方へ向かった。
「まず最初に、鈴音のことを感謝する」
「いえ、うちのクラスがさらに上を目指すためには堀北ちゃ──鈴音ちゃんの力が必要だと感じていましたから」
「おかげで、鈴音はこの1年で大きな成長を見せた」
「そうですね。入学当初は、かなり近寄り難い存在でしたから」
「……兄として、情けないな」
それは、妹がそうなってしまった原因が自分にあるという、学なりの懺悔か。
「ですが、今の彼女は変わろうとしている……違いませんか?」
「ああ。鈴音なりにな。だが、変わるということは怖いことでもある」
「未知の領域へ足を踏み入れる、ということですもんね」
「知らない道を進むと不安になるだろう? だが、その先には己を成長させる何かがあるはずだ」
愛は未知という暗闇に嬉々として突撃していくタイプなので学の言うことは理解できないが、これほどの人間がそう言うのだからきっとそうなのだろう。
「これから先、鈴音には高い壁が何度も立ちはだかることになると思う。越えられなくて苦しんでいる時は、手を貸してやってくれないか」
「……私にできる範囲であれば」
去りゆく人間からの、心からの願い。
愛には断ることはできなかった。
「もし良ければ、鈴音に言伝を頼みたい。31日の正午、校門で待つと」
「さっき、伝えなかったんですか?」
「ああ。俺から直接伝えると、素直になれない可能性がある」
「先輩がそう言うのであれば、文句はありませんけど」
妹のことを最も理解している兄がそう言うのだから、愛はその言葉に素直に従うことにした。
「では、頼んだぞ」
学はそう言い残し、愛の前を立ち去った。
堀北や綾小路はどうしているのだろうかと周囲を見渡すと、綾小路も堀北もその姿は確認することができなかった。誰かと先に帰ったのだろう。
「あっ、愛ちゃん!」
声がして振り返ると、手を振りながら一之瀬がこちらに向かってきていた。
「帆波ちゃんも来てたんだ」
「生徒会の皆さんとか、お話ししたい先輩は何人もいたから」
「私は一通り済ませたけど、帆波ちゃんは?」
「私ももう用事はないかな」
「じゃあ一緒に帰る? 連れがどっか行っちゃったし」
「うん、そうしよっか」
寮までの道のりを、一之瀬と並んで帰る。
特別試験の話題を出すことはせず、他愛のない話をしながら。
ふと、愛は学の言葉を思い返す。
もしも無事にAクラスに移動できたとして。果たして自分の中で何かが変わるのだろうか。
愛はいい方へ変わるようにと願うことしかできなかった。
***
テニスの全国大会を優勝で終えた愛はこの日、客人を待っていた。
休みの日は少しでも長く寝ていたい愛ではあるが、この日は予定があるためそうするわけにもいかなかったのだ。
備え付けのテレビをつけて時間を潰していると、インターホンが鳴る。
愛はテレビの電源を落とし、玄関へと向かう。
「いらっしゃい、一之瀬さん」
「お邪魔します」
客人の正体は一之瀬。特別試験のことなど、話をしたかったからである。
「飲み物なんだけど、水、H2O、DHMOと解凍した氷があるけどどれにする?」
「え、えっと……?」
困惑する一之瀬を愛は意地の悪い笑みで眺めている。
挙げた選択肢は結局どれも水といういたずらだった。
「って全部水じゃん! もうっ」
「おー、気づいた気づいた」
それ以外の飲み物といえば、賞味期限の切れたお茶だけである。
賞味期限は美味しく食べたり飲んだりできる期限のことなので、健康面ではまだ問題はない。しかし、客人に出す飲み物としては不適切だろうと言う理由で、選択肢から除外することとなった。
「ごめんね、うち何にもないから」
「ううん、気にしてないよ」
おかげで誰も退学せずに済んだしね、と一之瀬は呟いた。
「この前の特別試験、Dクラスに勝ったんだって」
「運に助けられたところもあったけどね」
「そうなの?」
「私たちの種目の方が多く選ばれたから」
とはいえ、取れる想定で選んだ種目をきっちり取り切るあたりはさすがである。
「でも、見てられないところもあったな」
「どういうこと?」
「Dクラスが選んだ種目の中に柔道があってね……」
「ああ……」
Dクラスには山田という巨漢がいる。あれを相手にしたら、同学年では勝てる人間はいないだろう。
「それは流石に私も無理」
「うん、一応山田くんも手加減はしてくれてたみたいだけど、それでもあまりにも一方的だったから」
手加減をするあたりは紳士的と言えるだろうか。人によっては舐めプと捉えかねないが。
「BクラスはAクラスと接戦だったんでしょ? そっちの方がすごいよ」
「もうちょっと運が良かったら、こっちが勝ってたんだけどね……」
実際、筆記が3種目選ばれた時点でかなりの苦戦を強いられたのは事実。
とはいえ、タイピング、テニス、弓道と個人種目で勝利をもぎ取れたのは褒めるべきポイントと言える。
おそらく、今回も月城の介入はあったのだろう。
綾小路であればあの手を打った結末は予想できていただろうから。
月城の介入がなければ勝っていたのはこちらだったのであって、くじ運自体は悪くなかった。
「でも、時々考えちゃうの。もしも龍園くんがいたらって」
「もう退学した人のことを考えても、どうしようもなくない?」
「……ううん、そんなことはないよ。堀北さんも坂柳さんも、龍園くんと同じくらいかそれ以上に強敵だから。もちろん、愛ちゃんもだよ」
一之瀬の言う通り、龍園がいたら一之瀬は負けていただろう。
だが、龍園と同列に語られるのは気に食わなかった。
「でも、私たちと龍園くんを一緒くたにしてほしくないよ。卑怯なことは絶対にしないし」
「ごめんね。……でも、龍園くんに勝てなかったらAクラスなんて夢のまた夢なのは事実だもん」
そう言う意味か、と愛は溜飲を下げる。
独走を続けるAクラスに、5月0ポイントから脅威の追い上げを見せた愛たち、ほぼ横ばいの現Dクラス。
実績で見れば、前者2クラスの方が上位と見ることができる。
「……私はいつも助けられてばっかりだなぁ」
「別にいいと思うけどね。誰かに頼っても」
「そうかな」
「もちろんだとも。私だって誰かの力を借りてる。有栖ちゃんも、堀北さんもそう」
「わっ」と一之瀬が声をあげる。愛がもたれかかってきたからだった。
「帆波ちゃんはもっと、誰かに頼ることを覚えた方がいいよ」
「……うん」
「リーダーは何もかも1人でなんとかする役割じゃないしね」
自分にできないことは誰かに代わってもらえばいい。1人ではどうしようもない時は誰かに協力してもらえばいい。
「でも、みんな迷惑だって思わないかな……」
「今更何を言ってるんだか。帆波ちゃんのお願いだったら、みんな喜んで聞いてくれるよ」
「愛ちゃんも?」
「もっちろん」
「……そっか。ありがとう」
破顔した一之瀬を見て、愛はほっと胸を撫で下ろす。
一之瀬には、まだまだ頑張ってもらわねばならないのだから。
***
31日、正午過ぎ。
学は正午と話していたが、それより少し遅らせた。
学は綾小路にもこの時間に校門に来るように話していたためで、2人きりで話せる時間を用意してあげようという勝手な気遣いだった。
校門に近づくと、学と綾小路が話をしている様子が窺える。
内容はわからないが、それなりに会話は弾んでいるようだった。
「やっと来たか」
「すみません、遅くなっちゃいました」
先に気づいた学に謝罪を入れ、合流する。
「鈴音から何か連絡はあったか?」
「いえ、何もないですよ」
「そうか」
「聞いてみましょうか?」
「その必要はないそうだ」
ポケットの端末に手をかけようとして、綾小路に止められる。
学も無言ではあったが、否定はしなかった。綾小路と同じ考えのようだった。
2人がそう判断したのであれば、愛は否定することはない。
「南雲に、生徒会加入の勧誘をされたそうだな」
「どこかで聞いたんですか?」
「本人がそう話していた。八遠という面白い人物がいたが断られた、とな」
「まあ私、テニス部に所属してますしね。もし生徒会に入るなら、部活を辞めないといけないですし」
「そういえば、先日全国大会で優勝したんだったな」
「私にかかれば楽勝ですよ」
「だそうだ綾小路。頼もしいな」
「実際、この前の特別試験では相手を圧倒していましたから」
「あれはいいウォーミングアップだったよ」
全国レベルとなると、地区大会や都道府県大会とは比べ物にないほどレベルが上がる。
愛でも危うい場面があったほどだ。
「お前は南雲の考えには賛成か?」
「どちらかといえば賛成派です」
隠すこともなく、愛は言う。
ここでの役目を終えた人間に、わざわざ隠し事をする必要はないという判断だった。
「とはいえ社会に出れば個人の能力も集団としての能力もどちらも求められるでしょうから、一概にどちらの方が優れているかなんて決めることはできないと思いますけどね」
最も大切なのは、与えられた環境でできる限りを尽くすこと。愛はそう考えていた。
「……そろそろ行くことにしよう」
学は腕時計に目を落とし、周囲を確認してそう言った。
時刻は12時10分を過ぎていた。堀北の姿はなかった。
「結局来ないのかなぁ」
「そうであればあいつはそこまでということだ」
「なんだか、不器用ですよね。2人とも」
「そうだろうな。もっと器用だったら、こうはなっていない」
愛が思い描く兄弟像といえば、仲が良いか悪いかどちらか。
妹は兄を尊敬していて、兄は妹を認めている。なのに深い溝があった。
変わった兄妹だとはずっと感じていた。
「よその家庭事情に深く口を出すつもりはないですけど、もっと上手いやり方はあったんじゃないんですか?」
「……そうかもしれないな。だが今更どうしようもない。再び2年の別れとなる」
その表情には後悔が滲んでいた。
本当はもう少し待ちたいのだろうが、バスの時間もある。
「ここまでだな」
1年前、愛たちもくぐったその校門が、目の前に立ちはだかっていた。
「一方的な願いにはなるが、鈴音のことは任せたぞ」
兄妹が和解せずとも、時間は流れていく。
見捨てられたとしても、世界は続いていく。
「最後に握手をしてもらえないか」
「私も、お願いします」
「ああ」
綾小路、愛と順番に握手を交わし一瞬寂しげに校舎を見やった学が一歩を踏み出そうとしたその時。
「──兄さん!」
聞き覚えのある声がして、3人は同時にその方を振り向いた。
声の主は、息を切らして走ってくる。
愛はほっと安堵の息をついた。
ギリギリで間に合った。
「……おまえ」
兄の元にたどり着いた妹の姿を見て、学は思わず声を漏らした。
「遅くなって、すいませんでした……!」
「……いや」
10分以上の遅刻。本来であれば学は妹のことを叱っていただろう。
だが、それを許さない並々ならぬ事情があった。
学が追いかけるように入学した妹を見て成長していないと判断した理由が、綾小路にはすぐに理解できた。
学も綾小路も、珍しく言葉を失っていた。
「変われたようだな」
「私は……変われたのでしょうか」
「変われたというよりも──昔のおまえに戻れたのだな、鈴音」
「1年──いえ、何年もかかってしまいました」
どこか不安げで、それでいてようやく認められたという安堵も堀北の表情には内包されているようだった。
少なくとも、愛や綾小路はこの表情をする堀北を見たのは初めてだった。
「どうしてもっと、もっと早く自分を取り戻せなかったのか……悔やんでも悔やみきれません」
学との距離を一歩詰め、そう続ける。
「今、おまえは何を考えている」
「何でしょうか……。まだ混乱している部分がないといえば嘘になります」
1年前とは考え方が大きく変わり、長かった髪もバッサリと切り落とした。
生まれ変わったと言ってもいいほどの変化をして、戸惑いがあるのは仕方のないことだった。
「ですが、これだけははっきり言えます。私はずっと、兄さんの後だけを追いかけてきました。ですが、もうそんな私はここにはいません」
「なら問おう。俺の背中を追うことを止めたお前がこれからどうしていくのかを」
「もう、誰かの後を追いかけるのはこりごりですから、私は私だけの道を探します」
堀北はまだ、束縛から解放されて自由を手に入れただけの存在。
本当に成長できるかはこれから次第だ。
「そして──」
堀北が一瞬、愛と綾小路の方を見た。
そして再び、兄の目をしっかりと見据えて続ける。
「私は、これからクラスメイトのために自らが前を向いて進んでいけたらと思います。そして、自分の道を見つけるためにこの学校で仲間と歩んでいきます」
妹の決意表明に学は一瞬面食らった表情を浮かべ、そしてふっと笑みをこぼした。
そこにいたのはこの学校の生徒会長ではなく、妹を想う兄だった。
「そうか。やっと、本当に……俺の記憶の片隅に残っていた、昔のおまえに戻ったということなんだな」
そう言って、学は手に持っていた荷物を地面に置く。
妹に歩み寄り、兄妹は手が届くほどまで接近する。もう、溝はどこにもなかった。
「俺がおまえを突き放した理由が何だかわかるか?」
「……いえ」
堀北が、不安げに学を見上げる。
「俺はおまえのことを大切に思っている」
「……っ」
「俺は幼いおまえに大きな才能を感じていた。未熟ながらも、原石のような輝きを見せていた。やがてその原石が磨かれた時、俺を超える輝きを放ってくれる──そんな期待をしていたんだ」
学は穏やかな表情で、残された最後の一歩を埋める。
「だが、おまえは俺という幻影に囚われた。俺に劣っていると決めつけ、そして追いつくことは不可能だと諦め、自ら伸び代を捨てる選択をした。俺の背中に追いつくことだけを終着点としてしまった。俺はそんなおまえが許せなかったんだ」
確かに学は優秀だ。それはこの学校での3年間が十分に示していることだろう。
だから堀北はそんな兄を目標に設定した。
それは決して低い目標ではなかった。しかし、もっと先に進んで欲しい学にはそれが許せなかった。
2人の溝は、そんなギャップから生まれてしまった。
「他者に強くあれ。そして優しくあれ」
兄は妹を優しく、力強く抱きしめる。
無限の可能性を秘めた、妹の活躍を願って。
「おまえはもう大丈夫だ。今、それを確信した」
学は堀北の短くなった髪をそっと撫でる。
「数年間黙っていたことがある。おまえに謝罪しなければならないことだ」
「謝罪……?」
何のことか理解できていない堀北は疑問を口にした。
「ここまで俺たちの関係がこじれた原因は俺にある」
「どういう……ことですか?」
「昔、俺は長い髪が好きだと言ったことがあったな。あれは適当についた嘘だ」
「そ、そうなんですか!?」
「短い髪型を好んでいたおまえが、俺の言葉を間に受けて自分の色を失ってでも髪を伸ばすのかどうか、それを確かめるために適当についた嘘だ」
だから、学は長い髪の堀北を一目見て何も変わっていないことに気づいた。
堀北の実力を確かめるまでもなかったのだ。
「その嘘を許せ」
「酷いですね、兄さん」
それでも、堀北は笑って兄の罪を許した。
その真意に気付いていたからだ。
「鈴音。2年後、俺は校門の外でおまえを待っている。成長したおまえを見せてもらう」
「はい。精一杯……最後の最後まで戦い抜いてきます」
助けはもう必要ない。今の堀北を見て、愛は確信した。
「綾小路、八遠。おまえたちとも会えることを楽しみにしている」
「そうだな」
「はい」
時刻は12時半に迫っていた。まもなくバスがやって来る。
再び、両者の距離が分たれる。
「また会おう」
そう言い残し、学は正門を潜る。
堀北学は、最後まで偉大だった。
***
3人は、学の姿が見えなくなってからもしばらくその方を見つめていた。
愛は堀北や綾小路がどういった心境でそうしているのか想像は付かなかったが、なぜか動いてはいけない気がしていた。
しばらくして、最初にその沈黙を破ったのは綾小路だった。
「寂しくなるな」
「そうね……」
堀北兄妹の2年間の別れはこれで2回目。
だが、それは似て非なるものになることは違いない。
「ありがとう綾小路くん、八遠さん……あなたたちがいてくれて本当に助かったわ」
「そうか? 邪魔にしかならなかったと思うが」
「途中からは完全に2人の世界に入ってたしね」
「そんなことないわ。あなたたちが兄さんと話をしてくれていなければ、きっと私は間に合っていなかった」
確かに、堀北が到着したのはギリギリのタイミングだった。
あと10秒遅ければ兄妹の会話は実現していなかったかもしれない。
「それに、兄さんの見送りが私だけなのは寂しいもの……」
改めて、堀北は正門の方を見やる。
謝恩会の後の集まりようを思えば、堀北の言葉は正しいものだ。
それでも、それ以上に学は妹を優先したかったのだろう。
「オレもなんだかんだ縁があったからな。もう少し話をしたかったくらいだ」
綾小路の言葉に堀北が頷く。言動の節々に後悔が滲んでいた。
それに対して愛は定期的に会っていたこと、謝恩会の後も話をしたこともあって未練はなかった。
「それにしても髪、バッサリいったんだな」
寮への道をゆっくりと進む途中、綾小路が堀北にそう声をかけた。
「昔はこれくらいが好きだったのよ。……でも変な感じだわ」
「うんうん、私も変な感じ。今までの堀北ちゃんを見慣れてるから」
「春休み明けはきっとみんなにも驚かれるわね」
堀北はそう言って恥ずかしげにはにかむ。
「ただ、それにしても一つくらい手を打っても良かったんじゃないか? 兄貴に会えなくなるかもしれないなら、オレや八遠に足止めをさせた方が確率は上がった」
「おねがいして、あなたは素直に協力してくれるのかしら?」
「流石に今日くらいはするだろ」
「……実際はあなたたちを頼ろうとしたのだけど。でも、あまりに慌てていたせいかしら。携帯を寮に忘れたまま髪を切りに行って、気づいた時にはすでにカットが始まっていたわ」
真面目な堀北にしては珍しい、凡ミスだった。
相当に慌てていたことはそれだけで伝わった。
「まあまあ、今回は間に合ったんだからセーフだよ、セーフ」
「そうね。けれど2度同じ過ちを繰り返すつもりはないわ」
「そうだといいけどね」
愛が堀北の方を見やると、堀北は真剣な表情で遠くを見つめていた。
「兄さんに橘先輩がいたように、私にはあなたたちがいるでしょう?」
「オイオイオイオイ、俺たち愛の告白されちまったぜ綾小路くんよ」
「やめてくれ」
「あちゃー、振られちゃったね堀北ちゃん」
「そうね」
愛の弄りをあしらった堀北は足を止める。
「どうした堀北」
「ごめんなさい、少し用事を思い出したの。悪いけれど、先に帰ってもらえない?」
それに気づいた綾小路に堀北はそう告げる。
だが、堀北には用事はなかったし、綾小路も愛も堀北の真意にたどり着いていた。
「だってさ、綾小路くん。私もちょうど用事があったのを思い出したから、先に戻っていいよ」
「分かった」
綾小路は愛の考えを察し、二つ返事をする。
そうして残った愛に堀北は訝しげな視線を送った。
「どうしてあなたも残るのよ」
「だから用事を思い出したんだって」
「……そう」
どんな用事だと問い詰めたい堀北だったが、自分も同じ手を使っているため首を絞めかねない。
「本当はさ、用事なんてないんでしょ」
「……」
「学先輩──お兄さんと離れ離れになるのが寂しいんでしょ、本当は」
「そんなことは、ないわよ」
目を逸らした堀北の表情を窺い知ることはできない。
それでも、晴れやかと表現することができないことは言い切れる。
「隠そうとしたって無駄だよ。1年の付き合いだし」
愛は堀北が本心を曝け出すその瞬間を待ち続けた。
「……寂しいわよ。寂しいに決まってるじゃない」
観念したように、堀北が口を開いた。
「やっと仲直りできたのに……。また離れ離れなのよ」
ボソリと、堀北は静かに呟いた。目には僅かに涙が浮かんでいた。
「やっと仲直りできたのに、また離れ離れなのよ!」
「そうだねぇ。寂しいねぇ」
やがて大粒になって、地面を濡らしていく。
堀北がここまで感情をあらわにしている場面に遭遇するのは初めてのことだ。堀北にとって、兄との別れはそれほど辛いことだったのだろう。
「今のうちに満足するまで泣いときな。誰も怒らないからさ」
清々しいほどの青空の下、脇目を振らず涙を流す堀北に愛は寄り添い続けた。
区切りがついたので失踪します。
2年生編もよろしくお願いします。