「貴方が無堂先生……」
母から先生のことを聞かされたことはありました。
一度だけ、病室で母が話をしてくれた。後悔していた顔を忘れることはできなかった。
ずっと、私の中で窓に映る母のことが気になって仕方なかった。
「あの人、いや丸尾君も大変だろうね。実の子供ではない子達を五人も養う」
「私も零奈ちゃんから聞かされたときは驚かされたよ」
「……何が言いたいんですか?」
まるで黒板に書いてあった文字が途中で止められたかのような発言。
チョークだけが黒板の下に投げつけられて、折れてしまっている。気になって仕方なかったんです。私にとっては……。
「母から貴方のことを話題に出されたことがあります」
「零奈ちゃんがかい?ボクのことを覚えてくれてるなんて涙ぐましいものだよ」
「とぼけないでください、先ほど驚かされたと発言していましたが私達を捨てたのは貴方の方です。父は私達を引き取ってくれた、誰も引き取ろうとはしなかった私達を……」
母が居たはずの家が……。
暗闇と化したあの日のことはいつだって覚えています。
天井があるはずなのに、雨粒が降り注ぎそうなほど私達の人生は街灯のない人生を歩み始めようとすらしていたのですから。
「心中お察しするよ、五月ちゃん」
「結構です、無堂先生。貴方は何をされに来たんですか?親としての役目を果たして来なかった貴方が、今更私達に何を語ると言うのですか?」
考えもつかなかった。
仮に、一花経由で私達の姿を把握できたとて──。
この人が何故、このタイミングで来るのかが私には予想もできなかった。
「謝罪をしても、キミ達に許しを乞う気はないよ。私も親としての役目は果たせていなかったからね」
「では、いったいなにを?」
「私はかつて教師だった人間として、一つの責務を果たしたい。いわば、教壇に立っていた頃の自分として、キミに伝えたい事がある。こうして、先生として語るのはいつ以来だろうか」
「教師、辞めてたいのですね」
先生は「ああ、悲しいことにね」と声に出す。
風の噂だと思っていしましたが、この感じ的にもやはり、そのようですね……。
かつて生徒だった人間と体の関係を持っていたという噂が広がり、そのまま流れるように形となって教職員を辞職せざるを得ない状況になったという話を聞いたことがありましたから。
「五月ちゃん、五月ちゃんにとって……夢とはなんだい?」
結んだ髪が……少しずつ揺れて行く。
まるで、私の心音を表しているみたいでした……。息を呑むことしかできなかった。
「夢というのは連鎖されていくものだよ、他者から誰かに。誰かからまた別の他者に。子供が親の影響を受けるように、親が子供の影響を受ける。私が教師だった頃も、三者面談では自分の夢を子供に追わせようとする無責任な親が居たものだよ」
「そういう親の子供に限って破滅していくのも私は知ってるよ、五月ちゃん」
目の前にいる人は……。
ポケットからメントスのようなものを取り出して、かみ砕いている。
ゆっくりと味わうように……。
「このメントスのように、人の夢とは儚いものだよ。噛めば、噛むほど味がしなくなる。人は自分が目標としていたことがいつか自分が思い描いていたことと違うと思い知ることになる。そのとき、人はこんなはずじゃなかったと言いたくなる」
「それは貴方の発言じゃないでしょうか?こんなはずじゃなかった、自分の起こした過ちで私達という子供から逃げた」
「なら、こう返してあげるよ五月ちゃん。キミ達はこんなはずじゃなかったと言えるのかい?僕は、確かに零奈ちゃんから五つ子だと聞かされたとき、逃げ出した。起きてしまったという現象を変えることはできない。ただ、それは私だけだったかい?」
「話を逸らさないでください」
「いいや、逸らしてなどないよ。よーく思い出してみるといい、キミ達はなんと言われた?どう考えていた、零奈ちゃんをあの冷たい空間の中で焼かれていく姿を初めて実感したときなんと思った?あの部屋の中で何を思い描いていたんだい?」
よく口が回っています……。
自分の非を詫びるどころか、風呂敷を広げてるばかり……。
腹を立ててしまいそうでしたが……目の前にいる人の言ってることも本当のこと。
『私達、これからどうなっちゃうの?』
──身体が追いつかなかった。
母を亡くしたあの日。大勢の人が来てくれていた。母の知り合いだと名乗る人達も含めて、大勢の人たちが……。その中にはきっと、お世話になった生徒さん達もいたのかもしれません。その人達の涙よりも、私達は……。
『おじいちゃん、全員も面倒見れるかな?大変だろうに……』
自分達のことで不安だった。
下手をしたら、それぞれが違う家。
違う家で私達は暮らすことになっていたはず。
子供の頃に再会することもあれば、大人になってようやく再会する。
残酷であるならば、再会することなく人生を終えることだってありえたはずです。
私達は……。少なくとも、私は……。
『私が……私がお母さんの代わりになります!』
見据えていました。
幼いときから、この先どうなるかなんて……。
五つ子の中で一番遅く生まれた私ですら……。
◆◆◆◆◆
「おい、マルオ。折角の娘ちゃんが頑張ってるのに、自分は出ねえのか?」
少し離れた位置から、僕たちは五月君の様子を確認していた……。
「勇也、余計なことをしないでくれ」
「なんだよ、自分の娘なのに随分と冷たい言い方じゃねえか?震えてんぞ、五月ちゃん」
構うことはなかった。
見なくてもはっきりとしていることだからだ。あの人が先に五月君に接触してくるのは予想外だった。だったが……。前に出ようという感情はなかった。
「勇也君、此処は様子を見るということでいいんじゃないのかな?」
「なんだよ、脇城先生まで?まあ、俺はそういうの嫌いじゃないですけど……マルオも本当は期待してんだろ?」
「何のことだい?」
「五月ちゃんの答えって奴だよ」
妙に言葉が耳を通り過ぎて行く……。
なるほど、四葉君と同じときの感情か、これが……。
ならば、五月君。キミがどう答えるのかを……。
見させてもらおう。
乗り越えて来たキミが……。
◆◆◆◆◆
呼吸が荒くなってしまう。
日差しが自分の髪と被ってしまう。
照明を当てられた気分だったのに、私は整えるのに必死でした……。
「五月ちゃんも、みんなももう何かに囚われる必要はない、自由に生きればいい。もし、キミ達の中で教師を目指すと言うのであれば、私としてはそれは許容できない。ましてや、教師でなくても誰かに押し付けられた夢などというのは……」
「苦しみだよ」
「零奈ちゃんもそうだった、教師となったことを後悔していた」
違う……。
「きっと、マルオ君もそうだろう。本当だったら、自分自身の医学の道を進ませたかっただろうに、その夢の果てでただ一人への感情に当たってしまった。ああ、何と皮肉なことだろうか」
違う、違います……。
貴方は何も……。
「幻、そのものなのだよ。ああいったものは……何故なら「「貴方は何も分かってないのですね、教壇に立っていてその結論なんですか?」」
「な、何の話だね?」
「いえ、当たり前ですよね。無堂先生、いや無堂さん。私は、私達は知っています。母が父のことをどういう目で見ていたのか」
「私のことならば「違います、貴方なんかじゃありません。病室で先生として父が来るたびに、母はいつも優しい笑顔をしていました。あんな顔をする母を見たのは、私達の目の前以外では無かったです。母はこう言ってました、彼は私のファンだと照れくさそうに」」
照れくさそうに笑う母の姿は私の前ですら見たことが無かった。
いえ、会ったのかも知れません。しかし、あれはきっと一人の男性の目の前でする顔だったに違いありません。こうして振り返ってみたら、母は父に惹かれていたんでしょう。
「それはキミが見ている幻覚かもしれないのだとしたら?」
「母は辛そうな顔は最後まで顔越しには見せてくれませんでした、最後まで。貴方のこと以外では。病気のことだって私達には隠していました。最後まで、笑顔で旅立っていた。そして、私達も旅立とうとしている」
「無堂さん、私の夢は教師です」
胸に手を置きながらも、堂々と自分の夢を語る。
後悔も苦しみもそこにはなかった。
「聞き間違いかね?それは最も愚行たる行為ではないかい?」
「私が目指すのは私なりの教師です」
「その中身はなんだね?単に女優に憧れたから、走るのが好きだから陸上選手になるのとはわけが違うと分からないのかい?」
「そうですね、確かに中身がないならば意味がありません。所詮、空洞でしかない」
ですが……。
私は知っています。自分がどう思われていたのかも、どういう視線を向けられていたのかも。
『五月先生!此処教えて貰ってもいいですかぁ?』
全員が全員やる気があったわけじゃありません。
休憩時間は、私を困らせるのか如く……。
『五月先生って高校生なんですよね?やっぱり彼氏とかいるんですか?可愛いですもんねぇ』
『なっ!?か、揶揄うのは辞めてください!ほら、早くご飯食べてください』
『はいはい、照れてる五月先生可愛い―!』
他愛もない話ばかり印象が残ってしまうのは……。
きっとそういうのも悪くない。積み重ねがあったからこそでしょう……。
「塾で講師のアルバイトをしているとき、大変でしたが知ることができました」
綴らせる……。
私自身の想いを……。経験を……。
「人に教えることは楽しいことだと。人から自分の進路を相談されて、頼られることは悪くないことだと。人の人生を決めることです、こんなことを考えるのはよくないのかもしれません。なによりも、ただ一人の人間として生徒と雑談することも」
目の前の人は「くだらない」と声を漏らす。
そうでしょう、貴方はもう教師をやっていないのですから。
貴方の世界ではそうなんでしょう。
「私には背中を押してくれた人が居たんです」
「私ならいい教師になれる、私を見ていい教師になれると肯定してくれた人が居てくれたんです。その人のためにも、私は自分の夢を諦めたくない。目の前で変化していく姉達を見て来た、互いに意見が食い違って、この人とは絶対に意見が合わないと思う人もいた」
「一花が上杉君と結ばれて、二乃が脇城君と結ばれてた。そんなことすら起きてた!」
「それでも、私が私らしくいられたのは私を支えてくれた人たちがいるからなんです!そして、私ですら変化して行ったんです。この髪のように結ぶことだけが変化じゃないと知れたからなんです!」
「例え、傷ついたとしても私は私らしくあり続けると決めたんです。言いましたよね、貴方が?私達がどう考えたと?ならば、私達が母の後悔や父の後悔を……もしそれが本当ならば」
「肯定することだってしていいはずです!!」
母が苦しんだ姿を見せたのは一度だけだった。
実際、病気を持っていて辛かったとか教師をやっていて辛かったとかそんな話を聞かされたことはなかった。隠していたのか、あるいはなかったのかすら今となっては聞くこともできない。出来ないとしても、私達がこれからお母さんの道は正しかったと示すことができる。
「キミは自分がどれだけ地獄の道を歩もうとしてるのか、それを……」
「理解してる。」
そんな目つきをしていたのか、無堂さんとの距離が離れたような気がします。
気のせいではなかったんです、あの人は紛れもなく一歩ずつ引いていた。
この人は、未来永劫母という存在から逃れられることはできない。
地獄の果てまで、ずっと考えさせられることになる。許しを与える気なんて更々なかったんです。
私には……。
ただ、視線を飛ばしながらも……去って行く目の前の年老いた人の姿……。
息を吐きながらも、私は……。
良かったと安堵しながらも……。
「やってやりましたよ、貴方のおかげです、胸を張ってください」
「そうかよ、じゃあ張らせて貰うわ」
「お疲れ、五月。ありがとうな」
「はい、こちらこそ……どういたしましてです」
「空君」
お互いに手を叩き合いながらも、勝利の二文字を実感する。
「慣れねえよ、その呼び方。いつも通りでいい」
「いいじゃないですか、これも変化ですよ。私を支えてくれた貴方への御褒美です。あと、その……色々とご馳走になったので」
「なんだそれ……!やっぱ、慣れねえよ」
不意に笑みを浮かべたくなってしまう。
「後でたくさん二乃に怒られてくださいよ」
「うっせえな……お前までドヤされてくるよ」
これから、これからというのに……。
私は自分の中で脇城君と共にあの模試を乗り越えてきたことがあるからこそ、私は自分が此処まで強くなれたんだと走り出しそうになってると……。
「五月君」
走り出してるうちに、目の前にお父さんの顔があって。
驚きのあまり、そのまま減速していると……つま先よりも先に踵がついていました。
今日はほ、本当に驚きの連続ばかりです……。
「え!?あっ、お父さん来ていらっしゃったんですか?」
「少し話があるのだが、上杉君が一花君という話」
「本当なのだろうか?」
「……」
もしかして……。
お父さん、知らないんですか!!?